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「───ちょっと待って……」
希理子はその言葉と共に膝をついた。
「どうした希理子?!」
明け方の薄暗がりの中でもその顔が青ざめ色を失っているのがハッキリとわかり、先を進んでいた桜
井は希理子の側に駆け寄った。
「……………」
だが希理子は何も答えない。ただ膝を抱えてうずくまったままだ。
「膝が痛むのか?!」
希理子の側にしゃがみ込んでのぞきこんだ希理子の顔に、冬だというのに走ったからだけではない冷
や汗がびっしりと浮かんでいた。
「きゅ、救急車……」
そう言いながら桜井は周囲を見回した。今時の高校生の必須アイテムであるケイタイを桜井は持って
いなかった為、公衆電話を探したのだ。だが立ち上がろうとした桜井を希理子が制した。
「……平気だよ、慣れてる、こんなの……」
痛いのを堪えながら希理子は笑ってみせた。
「平気だから……ちょっと休ませて……」
「ゴメン、俺……」
希理子のその様子と言葉に桜井は小さくうつむいた。
「平気だってば……」
繰り返された言葉に桜井はさらに罪の意識をつのらせた。
希理子が膝を痛めており、走るなど言語道断なことはよく知っていたはずなのだ。たとえ逃げる為に
必要なことだったといえど、そのことに対する配慮が足らなかったと恥じ入るばかりだ。
「やっぱり、救急車……」
もう一度立ち上がろうとした桜井を右手で掴みながら今度は先程より強い調子で希理子が諌めた。
「何考えてンだいあんた、この大事な時期にこんな場所で救急車呼ぶなんざしたらどうなるかわかって
るのかい?!」
刺すような強い視線が隠すことない侮蔑の色を浮かび上がらせながら桜井に対して注がれる。
「あの子たちの頑張り、これぐらいのことで不意にさせるなんざ、このあたしが許さないよ」
その言葉に桜井はハッとし、そして立ち尽くす。希理子の言いたいことを正確に理解し、そしてその
言葉の正しさを認めざるを得ない現状に打ちのめされる。
「ゴメン、俺……」
それしか言葉が出てこない。激しい痛みを懸命に堪えてくれようとしている希理子に対するすまなさ
と、そんな状況の希理子に気を使わせてしまったことが情けなくて仕方がない。
希理子のいうとおりなのだ。まさにこんな場所、道玄坂のホテル街と歩いて2、3分も離れていない
場所で、しかもまだ人々が寝静まっている早朝に救急車など呼べばタダではすまない。事実がなくても
不純異性交遊などと誤解されても仕方がないのだ。それにそんな事実がないと主張すればどうしてそん
な場所にいたのだと疑われる。その事実の方が意味のない憶測よりも重大なスキャンダルだ。
桜井達はつい先程まで、ここの道玄坂から少し離れた場所で行われていた『パーティー』に参加して
いた。『パーティー』と言えば聞こえはいいが、実際は暴力と金にまみれた賭けバスケの試合会場だ。
もちろん違法行為で、桜井自身が密告したように犯罪としてとりしまられてしまうものだ。
もしそんな場所にいたことが学校にばれればタダではすまない。停学どころか退学になるかもしれな
いおおごとだ。
それにそれだけではない。その場には自分達2人以外に成瀬と澤村など自分達の後輩が居たのだ。も
しも自分達2人がその場にいたことがばれ、そんな処分を受けることになったとしたら2人のこともば
れるかもしれない。仮に自分達が隠しとおしたとしても正義感の強い成瀬やそういった面での融通のき
かない一面を持った澤村は自分達もその場に居たこと、そしてそれに参加していたことを自らバラして
しまうだろう。
そんなことになれば現在予選中であるウインターカップはおろか、一年ぐらい公式戦出場停止処分を
受けかねない。今、2人が抜けた穴を懸命に埋めて頑張って、2人が帰ってくることを信じて戦い続け
ていたバスケ部の苦労が水の泡となってしまうのだ。
すっかり冷静さを欠いてしまっていた桜井の脳裏からはそのような配慮は完全に忘れ去られてしまっ
ていた。
「わかってくれたらいいさ」
少しは痛みがおさまってきたのか、希理子は汗を拭いながらそう言った。
「とにかくそういうことだからね」
そう桜井の表情を見ながら確認すると、今度は少し寒そうに身体を震わせ始めた。
まだ12月の始めとはいえ、ビル街の早朝の冷え込みは激しい。痛みで全身に汗をかいてしまってい
