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「ちぃーすっ」
嘉弘の家を出た希理子はまっすぐに桜井の父が経営する病院に向かった。今まずすべきことは桜井
に会うこと───そして今回の決着をつけること、その為に病院に向かったのだ。
別に希理子は桜井が病院に来ていることを知っていたわけではない。でもそこにいるという確信が
あった。それは桜井という人間を誰より知っているからこそ確信出来たことでもあった。
周囲には出来た人間として知られている桜井だが、実際はかなり余裕がない、一旦崩れればもろく
崩れ落ちるタイプの人間だということを希理子は知っていた。そしてその際駆け込むであろう場所が
父親のいるところであるということをPAの仕事を通じてあまり知らなかった桜井の家族関係を通じ
て希理子は理解していたのだ。
希理子は今回PAの仕事を通じて本来なら知る由もなかった桜井家の事情を父と息子の両方の側面
から聞き及んでいた。
息子は父を憎んでいた。そして父はそれを知っていた。しかしあえてそれに手を打つことはしなか
った。何故なら父親にとってたしかに血をひいた我が子は可愛いものであったのだが、それ以上に自
分がたった一人心から愛した女性───つまり桜井の母であり、自分の妻であった女性との約束を果
たすことの方が重大だったからだ。
普通の人間ならこう聞けば薄情な人間だと、結局は死んだ奥さんにたいして誠実でない行為だと罵
るだろう。しかし希理子はその話を聞いた時、もっともだと思った。それならば仕方がないかもしれ
ないと心底思った。
だってもうすでに約束したその人は死んでいるのだ───生き返ることはないのだ。相手が生きて
さえいれば詫びることも償うこともできるが、相手が死んでしまっているのならばそれはもう出来な
いのだ。だとすれば生きている人間に対してよりも誠実でなければならないはずではないか。
だが世の中の風潮はそうではない。生きている人間の方が大事で、しょせん死んだ人間など過去と
してしか扱ってはもらえないのだ。
だが希理子は普通ならおかしいと判断される桜井の父の生き方を自分自身が誰より大切な人間を失
った経験を持つものの一人として理解出来た。自分と嘉幸の心の交流は男女のそれというよりもほと
んど人間同士の魂の交流みたいなものであったが、それでも相手をたった一人の人と認識して、そし
てそうだと自分自身が定めたその前提をそこに置いて共に生きることを誓っていた人間を失って、そ
の人と交わした約束やその人から託された願いが残されたのなら、たとえどんなものでも叶えようと
するだろうというその想いが希理子には他の誰よりも理解出来た。
だけど同時にそれとは逆の立場から救いの手を差し伸べて欲しかった頃に差し伸べてもらえなかっ
た桜井の気持ちも理解出来た。立場や境遇は違え自分も同じだったから───助けが欲しかった時に
本当の意味での救いの手を差し伸べてもらえなかったのは同じだったから、桜井の気持ちも理解出来
た。
自分の場合は桜井が『独り』にされてしまった時よりももっと大きく成長していたし、『独り』に
された理由がいわゆる自業自得であった為に仕方がないことと諦められもした。だけど桜井の場合は
まだほんの子供だった───まだ8歳かそこらで独りにされてしまったのだ。
子供にとって親は重要だ。生きていく上での指針であり、基準であり、そして何より目的だ。より
多くの愛情を注いでもらう為になら駄々だってこねるし、泣きまねもする。それが通用しない相手な
らひたすらにイイ子を演じるだろう。それをとりあげられるということは『死』を意味する───肉
体的というだけでなく精神的にもだ。
桜井はその状態で生きねばならなかった───育たねばならなかった。桜井の周囲に対してイイ子
を無意識に演じられるのはおそらくその為で、そうしなければ誰も守ってくれない環境で少しでも快
適に暮らす為にはそれ以外の手段を持ち得なかったのだ。
