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『あたしに本気で惚れないで』
硬質な口唇からすべり出したその言葉に桜井は時を止めた。脳裏でその言葉が弾け、意味を理解す
るのに数秒を要し、そして心底驚いた。
「───どういう意味だ?」
自分の知っている『矢部希理子』という人間は抜群の容姿を持っていながらそれを武器に恋愛に勝
利しようなどとは一切考えない人間だった。それどころか人の恋愛のいざこざをネタに楽しむことは
しても、自分自身の恋愛についてはまったく興味がないようだった。
それなのにその希理子から出た意外な牽制の言葉に桜井は戸惑ってしまう。自分の中にある微かな
───でも確かな『想い』を牽制されてしまったのかとそんなふうにも思えて、だけどそれとは違う
次元の意味をもっているようにも希理子の言葉が聞き取れてそれゆえに混乱してしまう。
「わかんない?だから『あたしを好きにならないで』って言ってるのさ、これからあんたの相手をす
る『矢部希理子』を、ね」
そんな桜井に対して希理子は一見意味不明の言葉を用いながら説明をし始めた。
「結構多いんだよ、『《演じてる》あたし』を『《本当》のあたし』だと勘違いして本気であたしに
惚れちゃうヤツ」
希理子はそう言って小さく肩をすくめると、心底うっとおしそうにテーブルの上で両腕を重ね合わ
せた。
「あたしはカネさえ貰えればなんだって演じてみせる。依頼者の、その周囲が望む『恋人』や『婚約
者』、つまりそのとき必要な『理想の女』を演じてみせる。だから本気で相手に惚れもするし、相手
の為に笑ってみせる。だけどそれはカネの為で───仕事だからで、あたし自身が相手に惚れてるわ
けじゃない。なのにあんまり完璧すぎるからそのうち本気であたしに愛されてると思い込んで、それ
であたしに惚れちまって、仕事終わってからも付きまとってきたり、しつこく言い寄ってきたりする
んだ」
テーブルの上で腕を組み換えると、自分のグラスについた水滴を指先でもてあそびながら希理子は
話を続ける。
「あんたは『あたし』を知ってる───本物の『矢部希理子』を知ってる。だけど普通依頼人は
『《本当》のあたし』を知らないから『《演じてる》あたし』を『《本当》のあたし』だと思い込ん
で、仕事が終わってからあたしの本性みせると『本当の君はそんな人じゃないはずだ』とか力説して
あたしをそれまで演じてた女の型にはめ込もうとするんだ。で、困ってやっとのこと仕事なんだから
本気で惚れてるフリをしてみせてたんだって納得させると、これまた勝手に『裏切られた』とか『傷
付いた』とか果てには『騙された』とかぬかしやがるんだ」
その希理子の言葉に桜井は何となく納得がいった。だがそれは希理子が感じて、そして怒りという
よりも困らされている事象に対してではない。演じている希理子を『そう』だと思い込んだ相手に対
してだ。
希理子を───『矢部希理子』本人を知っている自分でさえ混乱させられるほどの演技なのだ。そ
れを何も知らない状態の人間が続けられたとしたら錯覚だってするだろう。あれほど完璧に自分に恋
してみせた程なのだから────。
だけど希理子にとってそんな感情は迷惑以外の何ものでもないらしい。
「自分が誰かを騙す為に人を雇ったくせに今さら何を言ってンだろね、ホントに。自分のことは棚に
あげて、ホントやってらんないよ」
そうやって再び肩をすくめて希理子は苦笑してみせた。そしてそんな希理子に対して、今度は桜井
が苦笑してみせる。
「だけど仕方がないだろ」
「!、何で?!」
自分の方に同意してもらえると思っていたのにそれを裏切る言葉を紡ぎだされたそのことに希理子
はきっと身体を乗り出し、小さく桜井を睨み付ける。
「お前が完璧すぎるんだ」
「ははっ」
先程の思考の意味も含めて簡潔に返事をすると、希理子はその意味を正確に理解して面白そうに笑
った。
「まね、だってあたしは天才だもん」