たのが急激に乾き始めたのだ。そのため全身から体温を奪われてしまい、歯をガチガチと鳴らしてしま
う程希理子は寒さで青ざめてしまった。
「……寒っ……」
薄い唇も青ざめ、膝の痛みとその寒さの両方から希理子はぎゅっと自分の身体を抱え込んだ。着替え
るのは無理としても何とか身体を温めるなり、暖かいところに移動して休ませてやらなければ希理子が
風邪をひいてしまうのは明らかだった。
「ほら」
「……えっ?」
突然桜井が自分に背を向けてしゃがみ込んだことに希理子は目を見開いた。
「移動しよう。近くに24時間やってるファミレスがあるんだ」
その言葉で桜井のねらいを理解する。
「いいよ、自分で歩けるよ───痛っ…」
希理子は再び膝を抱えてうずくまった。無理をして立ち上がろうとした拍子にまた激しい痛みが襲っ
たのだ。
「無理するんじゃない。下手したら歩けなくなるぞ」
優しく希理子の肩に手をやりながら桜井は首を横に振る。
「さあ」
「……わかったよ」
繰り返された言葉に希理子は観念したように渋々桜井の背におぶさった。
「───!」
「えっ、何?」
びくりと桜井が身体を震わせたことに希理子が誰何の声をあげる。
「いや、別に」
桜井は首を横に振ると痛めている方の膝をさけるように希理子の身体を持ち上げた。そして少しも揺
らぐことなく、希理子に負担がかからないようにゆったりとした歩調で歩きはじめた。
「ゴメン、重いだろう?」
恥ずかしそうにぼそりと希理子が問いかける。頭上──というよりすぐ耳もとで聞こえるその声に桜
井は小さく首を振る。
「鍛えてるから大丈夫」
「何だい」
希理子がイヤそうに顔をしかめる。
「それってあたしが『重い』ってコト?」
「ハハッ」
否定とも肯定ともとれるその笑い声に希理子は桜井の首をぎゅっと締め上げた。
「くっ、くるしいよ」
情けなくもらしたその言葉に希理子はきっぱりと言い切る。
「乙女心を傷付けた罪は万死に値するんだよ!」
「ゴメン、ゴメン。重いといえば重いけど、軽いといえば軽いから」
「?」
桜井の口にした意味不明な言葉に希理子は目を点にする。
「それってどういう意味?」
「そういう意味」
希理子の問いかけににこりと笑いながら桜井は答える。もちろん希理子からその表情は伺えないが、
その言葉の響きの優しさと桜井のからだから伝わってくるほのかな温かさに小さくため息をつく。
「まっ、いいか」
そう言いながら桜井の身体におぶさり直す。
「とにかく落とすんじゃないよ。この世に一つしかない貴重な『こわれモノ』なんだから」
「了解」
希理子のセリフに笑いながら大きく頷く。
「万事この哀れな下僕におまかせあれ」
「バーカ!」
桜井の大袈裟な物言いに希理子は面白そうに笑いながらこつんと桜井の頭を小突いた。
「いてっ」
そう言いながらも桜井も笑っている。ゆったりと進む歩調と同じように穏やかな空気が2人の間を流
れている。
そうやって進んでいると急に背におっていた希理子の重みが増したような気がして桜井は小さな声で
呼び掛ける。
「───希理子?」
だが希理子は答えない。
「──もしかして寝ちゃった?──」
微かに傾けた顔のすぐ側に希理子の寝顔があった。すやすやと穏やかな寝息をたてながら希理子は安
心しきった様子で眠っていた。
その様子に桜井は小さく息を漏らす。徹夜だったのだし、いろいろあったのだから仕方がないとはい
えこう安心して眠りにつかれてしまうと男として立場がないような気もしたりして、何だかなという気
分になる。
仮にもここは先程希理子自身が示唆したように道玄坂のホテル街まですぐ側の通りなのだ。もちろん
寝ているのを幸いとしてホテルに連れ込むようなことをする気も、するつもりもないが、少しぐらい警
戒してもらわなければ『守備範囲外』という宣告を受けてしまったような気がしてくる。
だけどそれと同時に安心して眠ってしまえる程、心を許してくれているのだと思うと嬉しくもある。
そんなふうに思いながら、もう一度息をもらすと桜井は希理子が眠ってしまったことによってすこし
ずり落ちてしまった希理子の身体を起こさぬように持ち上げなおし、ふたたびゆっくりとした歩調で歩
きはじめた。そうしていると背中から伝わってくる熱と確かな重さに先程感じた感慨に再びとらわれ始
める。
先程、希理子が自分におぶさってきた時、その『重さ』に驚いた。希理子は女性にしては背がかなり
