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「ラッキーだったね!これもあんたがデッカイおかげだよ」
希理子は満面の笑みを浮かべながら手にしていた林檎ジュースの入ったコップを傾けた。
「ははははは。確かにそうなんだけど、何だかヤな言い方だなぁ」
桜井は希理子の言い様に苦笑する。
「だってそうじゃなかったらエコノミーからビジネスクラスの席にタダで移動させてもらえるなんてラ
ッキーなこと普通ないじゃん」
希理子はそう言うとふんぞり返るようにその座席に身をゆだねた。
今2人は上空2万フィートの位置にいる。桜井は将来を見越しての流浪の旅、希理子はそれに便乗し
ての卒業旅行として2人でインドネシア、ジャカルタに向かう飛行機に乗っていた。
高校を卒業したばかりの貧乏旅行なのだからもちろん用意した旅券はエコノミークラスの席だった。
だが普通の体型の人間でも狭いエコノミーの席で身長が190センチもあって窮屈そうにしていた桜井
の様子を見かねたスチュワーデスが空いているからと言ってビジネスの席の方に案内してくれたのだ。
「まあ、旅の最初からいいことあると何だか後でヤなこと有りそうで不安だけど、あんたと一緒にいて
トラブルに巻き込まれない方が奇跡みたいなもんだろうから今のうちに楽しんどこう!」
「何だよ、その言い方。まるで俺が厄病神か何かみたいじゃないか」
さすがの桜井も希理子の言葉に顔をしかめる。だが希理子は平然と言い返す。
「ふふんっ、『まるで』じゃなくて厄病神そのものだろ?高校3年間の間にどれだけあたしがあんたの
尻拭いさせられたと思ってるンだい?!とてもじゃないけど両手、両足の指足した数だけじゃ足りない
よ」
桜井に言わせれば希理子の方がよっぽどトラブルメーカーなのだが、ハッキリいってしまえばどっち
もどっちというところだと自覚があるので強く言い返せない。
「はいはい、わたしが悪ぅございました」
桜井は茶化すようにそう言いながら大袈裟に頭を下げた。その様子に希理子は大きく頷き、満足そう
に微笑んだ。
「でも、ホントに来ちゃったんだね、あの時はどうなるかと思ったけど」
希理子は感慨深げに肩をすくめる。
「ああ」
希理子のその言葉に桜井は顔をあげる。
「『あの時』って御両親に挨拶に行った時のこと?」
「それ以外の『何時』があるってんだい、ったく」
希理子はほんの少しだけ苛立たしげに表情をゆがめ、桜井の頬に手を伸ばす。
「どこの世界に初対面の彼女の父親に『2人で旅行に行かせてください』なんざ頭下げにくるバカがい
るっていうんだい」
伸ばされた希理子の白い指先が桜井の左頬に触れる。
「いくら出来の悪い娘だって言っても正々堂々『キズものにしたい』なんざ言われた親が怒らないわけ
ないだろう?」
そう言いながら希理子はパチンと指先を弾いた。
「イテッ」
桜井は顔を微かにゆがめてその弾かれた部分を撫でさする。
「俺はそういうつもりで言いに行ったわけじゃないんだけどな、ちゃんと筋を通そうと……」
「阿呆ッ」
今度は希理子はペシリと軽く頭を叩いた。
「それ以外のどういう意味にとれるってんだい!あんときゃさすがの希理子さんも何言い出すかと肝が
縮んだよ!殴られて当然さ」
希理子は呆れ返った様子で天を仰いだ。
先ほど希理子が指を弾いたところ、桜井が撫でさすっている場所は今でこそ遠目には判らないがうっ
すらとあお痣が出来ていた。
「……でも、希理子に嘘つかせたまま旅行に行くなんてことだけはどうしてもしたくなかったんだ」
その桜井の何げに真摯な様子に希理子はさっと頬を赤らめる。
「……わかってるよ……」
言い返す言葉が小さくなる。桜井の行為が普通ではない、バカのすることだとわかっていても桜井が
そうした、そうしたいと思ってくれた気持ちが何よりも嬉しい。
だけどそれを素直に口にするには恥ずかしすぎてついつい逆の態度をとってしまう。
「まっ、その程度のキズですんで良かったじゃん。うちの親父、昔柔道だか空手だかやってたらしい