その桜井と桜井の父、どちらもの立場もその想いも理解出来るがゆえに希理子はなんとかわかりあ
って欲しかった。
だって人間なんて儚いものだ。今日生きていても明日死んでいるかもしれないのだ。だったら生き
ている今のうちにそれをはたして欲しかった。
だから本来なら同時に2つの依頼を受けることなどしないのだが桜井と桜井の父2人からの依頼を
引き受けた。自分が間に入ることで少しでもそれを早く実をむすんで欲しかったからだ。
はたしてそれが正解だったのかと希理子は今さらながらに思っている。親子関係というのは微妙
だ。それをちょっと事情を知り得る立場にあったからといって手出し、口出ししてよかったのかと思
わざるを得ないのだ。
だけど時はすでに前に動きだしている。絶対後ろには流れない。だとすれば先に進んでいくだけ
だ。
だから希理子はやってきた。これまでのすべてとこれからのすべてのために───すべての決着を
つける為にやってきたのだ。
「希理子……」
『勝手しったる他人のお家』みたいなノリで、アポもとらずに医院長室に堂々とやってきた希理子
のその姿に桜井はただただ呆然とした。
父親からこれまでの行き違いのわけをきかされ、本当は自分が間違っていたのではないかという想
いを抱き始めていたそのときに、まさかつい半日程前にこれ以上なく傷付けてしまったその相手がま
さかこんなに早く自分と接触を持ってこようとは思わなかったのだ。
それゆえにまだ桜井には心の準備が出来ていなかった。すまなかったと、申し訳がないことをした
と心から思っている。しかしそれをどう償えばいいのかまだわからない。わからないがゆえに今をど
うすればいいのかわからない。
「うっとおしいのはとりあえずあとあとあと、全部後!」
だがそんな桜井の混乱も困惑も無視するように希理子は小さく笑みを浮かべると、桜井ではなく父
の修一に話を振った。
「ねえセンセ、ゆかりちゃんに会ってもいいかい?」
「えっ?」
「えっ?」
いきなり来ての第一声がそれで、さすがの桜井父子も度胆を抜かれた。
そんな人間ではないと知りつつも、半分以上レイプ同然で希理子をものにした桜井に対して何らか
の責任を求める言葉が出てくるのではないかと予測してしまっていたのだ。
だが希理子には桜井を攻めるような暗い陰はない。それどころかまったくそのことに関しては気に
していないようなのだ。
着ている制服のブラウスの襟刳りからは確かに何かがあった痕跡が見えかくれしているのに、動く
度にやはり傷むのかぎこちない動作を見せているクセに、その表情は顔色こそ青ざめているものの後
ろ向きの感情などどこにも存在してはいないのだ。
「それは結構ですけど矢部さん、修司を責めないでいいのですか?」
父親として当然の質問、とはいいがたいが、それでも罪をおかした子を持つ父親としてある意味当
然の疑問を修一は希理子に投げかけた。
「だからさ、『後』だっていってるだろ?」
すると希理子は実にうっとおしそうに髪をなであげると、侮蔑し切った表情で修一だけでなく桜井
に対しても宣言するように言葉を紡いだ。
「今あたしの中での優先決着付けたい順位は『ゆかりちゃん関連』が第一なの。それが済んだらあん
たらが納得いくまで幾らでもその系のお話もつきあってやるからさ、とっととさっさと結論いってく
んない?」
まさに希理子そのもののその言い様は桜井を安心させたと同時にますます混乱させた。自分が傷付
けておきながらこう捉えてはなんなのだが、それほどダメージを与えずに済んだのではないかと安心
し、だけれど同時に傷付けることさえ出来なかったのだと落胆する自分がいたからだ。
「いいですよ、どうぞ会ってあげてください。そろそろ目を覚している頃でしょうから」
だがそんな桜井の内心の葛藤には気付かずに修一は話をつづけた。
「でもあまり刺激しないようにおねがいしますね」
「わかってる」
希理子は大きく頷くとくるりと半分乱入の形で入って来た扉に向かった。
だがその途中もう一度室内を振り返った。
