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今日は卒業式だった。3年間の高校生活も今日で終了し、明日からはそれぞれが自分の進むべき
道を歩き出す。
桜井は他のクラスメートはすでに帰宅の途、もしくはバスケ部同様に自分の部の後輩達によって
行われている追い出し会に参加する為全員帰ってしまっている教室に独り残っていた。
その穏やかな、何処か感傷的な静寂の広がる空間にそれを打ち壊す声が響く。
「なにやってんだい、あんた?みんなもう揃ってあんたが来るの待ってるよ」
ひょこりと廊下側から顔をのぞかせながら希理子が苛立たしげに声をかけたのだ。
「ゴメン、ゴメン、ちょっとまってくれよ」
そう言うが桜井は自分の席から立ち上がろうとはしない。
「あんた、何してんのさ?」
その様子に希理子はがらりと扉を全開にし桜井の方に近寄ってくる。
「これ───全部ボタン取られちゃってさ、つけ直してたトコ」
そう言って桜井は膝の上に抱えている自分の学生服の上着を指し示した。その言葉に希理子は微
かに顔をしかめ、綺麗になくなってしまっている制服のボタンのあったところに目をやった。
「ふーん」
桜井の机の上には買って来たばかりらしい金ぴかのボタンが置かれ、その横にはソーイングセッ
トまでのっている。
「あんた、こんなの持ち歩く趣味あった?」
そのソーイングセットを手に取りながら希理子は桜井の前の席をひき、またぐように後ろ向きで
座った。
「まさか、そこのコンビニで買ってきたんだよ」
その希理子の問いかけに笑いながら肩を竦める。だがボタンを縫い付ける手は止めない。かなり
危なっかしい手付きで一つ目のボタンを止め終わった。
もともとコンビニで売っているような携帯用のソーイングセットは普通に売っている物よりかな
りコンパクトに出来ている。それを身長が190センチもある大男、しかもバスケをずっとしてい
た為、同じ身長の人間に比べてかなり大きくなってしまっている手でその小さな針を扱うのだ。下
手でも仕方がないというものだ。
「でももう今日でその制服着ないだろ?なのにどうしてボタン付け直してるんだい?」
本当は桜井が奪い取られたボタンの行方が気になって仕方がないのだが、それを口にするのは自
分のプライドが許さないので別の疑問を口にする。
それに対して、桜井はそんな希理子の想いに気付いているのかいないか、再び肩をすくめながら
説明する。
「母さん、───あっ、死んじゃった俺を産んでくれた方の母さんね、結構几帳面な人でさ、子供
の時の服とか全部残してるんだ」
桜井の説明を要約するとこうである。
もともと身体が丈夫でなかった桜井の産みの母は桜井を産むと身体を壊してしまい2人目の子供
を望めなかった。それゆえ桜井のことを目に入れても痛くないほど溺愛し、その子の成長記録とし
てお宮参りや七五三、幼稚園の制服や小学校の入学式の時の制服など全部残してあったというの
だ。
「んで今の母さんがさ、『お母さまの願いを続けましょう』って中学の時の制服とかも残すことに
したんだ。だからこの制服も持って帰って保管することになってるわけ。だからボタンがないわけ
にはいかないだろ?」
「ふーん」
希理子はそう生半可な返事をする。桜井の話を聞いて聞いちゃいけないことを聞いてしまったよ
うな、そしてそんな愛情に包まれて育った桜井に同情する感情が生まれてしまったからだ。
下手な同情は余計にその人を傷つける───そのことを希理子はイヤというほど知っている。だ
から自分が同情してしまったことを桜井に気付かせたくなくて無関心を装うことにしたのだ。
だがそんな希理子の心を読み取ったのか、桜井は希理子を愛おしそうに見つめると、小さく笑っ
て暗くなってしまいそうなその場の雰囲気を変えるようにわざと明るい声を出した。
「だからさ、代わりにやってくれよ、『俺の未来のお嫁さん』」
「─────────はぁ?」
