「希理子!!」
「希理子先輩!!」
 うららかな、というにはいささか蒸し暑過ぎる9月も中旬から下旬に差しかかろうとしている放課後、西日が射しはじめた体育館に叫び声が響いた。
 その声と重なるように体育館にいたバスケ部員達は一斉に部隊の方向に向かって駆け寄った。
 公立の高校では一部の金持ち私立とは違って体育館が行動を兼ねているのが常識である。ここ上南高校もその例外ではない。そのため体育館の一方向、最も大きな引き戸がある全校集会などの際に生徒達が出入りするのとは逆の方向に舞台が設けられている。
 その舞台の真下、体育館の床の上に希理子は半分仰向けになって倒れていた。半身をひねったような体勢のまま希理子は駆け寄ってくる部員たちの大きな声にもピクリとも反応しない。
「希理子!!」
 その中で最も早く横たわる希理子に駆け寄ったのは桜井だった。
「希理子先輩!!」
 その次に近寄ってきたのは成瀬だった。成瀬は横たわる希理子を揺さぶろうと希理子のしなやかな肢体に手をのばそうとした。だがその手をすかさず止めるというよりも払いのけるような勢いで桜井は成瀬の手を弾いた。
「頭を打ってるかもしれないんだ。身体を揺らしちゃいけない!」
 その決して大きくはないが強い口調と真剣な表情に成瀬は思わず竦むとまではいかないが腰が引けてしまった。
「桜井先輩、希理子先輩はどうしたんですか!?」
 次に近寄ってきた今川が焦った様子で問いかける。桜井と成瀬の掛け合いの間に横たわる希理子の回りを体育館にいた部員達全員が取り囲んでいた。
「そこから落ちたんだ。頭を打った可能性もある。下手に動かせば厄介なことになるかもしれない」
 一瞬くいっと舞台の方に顎を向けると、桜井は横たわる希理子の右頬、フロアに接していた方の頬と床の間に自分の大きな左手のひらを差し込むと、決して大きく揺らさないように小刻みにピチャピチャという音が鳴る程度に緩めた力で希理子の左頬を叩いた。
「希理子!!希理子!!」
 そう何度も大きな声で呼び覚醒を促す。こういった場合、意識の確認が何より肝心である。何も出来ずにただおろおろと見守るだけの部員たちに囲まれながら、桜井はその行動を15秒ほどの間行い、それでも希理子が意識を取り戻そうとしないのを受けて誰かに救急車及びまだ校内に残っているだろう保険医もしくは先生たちに連絡をするよう私事をだそうと顔をあげた。だがその瞬間、自分の身体の下のほうから僅かなうめき声が聞こえた。
「……ぅぅ」
 すかさず下を見やるとそれまでは何の反応も無かった希理子の身体が動き、苦痛の表情を浮かべながら痛みを庇うような動きを見せた。
「希理子!!」
「希理子先輩!!」
 部員たちの間から思わず安堵の声が漏れる。それは小さな歓声といっても過言ではないほどだった。
 その間にも希理子は左手を大きく動かし、自分の左こめかみの辺りから耳の後ろの頭を撫でる痛みを堪えるような仕種をすると、そのまま身体を動かし、膝を立てた状態の完全に仰向けの体勢をとった。そして小さく肩の辺りを沈ませ、お腹の辺りをほんの少しだけ浮かせるような寝ている人間にとって一番楽に呼吸が出来る体勢を取ると瞼を細め、痛みの為かそれとも意識を失っていた影響か焦点の合わない瞳をゆっくりと開いた。
「…痛ったぁー」
 小さな声だが希理子はもう一度目を瞑り、堪えるような仕種でもう一度左手で自分の頭をなで上げながらそう言った。
「良かった!!」
 桜井は思わず部員達がいるというのにも係わらず、横たわっていた希理子の上半身を抱き起こし、ギュッと抱きしめた。
 舞台から落ちたのだから高さ的には大したことはないが、いかんせん固い板の床に叩きつけられたため、運が悪ければ最悪のケースだってあり得たのだ。詳しくは病院にいって検査を受けなければならないだろうが、どうやら身体を強く打ちつけただけで大したことは無さそうだ。
 だがそれは一瞬だけの安堵だったことを桜井及び他の部員達はこれから僅か数分後に思い知ることになる。
「何するんだい!」
