こちら上南高校バスケット部部室。今日は部の練習を終えたのち、インターハイ
に向けての最終調整である八ヶ岳合宿の説明会が行われた。
そしてそれも終わって解散になり、各々が帰り仕度を整えていた時、誰かがしん
みりとつぶやいた。
「あーあ、せっかく八ヶ岳行くのに『合宿で』だもんな。今年は何処にも遊びにい
けそうにないよ」
「ははは」
その言葉に周りも苦笑まじりの笑みを漏らす。
「でもそれが終われば『北海道』だぜ?……まあこっちも遊べないけど」
その言葉がさらに笑いを誘う。
「ははは」
遊びたい盛りのこの年頃に夏休みとは名ばかりで、実質的な休みが取れないバス
ケ部員達はそう笑うしかない。だがそれは同時に嬉しい忙しさでもあったから、不
平を口にしていてもついつい笑顔がこぼれてしまう。
「だけど少しぐらい遊びたいよな。ちょっとした観光ぐらいでもいいけど」
せっかく八ヶ岳、そして北海道というのにすでに判明しているスケジュールは超
過密でほとんど自由時間などない。そもそも北海道の方は試合に行くのだから遊び
の時間うんぬんに文句をつけるのが間違いだが、八ヶ岳の合宿の方はさらにそれを
上回り朝から晩までバスケ漬けだ。少しぐらいの息抜きがあっても、と思ってしま
うのも当然だろう。
「そうだな、合宿所というか、最寄り駅の近くに巨大な迷路ならあるぞ」
ぐだぐだと会話を続けている1年の会話にガンが割り込んでくる。
「ああ、あれか!」
ぽかんとしている1年を尻目に、ガンの相棒ともいえる齋藤を筆頭に去年八ヶ岳
に行った経験がある2年達は思い出すように手を叩いた。
「『迷路』ですか?」
「ああ」
観光名所でも、という話をしていた時に何故迷路?と思っている1年達にガンが
説明する。
「向こうの観光協会かなんかがやってるイベントでな、デッカイひまわりで迷路が
作られてるんだ」
「ひまわりで?」
大きく目を見開いた1年らに対してガン達は頷いてみせる。
「ああ、高さ2メーターとか3メーターとかいう馬鹿デッカイひまわりで迷路が作
ってあってな、そんだけデカイから抜け道のぞこうとしてものぞけないんだ。大体
入って出るのに25分ぐらい掛かるらしいけど、そりゃ一面のひまわり畑は痛快な
眺めだぞ」
「へぇ」
その言葉に1年らはみなまだ見ぬ風景に思いをはせる。
東京で暮らしている彼等は『本当』のひまわりを知らない。花屋で売っている小
さな切り花用のミニひまわりとか、よくても小学校の校庭の隅に植えられた何処か
やせっぽっちのひ弱なひまわりしか知らないのだ。
見上げても何かしらのビルが目に入るような狭い空ではなく、本当に広く開けた
青空に向かって高くそびえ咲くひまわりはどんなに雄々しく、美しいのだろうか?
