9月に入って部の引き継ぎも終わったある日曜日、小林は一つ年上の恋人と共に恋人の住む街仙川
を歩いていた。
「へえ、この辺で遊んでたんですか」
初めて見る街並に小林には珍しく興味津々といった様子で視線をぐるりと彷徨わせた。
「うん、ここのね、ここの路地入っていった奥にあたしと馬呉とかが通ってた小学校もあるんだよ」
小林の恋人希理子はそう言って昔は駄菓子屋だったという今はコンビニが立っている横の小さな路
地を指し示した。
「駅前は近くにお茶女とかあるせいで結構オシャレなお店も多いけど、一歩奥に入るとこんな感じな
んだ。結構いいだろ?レトロって感じで」
どこか懐かしい郷愁の満ちたその街を希理子は笑って自慢した。
「そうですね」
そのとても嬉しそうな希理子のとても綺麗な笑顔に小林は微かに微笑んだ。
まだまだ人並みには遠いけれど希理子と付き合い始めてから小林の表情はバリエーションを帯びた
と評判だった。希理子はそんな小林のごくたまに見せる笑顔とわかる笑顔に嬉しそうに微笑むと満足
そうに頷いた。
「この先にね、ちいさな教会もあるんだよ。あたしはよくそこの日曜学校に参加してたんだ」
「えっ、希理子さんがですか?」
その思いも掛けぬ言葉に小林は目を見開いた。
「何だい、何だい、そのカオ?!そんなにあたしが教会行ってたら意外かい?」
「いっ、いえ……」
プクリと頬をふくらませた希理子のその言葉に小林は即座に否定するがその顔からは冷や汗がだら
だらと流れていた。まったく嘘のつけない恋人のその正直な表情に希理子はクスリと笑って肩をすく
めた。
「まあね、参加してたって言ってもミサの後にお菓子もらうのが半分以上目当てだったから、『教会
通ってた』っていうのは語弊があるんだけどね」
そう言ってぺろりと舌をだした希理子のその姿に小林は希理子の機嫌がそれほど損なわれていなか
ったのを確認してほっと息をついた。
「何歳ぐらいまで通ってらしたんですか?」
「う〜ん、小学校6年になるかならないかぐらいまでかな?」
小林からの問いかけに希理子は思い出すために黒目を上に寄せながら思案顔でそう返答した。
「行ってみる?」
「えっ」
希理子からのそのお誘いに小林は小さく目を見開く。
「結構こじんまりしたいい教会なんだよ。もうミサも終わってるだろうから人はいないだろうけど勝
手に入っても怒られないから。興味あるんだったら案内するよ」
「そうですね」
小林はその言葉に頷いた。希理子もその言葉に頷いて半歩分だけ先を歩いて小林をその教会がある
方に案内する。
別に小林は教会になど興味はなかったが、希理子の子供時代の話には興味があった。愛する人の生
まれ育ったこの街の、その愛する人が愛するすべてを知りたいと恋する男の純粋さでその場所に興味
が涌いたのだ。
「ここだよ」
希理子の案内でついたその教会は住宅地の真ん中にあるにしては緑に囲まれた閑静な雰囲気を携え
ていた。確かに規模は小さいが希理子の言うようにこじんまりした、なんだかアットホームな雰囲気
がある。平日は幼稚園か保育所を兼ねているようで裏手にはジャングルジムや滑り台といった幼児用
の遊び場も設けられていた。
「わぁ、変わってない!中もそのまんまだよ」
礼拝室の扉を開けて中に入り込むと希理子はその室内を見回してそう声をあげた。
古い木材としっくいで作られたその内装は時と共に風化させられてはいるようだがそれ以上に年輪
というかなんというか、とにかく言葉では簡単に言い表せない大切な何かを積み重ねてきたようだっ
た。それが祭壇とか礼拝用に並べられている椅子とかありふれたあちらこちらから滲み出している。
「子供のころ、ここがね、あたしの指定席だった」
希理子はそういうと祭壇に向かってバージンロードの左側、前から3列目の席に腰を降ろした。
「賛美歌とか歌わせられるのはうっとおしかったけどさ、神父さんの話は結構楽しみだった。あのオ
ヤジの話とミサのあとのお菓子が楽しみであたしはここにしょっちゅう通ってたんだよ」
「『あのオヤジ』?」
促されるように希理子の横に腰を掛けながら、いつもどおりと言えばなんだが口の悪い希理子の、
おそらく神父をさしたであろう言葉に目を丸くする。
「うん」
希理子はすこし腰を浮かせて姿勢を直しながら話を始めた。
「今は代が変わっちゃったんだけどさ、あたしが通ってた当時はちょっと太めの、イイ人だけがとり