「来な」
その言葉は桜井をさしているようだった。
「あんたにはその責任がある」
逃げたら承知しない───そう瞳が告げていた。
「わかった」
頷くしかない。
桜井は先に出ていった希理子に続いて医院長室からゆかりの病室へと向かった。もう夕方というよ
りも夜といってもいい時間帯なので、病院内には病因独特の食事の匂いがただよっている。いろんな
メニューの匂いが混ざりあった、まとわりつくような重苦しい匂いだ。
食はあらゆる人間の生の基本だ。これがなくては人は生きていけない。だがかといってすべての人
が共通のものを食せるわけではない。心臓病や糖尿病の人間に普通の人間の食事を出せばそれは身体
の負担になるし、当然のごとく術後の患者にまったく同じ食事を出せるはずがない。だから病院で出
される食事は何種類も存在し、それがまざりあった匂いはかなりくるものがあるのだ。
希理子はその中を平然と歩いていく。不馴れな人間なら顔をしかめてしまうほどきついものなのだ
が、過去に知り合ってから共にすごした期間のそのほとんどを病院のベッドの上で過ごしていた嘉幸
を見舞う為に、病院には何度も訪れていた経験があるので慣れっこだったのだ。
「どうやらいい方向に動いたようだね」
そう後方を歩く桜井に対して希理子は振り返りもせずに言った。
「もっと険悪な雰囲気かもしだしてるかと思ったけど和解出来たみたいじゃん。よかったよ」
一瞬桜井には希理子の言葉が何をさしているかわからなかった。しかしそれが自分と父親との仲の
ことだと察すると複雑な心境になった。そもそもの発端はそこからはじまったのだから。
「なあ希理子」
だからどうしても聞いておかねばならないと思い、桜井は勇気を振り絞った。
「どうしてお前はあんな約束を親父にさせたんだ?」
「ん?」
「だからさ───」
言いにくそうに一瞬口どもり、それでも聞かねばなるまいと懸命に言葉に直した。
「どうしてお前は依頼を受けた時に『話し合う機会をつくるように』なんて、俺と親父のことを気に
するようなことを言ってくれてたんだ?」
それはある意味当然の疑問であり、当然の困惑だった。
「さてね」
希理子は肩をすくめ曖昧に笑った。
「しいていうなら『まだ生きてるから』、かな?」
「??」
当然、希理子の事情を知らない桜井からしてみればまったく意味不明のその言葉に桜井は目を白黒
させるしかない。
だがそうしているうちにゆかりの病室にたどり着き、希理子はくいっと首を動かして桜井に先に入
室するようにうながした。桜井は頷き、先にその扉を開けた。
「ゆかりちゃん」
中に入るとゆかりはベッドの上で上半身を起した形で座っていった。まだ到底本調子とはいえない
もののの大分容態も落ち着いているらしく、顔色もかなりいい。今の状態ならゆかりよりも希理子の
方がひどい状態かもしれないほどだ。
「帰ってよ!」
そのゆかりからの第一声は桜井ではなく、その後ろに見えた希理子に対してのものだった。
「あなたの顔なんてみたくないわ!さっさと出ていってよ!!」
「ゆかり?!」
中で付き添っていたゆかりの母親は3人の間で何があったのかしらないので、ゆかり自身の命の恩
人らしい少女に向かってのその言葉にただただ驚き呆然とした。
「ヤダね」
それに対して希理子は桜井の身体を押し退けるようにして入室すると、まっすぐにゆかりを見つ
め、そのままの瞳で宣言した。
「決着つけに来たんだ。ウソから始まったことだけど、あたしはそれなりにあんたを気に入ってる。
だからそのあんたの思い上がりを、間違いを訂正してやろうと思ってここにやって来たんだ」
「『思い上がり』ってなによ!」
その言葉にすかさずゆかりは反応した。
「わたしの何が思い上がってるっていうのよ?!それはあなたの方でしょ?!」
ゆかりの剣幕は物凄いものがあった。普段それなりにおっとり系なのにまくしたてるその姿は危機
迫るものすらあった。
「それに誰が助けてくれなんていったのよ?!あなたなんかに命助けられたって全然嬉しくないわ!
