「ねぇ誰か〜、部室のカギ持ってないかい?」
バタバタと駆け込むようにしながら体育館の入り口にあらわれた早々、希理子が
そう声を掛けた。
「それなら、確か今川先輩が───ってあれ?どうしたんです希理子さん?」
そのとき入り口の一番近くに居た成瀬が練習用のボールかごの準備をしながら珍
しく練習に顔を見せた先輩女子マネを見て目を見開く。
「何でそんなに濡れてるんですか?傘はどうしたんです?傘は」
成瀬が驚くのも当然なくらい希理子は濡れていた。その様子に成瀬と同じく練習
開始の準備をしていた部員たちががやがやと寄ってくる。
6月に入り、夏服期間ということで、普通なら半そでのブラウスを用いるところ
だが、希理子は長そでのブラウスをひじまでまくり上げる格好で着用しているのだ
が、その白いブラウスがうっすら透けてしまうほど濡れてしまっている。
外はまさに梅雨というのに相応しい大雨だ。それも朝からどころか昨日の夕方か
ら降り続いていた。こんな日に傘をさしていないなどおかしいとしか言い様がな
い。
「朝、駅前のコンビニに寄ったんだよ。そしたら間違えられたのか、ペチられたの
かわかんないけどあたしの傘が無くなっててさ、たしか部室にビニール傘が余って
たはずだから、それ借りて帰ろうと思って来たんだよ」
希理子はもうすでに役に立っているとは思えないほどすっかり濡れきってしまっ
ているハンカチで自分の髪や服を拭いながら体育館の中に入ってきた。
「今日に限って作ってた合鍵も忘れちゃっててさ、そのマスターキーを借りに来た
わけ」
そう言いながら希理子はぐるりと周りを見回す。
「で、今川は?」
その言葉に部員たちは互いの顔を見合わせるが、代表で成瀬が口を開きかけた
が、その前にその返答が発せられていた。
「事務室の方に今週末の試合の遠征届けを出しに行ってるよ、もうすぐ帰ってくる
と思う。───んでほら、拭けよ、風邪ひくぞ」
その言葉と共に上からタオルが降って来た。ほぼ背後からのその言葉に希理子は
うっとおしそうにしながらその声の主の方に振り返った。
「汗臭いよ、桜井。これ『使用済』なんじゃないの?」
そう言いながらも希理子は頭にかぶせられたタオルでごしごしといささか乱暴に
自分の髪を拭っている。
「でも風邪ひくよりはましだろ?」
希理子の言い種に肩をすくめて苦笑する。
「うげっ、髪が臭くなっちゃうじゃんか」
わざと苦虫を潰したような表情をしながら希理子はそう言って笑った。その様子
に桜井もつられて笑う。
そのやり取りにまだ希理子という人間を余り知らない1年達は目を白黒させてい
るが、すでに慣れっこになっていたり、希理子と言う人間を知っている2年や3年
らは希理子のひどい言葉が彼女特有の照れ隠し、そして素直に言えないお礼の言葉
だと知っているのであいかわらずだなぁ、といった様子で微笑ましそうに笑ってい
る。
「それにしてもまだ6月だっていうのにホントに暑いね。体育館にもクーラー入っ
たらいいのに」
希理子は桜井に渡されたタオルで一通り拭き終えると、それを首に掛けたまま体
育館の中をうろうろし始めた。
少しでも涼しい場所を求めてあっち行ってはうろうろ、こっち行ってはうろうろ
している。
「確かにここの体育館、異常に暑いからなぁ」
その希理子の様子に練習を再開しはじめた部員たちは苦笑する。
上南高校は都会にある高校らしく周囲をアスファルトやコンクリートに覆われて
いるのだが、それ自体より高い建物が周囲に存在しない為、直射日光をもろに浴び
てしまう。その為、夏場はまさに蒸し風呂状態で体育館は特に風通しもあまりよく
ない為、地獄のような暑さだ。
「ああ、希理子さん、あんな恰好までして」
そう言って部員たちが苦笑しているその視線の先で、希理子は空気抜きの為に開
けている床のすぐ上にあるちいさな窓の横でベタリとフロアーに寝転がっていた。
足を広げて大の字の恰好で寝転がっているその姿は女子高生のそれとは思えない。
時折ころころと転がって姿勢を換えては大の字になり、また暫くすると同じよう
に転がっていき再び大の字の姿勢になっている。その様子は家で転がっている『親
父』そのものだ。
だが繰り返されるその様子を他の部員たちが面白そうに笑っている中、一人だけ
いぶかしむ様子で見ている者がいた。
「あれっ、何だい、桜井?」
つかつかと自分の方に近寄って来て、頭元に立った桜井を見上げながら希理子は
不思議そうな表情を浮かべた。
「ここで寝てたら邪魔なのかい?」
そう言って起き上がろうとした希理子のおでこに桜井はしゃがみ込みながらすっ