よ?母さんが止めに入らなきゃ殺されてたかもね」
その希理子の言葉に桜井は小さく苦笑する。
「仕方ないよ、大事な娘さんをどこの馬の骨ともわからない男にとられるだもん、俺だって同じ立場だ
ったら相手のこと殴り掛かってるよ」
桜井は自分が殴られた時のことを思い返しながらそう肩をすくめた。
今から10日ほど前、桜井は希理子の家を訪れた。希理子の両親に希理子がついた嘘を訂正し、本当
のコトを告げ、旅行の許可を貰う為だった。希理子は桜井とインドネシアに旅行に行くと決めた時、両
親に学校の女友達と旅行に行くと嘘をついていたのだ。
希理子の家は基本的に放任主義だがさすがに男と2人で1週間も海外旅行するなどさすがの希理子も
言えなかったのだ。だから2人で旅行の打ち合わせをしている際、希理子がそう嘘をついたと桜井に言
った時、桜井は大きく目を見開き、そんな嘘をつくのはよくない、本当のコトを言うべきだ、と希理子
に言った。当然希理子はそんなことを言えば家から出してもらえなくなると反対し、その場ではそれで
終わったと思っていたのだ。
しかし、送りがてらと言ってついてきた桜井は玄関先に出て来た希理子の両親に向かって本当に希理
子と一緒に旅行に行くのは自分だと、どうか許可を下さいと頭をさげたのだ。
当然のごとく希理子の両親、とくに父親の方は怒り狂い桜井をなぐりつけた。母親とたまたま遊びに
来ていた姉夫婦がいなければ桜井の顔は一発どころでなく、顔が変型するまで殴られていたことだろ
う。
「だけどさ、どうやって許可とったのさ?親父はもちろんのことだけど母さんや姉ちゃん、それにヒロ
ミちゃんに聞いても誰も教えてくれないんだ。どういう手品つかったんだい?」
希理子は興味深々の様子で桜井の顔をのぞきこんだ。
「さてね」
桜井は肩をすくめて小さく笑うといつものニコニコ顔で希理子に対して笑いかけてくる。
「ちぇっ」
希理子はおもしろくなさそうに顔をしかめた。桜井がそういう表情をしているときはどれだけ問いつ
めても無意味だ。絶対に口をわりはしない。希理子は永年の経験でそのことを良く知っている。
希理子は桜井が一発殴られるところまでは側にいた。しかし、すぐさま引き離され部屋に閉じ込めら
れたのだ。
普段はごく一般的な生活や性格で日々を暮らしている両親だがさすがに希理子の両親というべきか、
いったんキレるとその行動は予測もつかない。希理子の『閉じ込められた』という言葉はまさにその文
字どおりの行動で、部屋のそとからカギが掛けられ、出られないように椅子やら何やらでバリケードま
で作られた始末だ。
もちろん希理子は大暴れしたのだが結局解放されたのは部屋に閉じ込められてから3時間は経過した
後のことで、 そのときにはすでに桜井は帰っていた。やっとのことで解放された希理子は烈火のごとく
怒り狂い自分が閉じ込められていた間の経過を問いただしたのだが、桜井を殴りとばすほど怒り狂って
いた父親は何も説明しようとはせずただ一言だけブスッとした顔でインドネシアでもどこでも行ってこ
いと言っただけで、母親に聞いても何も言わずただ小さく首を横に振るだけだった。ただ少し気になっ
たのはそのときの母親の顔がこれ以上なく優しく自分を包み込むような穏やかな表情で、何故だかその
目は潤んでいた。姉や義兄のヒロミちゃんに聞いてもただよかったねとか行っておいでとか笑っている
だけで全く確信にふれた答えはかえってこない。
結局、希理子はどういう経過があって自分のインドネシア行きが許可されたのか判らぬまま空の旅人
となったのだ。
「まあいいさ、あたしは怒ってるんだからね!あんな勝手なことしてくれちゃって。わかってるとは思
うけどベッドは別だからね!」
希理子はぷいっと顔をそむけながら桜井に向かって言う。
「えっ〜」
当然のことだが桜井は不平を漏らす。老けて見えるし性格的に老成してはいるがまだ十代、ヤリたい
盛りの年頃である。好きな女を側において何もなしで過ごすのは拷問と同じである。