えみたいなオヤジだったんだ。だけど昔はいろいろ悪いことやってたらしくて、そのせいか聖書の話
とかもくだけてて、子供のあたしにも結構分かりやすかった。聖書っていうのはただの綺麗ごとじゃ
ない、現実が書いてあるんだって、神父なのに言っていいのかどうかわかんないようなそんなぶっち
ゃけた話してくれた」
「ぶっちゃけた、って?」
「うん」
クスクス笑い出した希理子の顔を覗き込んだ小林に、希理子は笑いをおさめるように頷いて悪戯め
いた表情で問いかけた。
「そうだねぇ、あんた『モーゼの十戒』って知ってる?」
「はい」
小林は素直に頷いた。
「たしか旧約聖書に出てくるんでしたよね、モーゼはつえで海を真っ二つにしたとか何とかいう話が
関連した……」
「うん、そうだよ。ホントに遇ったかどうかは知らないけど、とにかくそのモーゼがどっかの山にこ
もってた時に神様から聞いて書き留めた教えっていうのがその『モーゼの十戒』らしいんだ」
希理子は小林の言葉を肯定し、そしてそう付け足した。
「じゃあその内容って知ってるかい?」
「いえ」
小林はやはり素直に首を横に振った。日本史、とくに幕末には興味が合って詳しい小林だが、世界
史関連に関しては教科書レベルのことしか知らない。特にキリスト教の教義に関してなどなおさら
だ。
「まあ『十戒』っていうぐらいだからさ、その教えっていうのは10コあるんだけど、そのうち4つ
は『神様を敬え』とかいう自分の宗教に関する勧誘なんだけど、残り半分がヘンなんだ。バカみたい
なんだよ」
希理子はそういうと指折り数えてその残り6つを説明した。
「『あなたの父母を敬え』、『殺してはならない』、『姦淫してはならない』、『盗んではならな
い』、『隣人に関して偽証してはならない』、『隣人のいえ、隣人のものを一切欲してはならない』
だとかいうんだ」
「それは……」
さすがの小林も絶句する。
「ねっ、くだらないだろ?」
小林の反応に満足して希理子は大きく頷いた。
「あたりまえのことばっかりじゃん、それがいちいち神の言葉だなんて信じられなかった」
希理子は呆れ切った様子でそう手を広げた。言葉遣いは難しいが、どれ一つとっても当たり前で今
さらなことだ。それが確かに神の言葉であるなどとはかなりおかしな感じがする。
「だけどさ、それが『あたりまえ』じゃなかったんだって」
「えっ」
希理子の言葉に小林は目を見開く。
「モーゼが生きていた時代には当たり前じゃなかったんだってさ」
いったんそう言葉を区切ると希理子は説明を始めた。
「モーゼが生きていた時の時代って暴飲暴食が当たり前で、親子とか兄妹とかいう、とにかくそうい
った感じでの道徳っていうのがかなり欠如してたんだってさ。それが当然、あたりまえでそれを楽し
まない人間の方がおかしいような時代だったんだってさ」
人が人を支配し欲望に耽り、快楽だけが絶対だったそんな時代───ごく一部の支配する方はとも
かく支配される方には絶望だけが満ちていた。
「だからあえてモーゼは神の言葉として今じゃ当たり前になったそのことを伝えたんじゃないかって
神父さん言ってた。当たり前じゃないから、当たり前にするために神の言葉にしたんじゃないかって
神父さん言ってた」
その為に、当時としては反感をかうだけのそんな言葉を口にしたためにモーゼは国を追われること
になった。その時にモーゼは天から授かった杖で海を真っ二つに切り裂き、そこに道を作ったという
───これが有名な『海割り』の話である。
「こんな単純な『当たり前』の積み重ねがあったから今が平和になってきたんで、だからこれからも
『当たり前』であり続けれる世の中を作っていくのが今を生きている自分達の努めだって、神父さん
そう言ってた。だから聖書の言葉は『現実』で『現実の願い』がたくさん込められているんだって
さ」
そう締めくくった希理子の言葉に小林は納得した。
くだらない、当たり前の言葉さえその背景を知るとそれはとても重い言葉になる───その願いが
純粋であればあるほどなおさらだ。
「ま、ほかにもいろいろ教えてもらったけどたいていは綺麗ごとすぎて受けつけられなかったけど、
この話だけは納得してて覚えてたよ」
希理子はそう言って、らしくない話をしてしまったとばかりに肩をすくめた。そして付け足す。