と手を伸ばす。
「バカッ!」
突然のその大声に練習をしていた部員たちも手をとめる。
「熱があるじゃないか!どうして言わないんだ!」
いつものおだやかなニコニコ顔の桜井しか知らない周りの部員たちは桜井のその
らしからぬ剣幕に目を丸くする。
「あはは、どおりでなんかしんどいなって……」
希理子は乾いた笑みを浮かべながら寝そべっていた為、ぐしゃぐしゃになってし
まっている髪を掻きあげた。
そうやって起き上がった希理子の頬は顔全体が青ざめているのに頬の辺りだけや
けに赤くなっている。切れ目がちのアーモンド型の瞳もいつものように鋭く視線が
定まっていないようで、虚ろな感じなのに潤んでいる。
平気そうな顔をしているが実際はかなりしんどいはずだ。希理子が平気な時は大
袈裟に言い、全然平気じゃない時には平気なフリをする天の邪鬼な性格の持ち主で
あることを知っている周囲の人間からすれば、その言葉と態度だけでどれだけ希理
子が無理をしているのか解ろうというものだ。
もちろんそんな希理子の性格を知りつくしている桜井はそんな希理子をすかさず
怒鳴り付ける。
「バカッ、笑い事じゃないだろう!こじらせて肺炎にでもなったらどうするん
だ!」
そう言ってさっと立ち上がると、ウォーミングアップ用に体育館に持ってきてい
たパーカーを希理子の肩に着せかけた。
「いいよ、暑いんだってば」
「ダメだ」
こばんでそれを振り払おうとしているその手を上から押さえ付けて無理矢理着せ
かける。
「それだけ熱が高くなってるのに身体を冷やすと本当に肺炎になるぞ」
「でも暑い…」
「ダメだ」
希理子はその手を振り払おうと身体を大きく揺さぶるが、力が入らないようで身
体全体がふらふらしている。そんな希理子を桜井は再び諌める。
「たまには俺の言うことも聞け、じゃないと本気で怒るぞ」
決して大きな声ではない。そして凄んだ声でもない。ただとてつもなく真摯で、
真剣な声だった。
「……わかったよ……」
希理子はしぶしぶといった様子で自分には大きすぎるそのパーカーに袖をとおし
た。
「あれ、どうしたんですか?」
そこに用事をすませて帰ってきた今川が現れた。
「ああ、今川」
桜井は振り返りながらもう一人の部のマネージャーに声をかける。
「希理子、熱があるんだ。今ならまだ保健室に先生がいると思うから連れていって
やってくれないか?」
その言葉に希理子は大きく首を振る。
「いいよ、別に。傘貸してもらったら帰ってすぐに医者いって寝るから……」
「ダメだ」
桜井はすかさず否定する。
「そんなにふらふらしててちゃんと家までたどり着けると思ってるのか?ちゃんと
先生に診てもらった方がいい」
「いいよ───」
「希理子」
反論する希理子の言葉を桜井はきっぱりと封じる。
「ちゃんと診てもらうんだ」
真正面から重ねられた瞳と言葉に逆らえない。結局、希理子はそれ以上反論も出
来ず今川に連れられて保健室に向かっていった。
後に残された部員たちは練習を再開しながらも1年達は初めて見た、そして2年
や3年も数えられるほどしか見たことがない桜井の剣幕に驚きの色が隠せない。
「桜井先輩ってあんな人だったんだ───」
意外と激情家の一面を垣間見て親しみを覚えた者もいれば、ただひたすらに驚い
ている者もいる。
「でも、あの時の希理子先輩、可愛かったよなぁ」
誰かが漏らしたそのつぶやきにその言葉が耳に届いた全員が頬を染める。
パーカーを着る、着ないで桜井と言い合いになって結局やりこめられてしまった
希理子は悔しそうに、でもバツが悪そうに下唇をきゅっと嚼んだ。顔を下向き加減
にしながら上目遣いに桜井を見るその瞳は今にも涙がこぼれ落ちそうなほどに潤
み、熱と恥ずかしさ、悔しさで赤く染まった頬はまさにバラ色だった。
あの過激すぎる性格と行動さえなければ希理子はまさに否のうちどころがない美
少女なのだ。病気で弱ってしまっている所為でその覇気を失ってしまっていたその
姿は、実際の年令より幾分幼く見え、その実情を知っている部員たちでもときめい
てしまうのに充分なものがあった。
「───おい、何をしゃべっているんだ?」
いつものニコニコ顔で桜井が言う。
「練習する時は練習に集中する。インターハイの予選はもう始まっているんだぞ」
「はい!」
その桜井の言葉を受けて全員が煩悩を振り払うかのように軽く横に頭を振ると練
習の方に意識を集中させる。
しかし、そのとき彼等は気付くべきだったのだ───桜井の呼びかけの前に空白
が合ったことを。