23th. requite 
02/03/22 up

  

  

 初めて、───だった。

 触れた肌は柔らかかった。滑らかでそれでいて張りがあり、信じられない程優しかった。

 コロンではない、人肌の持つ甘い香りは確かに鼻梁をくすぐって、熱く深く狂おしく燃えた。

 包み込まれた熱さときつさはこれまで知ってきたどの快感とも違う、その行為でしかもたらされな

いもので、人を愛するという意味でなく、この行為に溺れるものがいる理由も何となく理解出来た。

 だが理解出来たがそれだけだった。───ただそれだけ、だった。

「もう満足したかい?」

 ただ呆然とベッドの上で横たわるしか出来ない桜井に、希理子は何の感情も持たない声でそう問い

かけた。

「だったらあたしは帰るよ。料金分は御奉仕してやったと思うし」

「───……」

 その言葉にも答えられない。桜井はただただ呆然とし、衣ずれの音を微かにさせながら制服を身に

着けようとしている希理子の姿を見つめていた。

 初めてだった───自分が人を、『女』を抱いたのは。そしてまた希理子も初めてだったのだ──

─誰かに抱かれるのは。その証拠がベッドの敷布の上に無惨に広がった鮮血として記されている。

 部屋に戻るなり自ら制服を脱ぎ捨てベッドの上に横たわった希理子に自分は激情の刃を向けた。

 希理子にカネで自分の身体を売ると言われた時───自分の父親がしていると思っていたのと同じ

行為を誘われた時、桜井は全身の血が引いていくのを感じた。だけど何ごとでもないように───何

でもないことのように衣服を脱ぎ捨てる希理子を見た瞬間に、自分の中の壊れかけていた何かが完全

に崩れ落ちた。

 乱暴に希理子を組みしきその身体をむさぼったが、希理子は文字どおり自分を壊す程乱暴に扱う桜

井のその態度にも行為にも何の反論も示さなかった。自分を壊す男を受け入れ、受け止め、シーツを

ぎゅっと掴んだままで天井を見上げ続けていただけだった。

 行為に及んでいる最中にはその態度がまるで自分などカネの為にしか相手にしない───つまらな

い、ちっぽけな男だと言われているように感じて余計に激情を高まらせることになったのだが、後か

ら希理子が処女であった事実と、そしてそんな彼女にぶつけてしまった暴言から考えるとその態度が

至極真っ当で、それゆえに自分のしでかしてしまった罪の大きさに桜井は唖然とするしかなかった。

 謝る言葉もない────謝って済む問題でもない。冷静に考えれば希理子がそういう女でないこと

───カネで身体を、しかも友人の父親になど売る女であるはずなどなかったのだ。

 カネには汚いが清廉潔白を信条としている希理子だ、知人の家庭を崩壊させるようなことに及ぶは

ずもなく、そしてそういうことを嫌っているということを少なからず自分は知っていたはずなのだ。

それなのに自分は感情任せに希理子を抱いた───正確には犯した。

「じゃね」

 それだけ言って希理子は立ち上がった。動きだした第一歩目、破瓜の時特有の痛みに顔を微かにし

かめたが、それが希理子がこの部屋に入ってから初めてみせた感情らしい感情だった。

「───待ってくれ ……」

 桜井はその希理子の反応にいささか救われた気分で声を絞り出した。

 痛みに───それも自分が犯したが故に苦痛の表情をみせた女のその表情に救われるとはいささか

ならずおかしいのかも知れないが、それでも自分がしでかしてしまった過ちを過ちとしてすら認識し

てもらえないのではないかと危惧していた桜井にとって、希理子がみせたその表情はまさに救い以外

の何物でもなかったのだ。

「俺は……」

 だが続きの言葉は出てこなかった。

「俺は……」

 何とか言葉を紡ぎ出そうとするがやはり何も出てこない。

 立ち上がった希理子の背中を───正確には太ももの辺りしか見れていないわけだが、凛として揺

るぎないその姿を真正面に捉えることすら今の自分には出来なくて、桜井はぎゅっと自分の唇を噛ん

だ。

「───いいんだよ」

「えっ──────」