死んだ方が良かったわ!!」
「ああ、そうかい。じゃあ助けるんじゃなかったね。あんたみたいな馬鹿娘、死んだ方が世の中の為
だったみたいだからね」
「なっ……」
その言葉にゆかりは絶句した。
生まれてからずっと蝶よ花よと育てられ、生まれつきの病弱のせいでこれまでそんなにきつい言葉
を浴びせかけられたことがなかったのだ。
「だいたいあんたさ、命の重みなんだと思ってんの?!世の中にはね、生きたくても生きられなく
て、あんたみたいに金持ちの家の娘に生まれてこられなかったせいで満足に治療も受けられなくて、
死んでいくしか出来ない人間の方が多いんだよ!それなのにいい歳こいて甘ったれたガキみたいなこ
と言ってンじゃないよ」
希理子の言葉に一遍の容赦もなかった。それゆえにそれはゆかりを違う方向へと追い込んだ。
「誰も助けてくれなんてわたし言ったおぼえなんかないわ!!」
とにかく衝撃と興奮のあまり何を口にしているのかわからない状態でゆかりは叫んだ。
「わたしは誰も助けてくれなんて言ってない!!死んだ方が楽だったのに、殺してくれなかったの
よ!!死なせてくれなかっただけじゃない!!」
その言葉は完全に希理子の逆鱗に触れていた。
「ふざけんじゃないよっ!!」
そう大声で言い返すとつかつかとゆかりの側に歩み寄り、パシンと室内を満たしてあまりある程の
渾身の力を込めてゆかりの頬を打っていた。
「あんた何様のつもりさ?!あんたが言ってることはね、自分を心配して、自分を愛してくれてる人
に人殺しになれって言ってるのと同じことなんだよ?!人殺しになれって言ってるのと同じことなん
だよ?!どんなに酷い言葉吐き出したか意味わかって言ってンのかい?!」
「あなたにわたしの何がわかるっていうのよ!!」
打たれて腫れ上がった頬を押さえながら、ゆかりは噛み付く様に言い返した。
「あなたみたいに綺麗で健康にも恵まれててその上お兄様からも愛されてるあなたにわたしの何がわ
かるっていうのよ!!」
その綺麗な澄んだ瞳から涙がにじみ溢れてきた。
「わたしはずっと我慢するしかなかったのよ?!やりたいことだってこのオンボロの身体のせいでほ
とんど何も出来なかった。だから毎日毎日神様にお祈りしてたのに全然良くはならなくて、その上ず
っと子供の頃から大好きだったお兄様はあなたみたいな人が好きだっていうのよ!!あなたみたいに
平気でウソついて、平気で人を傷付けられる人を好きだっていうのよ。だったら死んだ方がマシじゃ
ない!!」
「ああ、そうかい」
「来ないで!!」
ガシャリ───その瞬間にガラスが砕けた。もう一歩分詰め寄ろうとした希理子を払い除けようと
したゆかりの手があたり、ベッドの横に置いてあった花瓶をひっくり返したのだ。床一面に水がこぼ
れ、無惨に砕け散ったガラスを煌きとして香り豊かなバラがまき散らされた。まるでスローモーショ
ンの様に起こったそれは何故だか現実感がなくて、だけど重苦しいものを生み出してしまった。確か
な沈黙と沈痛が凍り切った室内を満たし、少しでもバランスを失えばすべてが砕け散ってしまいそう
な雰囲気に包まれたのだ。
「───でもね、あんたは今生きてるじゃないか」
その沈黙を破ったのは希理子だった。
「死んだらね終わりなんだよ?自分じゃ何ひとつ出来なくなっちまうんだよ?」
先ほどまでの剣幕は消え去り、透き通るような透明感を持って声がゆるやかにその密室を流れてい
く。
「あたしはねあんたと同じようにガキの頃から病気で満足に何一つさせてもらえなかったヤツを知っ
てる。だけどそいつはあんたと違っていっつも生きる為の精一杯の努力をして、最後まで足掻いて死
んでいったんだ───まだたったの14だったよ」
その声はあまりに悲痛で、聞いているものの動きをとめた。何デタラメなウソを、と言いたかった
ゆかりだが、声同様の希理子の透明な表情がそれが事実であることを告げ、言い返すことはできなか
った。
「そいつはね、確かにあんた同様に身体が全然ダメだった。子供の頃からぜんそくで何度も命の危機
に立たされてて、それがマシになったとおもったら今度は小児ガンが全身に転位してて手術のしよう
もなくて死ぬしか道は残されてなかったんだ。それでもそいつはいろんなことあたしに教えてくれた
───いろんなことあたしに教えてくれた。これ見てごらん?これはね、そいつがあたしに残してく
れたたった一つの形見なんだよ」
そう言って希理子は制服のポケットからパスケースを取り出し、中から一枚のカードを取り出し
た。
黄色いメルヘンチックなイラストのついた一枚の紙───その裏には名前と幾つかの丸をつける欄