 桜井が抱きしめた次の瞬間、逞しい腕に抱きすくめられた希理子が大声を張り上げながら桜井の胸をどんと突き飛ばした。桜井はそのためバランスを崩し後ろに尻餅をついたが、同時に希理子自身も自分自身を支える逞しい腕を失ったのと、ついさっきまで意識を失っていたというのに大声を張り上げた為に同じように尻餅をついてぜいぜいと大きく息を繰り返している。その瞬時の行動に部員たちは一瞬何が起こったのかあっけにとられたほどだった。
 それでも次の瞬間には希理子はキッと視線を鋭く変え、桜井を睨み付けた。
「何するんだい、この変態!バスケ部っていうのは見ず知らずの女をいきなり襲う変態の集団かい!?」
 その言葉に一瞬全ての思考が停止する。何を言っているのか理解できない。
「希理子……?」
 桜井はそう声を漏らしながら希理子の顔をのぞき込む。だがその瞬間にも希理子の表情は嫌悪感に満ち溢れた、忌ま忌ましいものを見るような表情に変わっていく。
「馴れ馴れしい、どうしてあたしの名前を知ってるんだい!?しかも下の名前を呼び捨てにするなんて気持ち悪い!!」
 少しでも桜井から離れたいのか希理子は身じろぎするように後ろに後ずさる。
「希理子……?!」
 一瞬、テレ屋である希理子が照れ隠しの為に桜井を突き飛ばし、その為支離滅裂な言葉を言ったのではないかと考えたのだがどうやら本気で様子がおかしい。希理子の桜井に対する嫌悪感は本物だ。本気で抱きすくめられたこと、そしてファーストネームで呼ばれたことを気持ち悪がっている。
 桜井が『希理子』とファーストネームで呼ぶのは二人が2年になって以来の習慣だ。1年の間は桜井は『矢部さん』と呼んでいたのだが、たった2か月程で止めてしまったのだが一時期入っていた現2年に当たる新人部員に同じ『矢部』という名字を持つ部員がいた。そのために区別を余儀なくされた結果、下の名前の『希理子』で呼ぶことになったのだ。その部員が止めてしまってからもその習慣が残り、現在に至っても桜井やすでに引退した3年部員達は全員希理子をファーストネームで呼び捨てにしている。
「希理子先輩……?!]
 どうやら様子のおかしい希理子に今川がその顔をのぞき込むように声を掛ける。
「先輩!?あんた頭でもおかしいのかい!?あたしはまだ1年だよ、この学校にあたしを先輩なんて呼ぶ後輩なんているわけないだろうが」
 希理子は馬鹿にしたような、当然といった口調でそう言い放つ。
 だがその言葉は思わぬ衝撃をそこにいた部員たちに投げかけた。
「……あの、希理子……さん?……今、……なんて言いました……!?」
 新しく部長になった小林が恐る恐る口を出した。その場にいた全員が同じ言葉を希理子に投げかけたかったのだが、それを一番最初に行動に移せたのがたまたま小林だったのだ。
 希理子はいぶかしむような表情で自分から見て左前方に立ちすくむ小林を見ると平然と言い放った。
「だからあたしはまだ1年、1年F組で後輩なんて居るわけないんだから先輩なんて呼ばれる筋合いないって言ってるんだよ」
 その瞬間、その場にいた十数名のバスケ部員全員の時間が止まった。
  

  

「じゃあ何かい?ホントはあたしは今3年で、しかもあの弱っちくってここ数年1勝もしてなかっていうバスケ部のマネになってたっていうのかい」
 希理子の衝撃の一言から数分後、何とか驚愕から立ち直った部員たちは希理子を直ぐさま病院に連れて行こうとしたのだが、希理子は自分自身は少し身体の痛みはあるものの何の不都合もない結果、逆に自分が記憶喪失に陥っているのだときかされても信じようとせず、よってたかって自分を騙そうとしているのだと主張した。だが、そこにたまたま練習を覗きに現れた馬呉の以前とは変わり果てた姿に確かな時間の経過を感じたのか、部員たちから事情を聞いていたのだ。
「あたしはあそこから落ちてそのショックか何かで記憶を失ったっていうんだね?」
 希理子は片膝を立てて胡座をかくという日本ではとても行儀が悪いとされ、韓国では女性の正座とされている姿勢のままでくいっとあごを上げ、舞台の上を指し示した。
「ああ」
 桜井が頷く。
「あそこにパイプ椅子をおいて練習を見ながら俺と話をしてたんだけど、立ち上がろうとした瞬間バランスを崩して足を滑らせて落っこちたんだ」
 希理子の落ちた真相はこうである。
