pleasures

  

   

  

「──────えっ、希理子さん?」

 暗がりの中、小林は思わず目をこらした。居るはずのない人を前方にとらえ、思わず小走りに駆

け寄る。

「どうしたんすか、こんなところで────」

 危ないですよ、こんな時間に一人で出歩いちゃ────ちなみに『────』に省略されてしま

った言葉を補うとこうである。

「ああ、つっかけ片方落としちまったんだ」

 希理子は自分に駆け寄ってくる後輩の顔を見上げながらそう言って足をぶらぶらさせた。小林に

示したとおり、左足にはサンダルが引っ掛けられているが右足は素足である。

「でもこう暗いとドコに落ちちまったかわかんなくてどうしようか困ってたところなんだ」

 希理子はそう言って周囲の様子を示すように首をぐるりとさせた。

 ちなみに現在2人は、というか上南バスケ部はインターハイ出場前に八ヶ岳に合宿しにきてい

た。時刻は午後10時、小林は風呂の帰りである。

 地元の中学校を借りての合宿の為、風呂がないために銭湯まで入浴にいかねばならないのだが、

この銭湯が中学からは少し離れている。歩いて十五分弱、といったところか。

 今、小林と希理子がいるのは学校まであと残り半分といったところの田んぼと田んぼのあいだの

車1台分だけなら通れる程度の田舎道である。

 イイ言い方をすれば自然に恵まれた、悪い言い方をすればド田舎であるこの場所は少しひらけた

ところからずれるとマトモに街灯も整備されていない。

 50メートル間隔ぐらいに街灯がついてはいるのだが明るいのはその街灯の直ぐ下の辺りだけ

で、『不夜城』東京で暮らしている希理子や小林にとってはほとんど真っ暗闇と変わらない。そん

なまさに街灯と街灯のど真ん中の辺りの道ばたで希理子がうずくまって何かをしていたのだから小

林が驚くのも無理はない。

「落としたんですか?」

 小林が希理子の側に立って希理子の座り込んで足をぶらぶらさせているところに目をこらす。

 そこは田んぼを取り囲むように作られているみぞというか溝で、この暗がりのせいでまったくそ

こが見えない。

「じゃあ、俺がとって────」

 小林がそう言ってそこに降りようとした。

「バカ、やめな!!」

 だが小林がその行動にうつる前に希理子が大声を張り上げた。

「深さも底に何があるかもわかんないトコに降りるだなんてバカなこと考えんじゃないよ、想像力

身につけな!このインターハイ前の大事な時期に怪我でもしたらどうすんのさ?!」

 自分の為の申し出だというのに、希理子は心底憤慨したように小林を怒鳴りとばした。

「でも……」

 確かに希理子のいうとおりであるが何となくふんぎりがつかない。

 何も希理子の言葉のキツさに怒っているわけではない。希理子の言葉に秘められている優しさや

気遣いはある意味同じくらい不器用な小林には読み取れている。

 だからそれゆえに困っている希理子を助けたい。普段は信じられないくらい傍若無人でわがまま

な希理子が自分に対してみせてくれた優しさに応えてあげたい────1人の男として小林はそう

思った。

「だからさ、『だっこ』して」

「……………………………え?」

 自分を見上げている希理子の言葉を呑み下すのにしばしの時間を要した。

「じゃなきゃ『おんぶ』して」

 平然と、さも当然と言った口調で言い切られたその言葉に小林は唖然とする。

「だって学校まで半分くらい残ってるだろ?その距離はだしでなんか歩けないよ。近くに電話もな

いし、ケイタイも持って来てないから誰にも連絡取れないし、あんたがあたしをだっこして連れて

帰ってくれるのが一番手っ取り早いし安全なんだよ」

 それにいい運動になるだろ?───希理子はそう言ってニコリと笑った。

 確かに希理子の言うことも一理ある。希理子をここに置いて自分が学校まで走って帰り代わりの

靴を持って来るというテもあるが、この暗がりに女性一人をおいていくというのは小林の男として

の義に反する。

 かといって歩いて帰らせるわけにはもちろんいかない。しかし、しかし────。

「……『だっこ』……ですか……?」

「そう、もしくは『おんぶ』」

 希理子は大きく頷いた。

 小林は思わず頭を抱える。ここが本当に真っ暗闇でよかったと心底思う。でなければそれこそ全

身ゆでだこ状態を希理子に知られてしまうからだ。

 それだったらいっそ自分のはいているサンダルを希理子に履かせて自分が裸足で帰ろうかとも思

ったが、普段の時ならともかく、インターハイ目前のこの時期にそのようなことを申し出れば先程

同様怒鳴り付けられてしまうことが目に見えている。

 ここは希理子のいうことを呑むしかなかった。

「……じゃあ『おんぶ』で……」

 そう言って希理子に手を差し伸べる。自分につかまり立ち上がった希理子はまさに羽のように軽