があるだけのちっぽけなものだ。だがこのちっぽけなカードこそがその人の『意思』を現すもので、
ときには世界を動かすほどの力を発揮することがある。
「これって──────」
そのカードを見てゆかりは驚く。あまり世間に浸透してはいないが、病院という場所にくることを
余儀無くされているゆかりにはそれと同じものにはっきりと見覚えがあった。
「知ってるようだね、そうだよ───これは『ドナーカード』だよ」
ドナーカードとはそのカードの持ち主が何らかの事故や病気で死亡した際には臓器提供をすること
を希望するかいないかを示すためのカードだ。目や心臓、肝臓、腎臓といった移植すれば助かる病気
の人の為にいざとのときに自分の意思で用意しておくものだ。
「これ見てごらん?これを見てもあんたのその弱り切った性根が変わらないなら、あたしは心底あん
たを軽蔑する」
希理子はそう言って裏面の、臓器提供に関する項目に対しての書き込む欄をゆかりにしめした。
「!!──────」
それを見てゆかりはうちのめされた。ふるふると震え、どうにも涙が止まらない。
「これ書いた時ね、そいつもう完全に手後れであと半年もたないって言われてた頃なんだ。そのとき
そいつはまだ12だった─────これを書いたって役にたたないだろうってわかってて、それでも
そいつはこれを書いたんだ」
日本は基本的に移植に対して消極的で遅れた国だと言われている。それは死後の人間の身体にキズ
をつけるのを好まない民族習慣的なものもあったが、それ以上に移植を保護する法律が整っていない
という大きな問題もあるからだ。
現行での臓器移植法では、たとえ本人の絶対の意思があり、家族の同意があろうとも親族兄弟間を
除いては提供者が15歳以下の時には臓器移植は実施されない。それで救われる命が存在するとわか
っているのに、それでもそれは許されないのだ。
「そいつはね、いつもノートパソコン使ってたんだ。あたしはそいつが手で字を書いてるのなんて見
たことなかったんだ。でもこのカード見た時そのわけに納得した、で同時に自分の小ささに怖気が走
ったんだ」
カードはテレホンカードと同じ大きさのちっぽけなものだ。ほんの数箇所丸をつけて名前を書くだ
けの代物だ。でもそのちっぽけな四辺の中にそのカードを書いた人間の生きざまが刻まれていた──
───命の軌跡が刻まれていた。
ゆかりはそれを見て涙が止まらなかった。
臓器提供の欄すべてに丸が入っていた。その他の欄にさえ丸が入っていたのだ。しかもその丸が大
きく歪んでいた。とても丸とは思えない程震えて歪んでおり、その下の名前の欄などとてもなんて書
いてあるのか読めはしなかった。
だがそれが字が汚いからでも乱雑だからでもなく、それ以上は綺麗に書けなかったことがその小さ
な紙片から読み取れた。おそらく手の神経に麻痺が及んでいて、字すらマトモに書けない状況下でこ
のカードに書き込んだのだ。
「そいつは結局形あるものとしてはこのカードだけをあたしの手元に残して死んでいった─────
あたしを残して死んでいった。あたしなんかよりずっと心が綺麗で、生きてれば世界を救えるくらい
イイやつだったのに死ぬしかなくて死んでったんだ」
希理子はそのカードをそっと元の場所に戻すとそれを大切そうにしまいこみ、そして言い聞かせる
ようにゆかりにむかって言葉を紡いだ。
「でもあんたは生きられる───手術をして成功すれば生きられる。確率は結構低いらしいけど、そ
れでもあんたがいうように死んだ方がマシな今なんだったら、挑戦してみるのもいいんじゃないかと
思うんだよ。神様に祈る前に、あんたには今できることがあるんだからその命大切にして今できるこ
とをやるべきなんだよ」
そういうと希理子はしゃがみ込んで砕け散ったガラスの破片を一つとりあげた。そして水のしたた
ったそれをぎゅっと掴むと右手で左手の頬にそれを振り降ろした。
「だから自分の不遇を言い訳にしなさんな」
「きゃあっ!!」
その行動にゆかりは思わず悲鳴をあげた。
「……ど、ど、ど、どうして……?!……」
思わずガクガクと声が震えた。
「どうしてって、これであんたはあたしの美貌を理由に逃げることが出来なくなるだろ?」
そう言ってなんともないようにニヤリと笑った希理子の頬の上には一筋に赤い線が出来ていた。さ
きほど希理子の振り降ろしたガラスは希理子の左頬のうえに大きくキズを付け、そこから鮮血がぼた
ぼたと滴り落ているのだ。
「希理子ッ!!」
そのことにこれまで沈黙を続けていた桜井が駆け寄った。しかしそのことに希理子は大きく首を横
にふると、傷口をおさえようともせずゆかりにむかって語り続けた。