「文句言うのはこの口かあ!」
希理子はその桜井の不平の声にくるっと振り向き、桜井の口をつまみあげた。
「イテッ」
力の加減もなにもない、その行為に桜井は口元をおさえ涙目になる。
「付き合い始めて3日目の彼女に『これから1年、旅に出るからまっててくれ』なんざ勝手なことぬか
しておいて、同じ口で『旅立つ前の想い出に抱かせてくれ』なんか言おうってのかい?!冗談じゃない
ね!あたしが頼んで旅行に行ってもらうんじゃないんだよ、それなのにどうしてあんたに『イイ思い』
さしてやんなきゃならないのさ!」
「……ははは」
希理子の正論に桜井は乾いた笑みを浮かべる。まったくもってそのとおりである。普通なら別れると
言われても仕方がないような状況だ。
ただの遠距離恋愛だってこの年代では続かないのが当然なのに、これから2人を待ち受けているのは
そんな生やさしい関係ではない。電話はもちろんのこと、手紙だって満足に交換しあえなくなることが
必至の距離が2人の間に隔たることになるのだ。
それを待っててくれと言ったのだからずいぶん勝手だったとさすがの桜井にも自覚がある。自分がそ
う言われる立場だったなら呆れ返られながらではあったが、希理子のように『いいよ』と言えるかどう
か自信がない。おそらく言えないだろうと思う。
「それに、あたしの夢は『バージンロードを処女のまま歩くこと』なんだ。あんたの夢を認めてやって
るんだから、あたしの夢だって認めてくれるだろう?」
希理子はそう言いながらクスクス笑った。明らかに桜井をからかいながらの牽制である。
「わかったよ」
降参とばかりに肩をすくめる。そうまで言われてホテル到着後そうそう希理子をどうにかしようもの
なら希理子は一生自分のことを許しはしないだろう。
「でも、ベッドはともかく明日は俺に付き合ってくれるだろう?」
「ああ、どこか行きたいところがあるんだったっけ?」
希理子は出発前に桜井がどうしても2日目は自分に付き合ってほしいと言われていたのを思い出して
相づちを打った。
「どうしても希理子と一緒に行きたいところがあるんだ」
桜井は大きく頷きながら言う。
「まあいいけど、何所いくの?」
「秘密」
希理子の当然の質問に桜井はニコリと笑って答える。
「明日ついてからのお楽しみ」
そのやけに嬉しそうというか、なんだかたくらんでいるような桜井の微笑みに希理子は目をぱちりと
見開いた。
「────あんた、何たくらんでる?」
思わず声が低くなる。これまで振り回され続けて来た数々の経験が走馬灯のようによみがえってく
る。
「だから明日のお楽しみ」
桜井はますますにこにこと笑う。またもや出た鉄壁のガードに希理子は大きく肩をすくめる。
「あーあ、来るんじゃなかったかも」
そう言いながらもどこか声がはずんでしまう。この男が自分をここまで強引に誘う時に『ハズレ』は
ない。そのことも過去の経験から知っている。
そう言いながら2人は初めての異国の地に降り立った。
翌日、2人は少し遅めの朝食をとり、すぐさまホテルを出て桜井の行きたいというところに向かっ
た。
希理子が約束させたとおり、2人は別々のベッドで朝を迎えた。それも別々のベッドどころか『別々
の寝室』で朝を迎えたのだ。
ハッキリいって牽制までしておいて何なのだが希理子にしたら気が抜けた。まさか本当に別々のベッ
ドで朝を迎えるとは思ってもいなかったのだ。そして驚いたのはそれだけではない、2人が泊まったホ
テルのことだった。
旅券の手配から何から何まで希理子は桜井にすべてをまかせていた。自分がしたのはパスポートの準
備ぐらいのものだ。だから桜井が予約していたホテルの部屋の豪華さに正直驚かされた。ホテル自体は
観光ホテルとしては中流クラスの外国資本のホテルだったが、部屋がいわゆるセミスイートと言われる
最上階手前の豪華客室だったのだ。いったい何人が寝れるんだろうという巨大なベッドがある主寝室の
他にツインのベッドルームが2つもある、いわゆる庶民の生活しか知らない希理子にとっては夢のよう