突然手元に押し付けられた桜井の制服と嬉しそうに笑っている桜井の顔を交互に見やる。
「死んだ母さんさ、よく言ってたんだ。『修ちゃんが大人になるまで、──そう、素敵なお嫁さん
をもらうまで想い出をたくさん残しておきましょうね。そしてあなたとその人の間に子供が生まれ
たら、その想い出を語って聞かせてあげるの、素敵でしょう?』って」
口ぶりまで真似て桜井は解説する。
「だからこの制服は必要なんだ、将来、俺とお前の間に生まれて来てくれる子供に語って聞かせる
為に」
そう言って桜井はにこにこと希理子に向かって笑いかける。だがいつもは何でも瞬時に理解する
希理子もこのときの桜井の言葉の意味を即座に理解出来なかった。それゆえに数瞬の沈黙がうまれ
る。
「………………!!───」
脳裏で数回桜井の言葉をリピートさせたのち、やっとその言葉の意味を理解する。
「あっ、やっとわかってくれた?」
桜井は目を見開いた希理子に向かってにこにこと笑いかける。
バシッ──────。
その次の瞬間、凄まじい音量でその効果音がほぼ密室の空間を満たした。
「……イタイ……」
涙目になって桜井は自分の頭を抱えてうずくまった。
「なっ、なにバカなこと言ってンだい、このクソ野郎!!」
希理子は真っ赤になってその場でふるふると震えている。
「なあ希理子ぉ、それがかりにも自分の彼氏に向かって言う言葉かぁ?」
「うるさいっ!!」
上目遣いに情けない表情で自分のことを見上げて来た桜井に希理子は再び鉄拳を喰らわせた。
「バカと一緒にいたらこっちにまでバカがうつる!」
そう言って再び机の上に沈んでしまった桜井に目もくれず、希理子は足音も高らかに教室を後に
しようとする。
「───希理子!」
だがその背中に先程までとはまったく質の違う、真剣な声が掛けられる。
思わず振り返ってしまった希理子に向かって桜井は何かを放り投げた。
「────────!」
落とさずキャッチした手のひらにすっぽりとおさまるその小さな物体に希理子は目を見開く。
「それ、持ってて、俺の『心』だから」
再び静寂を取り戻した空間に桜井の言葉が響く。
「希理子を好きになった3年間、ずっと一番心臓の近くでドキドキしてるその音を聞いててくれた
ものだから、希理子に持っていて欲しいんだ」
呆然と見つめる視線の先で桜井が笑う。
「1年間、離ればなれになるけど、お前を置いていくけど、ずっとお前だけを想ってる。───何
処に居たって、何をしてたってお前だけを愛してる、心はずっとそれと一緒にお前の側にいる──
─」
もう一度、言う。
「お前だけを愛してる───」
再びの静寂───。今度静寂を破ったのは微かな、微かな小さな音。
「……バカ───」
涙の粒がハラハラと頬を伝ってはくだけ落ちる。
「あんたなんか願い下げだよ、勝手に何処にでも行っちまいな」
ぼつぼつとした希理子の言葉が穏やかな風にのる。
「───これは餞別に貰っといてやるからさ」
そう言って微かに微笑むとくるりと背を向けて希理子はその場を後にする。
その場に───希理子がいなくなった空間に希理子の残した水の薫りがゆっくりと浸透してい
く。
「─────バカでもいいよ、愛してるから」
桜井はそうつぶやいて再び自分の制服に目を戻す。そして上から2つ目、ちょうど胸の真ん中当
たりのボタンを止めにかかる。本当はそこにあったはずのボタンは今、誰よりも愛しい人の手に握
られている。
初めて出会ったあの日───初夏の光を全身に纏った美しい少女に自分の心をわし掴まれたのと
同じように、それはその人の手の中にある。
3年間、共にすごした学び舎を後にする。何が、どんな未来が待っているかはまだ判らないけど
この気持ちだけは忘れない。
自分の命のすべてを掴まれてしまったかのようなあの瞬間の怖さだけは─────。
− Fin −
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