かった。真っ赤になっている自分を少しでも見られたくなくてくるりと背を向けたのだが、希理子

はそっと首筋に手をまわしては来たが乗りかかってはこなかった。

「ちょっと屈んでくれなきゃ乗れないんだけど」

「…あっ!」

 その不平の言葉に慌てて少し屈む。するとぽんと軽く大地をけって希理子が小林の背に飛びつい

た。

「!!!!!!!!!!」

 その感触、重さに小林は全身を大きくびくりと震わせる。想像以上の軽さ、そして柔らかさに驚

きを禁じ得ない。

 普段、基礎体力作りの練習の時に部のメンバーを背負ってダッシュの練習などをしたりもしてい

るが、それにくらべて希理子の何と軽いことか───。女性にしてはかなり背の高い希理子は自分

や桜井、馬呉といった部内でもずば抜けた長身の人間をのぞいてはほとんど変わらない背丈をして

いる。1年の神田などと比べると希理子の方が背が高いほどだ。

 それなのにその重さときたら半分、といえば大袈裟だが3分の2ほどしかないみたいだ。それに

その柔らかさたるや全く違う。まるで綿のようにふわりとしており、その抱えた素足の感触たるや

絹の滑らかさそのものだ。

 夏の、それも風呂上がりゆえにタンクトップ一枚に膝上までのパンツをはいた自分と、Tシャツ

に足の付根ギリギリまでの長さしかないショートパンツという恰好の希理子ではまさに全身が密着

してしまう。

 意識しないでおこうと思えば思うほど全身の感覚が過敏になり、細胞の一つ一つまでが希理子と

の接触で得られる感覚を拾い集めようとしているかのようだ。

 何とか高ぶっていく感覚をおさえようと、小林は意識をそらすべく希理子に話し掛けた。

「──どうしてまた出て来たんですか?」

「?──ああ」

 一瞬、思案気に目を見開くが希理子は合点がいったかのように話をする。

「忘れ物しちゃってね、取りに戻って来たのさ」

 希理子はそういうと苦笑しながら肩をすくめた。

 希理子はみずきと共に先に風呂屋にいっていたはずだった。小林はその希理子等の帰り道、小林

にとっては行き道の間ですれ違ったのだ。小林は入院中の父親の安否も心配だったので他のメンバ

ーとは別れて電話をしていた。その為、独り遅れて帰り道についていたのだ。

「まいったよ、お気に入りだし、結構高いから取りに戻って来たんだけどさ、まさかこんなことに

なっちまうなんて思っても見なかった」

 希理子は小林の背中の上でクスクス笑っている。

「『お気に入り』って、何を忘れたんです?」

 希理子は手ぶらにしかみえなかった。小さなポーチ一つ持ってはいない。なのに何を忘れたとい

うのか。

「これさ」

 希理子は小林の首から右手を外してパンツのポケットにしまっていた何かを取り出して突き出す

ように小林に示した。希理子がつまむように持って示したそれは暗がりの為よく判らないが半透明

のビンのようで中でちゃぽんと波打っている。

「───『香水』ですか?」

 まさに手のひらにすっぽりおさまるその容器を小林は目を細めながら確認する。

「そう、あたしのお気に入りの薫りなんだ」

 もちろん自分より後ろに顔がある為希理子の表情は伺えなかったが、希理子が頷いたのがわかっ

た。

 さらりと髪が揺れ、むき出しの肩や腕の辺りをその髪がくすぐる。

「──!──」

 思わず小林は目をつぶって身体をこわばらせる。

 希理子が香水を持っている、と意識したとたんに背負っている希理子の方からえもしれぬ薫りが

微かに伝わって来たのだ。

「あんまり香水とかって興味ないんだけどさ、これだけは上品で、優雅で、華やかで──それでい

て気品のある薫りがするんだ」

 そう言いながら希理子は小林の首につかまったまま、器用にその香水の蓋をあけた。

「初めて自分のお金で買った香水だから余計にそう思うのかもしれないけどさ、あたしにとって

『特別』な薫りなんだ」

 そう言うと希理子は蓋を開けたそのビンを軽く振り、シュッと前方に向かってスプレーした。

「────!」

 思わず目をつむったが、次の瞬間にはいささか強いが希理子の身体から伝わってくるのと同じ薫

り───甘いバラの薫りが小林の全身を包み込んだ。

「これであんたとあたし、おそろいだね」

 希理子は面白そうにクスクス笑っている。

「!!」

 その言葉に真っ赤になる。意識すればするほど自分にまとわりついてくる『甘さ』がどうしよう

もなく自分の中の何かを熱く疼かせる。

「───あっ、誰か来たよ?」

 そんな小林のことはお構い無しに希理子は前方を指し示す。

 もう学校のすぐ側まで帰って来ており、門の方からバタバタと数人が飛び出して来た。

「小林先輩、希理子先輩見ませんでした────ってあれ?」

 懐中電灯を片手にまっ先に駆け寄って来たのは成瀬だった。

「ど、ど、ど、ど、どうして、希理子先輩が…?!」

