| 8月の誓い |
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「ああ、とうとう明日からだ」 希理子は自分の心を見すかしたような、それでいて同調するようなそのセリフに苦笑する。 感慨深い感傷を滲ませたつもりも滲ませるつもりもなかったがつい言葉の響きにほんの少しだけそ ういった何かが滲んでしまったのを自分に返答を返してきた相手、桜井修司は聞き逃してはいなかっ たらしい。いつもならその自分に対してどことなく優位に立っているかのようなその反応にいら立ち を感じてしまうのだが、希理子は桜井が自分の声の響きから感傷を聞き逃さなかったのと同じように 桜井の返してきた返答にも同じ色の何かが滲んでいるのを聞き逃さなかった。 「何だい?ここまで来ちまってるのに怖じ気付いたのかい?」 希理子はそう言ってしまってから内心後悔する。開会式は今日だったが実際の試合が明日から始ま るインターハイ、つまり全国大会に出場する自分の学校のエースが不安げな様子をさらけだしている と言うのにそのプレッシャーに追い討ちを駆けるようなセリフを口にしてしまうとはあまりに自分ら しいとはいえ軽率だったかも、とほんの少しだけ思う。だがその内心の後悔を見せてやる程自分は可 愛らしい女ではないし、またそんなことをする自分を想像したくもない。なので内心の後悔を打ち消 す為にさらに追い討ちをかけてやろうとまさに『あまのじゃく』そのものな思考をはじめる。 その表面上にはそれこそ微塵も出ていないその希理子のなかに浮かび上がっている反省による複雑 な思考経過を見すかしたかのように桜井は希理子に向かって苦笑した。 「ひどいな、怖じ気付いてるというよりも、明日からをどうしようか考えてたつもりなんだけど」 「『明日からをどうしよう』か?」 希理子はその言葉の持つ意味に困惑する。桜井の話す言葉はいつもどこか抽象的でこ難しい。単純 に考えれば試合の組み立てやメンバーチェンジ等のそれこそ『明日から』のことなのだろうが、何と なくだがそんなことではないことだけは判る。だからそれに続く言葉を桜井にうながす。 「これまでさ、実際のところ、俺にとっての目標は『都ナンバー1』そして『インターハイ出場』だ ったわけだろ?合宿してたときとかには『諦めるな』とか『優勝狙う』とか言ったり、他のメンバー に言い聞かせてたわけだけどさ、何かが違うような気がするんだ」 桜井はそういうと何かを求めるように手を斜め前方に手を伸ばした。夕方から完全に夜に変わろう としている紺と言うよりも紫色に包まれた街の景色がその視界に映るはずなのだが、希理子の目には 何故かそれ以外の何か、言葉では表現しにくい何かそこにあり、それに向かって桜井が手を伸ばして いるように見えた。 「ハッキリ言ってしまえば俺にとっての高校バスケでの目標は完全に達成したからって、取りあえず 『優勝』とか『諦めない』とか適当な目標を作ってさこの何日間かやって来てしまったような気がす るんだ。それが本当に俺にとっての目標なのか、俺が目指してるものなのかわからない、というか違 う気がする」 だから『明日』になる前にその答えを見つけておきたいんだ───、桜井はそう言うと伸ばした手 に何もつかめなかったことを諦めたように、そうする資格が自分にはなかったかのようにほんの少し だけ憂いを含んだ表情と雰囲気を滲ませながらそっと目を閉じた。 「贅沢だね」 希理子はその桜井の表情から視線をそらしながらきっぱりと言い切る。 「ここまでたどり着けるのは、───インターハイに出れるのはほんの一握りの人間だけなんだよ? 『優勝』することや途中で『諦めない』ことを目標に出来るだけ幸せさ。みんな、それを目標にして 頑張ってそしてたどり着けなかった人間がほとんどさ。夢を見続けられるってことの幸せをもっと噛 み締めたらどうなんだい?」 またも後悔が希理子を襲う。どうしてこんな言葉しか自分の口からは出てこないのだろう? 切なげな桜井を見ていると自分の胸まで苦しくなった。確かに桜井は贅沢だ。口にしてしまった言 葉のとおり、桜井の口にした不安と言うよりも渇望はここまでたどり着いたからこそ口に出来る贅沢 だ。予選で負けてしまって出場出来ないチームの人間が聞けば桜井のことを許しはしないだろう。 だが桜井の渇望は自分の為だけの渇望ではない。自分が望みを叶える為に望みを叶えることが出来 なかった多くのプレイヤーの為にも『明日から』をどうすればいいのか悩んでいるのだ。いい加減な 目標として『明日から』が存在するのでは申し訳ないと思うからこそ、心からの目標としての『明日 から』を求めているのだ。 目の前にいる男が本当は他人が思っている程お人好しでも善人でもないことを希理子は知ってい 自分の目的の為ならどんな手段も厭わない狡猾で残忍な男だ。たいがいの人間はいつも絶やさないニ コニコ顔に騙されて自分が利用されていることに気付いてはいないが、桜井が意識的にも無意識にも そういう風にして他人を利用する術を身に付けていることを希理子はずっと前から知っていた。 