「ま、まだ来ませんねぇ澤村……」
夏の終わり、というよりも夏休みの終わりの日、少し青ざめた顔で成瀬が言った。
約束の時間はとっくに過ぎている。なのに澤村はあらわれない。何度ケイタイを鳴らしても『現在
電波の届かない』うんぬんといったお決まりのメッセージが流れるだけでにっちもさっちもいかな
い。
「俺、その辺探しに────」
「やめな」
そのおどおどした様子に鋭い叱咤が飛ぶ。
「あんたが探しに行ったって変わるもんでもないだろ?そこ座ってじっとしてな」
そう言ったのは成瀬の2年上の先輩希理子で、その表情は怒りというよりも諦めと悟りの感情で満
ちている。
「でも……」
だが成瀬としてもそうは言われても何となく引くに引けない。もちろん自分が悪いわけではないの
だが、持ち前のお人好しさでいたたまれない気持ちになってしまう。
「いいんだよ」
そんな成瀬に対して希理子は言い聞かせるように言った。
「来ないなら来ないでそれでいいんだ。だってまだアイツ、今日で18になったばかりなんだよ?そ
れならそれで仕方ないさ」
「希理子さん─────」
その言葉に成瀬は絶句し肩を落とす。
今2人は都内のとある教会の一室に居た。希理子は純白のドレスを身に纏い花婿の────澤村の
到着を待っている。
今日、8月31日は澤村の誕生日で2人の結婚式をあげる予定だった。
婚姻届けさえ出せばそれでいいと言っていた2人の恋人同士の為に希理子の専門学校の友人達が2
人のドレスとヘアメイク及びフェイスメイクを、高校時代のチームメイトやその時知り合った友人達
が会場のセッティングや料理などを担当して内々だけではあるが結婚式をあげることなったのだ。
もうすでに粗方の準備は終わり、希理子の両親はもちろんのこと、北海道からは澤村の父親らも駆
け付け、今か今かと式が始まるのを待っているのだ。
なのに肝心の花婿が現れない。電話一本かかって来もしない。
「こんなことになるんじゃないかと思ってたよ。最近アイツ様子がおかしかったからね」
希理子の言う通り、今年の夏、3年連続でのインターハイ出場を果たし、そして念願の優勝を果た
した直後から澤村の様子がおかしかった。連絡をとろうとしても『今忙しいから』の返答しか帰って
来ず、とうとう5日前からは一切連絡が取れなくなってしまったのだ。
心配した希理子や成瀬が澤村の部屋を訪ねてみても、ろくすっぽ部屋に帰って来ている様子もなく
何時でもいいから連絡をするようにと書き置きを残しても連絡が来ない。5日前、希理子のケイタイ
に『絶対行くから』というメールが入ってから以降、誰一人として澤村の行方を知らないのだ。
「せっかくいろいろ準備してもらったのに悪かったね。このわびは必ずさせてもらうから」
そう言うと希理子は成瀬に向かって小さく頭を下げた。
「希理子さん…………」
いつだって強気で元気で自分に対しては高飛車な希理子が弱々しく頭を下げるその姿に成瀬は言葉
も出てこない。
「ゴメン、ちょっとだけ一人にしてくれるかい?」
希理子はそう言うと側に置いてあった小さな箱と白い封筒を手に取った。箱の中には今日の式で使
う予定だったマリッジリングが2つ、白い封筒の中には婚姻届が入っている。
指輪はインターハイで上南が優勝した日、そのときの開催地だった京都で購入したものだった。ど
んちゃんさわぎで街にくり出したときに目を止めた露店商で買った銀製の指輪だ。
澤村とよってたかってまけさせて、本当なら1つ2500円の代物を2つで3000円にまでした
安物で、その片方の澤村用の大きな方には『KIRIKO』と、希理子用の小さな方には『MASAHIRO』
と刻み込まれている。
そして婚姻届は去年の希理子の誕生日に澤村から渡された代物だった。澤村はこの婚姻届を渡す
時、確かにこう言ったのだ、『俺が18になったら結婚しよう。それまでこれはお前が預かってい
ろ』と。
その時希理子は明日生きてるかもわからないのにそんな先の話をするんじゃないと冷たくあしらっ
たが、それでもそれを手渡されて本当は嬉しかったということを澤村は感じ取っていたはずだったの
だ。