な部屋だった。
いったい幾らかかったのだろう、と桜井に問いつめると桜井はにこにこと笑うだけで金額を言おうと
はしなかった。ただキャンペーン中だったから希理子が想像した金額の3分の1くらいじゃないかな、
と余計に気になる言葉を口にした。
とにかく、そんな超豪華な部屋で桜井は希理子に主寝室を使うようにすすめると自分は空いているツ
インの部屋で眠ったようだった。
「じゃあ行こうか」
ホテルの前で客待ちをしていたタクシーに乗り込むと桜井はメモを見ながら運転手に向かって何処か
に行くように英語で指示した。
何をいっているのかちんぷんかんぷんな希理子だが、運転手がからかうように桜井と自分の方を見て
笑っているのにいぶかしんで桜井のほうに視線をやった。
「何で笑ってンの?」
「さあ」
桜井はクスクスうれしそうに笑っている。
希理子が驚いた、というか呆れたことに桜井は大学の受験勉強と同時に英会話の訓練もしていたらし
かった。空港についてからホテルに向かうタクシーの中でやたら流暢に話す桜井に関心の瞳を向けると
桜井は何ごともないかのようにそう肩をすくめてみせたのだ。
表には出さなかったが、そんな桜井を見て希理子はどこか寂しさを感じた。着実に自分の夢を現実に
しようとしているその姿がどこか遠くにいってしまったかのように感じたのだ。
「ホントはもうちょっと先なんだけど、少し歩こうか?」
少し車を走らせたところでそう言った桜井の言葉に希理子は頷いた。タクシーを止めてもらい、車を
降りると海岸線から潮の匂いがした。
「いい風だな」
「そうだね」
気温は高いが日本とちがって湿度が低いので暑くてもすがすがしい。
2人は直射日光をさけるように大きなおそらく椰子の一種である木の木陰の下を歩きながら桜井の目
指す目的地に向かって歩きはじめた。ここまで乗せて来てくれた運転手のいうところではあと10分ほ
どの距離だということだった。
「ついて来てくれてありがとな」
道を示すように半歩分だけ先を行く桜井のその言葉に希理子は少し目を見開いた。
「何だい急にあらたまって」
その言葉が今から向かう目的地について行くことだけを示したものではないように感じて希理子はそ
う言った。そしてそれは正解だったようで桜井は穏やかに微笑んだまま、ゆったりとした歩調と言葉で
希理子に語りかけた。
「俺さ、お前がいなきゃここまで来れなかったと思うんだ。お前がその目で、何もかもまっすぐに映し
てくれるその目で俺のこと見てくれてなかったら、ここまで自分の思ったとおりに出来なかったと思う
んだ」
「なっ、なに言ってんだい、あんたは……」
突然のしんみりとした弱気な口調に希理子は喝を入れようとまっすぐに視線を向ける。
「その『目』だ」
桜井は希理子の言葉をさえぎるように希理子の頬に手を当てる。
「その目で俺を見てくれるから、俺は自分を失わずにすんだんだ」
歩きながらもそらされることのないまっすぐな瞳に希理子は続きの言葉を失う。
「お前に出会うまで俺は結構逃げた生活してたんだ、やりたいことがあっても勝手な理屈つけてあきら
めたり、しないうちから無理だって投げ出したりしてさ。だけどお前と出会えて変われたんだ、どんな
ことからも逃げ出さないお前に恋をして、お前みたいに生きたい、お前みたいになりたい、そう思うよ
うになってから俺は変わることが出来たんだ」
桜井の脳裏には冬の日に見た初めて希理子のことが好きなのだとハッキリ自覚した日のことが思い出
されていた。
無理をしすぎたせいで壊れてしまった膝を抱えてうずくまり、満足にプレイ出来ないことを悔しげに
叫んだその弱々しくも強い背中を思い出していた。
「男は、っていうか人間は誰だって惚れた相手の前で不様な、格好悪い真似出来ないだろ?俺はお前が
その目で俺を映してくれてたから、お前にだけは不様な姿を見せたくないってそう思って頑張れたん
だ。今の自分からも、未来の自分からも逃げちゃいけないってお前がその瞳で教えてくれたから俺はこ
こまでこれたんだ」