だがその根底にあるものが自分を偽ることの出来ない純粋さであることも希理子は気付いていた。 純粋さゆえに身に付けた狡猾さであり残忍さだから、ふとした瞬間自分がいい様に利用されているの ではないかと思っても桜井の願いを拒めない。 桜井は今誰かによって責められることを渇望しているのだ。自分が『明日から』について揺るぎな い、心からの目標を持っていないことを恥じ、それを求めると同時にその狡く曖昧な自分を誰かによ って批難されることを望んでいるのだ。 狡い男だと思う。最低の人間だ。誰かを責めるということはたとえどんなにその相手が悪かろうが 嫌なものだし、自分の心の中に痛みを伴うしこりを残す。それなのに桜井は今その辛く苦しいことを 希理子に対して要求してきているのだ。 「あんたなんかに『目標』を持つ資格なんかないよ。こんなとこで自分に負けてるやつなんかに『明 日』が来るもんか!とっとと荷物くくって東京に帰る方が時間の有効利用ってもんさ」 希理子は自分の表情が桜井に映らないように完全にそっぽを向く。今表情を見られるわけにはいか ない。口調をセーブするのだけで手一杯だった。 胸が、心が痛くて仕方がない。どうしてこんなにひどい言葉を自分に言わせるのだ? 自分が言いたいのはこんな言葉ではない、こんなことがしたいのではない。自分が言いたいのはも っと別なこと、もっと違うことがしたいのだ。 自分に望まぬ行動を強いる桜井に対して怒りとそれ以上の悲しみの感情がセーブ出来ない。許せな くて、悔しくて自分の意志だけではその衝動がセーブ出来ない。 あたしはあんたを抱き締めたかった、その心を、───自分を偽ることの出来ない純粋さを大切な ものだと、かけがえのないものだと教えてあげたかったのに───。 「───ごめん、俺って最低だな」 自分の前方から降ってくるその言葉に驚いて少し顔をあげると先程以上に後悔の表情を浮かべた桜 井が立っていた。 「『自分に負けてる』ってのは正解。自分一人で解決しなきゃいけない問題だったのに希理子に押し 付けて苦しませた。───誓うよ、もう絶対こんなことしない、二度と『自分に負けない』、『自分 から逃げない』───」 桜井はそっと手を伸ばし希理子の頬に触れた。 「こんな風に希理子を泣かせはしない───」 音もたてずに流していた希理子の涙を桜井はそっと指先で拭った。 「ありがとう、希理子。お前のおかげで見失いかけてた本当の目標を思い出したよ」 桜井は希理子の瞳を真正面から覗き込みながら偽ることをしない真っ直ぐな強い視線を希理子に対 しておくってくる。 「約束するよ、もう俺は二度と『自分から逃げない』、───そして何より『自分に負けない』。希 理子が俺の為に流してくれた涙を絶対に無駄にはしないから───」 その言葉と視線の力強さが希理子の心にゆっくりと染み込んでいく。桜井の誓いの一つ一つがゆっ くりと昇華され、希理子の傷付いた心をあたたかく、優しく満たしていく。 「……誰があんたの為なんかに泣くもんか〜!!」 希理子は拳を振り上げ真正面に立つ桜井を思いっきり殴りとばした。 泣き顔を見られてしまったことと、自分の瞳を覗き込んできた桜井のその常には感じることはない 凛々しさを感じてしまったそのことが恥ずかしくて仕方がなかったのだ。 「札幌は空気が乾燥してる上に、目にゴミが入っちまったから泣いちまっただけだよ!誰があんたの 為になんか泣くもんか!思い上がるのもいい加減にしな。百年どころか一万年はやいよ!!」 真っ赤になりながらそう叫ぶとごしごしと右手で泣き顔を拭った。 桜井は思いっきり殴りとばされて尻餅をついた状態でぽかんとその希理子の様子を見上げていた。 だが希理子がそう大声で叫んだ為、ぜいぜいと大きく息をついているのをみると、いつものように穏 やかな、希理子の心を見すかしたかのような表情を瞳の中に浮かべながら、表情だけはわざと情けな さ気な様子を繕いながら希理子に対して訴えかける。 「希理子〜、せめて千年ぐらいにまけてくれないかなぁ?」 「うるさい!」 希理子は自分を見上げる桜井の様子がいつもの様に戻ったのを視界に捉えると、腹立ち半分、恥ず かしさといつもの様子に戻ったことに対する安堵感4分の1づつで再び桜井に向かって怒鳴り付け 「一万年でも短いくらいだよ!百万年、──いや、一億兆年ぐらいが妥当だね。今度また調子のった 「えーっ、せめてエーゲ海にしてくれよ」 ますます情けなさそうな様子で桜井が言う。だがその瞳は穏やかに笑っている。希理子のことを優 しく見つめている。それが嬉しくて、今度は悔しさからではなく泣きたい程嬉しくて、涙がこぼれそ うなのを気付かれないように思いっきりはしゃいで思いっきり笑った。 Fin 2000/8/19up
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