だからこうやって結婚式の準備までしたというのに、澤村はいっこうに現れない。
「嘘つき……」
悔しくて涙が浮かんできた。
先はどうなるかわからないが、今はまだやっぱり結婚したくないというのならそう言えばいいの
だ。なのに何も言わずに雲隠れしてしまうなんて卑怯すぎる。そんな男に自分の心の一番柔らかい部
分を預けていてしまっただなんて悔しくて仕方がない。
「嘘つき……」
希理子は封筒からすでに自分も署名し、捺印も済ませてある婚姻届を取り出した。18になればす
ぐさま出しにいこうとした約束を信じて今日のこの日にも持ってきていたのだ。
「嘘つき……」
もう一度つぶやいて希理子はピンと広げたその両端を力強く握ると、まっぷたつに引き裂こうと勢
いよく力を込めた。
「待てよ」
その希理子の行動を制するように鋭い声がとぶ。
「何勝手なことしやがろうとしてんだ!それ書くの結構面倒くさいんだぞ!」
「澤村!!」
出ていけと言われても出ていけず、部屋に残っていた成瀬が反射的に目をやったそこにはいささか
疲れ果てた様子の澤村が立っていた。
「悪りぃ、遅くなった。すぐに着替えるからよぉ」
そう言って澤村はずかずか花嫁の控え室に入ってくると、花婿用にと用意されていたタキシードに
手を伸ばした。
「ふざけるんじゃないよ!」
だがそんな澤村に対して、当然のごとく希理子から罵声が飛んだ。
「もうあんたには愛想が尽きた!一体この何日間か何処行ってたのさ?!今日だってこんなに遅刻し
て!!」
荒げた言葉と共に涙が飛び散る。
澤村がやってきたことでほっとしたのと、やってきたのはいいけれどこれまで音信不通だったこと
に対する怒りとで感情がコントロール出来なくて、涙腺が弛んでしまったのだ。
「うるせぇよ」
だがそんな希理子に対して澤村が返した言葉はわびでも、言い訳ですらもないそんな言葉だった。
「希理子、手ぇ出せ、手」
「んっ?!」
「いいから手!」
ずかずかと自分に近寄ってくる澤村のある種異様な迫力に押されて、希理子は両手を揃えて突き出
した。
「左手だけでいい」
そう言うと、澤村は希理子の左手だけをとって、ごそごそとポケットから小さな何かを取り出し
た。そして睨み付けるように澤村の自分に対する行動を見つめている希理子の指に取り出したその
『何か』をはめた。
「────えっ?」
希理子は自分の指に────左手の薬指に感じたその感触に目を見開く。
「これって────」
驚いて見上げた澤村のカオがどことなく照れくさそうに微笑んでいる。
「『エンゲージ』────まだ買ってやってなかっただろ?」
その言葉が示す通り、希理子の指には婚約指輪がはめられていた。
「だけどこれ、高かっただろ?!」
自分の指にはめられたそれを凝視しながら希理子が叫ぶ。澤村によってはめられたそれはプラチナ
の台に十字をかたどった金の模様が入り、その重なった中心の部分に今ハヤりのピンクダイヤが埋め
込まれているシンプルながらもオシャレな代物だった。『普通』の婚約指輪とくらべれば安いだろう
が、まだ高校生の澤村が購入するとすれば高すぎる代物である。
「値段なんてどうでもいいだろ?」
澤村はそう言いながら希理子の手を再びとり、その目を見つめながら言う。
「お前に似合いそうだと思って買ってきたんだ」
その澤村の言葉の通り、希理子の白い指先にとてもよく映えている。
「まさかあんたこの指輪の為に?!」
ハッと気がついて目を見開いた視線の先には、どうみてもやつれている澤村の姿がある。ここ数
日、連絡がとれないほど無理をして働きつめていたのだろう。
「バカヤロウ!!」
希理子は思わず駄々をこねるように澤村に殴り掛かっていた。
「指輪なんか誰が欲しいって言った?!誰が買ってくれなんか言った?!」
────涙がこぼれて止まらなかった。
この指輪が自分に対する気持ちの表れだとわかるけれど、嬉しいけれど、そんな無茶なんかしてほ
しくなかった。
そうでなくとも7月に入ってからインターハイが終わるまでの1月半の間、澤村は無茶とも言える
強化スケジュールをこなしていたのだ。その結果が優勝へと繋がったのであるが、それから少しの休