────ついそんなことを考えてほぉっとなってしまう。
「行ってみたいなぁ」
うっとりとした目で空をみながらつぶやいた成瀬の言葉に馬呉が返事を返す。
「行ってもいいぞ」
「えっ?」
思いも掛けぬその真面目一徹な主将からの言葉に、成瀬と同じ感情を抱いていた
1年は目を輝かせる。
「ただし!食事などの休憩時間中に往って帰ってこれるっていうんだったらな」
その言葉に仮ではあるがすでに自分達に伝えられていた合宿中のスケジュールを
思い浮かべる。お昼の休憩時間は1時間近くあったはず。急いで食事を終えていっ
て帰ってくれば間に合うかもしれない───そんな淡い期待に胸を踊らせる。
「ちなみに、その『迷路』までは片道どれくらい掛かるんですか?」
おそるおそる聞いたその質問に馬呉はハッキリキッパリ言い返す。
「20分」
片道20分ということは往復で40分。それに迷路が25分ほど掛かるとすれば
それだけで合計で1時間を越えてしまう。
「ダメじゃん」
「ははは」
がっくりと肩を落とした1年達の様子を2年3年が笑う。
「どうした、希理子?」
桜井が声をかける。いつもならまっ先に会話に参加しているはずの希理子が珍し
く何だか少し翳りを帯びた表情でその会話を聞いているのが目にひっかかったの
だ。
「気分でも悪いのか?」
ただ座っているだけといってもクーラーのない体育館は地獄のような暑さだっ
た。それにやられてしまったのかと心配になって顔を覗き込むと希理子はぶるんぶ
るんと首を横に振ってその言葉を否定した。
「違うよ」
「じゃあなに?」
「ただ……」
「ただ?」
言葉を濁した希理子がぼそりと言葉を漏らした。
「ひまわりが────特に『迷路』になってる『ひまわり』が嫌いなんだ」
「えっ?」
思いも掛けぬその言葉に桜井は目を見開く。
「昔、ね────誰にも探してもらえなかったんだ」
希理子は苦笑まじりに肩をすくめると簡単に説明を始めた。
「まだあたしが7つか8つだった時、家族と近所の子供会かなんかかの集まりで山
の自然植物園にハイキングに出かけたんだ。そこにね、八ヶ岳にあるのと同じよう
なひまわりの迷路があったんだ」
その日は平日だというのに夏休みだということもあって結構混雑していた。
希理子は近所の自分よりも2つ年下の子供の面倒を見るようにと押し付けられ、
親達が他の子供たちをトイレに連れていっているときにその近くの土産物屋をのぞ
いていた。そのとき、事件が起こった。
面倒を見るように言われていた近所の子供がガラス細工の人形を手に取っていた
時に、まったく知らない他所のグループの子供達がその子にぶつかってきたのだ。
まだ小さかったその子は手にしていたその人形を落としてしまい、その人形はただ
のガラスの破片になった。
「近くでね、見てた大人がいなかったんだ。その上ぶつかってきたのはあたしより
年上の小学校5、6年の男でね、3人の友達連れだったんだ。そいつら、自分達が
悪いのに慌てて駆け寄ってきた店員に『あの子が勝手に落として割った』って騒ぎ
立てたんだ」
希理子は断固抗議した。だが受け入れられなかった。
「相手の方が年上で、あたしが面倒みてた子がビビって泣き出しちまったせいで
ね、こっちが全面的に悪いことにされてね、最後の方にはあたしがその子にきつく
注意したから商品落としたんだってことにまでされちまったんだ」
そこに騒ぎを聞き付けた親達がやってきた。希理子の言葉を聞かず、親達は店員
やその年上の子供達の言葉にだけ耳を傾けて希理子と泣きじゃくる近所の子供を叱
りつけた。
「あたしたちのせいじゃない、って何度も言ったんだよ。だけど誰も聞いちゃくれ
なかった。ウチの母親なんか『嘘付くような子に育ってた覚えはない』っていって
あたしの頬をぶったんだ」
誰も聞いてくれない────真実を語る言葉を殺されたその悔しさに希理子は近
くにあった木で出来た人形をわし掴んだ。そしてそれを先程人形が割れた棚に向か
って投げ付けた。
「盛大に棚がぶっ壊れて辺り一面ガラスの破片が飛び散ったよ。あたしはそこを飛