そう言って自信満載で高らかに笑う希理子は桜井の知っているいつもの希理子で、そのことにわけ
もわからず嬉しくなる。そのことに思わず微笑んだ桜井に希理子にすました、何かを誇るような顔を
する。
「だから今回の仕事はある意味やりにくいけど、その点から考えれば楽って言えば楽だよ」
「何で?」
希理子のその口ぶりに小さく目をしばたかせ疑問の表情を浮かべる。
「だってあんたがあたしに惚れるなんざ考えられないモン」
そう言ってニコリと笑う。
「『あたし』を知ってるあんたがあたしに惚れるワケないモン」
「───そう」
自信ありげに言われたその言葉に桜井は呆れたような表情を浮かべた。
「そうそう!」
希理子は大きく頷く。
「あたしには恋愛なんざしてるヒマはないんだよ。そんなヒマがあるんだったらもっといっぱい働い
て、もっといっぱいカネ稼がなきゃならないんだ。恋愛なんていう余裕がある人間だけが愉しみゃい
い道楽につきあってるヒマはないんだよ」
桜井から返された返答に冗談めかした───だけどどこか本気の言葉で希理子はそうそれまでの会
話をしめくくった。
「で、依頼についての打ち合わせなんだけど───」
それまでとばかりに身を乗り出すようにして桜井とその許嫁、そして周囲の人間関係などを希理子
は桜井に質問し、自分のカバンからとりだしたシステム手帳の空白のページにまるで落書きのような
メモをとり始めた。
桜井は希理子の質問に答え、詳しい概要を語りながら相互の理解と打ち合わせを進めていく。
あいもかわらず毒舌の希理子らしい希理子の話の進め方に、ときには笑い、ときには戸惑い、そし
てときには苦笑しながら今後の動きについて綿密に打ち合わせをする。
そんな中、桜井の脳裏にはどうしても消せない感情があった。希理子と会話に集中し、そのことだ
けを考えておかなければならないこの時にどうしても消せない感傷があった。
必死で取り繕おうとしたがどうしても出来てしまった刹那の空白───希理子はそれに気付かなか
ったが内心桜井は必死だった。
希理子にとっては何気ない、当たり前の言葉が桜井の中を苛み、負の方向へと感情を押し込んでい
く。だけどそれを希理子に気付かせるわけにはいかなかった。これは自分勝手な、身勝手な感傷だか
ら────。
だから笑えているはず────桜井は自分を信じた。感情ではなく理性が笑いたいと命じる時に笑
うことに慣れた自分は笑うことに関してだけは絶対の自信があった。だって笑ってさえいれば誰にも
心を覗かれはしないから────。
笑えている、はず────桜井は信じたいと思った。たとえどれほどの痛みが自分を苛もうとも
『笑顔』という名の鉄壁のガードは絶対に崩れはしないはず。だから希理子が気付くはずがない──
──と。
だから、笑えている、はず────たとえ希理子が自分からの愛情を疑うこともなく完全に否定し
ようとも、そのことが自分に堪え難いまでの痛みをもたらそうとも。
笑えて、いる、はず────叫びたい程に心が痛みを訴えていても。
桜井は己を信じた────自分を偽ることに慣れた本当の自分を。嘘にまみれた本当の自分を──
──。
「ふふふっ、やっと『今日』になったのね」
都内の某一室で手にした時計を嬉しそうに見つめながら少女は笑った。
透き通るような白い肌、ゆるやかにウエーブを描く少し色素の薄い絹のような細い髪────それ
に彩られるかんばせはまさに華のようだった。
髪の毛と同じくほんの少しだけ色素の薄いはしばみ色の瞳は目の前すぐにある窓から見える夜空に
向かって注がれ、星屑の光以外なにもない完成された空間にそこにはない何かを見い出そうとしてい
た。
「早く会いたいな、修司お兄様」
はずんだ声が窓越しの夜空に吸い込まれていく。
部屋の明かりに反射してその窓ガラスに映るその少女の顔は桜井が手にし、希理子に指し示した少
女と同じ顔をしていた。
TO
BE CONTINUED・・・
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