 思いっきり目を白黒させている。小林の背に希理子がおぶさっているのがどうしても受け入れら

れないらしい。

「うるさいっ!!」

 希理子は自分のすぐ側までやってきた成瀬をごつんと小林の背に載ったまま怒殴いた。

「サンダル片方落としちまったんだよ!とっととスリッパでもなんでもイイから持って来ておく

れ」

 そう言いながら右足を示すが成瀬は呆然としたまま動こうとしない。

「早く行く!」

「はい!!」

 これまで以上の大声で怒鳴り付けられて成瀬は反射的に泊まり込んでいる校舎に向かって駆け出

していった。それと入れ代わりに今川らが2人の方に近づいてくる。

「よかった、心配しましたよ、なかなか帰ってこないから」

 その言葉に希理子は肩を竦める。

「あたしも裸足で歩いて帰ってこなきゃなんないかと思ってさんざんだった」

 わざと笑いを誘うような口調で希理子が言い返す。それが心配そうにしていた者達を安心させた

ようで口々によかったとか言いながら自分の部屋に戻っていく。

「小林」

 成瀬から靴を受け取ってひっかけた希理子が、玄関の電気を消灯して部屋に帰ろうとした小林に

向かって呼び掛ける。

「これね、あたしの『とっておき』なんだ」

 希理子はそういって先程の香水を小林に示してみせた。

「特別な時、特別な相手と一緒の時にしか付けない、ホントに『とっておき』なんだ」

 そう言ってニヤリと笑う。

「『pleasures』────あんたならどう訳す?」

 唖然とする小林を残し希理子はもう一度ニヤリと笑うとくるりと髪をなびかせて自分の部屋に帰

っていった。

 後に残された小林の頭の中を希理子の言葉が駆け巡る。

 『特別な時、特別な相手と一緒の時にしか付けない、ホントに“とっておき”』の《特別》な香

水───そう言った言葉の意味。

 だって、まさか、まさか、と思う、でも、だけど、だけど、と思いたい───全身を包む希理子

と同じ薫りのそれに想いを馳せる。

 そしてもう一つ希理子が投げかけた言葉、おそらくこの『薫り』の名前であろう希理子が口にし

たその言葉を反すうする。

「!!───」

 全身が真っ赤になる。恥ずかしくて、恥ずかしくて、嬉しくて、なんだか自分じゃないほどに浮

かれてしまっている自分を感じる。

 とりあえずクンと自分にまとわりつく薫り、高く薫る場所──希理子が抱きついていた首筋から

肩にかけて──を嗅いでみる。時間がたつにつれ薄れていくはずの薫りがますます甘く変化してい

る。

 それが香水の持つ時間ごとに変化する薫りの特性だとは小林は知らない。そして知っていようが

知っていまいが関係ない。そんなこと重要な問題ではない。

「───俺ならやっぱり『悦び』ですね───」

 そうつぶやいて思わず笑う。


 
 『pleasures』───純粋なバラの香気だけを集めて作られたその香水は世界中の女性に愛され

ている。日本語に訳すと『喜び』、『満足』、そして『快楽』。

 それはあなたの腕の中でのみ咲き誇る華─────────。


      

  

                              FIN

                                 

  

  

        

 このネタはもともとサクキリ用として考えていた物なのですが、コバキリの方が合うな、ということで使ってみました。
 ちなみに蛇足ではありますが作中に出てくる香水は実在します。……まあ、有名な物なので説明する必要はないと思うんですが。《エスティ・ローダー》というメーカーのもので、《エスティ・ローダー》といえば《pleasures》というほど定番の商品です。私もちっちゃなビンなら持ってたんですがなくしてしまいました。お求めは全国有名百貨店化粧品コーナーで(笑)

                         2001/5/25 日向 葵


 暗闇の中で溝にものを落とすというネタは以前、震災で被災して神戸から一時的に加古川引っ越していた時に経験したエピソードです。夜というものは本当は懐中電灯がなければ外など歩けないほど暗いものだったのだと初めて知ったその時の驚きを希理子ちゃんに反映してみました。ちなみにこの作中で希理子が落としたのはサンダルですが私は散歩中の愛犬を落としました(笑)突然消えた飼い犬はショックのあまりうんともすんとも鳴かず、両親とあわてて何も見えない溝に降りて白いマルチーズがドロ犬になっていたのを覚えています。そして私はこの時本当に怪我をしてしまいました。皆さんも気をつけてくださいね!(……誰もそんなバカなことしねぇって)       <2001/7/5>

               
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