希理子の瞳はいつでも前を向いていた。心は過去に引きずられ痛みに引き裂かれていても、それでも
希理子は常に前を見ようとしていた。
バスケが出来ないという、希理子にとって暗闇以外の何物でもない未来しか待ってはないとわかって
いても、希理子は先だけを真直ぐに見つめていた。過去の記憶や栄光に溺れるのではなく、暗闇の中に
もしかしたらあるかもしれない、だけどないかもしれない『何か』を求めて───。
「俺にはさ、希理子が必要なんだ。たとえお前にとって俺は必要じゃなくても、俺にとってお前は必要
なんだ、お前がいないと困るんだ」
桜井はそう言うと立ち止まり、真正面から希理子に向かった。
「結婚してくれ」
桜井の口から紡ぎだされたその言葉に希理子は時を止めた。
「幸せにするなんてとてもじゃないけど言えない、ハッキリ言えばおそらく不可能じゃないかと思う。
だけどお前が俺と結婚してくれたら俺は幸せになれる、誰より幸福になれるんだ」
桜井はそこまで言ってもう一度同じ言葉を繰り返した。
「結婚してくれ、そして俺を幸せにしてくれ」
それらの言葉が脳裏にとどき、確かに消化されるまで数秒の時間を要した。
「……バッカじゃないの?」
声が震えた。
「それって男がいう言葉じゃないだろ?言ってて男として自分が恥ずかしくないのかい?」
その言葉に桜井は首を横に振る。
「恥ずかしがって幸福を逃がすくらいなら俺はいくら笑われたって、バカにされたってかまわない、お
前に幸せにしてほしい」
偽ることのない響きを持ったその言葉に希理子はなおも言い返す。
「……いつだって勝手なことばかり言って、ホント何考えてンだい!」
「勝手なことばかりいって悪いと思ってる」
大きな頭をペコリと下げて桜井は希理子に謝罪する。
「だけどこれだけはゆずれないんだ」
桜井は顔を上げて再び希理子を真正面から見つめる。
「返事は、希理子?俺と結婚してくれるのか?」
その答えを促す懇願の言葉に希理子は手を振り上げた。
「バカやろう!」
パチンと激しい音が桜井の左頬の上で鳴った。
「情けないったらありゃしないね!図体ばっかり大きくなったって、そんなに中身が出来てないんじゃ
全然意味がありゃしないじゃないか」
希理子はもう一度手を振りかぶって桜井の頬をぶった。
「あたしにあんたが幸せになるための犠牲になれって?冗談じゃないね!なんであたしがそこまであん
たの面倒みてやんなきゃならないのさ!あたしは自分が幸せになるので手一杯でひとの幸福なんざ考え
てる余裕はないんだよ!」
そしてもう一度手を振りかぶる。
「ホント恥ずかしい男だね!へいこら女に頭下げちゃってさ!」
だけど今度はその手は言葉の荒々しさとは裏腹に優しく桜井の頬に触れた。
「情けだよ!ホントに愛想つかしたらとっと離婚してやるからね!」
希理子はそう言うと花のように微笑んで伸ばしたその手をそのまま桜井の首にまわした。
「希理子!!───」
その言葉と重なりあうように桜井は自分に抱き着いてくる華奢な身体を抱きしめ、その口唇に熱い洗
礼を受ける。
「ホント、自己中なんだから……」
口唇を離した希理子の頬には幾筋もの涙の道が出来ていた。
「さっ、行こうか」
「わっ」
これ以上なく嬉しそうに微笑むと桜井は希理子の身体をいわゆる『お姫さまだっこ』の形ですくいあ
げた。
「なっ、何するんだい!」
希理子は恥ずかしさのあまり手足をバタバタさせる。しかし桜井は平然と腕の中でもがく希理子を好
きにさせている。
「早く行かないと皆が待ってるんだ」
「えっ?」
意味不明の言葉に希理子は思わず動きを止め、自分を抱き上げている恋人の顔をまじまじと見る。そ
んな希理子に桜井は衝撃の言葉を投げかける。
「だから俺の両親に希理子のご両親、それにヒロミ先輩御夫婦とかが教会で待ってるんだ」
「ふぇ?」
あまりの言葉に希理子は目を見開き固まってしまう。その様子に桜井はくすくす笑いながら顎でくい
っと前方を指し示す。
「だから今から俺たちの結婚式を挙げるんだよ」