 舞台のギリギリ端まで30cmというところに椅子をおいて希理子は自慢の足を組んで悠然と見ていた。そこに現れた桜井が後ろから声を掛けた。希理子は椅子に座ったまま、ほんの少しだけ身体を動かし横座りの状態のまま話を続けた。が、しかし話が進むにつれ立ち上がろうとした希理子は無理な体勢のまま座っていたパイプ椅子に体重を掛けた。しかし、ニスの引かれた舞台の上は結構滑りやすくその拍子に椅子がガクンと動いた。希理子はあわててこけるのを防ごうと左足を踏み出したのだがその下には運悪くプラスチック製のバインダーがあった。椅子以上に滑りやすかったそれはずるんっと希理子の足元を掬った。その反動でまた椅子の方に体重を掛けることになってしまい、椅子はそのままがしゃんと倒れ、その結果不安定な体勢だった希理子は背中のほうから1メートル20センチ程の高さの舞台から床に叩きつけられるように落ちてしまったのだ。その証拠として舞台の上には横倒しになったパイプ椅子と希理子に踏みしめられた結果しわだらけになってしまった記録用紙がはさまれたプラスチック製のバインダーが落ちている。
「だけど何だい馬呉、昔からフケたゴツい男だったけどそのつい最近までヒカってたみたいな頭してるともっと面白い顔になるんだね」
 自然と希理子の左横を陣取った馬呉を見て笑いながら希理子は面白そうにまだ5mmほどでしかない馬呉の頭を面白そうに撫でまわした。
「やめろ」
 馬呉はその手を軽く振り払うが希理子は尚も撫でようと手を伸ばしてくる。
 その様子はあまりにも普段の希理子の様子とかわりがなく、安心すると同時にその危機感のなさに一同に思わず苦笑がもれた。
 希理子はその周りの反応の自分に対する親密さにいささか戸惑いを隠せないといった微妙な表情で、視線だけをぐるりと部員たち全員の顔の上を通過させた。
「ホントに2年も経ってて、あたしはバスケ部のマネになってるようだね」
 しみじみとため息まじりに言う。
「思い出せないか?」
 桜井は希理子の顔をのぞき込むようにいう。部員たち一同も同じようにその言葉に頷いている。
「出せない」
 希理子はそうきっぱりと言い切ると話を続けた。
「生活指導に停学チャラにするから代わりにバスケ部のマネしろって言われて、でもそんなうっとおしいのヤだから適当に理由をつけて断ろうと思って体育館のぞきに来たんだ。そしたら誰もいなくてボールだけ転がってた。ボロボロのボードが目について、えっと確かそっち側のボードに近寄った。そしたら突然ボールが飛んできてゴールを決めて落ちてこようとしてた」
 希理子はそういって今現在希理子は舞台の方を向いて床の上に座っており、そこから見て左後方のゴールを指さした。
「あたしの記憶はそこまで。だから、あたしはてっきりそのボールが当たったショックでブッ倒れたんだと思ってたんだよ」
 その言葉に桜井はハッと息を呑んだ。その桜井の様子に成瀬が気付き、昔聞いた話を思い出した。
「それって、たしか桜井先輩と希理子先輩が初めて出会った時の話ですよね」
「そうなの?」
 希理子は成瀬の顔を不思議そうにのぞき込む。成瀬は頷いて話を続ける。
「でもたしかボールは当たらなくって、そこに近寄ってきた桜井先輩と話をして、その結果だまされてマネージャー引き受けたんだって聞きました」
「そうなんだ。やっぱだまされてマネなんかやってたんだ。どうりでおかしいと思ってたんだ。このあたしがマネなんかするはずないってね」
 うんうん、と納得の表情で希理子は頷いている。
「で、あんたがその『桜井』?」
 希理子は馬呉とは反対側の横に座っている桜井の方をうかがった。
「希理子?」
 思わず桜井は目を見開く。
「何だい、その顔?!ここに居る人間、そう、昔から知ってる馬呉以外はみんな記憶にないんだ。ここに居る全員名前と顔が一致するどころか、知ってる顔ひとつない。当然だろ?」
 その通りだった。ここにいる希理子は自分と出会う前の瞬間、ちょうど2年前の今頃、風が秋のものに変わりはじめた季節までの記憶しか持っていないのだ。
 桜井はあの日、西日が差し込む体育館に突然あらわれた希理子と衝撃的な出合いをした。他の人間が聞けば大したことないものかもしれないが自分の中では忘れようにも忘れられないものだ。