高いが痩せ過ぎの為体重はかなり軽い。だがそれでももちろん羽のように軽いわけではない。人一人、
生命一つ分の重みがその身体にはあった。
軽く柔らかく、だけど重い──確かなその感触に桜井は希理子を感じた。奇しくも希理子が口にした
ように、この世に一つしかない貴重な存在である希理子の重みをその身体で感じた。実際の重みではな
く、その存在の重要性を『重み』として感じた。
そして同時に感じた『軽さ』に希理子が女性であることを認識しなおした。女性を軽視したり、弱者
とみなすわけではないが、どうしても男として女は『護るべき』ものという意識が桜井にはあった。希
理子から感じた『軽さ』がそのことを思い出させ、胸にかすかな痛みを与えた。
護るべきひと──この世界にたった一人の愛しいひと、なのに自分のあさはかさが希理子を傷付け
た。口には出さなかったがその時、その罪の意識が桜井の全身を駆け巡ったのだ。
警察に勤める叔父に通報し、取り締まらせたことが間違いだったとは思わないがどうしてもう少し考
慮しなかったのかと考えずにはいられない。ああいった混乱状態になるのは予想の範疇だった。だから
裏口の扉まで開けておいてもらったのだから。
だったらどうしてそう予測をたてた時に希理子のことを考えなかったのか、どうして混乱がはじまる
前に希理子を先に会場から遠ざけておかなかったのか、そうしておいたら古傷を再発させる程走らせる
ようなことをせずにすんだのに───そんな後悔が後から後から湧いてきて桜井の心を苛んだ。
なのに希理子は自分のことを責めなかった。桜井の軽率さを責めはしたがそれは自分の為ではなく後
輩であるバスケ部員達の為で自分自身の為にではなかった。
希理子のその大きさにくらべ、自分は何と狭量なことか───背におった希理子の身体の『軽さ』か
ら、その存在の『重さ』から桜井はため息をつく。
初めて出会った時、自分と希理子の身長はほとんど変わらず自分の方が小さい程だった。しかし年月
がその差を逆転させ、大きく見えた希理子の身体は自分より1周りも2周りも小さくなった。
なのにいつまでたっても希理子に追いつけない。希理子のようになりたい、希理子のように強く、優
しくなりたい、そう思いつづけてきたはずなのに、追い付く為の努力をしてきたはずなのに希理子との
差は縮まるどころかますます大きくなっているように感じてしまう。
桜井はそっと再び顔を横に向け、眠っている希理子の様子をうかがった。希理子は先程同様、穏やか
な様子で眠りについている。
その寝顔に導かれるように桜井は唇を閉じられた目蓋に寄せた。そして微かに触れるか触れないかと
いう程度にそっと口付ける。
「……ぅぅん……」
その感触に希理子が小さく声を漏らす。桜井はごまかすようにさっと再び顔を正面に向けると、希理
子は何ごともなかったかのように再び深い眠りに落ちていった。
その安らかな寝息と洋服越しに伝わってくる鼓動に桜井は小さく頷く。
「俺、頑張るから」
まだ追いつけない、追いつけるかどうかわからない。
「追いつけるように頑張るから」
もしかしたら一生追いつけないのかもしれない。だけどあきらめてしまえばそれで終わってしまう。
「希理子に追い付いてみせるから」
あきらるなんか絶対に出来ないから。だから、だから────。
「希理子に相応しい男になってみせるから」
首にまわされ、自分の胸元で重ね合わされた希理子の手に自分の手を重ねる。
「まだどこにも行かないでくれよな」
その願いが凍り付いた空気の中、明けていく空に吸い込まれていく。重なりあった身体から交換され
ていく熱だけがそこには確かに存在していた。
Fin
2001/3/4 UP
暗いっすね。st.220で会場を成瀬たちよりも早くに逃げ出した2人がどうしてあんなに遅かったんだろ?とおもっていた疑問を勝手に補完してしまいました。だって希理子ちゃんあんなにへろへろだったんですもの。何かあったに違いない!ってなもんです。
ただ問題が一つ。はたして『パーティー』って何時だったのか?ってことです。私は12月の第1週の週末と設定しましたが、実際にその日程では予選が終了しないんですよね。でも西山先生、全員に結構厚着させてるからそれぐらいじゃないかと思ったんですよ。はたして本当の日付けはいつだったのでしょうか?うーん、わからん。
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