「あんたが今すべきことは神に祈ることじゃない、『動くこと』────自分自身の意思と力で闘う
ことだよ」
真正面からゆかりを見つめ、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「たしかあんたはカトリックのガッコウ通ってるんだよね。それならさ『アーメン』っていう祈りの
言葉を英語じゃさ『cross oneself』っていうんだって聞いたことないかい?『cross oneself』っ
て───『誰かに十字を切って』ってそう言うんだって聞いたことないかい?」
「『クロス・ワンセルフ』?」
「そう」
希理子は頷く。
「この『誰か』───『oneself』ってさ『神様』もしくは『イエス・キリスト』っていうのが定説
だけどさ、あたしはさ祈るべき最初の『誰か』は、誓うべき最初の『誰か』は自分自身であるべきだ
とそう思うよ。なんでもかんでも神や人任せにするんじゃなくて、自分自身の命なんだから、自分自
身がしたいことなんだから、まず最初に自分自身を信じて祈るべきなんだよ」
悲しいまでに強い瞳だった。
「だからあんたもまず最初に自分のできる精一杯やって、それでもどうしても何一つ出来なくなって
からそこで初めて神に祈りな。そしたらあんたのこと認めてやる───あたしのことどんなに蔑んだ
って、馬鹿にしたってかまわないって誓ってやる。だけど今の逃げたまんまのあんたじゃあたしには
敵わない───到底あたしから桜井の心は奪えない」
希理子はそういうと自分の頬のキズの上に指をはわせ、その血の雫をすくいとった。そして赤く染
まったその指先をそっとゆかりの額に当て、そこに自分自身の血で大きく十字を書き込んだ。
「『cross oneself』───あんたがあんた自身の神になれますように」
その言葉は柔らかくゆかりの上に降り注いだ。そしてそれと同じ表情で希理子は小さく微笑むとも
うそれ以上何も言わずに病室を出ていった。
「……何よあの人───」
希理子によってつくりだされた透明な沈黙の中、ゆかりは震える声でそうつぶやいた。
「なんなのよ、あの人───」
だがその言葉はけっして侮蔑のものではない。怒りのものでもない。 どちらかと言えば畏怖───
聖なるものに触れた時に感じる一種の憧憬にも似た畏怖だった。
「どうしてわたしなんかの為にあそこまで出来るのよ」
希理子がゆかりに自分自身から逃げさせない為に頬に刻んだキズはどうみてもすぐ直るような甘い
ものではなかった。おそらく一生ほほの上に痕を残すであろうほど深いキズだった。
冷静になって考えてみるとゆかりはかなり一方的に希理子のことばかりせめていたことに気がつい
た。希理子から何の弁明も事情の説明も聞かないで桜井と自分をだましていたのだと攻め立てたの
だ。
それなのにそんな自分の為に希理子はなんのためらいもなく自分の頬にキズを刻んだ。何の躊躇も
一瞬のためらいもなくそれを実行してみせたのだ。
それはいうならば慈愛───ゆかりに対する無限の愛情といたわりの姿であったのだ。
「好きだからだよ」
「えっ」
返されたその返答にゆかりは驚いた。だが桜井はゆったりとうなずくともう一度その言葉をくり返
した。
「お前のことが好きだからだよ」
そのことに桜井は確信があった。
希理子は誰にでも優しいが自分がいったん気に入って好きになった人間に対してはとても厳しい。
それは彼女なりの愛情表現で、その人を思うからこそついついしてしまう行動なのだ。
「……敵うわけないわね」
その絶対の自信を秘めた言葉にゆかりは思わず苦笑した。
「嫌われても仕方がないわたしのこと好きだなんて言えるような人に到底敵うわけなんかないわよ
ね」
そう言うと桜井に向き返り、ゆかりはきっぱり宣言した。
「わたし、手術受けるわ。それであの人を見返してやるの、いつまでも弱い、逃げてるわたしじゃな
いんだって、そう言って見返してやるの」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、それでもゆかりは晴れやかに宣言した。
「そうか───」
その言葉に桜井は頷いた。なんども何度もうなずいた。
そしてそのことはすぐさま桜井の父や主治医に伝えられ、すぐさまゆかりの手術に関する準備が整
えられることになった。
しかし希理子は姿を消してしまった。どれほど自宅やケイタイに電話を入れても希理子に繋がるこ
とはなかった。
最後の夏はもうすでに始まっていた。
TO
BE CONTINUED・・・
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