「とにかく、その話からいけばあたしは完璧に犯罪者ってこったね」
「えっ?」
どこか悪戯めいた笑みで笑っている希理子の突然のその言葉に小林は驚きを隠せない。すると希理
子はすました表情で説明をし始めた。
「昔ね、去年のインターハイで札幌のホテルに泊まってた時、楠田ちゃんとこんな話をしたんだ。ウ
チの───上南のメンバーは全員ハナタレガキの、自分にとっては自分のガキみたいなもんだって
ね」
「それが?」
ニヤリと笑った希理子のその表情に半分以上イヤな予感を覚えながら小林はその言葉の意味を問い
かける。
「だってさ」
希理子はくすくす笑いながらびくついた小林の首に両手をまわすと顔を近付けながら返答した。
「上南全員自分のガキだっていうんなら、あんたと『こんなこと』してるあたしって立派な犯罪者っ
てことだろ?」
「きっ、希理子さん!」
自分の唇に確かに希理子のそれが一瞬重なりあったその事実に小林は真っ赤になって身体を硬直さ
せた。
「フフッ」
希理子はそんないつまで経ってもなれない自分からの口付けに舞い上がっている恋人の姿に笑みを
漏らすと、一瞬ぎゅっと小林に抱き着いて、そしてその場に立ち上がった。
「さっ、そろそろいこう?ウチの両親ともあたしがあんた連れてくんの首を長くして待ってるよ」
「はっ、はい!」
希理子の笑顔に促されて小林は即座に椅子から立ち上がった。そのあまりの勢いに座っていた椅子
も、何より小林自身も希理子からのキスの衝撃に立ち直ってはいなかったのでその場で小さくふらつ
いた。
「フフッ」
自分の恋人の、希理子から見ればそんな『かわいい』小林の姿に希理子は小さく笑みを漏らすと自
分の右手を差し出した。
「!」
それの意味する意味に小林はまたまたその身を硬直させるが、おそるおそるそっと恋人の華奢な白
い手に自分のそれを重ねあわせる。
「フフッ」
希理子はその感触と、その行為がもたらしたあたたかさにますます幸せそうに頬を崩した。そんな
希理子の幸せそうな姿に小林もそれ以上に嬉しくなる。
そして手をつなぎ合わせたままで歩き出したバージンロードで希理子は自分より頭一つ高い、年下
の恋人を見上げるととっておきの悪戯めいた笑顔で宣言した。
「あたしね、例え神様にダメだって言われたってあんたのこと好きだからね。『姦淫の罪』だって認
めてもらえなくたって、あたしはあんたを愛してるからね」
「希理子さん───!!」
その言葉に小林は思わず希理子を力一杯抱きしめていた。そしてその細い身体をまさぐり、その唇
を自分のそれで重ねあわせる。
「───俺もです」
「えっ?」
口付けの合間に漏らされた小林のその熱く真剣な囁きに希理子は目を見開く。
「俺だって、神様が認めてくれなくたってあなたのことを愛し続けます───俺のすべてはあなただ
けのものだから」
「小林───」
ウソ一つ、いい加減なことなど一言もいえない男からの真摯なその言葉に希理子はぎゅっとその逞
しい身体にすがりついた。嬉しくて、幸せすぎて目眩がする───だから自分の身体を自分で支えき
れなくて、希理子は恋人のその逞しい身体に自分のすべてを差し出した。
「あたし、早くあんたのものになりたい───あんたの奥さんになりたい」
その希理子の囁きに小林は腕に力を込めて更に強く希理子を抱きしめながらその言葉に頷いた。
「俺もあなたと結婚したい───あなたを俺だけのものにしたい」
「───うん」
その言葉に希理子は嬉しそうに頷くと、互いにもう一度ぎゅっと抱きしめあって口付けを交わし、
そして互いに微笑みあった。
「でもその前にまずは両親にあってもらわなきゃね」
「───はい!」
いささかの緊張を持って小林は希理子からのその言葉に大きく頷いた。そして再び手を握りあって
その教会を後にする。
それから約1時間後、希理子に案内された希理子の家で緊張に緊張しまくった小林がやっとのこと
で『お嬢さんを僕にください』と頭を下げると周囲に希理子の両親の絶叫が響き渡った。
そしてそれから約半年後、この小さな教会に祝福のチャペルが響き渡り、類い稀な美貌を持った花
嫁と一つ年下の新郎は双方の両親と友人達に囲まれて手作りのアットホームな結婚式を行うことにな
るのだが、それはまた別の話である。
Fin.
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