24th. confluence 
02/04/03 up

  

  

「────嬉しいよ」

「えっ?」

 向かい合って座っている父親の口から出たその言葉に桜井は目を見開いた。

「何年ぶり───いや、初めてだな、お前がそんな風に本心で話してくれたのは」

 その視線の先で父、修一は穏やかな笑みで笑っている。

「美紗子が死んでからはお前はいっさい私と話そうとはしなかった。話し掛ければ答えるし、周囲に

も相応の返答を返してはいたがそれが『本心』じゃないことぐらいお見通しだった。淋しいとも、ま

た父親として情けないとも思っていたがこうやってお前の本心が聞けて本当に嬉しいよ」

「父さん─────」

 話していた内容はとても穏やかな微笑を浮かべられるようなものでは、このような返答を出来るよ

うなものではない。自分が話している相手本人への憎しみから何の罪もない少女を犯し、それをくり

返すかもしれないという告白だったのだ。

 それがどうしてこんな、本当に本心からそう思っているということが全身から伝わってくるような

あたたかな情感で返ってきたのか桜井には理解出来なかった。

「矢部さんには本当に感謝しなければならないな。あの子のおかげでお前とこんな風に話が出来、こ

んな風な時間が持てたのだから」

 その口ぶりにはあえて桜井が希理子に対してしでかしてしまったことには触れないような感傷はな

かった。だけどただ純粋に桜井との対話の機会を持てたことを喜び、それを導いた現実を無視すると

いった感じでもない。それを超越した部分で希理子に対する感謝の念を口にしているのだと桜井には

───桜井だからこそわかった。

「で、お前はどうしたいんだ?」

 そんな思考に捕われていた桜井の耳にその言葉が響く。

「憎い、心底憎い私を目の前に置いてどうしたいんだ?」

「それは──────」

 答えられなかった。ずっとずっと憎んできたはずなのに、母を死に追いやった桜井家も、見殺しに

したも同然の父も何もかもを恨んで、そして将来的に破滅に導いてやろうと思い続けてきたというの

に、何故だか具体的な形や言葉はまったく出てこようとせず、そこから先の言葉をまったく見出せな

かったのだ。

「お前が私を憎んでいることは知っていた、そしてそれを何とかしなければならないともわかってい

た。だけど私にはその時間が────その余裕がなかった。私は、というべきか、私も、というべき

かわからないが私は器用な男ではない。だから2つの約束を同時に守ることなど出来なくて、だから

間違いだとはわかっていてもお前を犠牲にすることの方を選んだんだ」

 修一は変わらぬ包み込むような笑みを浮かべながら、桜井に言い聞かせる様にゆっくりと言った。

「だからお前が私を憎んでても、殺したい程憎んでてもそれは当然なんだ」

 桜井はその言葉にますます戸惑った。自分の知っている父は表面上は穏やかな、人がよさ気な様子

をしているが、本当は自信家で傲慢な男だった。それになのに今、目の前にいる男からはそんな感じ

など微塵もしない。誠実で、不器用なただの『父親』だった。

「───『約束』って」

 だから懸命に自分の中の混乱を整理しようと、とりあえず何故だか引っ掛かり、脳裏から離れよう

とはしなかったその言葉の示す意味を問うことにした。

 だがその質問に対して返ってきた答えは桜井の予想を越えたものだった。

「美紗子と───お前の母親と約束していたんだ。必ず病院を───藤が丘総合病院を世界一の病院

にしよう、少なくとも日本を変えれるくらい大きな病院にしよう、───それがお前の母親との昔か

らの夢で、あいつが私に託した夢の一つだった」

「まさか!───」

 その言葉が信じられず桜井は目を見開く。

「母さんがそんなこと言うはずがない!!病院を大きくしたいだなんてそんなこと言うはずがな

い!!」

 思わず声を荒げて反論する。

「絶対そんなことあるはずないんだ!!」

 桜井の母親美紗子は桜井家に嫁ぐまではごく一般的な、むしろ貧しいと言っても過言でない環境で

育ったごく普通の人間だった。

 現在桜井自身が通っている上南高校を卒業した後、1年間看護婦の専門学校に通った後、その頃は

桜井の祖父が委員長をしていた藤が丘総合病院に助看護婦として就職したのだ。それから3年後にイ

ンターンとして外科に勤めるようになった父と知り合い、周囲の反対を押し切って出会ってから2年

後に結ばれたのだという。

 なかなか子どもに恵まれず、自分が産まれたのは母が嫁いでから5年目のことで、周囲からは『石