みもとらずずっと澤村は働きつめていたのだ。いくら若くて体力があるとはいえ、こんな無茶をして
いたら身体を壊してしまう。
「泣くなよ」
澤村を心配するあまり、ぼろぼろになって泣き続けて、暴れ続けている希理子を澤村は優しく、で
も力強く抱きとめる。
「俺は今日、他の人間にとってはどうかは知らないけどさ、俺にとっては世界一いい女と結婚するつ
もりでここに来たんだぜ?それなのに化粧崩れした化け物なんざ見たかねえよ」
「何をぅ!」
その言葉に希理子はぴたりと涙を止め、顔をあげて澤村を睨み付けた。その希理子の行動に、澤村
はすかさず頭を下げた。
「すまなかった、心配かけてゴメン」
短いが真摯で誠実な言葉だった。
「だけどさ、ちょっとはわかってくれよな?男にだってプライドってもんがあるんだぜ?!いくら俺
の方が年下で、まだガッコウ通ってるガキだからって言ってもさ、ちょっとぐらい自分の女に飾るモ
ンの一つぐらい贈っておきたいもんなんだ。イイ女ならこれくらいわかってくれるだろ?」
「────うん」
理屈も理由もわかるが、今一つ納得がいかない澤村の論理だが、『イイ女』と言われては引き下が
るしかない。
「ああ、いい子だ」
そんな希理子にそういって涙を拭うように口付けると、今度は少し身体を離すようにして、真剣な
表情で希理子と向かい合った。
「希理子さ、お前『覚悟』出来てるんだろうな?去年のお前の誕生日に言っておいたこと、全部理解
して今ここにいるんだよな?」
まっすぐな澄んだ瞳が希理子の中の揺らぎ一つも見のがさないように完全に重ねられる。
「今からお前は俺の為だけに泣いて、俺の為だけに笑って、俺の為だけに死ぬんだ。その代わりに俺
もお前の為だけに笑って、お前の為だけに死んでやる────その『覚悟』、出来てるんだな?」
息もつけない程に静まり返った空間の中でその言葉だけが確かに響いた。
「『当たり前』」
だけどその余韻をかき消すように希理子はその唇にその言葉をのせた。
「あたしはもうとっくにあんただけの女だよ、今さらそんな馬鹿なこと聞いてくるんじゃないよ、そ
んな『覚悟』とっくの昔に出来てるさ」
希理子はそう言うと自信に満ちた笑顔で婉然と笑った。その姿はいつにもまして気高く、美しく、
何より誇り高かった。────全身から、自信と幸せに満ちたそんな感動が伝わっていた。
「────そうだな」
その力強さと美しさに圧倒され、そしてそんな希理子を得られた得られた喜びに澤村は頷く。
「『当たり前』だよな」
「うん!」
澤村が頷いたことに希理子は満足そうに微笑むと、頷いたそのままの勢いで澤村に向かって飛びつ
いた。
「わっ!!」
そうでなくても過労で疲れ果てているところに勢いよく飛びつかれ、澤村は思わず尻餅をついた。
それでも希理子を支え、手放さなかったのは流石というところか。
「さっ、澤村?!」
部屋を出ていくべきだったのだろうが、まったくタイミングを失ってしまっていた成瀬が慌てて2
人の元に駆け寄る。
「お前、そんなんで大丈夫なの?!」
普段の澤村なら飛びつかれるのくらいどうってことないのに、ふらつくのを通り越して尻餅をつい
てしまっているその状況に、澤村の疲労の具合がかなり深刻だと察知して心配げに問いかける。
「大丈夫だ」
とりあえず希理子を支えて先に立たせながら澤村はニヤリと笑う。
「今晩の『初夜』にたっぷり楽しむぐらいの体力は残してあるからまったく持って心配無用」
「!!」
「さっ、さっ、澤村〜!!!!」
その言葉とその笑顔に成瀬は真っ赤になって固まり、希理子は拳を振り上げて怒り狂った。
「ど、どうしたんです?希理子さん??」
そこにあまりに遅いから心配になって様子を見に来たみずきが、ドレス姿で暴れまくっている希理
子の様子に目を白黒し、縋るような視線を辺りにさまよわせた。
「さてね」
希理子の攻撃をひょいひょいっと交わしながら澤村がうそぶく。
こうしてこの日、いつも通りに騒がしい中、2人は晴れて正式に『夫婦』として結ばれたのでし
た。
Fin.
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