 掛けられた声に───その言葉に驚いて顔をあげた桜井に返ってきたのはその意外な言葉だった。

「いいんだよ」

 希理子はもう一度その言葉を繰り替えした。

「あたしはね、今あんたに感謝さえしてるんだ。あんたのおかげでかなり気が楽になれたんだよ」

 そう言って桜井を見下ろしてくる希理子の瞳はとても優しくて、表情もとても穏やかだった。

「これまであたしは自分にリミットを課してた。自分的にあれはしちゃいけない、これはしちゃいけ

ないってリミットを課してたんだ。だけど今あんたに抱かれたおかげでそのリミットも外せた───

─もう自分自身を縛る枷は存在しないんだ」

 静かに深く繊細な声が血と汗と体臭の混じりあった空気の中に透き通るように浸透した。

「結構、さ、簡単なことだったんだね。歯を食いしばってじっと我慢してりゃ、汗水垂らして働くの

より全然たくさんカネ貰えるんだもん。もっと早くやっときゃよかったよ」

「希理子──────」

 桜井はその言葉に言葉に絶句し、絶望する。強がりでなく本気で────本心でそう言っているこ

とが希理子のその言動からありありと伝わってくる。

「ありがとよ、桜井。あんたにはホント感謝してるよ」

 希理子はそう言って小さく微笑んだ。

 その笑みはまさに哀れみの笑みで─────同情の笑みで、桜井から次の言葉を奪ってしまった。

この笑みを前にして何を言ったところだとて何の意味も持ちはしない。

「じゃね」

 希理子はそれだけ言うと実にあっさりと部屋を出ていった。揺れた髪からはいつもならとても良い

芳香がするはずなのにとても荒んだ匂いがした。

「…………」

 ぱたん、と遠くで扉がしまった音を何処か他人事の様に聞きながら、桜井は乱れたベッドに突っ伏

した。

 ひどくしわがいったシーツからは確かに希理子の匂いがして、こんなこと本当じゃないと現実逃避

してしまいたがっている卑怯で卑劣で臆病な罪深い自分にその逃げを決して許そうとはしない。

 桜井はそっと希理子が流して、自分が希理子に流させた鮮血を指先で拭った。すでに幾分か乾きは

じめていて、どこか冷静な自分がこれはもう染みになって落ちないだろうな、と判断さえしていた。

 そしてその血を拭った指先を口に含んだ。

「……ぅぅっ……」

 自分と希理子の体液と、希理子の血が混じりあったそのどす黒い固まりはある種独特の匂いと味を

持っていて、信じられないような吐き気に襲われた。 

 だが桜井はもう一度指先でこびり着いた血をぬぐい取り、吐き気のおさまらぬ口へと何度も何度も

それを運び込んだ。

「……ぅぅっ……」

 その度に吐き気も何もかもがひどくなっていく。それでもそれをやめられなくて────やめたく

なくて、桜井はむさぼるようにそれを体内におさめていった。

 だって無駄には出来ないから────絶対に無駄になんか出来ないから、桜井はそれを己のうちに

おさめるしかなかったのだ。

 これは教訓だ────2度があっては絶対ならない教訓だ。だからそれを忘れぬように、絶対に忘

れられないようにすべてに刻み付ける為にそうすることしか思い浮かばなかったのだ。

 吐き気がした────ひどく吐き気がした。平気で人を傷つけられる自分に────それも自分が

一番愛し、守りたいとすら思っていた女を平気で傷つけられる自分に吐き気がした。

「────っっ…………」

 いつしか吐き気は嗚咽に変わっていた。頬の上を滲み出すように涙が伝い、乱れたベッドの上に砕

けおちていく。

 吐き気がした────ひどく吐き気がした。平気で人を傷つけられる自分に────それも自分が

一番愛し、守りたいとすら思っていた女を平気で傷つけられる自分に吐き気がした。

 だけどそんな自分をどこか冷静に見つめている自分もいた。これがお前が望んだことだと────

これこそがお前が望みつづけていた現実だとそう告げる自分が確かにいた。吐き気がした────ひ

どく吐き気がした。

 でも桜井は涙を流すことも血を口に含むことも止めようとはしなかった。口に含んだそれからは確

かに希理子の味がしたから────。

 
 