女ならとっとと出ていけ』と迫害され続け、自分が産まれてからも幼い頃には身体が弱かったせい

で、満足に跡取りも産めない女にようはないとばかりに手切れ金を突き付けられて家を追い出されよ

うとしたことさえあったのだという。

 だけれどそんな状況でも母が父と離縁し、桜井の家から離れようとはしなかったのは決して財産の

為───裕福な生活な為ではない。

 何故なら母は無駄遣いなど一切しない人で、結婚前の服をずっと大事に着ていたり、普通なら捨て

てしまうような痛みのひどい洋服だって繕い直したり、それで小物を作ったりするほど几帳面で、言

い方をかえれば貧乏性な人だったのだ。

 たまに着飾ることはあってもそれは父や桜井の家の体面にキズをつけないように気を使ってのこと

で、それ以外の面で贅沢にしているのを見たことなど一度もない。豪華な外食よりおにぎりを持って

ピクニックといった『普通の幸せ』を何より好む人だったのだ。

 それなのに病院を大きくすることが夢だったなんて信じられない、信じられるわけがない。ゆえに

桜井の視線も想いも父親のその言葉に対する疑問と否定以外の何ものでもない。

「いや、本当のことだ」

 だがそんな桜井の視線をうけても修一は怯まなかった。真正面から桜井を見つめたまま、もう一度

繰り替えした。

「『日本を変えれる程大きな病院にすること』───それが私と美紗子が夢見た、描きたかった未来

なんだ」

 そう言うとソファーから立ち上がり、医員長席の後ろにある大きな窓のカーテンを開けた。

「修司、お前は今どれくらい日本で患者が医師によって見殺しにされているか知っているか?───

どれくらいの人間が病院で殺されているか知っているか?」

「えっ──────」

 突然出てきたその言葉の主旨がわからず、桜井はその続きの言葉を視線で乞うた。

「今日本では無医村や、地方の病院の絶対数の少なさばかりが問題にされているが、実際はそんな地

方都市よりも大都市の方が病院や医師が足りずに危機に瀕しているんだ───もっと重大な病に犯さ

れているんだ」

 確かに大都市には幾つも緊急指定病院があり、救急車もすぐに駆け付けてくれる。しかし救いの神

として夜間に救急で病院に運ばれても実際に待機している医師は経験の少ないインターンばかりで、

しかも超過勤務のあまり過労で誤診や治療ミスを起こしてしまっているケースも少なくない。病院に

運ばれてからやはり医師が足りないということで、そこからたらい回しにされて結局助かる命が助か

らないケースだって頻繁に起きているのだ。

「これは日本の病院経営、そして医師教育が充分じゃないからこそ起こっている問題なんだ。日本で

は医師の技術は経験がある医師の治療や手術光景を見て『盗む』ものであって、教えられるもので

も、特別に教えるものでもないという風習が伝わってきている。こんな状態ではいつまでたっても日

本の医療は変わらない、いつまでたったって助かるはずの命を見殺しにする、そんな現実がつづき続

けることになるんだ」

 その為には改革が必要だった。最高の『実践例』が必要だった。

 病院を大きくし、その知名度が上がり、日本中で認められるようになればその経営方針も、病院倫

理も自然に広がっていく。そうなればいつしか今『最高だ』といわれているすべてが『あたりまえ』

になり、『普通』になっていくのだ。

「美紗子は優しい女だった。だからいつも今の医療現状を嘆いていた。そしてそれは私も同感だっ

た。だから2人で病院を大きくしようと約束したんだ。インターンだけでなく医師もちゃんと最先端

の医療技術を学べる時間と機会を設け、障害を持った人にも通いやすく、治療を受けやすい環境を整

え、その精神を日本中に伝播出来るようにと病院を大きくしようと、2人でそんな夢を叶える為に頑

張っていた」

 実際に元看護婦だった母美紗子の意見は病院を改築する際に多く取り入れられている。看護婦とし

ての、そして患者としての経験が貴重な意見として数多く参考にされたのだ。

「だけど美紗子は病に冒されてしまった────その当時の、あれから約10年たった今でも、どう

しようもない病だった。私は迷った、美紗子に告知するか、しないか───あと残り1年あるかない

かだと告げるかどうか悩んだ。だが美紗子は自分自身の看護婦としての経験からすでに自分が助から

ぬ病だと知っていたのだ」

 結局結論を見出せぬまま向かい合った修一に対して、進行した病の影響で青ざめ、痩せこけていた

美紗子はとても綺麗な笑顔を浮かべながらこう言ったのだ。

『お手伝い出来なくなって悪いんですけど、私達の夢、絶対叶えてくださいね』