希理子は唖然としながら桜井の示した方向に目をやると、そこには海に迫り出すようにした丘の上に
小さな白亜の教会が存在していた。
「急がないと式の準備が間に合わないな」
依然笑い続けている桜井のその言葉に希理子は数秒、いや数十秒固まったまま目を見開いていたが、
やっとその言葉の意味を理解して憤然とかぶりをあげた。
「謀ったねぇ!!」
頭突きでアッパーカットを喰らわせながら希理子は叫んだ。
「ハハッ」
桜井は痛みで顔をしかめながらも、希理子を離そうとはしない。
「こっ、これだからあんたは!!」
希理子はこの瞬間にすべての意味を理解した。自分の両親がこの旅行に許可を出したわけも、そのと
き両親の見せた表情や自分の問いかけに対して含み笑いしてみせた姉夫妻の笑顔の意味も。
おそらく自分が閉じ込められていた3時間の間に桜井は自分の両親をまんまと丸め込んでいたのだ。
この詐欺師顔負けの史上最強のペテン師策略男にかかったら根は単純で善良な両親など簡単に騙されて
しまったに違いない。自分を驚かせたいから黙っていてほしいだとか何とか言って、すでに自分の承諾
は得ていたものとして話を進めたのだろう。その光景が目に浮かぶようだ。
「ねえ希理子、俺さ希理子の夢かなえてやっただろう?だから俺の夢もかなえて欲しいんだ」
希理子の怒りをまったく無視して桜井はニコニコしながら希理子に話し掛ける。その全くの脈絡の得
ない言葉に希理子は怒りも忘れて目を白黒させる。
「だからさ、『バージンロードを処女で歩きたい』っていう夢をかなえてやっただろ」
「なっ…」
その言葉に思わず顔が赤くなる。牽制の為に冗談で言った言葉をここで持ち出されるとは思っても見
なかった。そのため、その言葉がどう繋がるのか判らずに動転してしまう。
「だから俺の夢もかなえて欲しいんだ」
そんな希理子の様子をクスクス笑いながら桜井はにこりと笑ってきっぱりと言い切る。
「俺さ、結婚したら自分の嫁さんこうやってだっこしながらベッドに横たわらせるのが夢だったんだ。
希理子の夢をかなえてやったんだから、今晩俺の夢をかなえさせてもらってもいいよな」
桜井のその言葉の指す意味を理解するのに希理子は再び数秒の時間を要した。あまりの衝撃続きに普
段ならすぐに働くはずの思考回路がショート寸前のようで上手く機能してくれない。
「だっ、だれがあんた何かと!!」
希理子は抱き上げられた不安定な状態のまま手を振り上げ桜井の頬をぶった。
「ふぅーん?」
だが桜井は平然とした顔をして笑っている。自分の足で立っているのならともかく、抱き上げられた
不安定な状態なままで殴られても力がこもらず普段の希理子の攻撃にすっかり慣れてしまっている桜井
とすれば痛くも痒くもないらしい。
桜井の希理子を見る目はこれ以上なく愛おしい、可愛いものをみるようにゆるみきっている。希理子
が本気で自分に逆らわないことを知っているのでなおさら反抗する希理子の態度が可愛くて仕方がない
のだろう。
その余裕綽々とした態度が希理子の気に触る。たしかに拒みきれそうにないことは誰より自分が一番
理解している。だけどだからといってそのままというのも気が済まない。なし崩しにいいようにされた
のでは自分自身の女がすたる。
「絶対、絶対『おあずけ』だからね〜!!!!!!!!!!!!!!!」
希理子は顔を真っ赤にしながら叫んだ。その言葉に重なるように桜井は笑う。
蒼い空、異国の海がまるでそんな2人を祝福するかのようにキラキラと輝いていた。
THE END.
はい。とうとうたどりつきました『3月』です。この『月極連載』を始めた時からずっとあたためていたラストでした。やっぱどうせラブラブを書くんだったら砂を吐いても吐ききれぬ程恥ずかしい話にしたい、と思っていたのを形にしてみました。あまりの恥ずかしさに書いてるわたしの方が泣きそうでした。誰でもいいから桜井くんの暴走を止めて下さい。
2001/5/16 日向葵
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