 一方部屋を出た希理子は何処へ行くものかと思案した挙げ句、昨日行こうと誘われ結局行かなかっ

た場所に足を運ぶことにした。

 場所は知っていたがそこに足を向けるのはそれが2度目だった。もうそれは今から1年近くも前の

ことで、その記憶もおぼろげに曖昧だった。

 ひっそりとした静けさにつつまれた住宅街の真ん中で、特にその色を濃厚に示しているその場所は

昼の日中に制服を着た女子高生が訪れるには奇妙すぎる場所だった。

 だが一歩その領域に足を踏み入れると、何かに導かれるように良く似たそれが並ぶ中から目指す一

角に辿り着いていた。

 他の領域が夏のことゆえに雑草などに覆われつつあるのに、綺麗に掃除されたそこには夏の暑さに

萎れつつもまだ艶やかに咲いている小さな向日葵と白い花が飾られていた。

 希理子はその花の飾られた聖域に崩れ落ちるように膝をついた。その場所は昼の日ざしでまるで鉄

板の上のように暑く焼けただれていたが、希理子はかまわずにその場に崩れ落ちた。

 じりじりと照りつける日ざしとその地面から────正確には石畳のそれから伝わってくる熱の暑

さに全身からべっとりと汗が吹き出してくるが、希理子はそれにもかまわず、ただ日光のまぶしさか

ら顔を遮るように目の上を左手の甲で覆い隠すと横たわったまま微妙だにしなかった。

 重く、だるく、痛く軋む全身はその環境に確かに悲鳴をあげている。石畳に直接触れている素肌は

このままもうしばらく放っておけば確実に火傷になるだろう程熱を持ちはじめている。

 だがそれでも希理子は動かなかった────動けなかった。

 なぜならこれは自分への罰だと思ったから────桜井をあそこまで追い込んでしまった自分への

罰だと思ったから、希理子はそこから動かなかった。

 だって自分は知っていたのだ、桜井の中にある激情を────その衝動を。

 桜井は周囲が思っているような穏やかな男ではない。むしろ危険でどう猛で残酷な男だ。だけど彼

は彼なりにそれを押さえ込み隠して生活している。

 その不安定さを希理子は結構気に入っていた。桜井の内なる葛藤を知っていたから、桜井のことを

希理子は気に入っていた。

 だけど同時に桜井のその不安定さが気に入らなかった。どう猛さも気に入らなかった。

 手に入らないとわかっているものを足掻いて無理矢理自分の物にしようとし、そしてその為にとも

なう痛みに平然と笑うその姿が気に入らなかった。だってそれは昔の自分を彷佛させたから────

すべてを失った自分を彷佛とさせたから。

 今の自分を希理子は『おまけ』だと思っている────『偽者』だと思っている。失ってしまっ

た、手放してしまった自分を取り戻す為の努力の期間でしかないと希理子は『今』を定めている。

 だから『希理子』として人と接触するのを拒んでいた。────『希理子』として求められること

を逃れてきた。

 だって自分は偽者なのだ、本当の自分を取り戻したら今の自分は消えるのだ。だから誰にも好かれ

るわけにも、必要とされるわけにもいかなかった。だって愛されたって、必要とされたって消えるの

だ。その相手が好きだと言う『今の自分』は消えるのだ。それは自分が望まぬ『自分』だから───

─『本当の自分』じゃないのだから。

 なのに自分は愛されてしまった────求められてしまった。先日唇を重ねられた時、桜井が本気

であることを────紛れもなく本気であることを自分は知ったはずだった。だからそれ以上の深入

りをさけるように努力をすべきだったのだ。

 それなのに自分はそれを怠った。そしてますます桜井を本気にさせ、今日の出来事を招いてしまっ

た。

 だからこれは、この痛みは自分への罰だ。本当の自分を取り戻すまで誰も愛さず、誰にも愛されな

いと誓ったのにそれを貫けなかった自分への罰だ。

 だけど────だけど。

「……────────」

 希理子は自分で自分の身体を包み込むように強く強く抱き締めた。そうしていないと自分への誓い

を────今ここで眠る過去に愛し、今も愛し、そして一生永遠に愛し続けていくであろう愛しい人

への誓いを破ってしまいそうだったからだ。

「ねえ嘉幸────」

 すでに暑さで衰弱し始めた虚ろな声をそう空に返す。

「あたしに一体何ができるんだろ────」

 その声に答えるものはもちろんいない。

「一体どうすればいいんだろ────」

 そしてその言葉と折り重なるように希理子は意識を失った。

 
 

「────教えてください、父さん」

 誰がどう見たっておかしな様子で桜井は父親を────あれ程憎み、軽蔑していた父親のもとを訪

ねていた。

 修一は『一体どうしたのだ?』などと在り来たりな言葉を口にはしなかった。ただ自分の執務室に

招き入れ、来客用のソファーをすすめた。

「────教えてください、父さん」

 しかし桜井はその席には掛けずにもう一度同じ言葉をくり返した。

「俺はいったいどうすればいいんですか?いったいどうすれば償えるんですか?!」

 泣き腫らしたのがありありと見える、腫れ上がった目で桜井は父親を真正面から見つめる。

「俺はアイツを犯しました───希理子を犯しました。父さんがアイツをカネで買っていたのだと、

アイツが父さんに自分をカネで売っていたのだと勝手に誤解して、アイツをぼろぼろにしたんです」

 その言葉と共に涙が伝い落ちる。

「教えてください、父さん。いったい俺はどうすればいいんですか?どうすればアイツに償ってやれ

るんですか?!」

 その声が静まり返った部屋で砕け散る。

「消えないんです、父さん。きっと消えると思ってアイツを抱いたのに、俺の中から貴方への憎しみ

が消えないんです、全然少しも消えないんです」

 桜井は父親を真正面から見つめたまま、もう一度その言葉をくり返した。

「教えてください父さん、いったい俺はどうすればいいんですか?───どうすれば貴方を憎まずに

済むんですか?」

 涙がさらに砕け落ちる。

「教えてください父さん、いったい俺はどうすればいいんですか?じゃないと俺はもう一度やります

───アイツを犯します。教えてください父さん、父さん────」


 
 
 失い行く水の匂いがすべてを覆い隠していた。



                                 

                               TO BE CONTINUED・・・

    

    

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