 ───すでに死を覚悟しての言葉だった。

 修一は涙がこぼれて止まらなかった。医師なのに最愛の人を見殺しにするしかないその辛さにほぞ

を噛む思いだった。だけど美紗子はそんな夫を抱き締めながら、自分は自分なりに努力をして一分で

も一秒でも長く生きてみせるから、修一には自分以外の患者を優先して治療するように約束させたの

だ。助からぬとわかっている命を切り捨てるのは医師として倫理に反することだとはわかっている

が、それでもそうするようにと約束させたのだ。

「じゃあ母さんは……母さんが危篤の時にも父さんがこなかったのは───」

「美紗子の意思だったからだ」

 その返答に桜井は愕然とした。自分がこれまで父を恨んできたその一点はそこに端を発していたか

らだ。

 修一の言葉を否定することは簡単だった。そんな証拠は何処にもないと突っぱねることはとても簡

単だった。だけどそれを理性が許さない───母との思い出がそれを許さない。だって母親は、自分

がもっとも尊敬する、優しい母親美紗子はそう言いそうな、そう言うであろう人だったからだ。

「私は美紗子との約束を果たす為になら何でもすると己に誓った。その為に雅子とも再婚した───

雅子は私が彼女を愛せぬことも、病院を大きくする為の布石として利用するためだけに結婚するとい

うことも理解して私の元に嫁いできてくれた」

 現在の母親である雅子は旧家の出身で、その父親は財界にも顔がきく名士だ。結婚した当初は自分

の死んだ母美紗子とは対照的にその家柄から鳴り物入りで歓迎された。しかしいつまでたっても子ど

もが出来ないことで今ではもちろん表立ってではないが昔の母のように離縁をするべきだという声も

上がっているのだ。

「雅子にはすまないと思っている。しかし私の心の半分は美紗子が持っていってしまった───わか

るだろう?お前には」

 瞳を重ね合わせながら修一が言う。

「────昔の私にそっくりなお前には」

 頷く、しかなかった。わかるから───ひとりの女性に心の半分を持っていかれ、その人以外欲し

くない、その感覚を嫌という程わかるから、その言葉に頷くしかなかった。

「だから私はお前に病院を継いで欲しいと思っている。桜井の家なんてどうでもいい、美紗子の優し

さも素晴らしさも理解しようとしなかったこんな家なんか潰れてしまえばいいんだ。だけど美紗子と

の約束を守る為には───少しでもこの病院を大きくし、日本中に今の医療を見直す機会を与えられ

るほどの影響力を持つにはまだ時間が必要なんだ。その為にはお前に継いでもらうのが───美紗子

の息子であるお前に継いでもらうのが一番いいと思っている。それが結果としてお前も夢見ている未

来へ近付く為の近道だと思うからだ」

「父さん──────」

 言葉が出ない。確かに父のいうとおり、父と母が目指した理想は生半可なものでは完成しない、長

い戦いになるだろう。そしてその理想は桜井の本当に医療を必要としているところで働きたいという

───もっと多くの優秀な医師が世界中に羽ばたいて欲しいという理想に通じるものがある。

 だけどだからと言って簡単に頷くわけにはいかない。これまでのことが誤解だったとしても───

自分の勝手な思い込みだったとしても、これまでの自分を簡単に切り捨てることなど出来はしないの

だ。

「ゆっくり考えるといい───まだ時間はある。病院を───私と美紗子の理想を継いでくれるかど

うかそれを決めるのは医大を出てインターンになり、ちゃんとした医師になる、それからでも遅くは

ないだろう」

 修一はゆっくりとまた先ほどまでかけていた席に戻り、桜井をまっすぐに見つめながら言い聞かせ

るように言葉をつむぎだした。

「お前の未来はお前が決めるんだ、どうしたいか、どうすべきなのか自分で選んで、自分で進め──

─その為に手助けが必要なら出来るだけしてやる。でも最後に決めるのはお前だ、お前自身の心が完

全に納得した未来を自分で選ぶんだ」

 修一の言葉が静まり返った医院長室に響いた。

「お前の未来はお前自身で決めろ。そうさせるのが───そうさせてやるのが美紗子との約束だっ

た。お前には自由に生きさせてやる───それが美紗子とした2つ目の『約束』だ」

「──────!──────」

 その言葉が桜井の中にゆっくり浸透した瞬間、やっと桜井はこれまで謎だった幾つかのことがわか

ったような気がした。

 まずは自分の一人暮らしが簡単に許可されたこと、親族がみな有名私学に行けと口はばたく言って

きていたのに、都立の上南の受験と進学が許可されたこと────これらは皆父が母との約束を守っ