び出して、ただやみくもに走ってたんだ。そしたら気が付くとひまわりの迷路の中
に迷い込んでた」
結局は希理子が癇癪を起こしてそのガラス細工の棚を壊したことで、自分達がつ
いた嘘が引き起こした惨事に年長の少年達が真実を語って希理子たちに否がないと
証明されたのだが、そこで飛び出してしまっていた希理子にはそんなこと関係なか
った。
誰も、自分自身の親さえも信じてくれない───それどころか『自分の親が一番
信じてくれない』その事実に希理子は傷付いていた。
迷い込んだひまわりの迷宮────その袋小路の片隅で希理子はじっとその悔し
さと悲しさに堪えていた。子供だったからこうやっていればいつか誰かがやってき
て自分の言葉を聞いてくれると信じていた。
だが2時間どころか3時間近く経過して昼の太陽がすっかり角度を変えても、楽
しそうにはしゃぐ親子連れや子供達は目の前を過ぎ去っていっても、自分を探しに
来るものは誰もいなかった。
昼の内にはいきいきとしていたひまわりは太陽が角度を低くするに従って顔の向
きを変えてうつろいゆき、子供の低い目線から見上げるその姿はまるで墓標のよう
だった。
その姿がまるで打ち捨てられた自分のようで希理子はその場に膝を抱えてうずく
まった。
「そこにね、『女神様』があらわれたんだ」
「『女神様』?」
希理子の口から出た思いがけぬ言葉に桜井は目を見開く。希理子はそんな桜井に
対して大きく頷いて見せた。
「あたしと同い年ぐらいのガキつれた『女神様』だった。白いワンピースにつばの
大きな麦わら帽子かぶった、それは綺麗な女の人だった」
ひざを抱えた希理子の元にまずやってきたのはその人の子供だった。
『おかあさん、この子、ケガしてます!』
どんぐり目玉の少年は希理子を見てそう叫んだ。
『えっ?』
後からやってきたその子の母親らしい女性はやや早足に希理子の元に近づいてき
た。
『まあ、大変!』
落ち込んでふさぎ込んでいる時に近くで騒がれるうっとおしさにしかめっ面であ
げていた希理子の顔を見てその女性は慌ててしゃがみこんだ。土産物屋でガラスの
破片が飛び散った時に希理子は顔とかむき出しの手足に小さな切り傷を沢山作って
いたのだ。
その女性は着ている高そうなワンピースが土でよごれるのも気にせずに座り込ん
で、持っていたポシェットからこれまた高そうな真っ白なハンカチを取り出すと希
理子の傷口にそっとそれを当てた。
『早く手当てしなくちゃ。せっかくの可愛いお顔にキズでも残ったらもったいない
わ』
どことなくマイペースな口調で希理子にそう言って笑いかけると、何故こんなも
の持ち歩いてるのかというようなスプレー式の消毒薬を同じくポシェットの中から
取り出し、希理子の小さな傷口一つ一つを丁寧に消毒し始めた。その様子を横でそ
の人の子供であろう少年が心配そうに、我が事のように痛そうに覗き込んでいた。
普通なら小さな女の子がそんなにケガをしてうずくまっていたなら、何でそうな
ったのかとか親は何処だとか誰何するはずであろうが、その女性は希理子に対して
いっさい何も聞いてはこなかった。思いつめた表情で座り込んでいる希理子の様子
を見て何かを察してくれていたのだろう。
だからすべての治療を終え、もうその場では何もすることがなくなったその時に
立ち上がってただ希理子に向かって微笑んだ。
『さあ、出口はもうすぐよ』
そのとき、初めて涙がこぼれた。希理子はしゃくりをあげて大声で泣き叫んだ。
『大丈夫、大丈夫』
その女性は優しく希理子を抱き締めると希理子の衝動がある程度おさまるまでた
だぎゅっと希理子のことを抱きしめていた。
そして大分泣き止んだがまだ泣き続けている希理子の頭にその泣き顔が見えない
ように自分がかぶっていた大きな麦わら帽子をかぶせると、子供の希理子にさえゆ
っくりすぎるほどのペースでキズだらけの小さな手を引きながら出口に向かって歩
き始めた。希理子のもう片方の手はそんな希理子を気遣うようにわざと希理子の泣
き顔を見ないようにしながらその人の子供が握ってくれていた。