て自分にさせてくれていたことだったのだと。

 次には希理子の言葉。希理子は何度も自分に対して『何にもわかっていない』と言っていた。希理

子がもしも修一からこれらの事実を聞かされていたのだとすればそう言われ続けたとしても納得がい

く。

 そしてもう一つ───自分自身の中にある苦々しい思い出。母の死後、母を馬鹿にされた自分がそ

の相手に抗議した時、父から殴られ言われた言葉───『恥をかかせるな』。

 あの言葉の意味はもしかしたら、父が自分自身のことに関して言ったことではなくて、それまでず

っと人に何と言われようとも明るい笑顔で耐え続けていた母の生きざまを守る為に、母に恥をかかせ

ぬために言った言葉だったとしたら。

 ───すべてがクリアになっていった。閉じこもっていた世界が急に広がっていったような気がし

た。

「父さん───もう一つだけ質問してもいいですか?」

「何だ?」

 修一が頷いたことを受けて桜井は心の中にわだかまり続けていた疑問を口にした。

「あなたはいったい希理子に何を依頼したんですか?───何を希理子に頼んだっていうんです

か?」

 もうわかっていたのかもしれない───いや、わかっているのだ、本当は。だけどどうしても確認

したかった───『言葉』で確認したかった。

「彼女は何と?」

 依頼人とその雇用人という関係ではなく、『秘密の約束』をした人間同士の関係として修一はその

質問に対する返答を躊躇った。

「『依頼内容はたとえその家族であっても話せない』『知りたかったら自分で聞け』とそう言われま

した」

 だから桜井は希理子に言われた通りの言葉を父親に告げた。

「そうか」

 その言葉に修一は微かに笑った。

「矢部さんらしいな」

 修一もすでに希理子のある意味真面目で融通がきかないひととなりがわかっているので、あまりに

も希理子らしいその対処法に納得し、笑みがこぼれたのだ。

 だがひとしきり笑みをおさめると、彼女からの依頼された内容についてはすべては話せないが、こ

ちらから話してもいいと思われる内容だけ教えるという前置きを置いて、修一は言葉を紡いだ。

「私の依頼は『お前の願いを叶えること』だ───『お前が選びたい未来を選ぶ為の手助けをしてや

ってくれ』、それが依頼内容だ」

 その言葉にやはりという思いがあった。そうであって欲しいと願った祈りが言葉として返ってき

た。

 そしてそれに続いたのはあまりの意外な言葉だった。

「そして逆に彼女からこの私からの依頼を受けるに際して出された条件が2つある。その内の一つは

彼女自身に関わることだから話せないが、もう一つは『私に機会を作ること』だった───『お前と

話し合う機会を作ること』だった」

「えっ───」

 言われた言葉が理解出来なかった。理性はその言葉を冷静に分解し受け入れているが、どうして希

理子がそんなことを頼んだのか理解出来なかったのだ。

「いいお嬢さんだな」

 修一は目を見開いて固まってしまった桜井にむかってそう言った。

「本当にいいお嬢さんだ」

 もうそれで充分だった。───それがすべてだった。

 

 

「……──────っ……」

 頭がくらくらした。身体中に力が入らなくて、何がなんだかわからなかった。ただわかったのがこ

の感覚が本物で、自分がまだ死んだわけではないということ───死ぬことが出来なかった、そうい

うこと。

「気がついたようだね」

 気づかうように音量を少し抑えた言葉が、まだ意識がハッキリしない希理子の上に降り注いでき

た。虚ろなまぶたの上でレースのカーテンらしきものがつくり出している陰影がゆらりゆらりと揺れ

ている。

「驚いたよ、もう少し発見されるのが遅ければ君は全身低温やけどと日射病による脱水症状で死ぬと

ころだったんだよ」

 心配と微かな批難───顔を見なくてもその声の持ち主も、その表情も希理子には手に取るように

わかった。

「……どうして、死なせてくれなかったのさ?」

 声が震えた。

「どうして、あのまま嘉幸のところに逝かせてくれなかったのさ?」

 思わず悲しさとそれ以上の悔しさに涙がこぼれた。

「どうしてなのさ、嘉弘さん」

 

 

 その小さな悲鳴は絶望よりも色濃く、幻想よりも程遠かった。

                                 

                               TO BE CONTINUED・・・

    

    

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