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「なんだか淫らな気分」
希理子は注文したセットメニューのホットドッグにかじり付きながら、向かい合って座っている桜
井に向かってそう言った。
「??」
言葉の『意味』はわかっても言葉の『真意』がわからない桜井は目を丸くするしかない。
「だってさ、モーニングコーヒーというにはチープだし、喰ってる量も尋常じゃないけど、このシチ
ュエーションって、『朝イチデート』っていうよりも『朝帰りデート』って感じじゃん」
そう言って首をくるりと振ってみせた希理子の視線の流れを追うと、出勤途中のサラリーマン達に
混ざって自分達と同じ年頃の恋人同士───おそらく終電で帰りそこねて『お泊まり』していった恋
人達が朝っぱらからイチャついている。
「なるほど」
希理子の言いたいことを正確に理解して桜井は納得する。
「確かにこれは『淫ら』だな」
実際の自分達がそうではない(なかった)ことは自分達が一番よく知っているが、端から見ればそ
う見られても仕方がないようなシチュエーションだ。
ただ普通と違うのは2人の間にあるテーブルには朝食メニューとしては通常の7、8人分のホット
ドッグだのハンバーガーだのが鎮座ましましており、それを2人で綺麗に片付けつつあることぐらい
だ。
2人は桜井の父の所有する病院を出た後とりあえず桜井のマンションの方に立ち寄った。そこで桜
井は着替えを済ませ授業の用意を荷づくると、駅前のファーストフード店へ駆け込んだのだ。
これが2人にとって約19時間振りの食事だった。桜井も希理子も昨日の昼頃から水分以外のもの
を何も口にしていなかったのだ。いろいろあって忘れていたが当然腹はすききっており、失調してい
たのが回復した食欲はそれまでの飢えを取り戻すべく2人に食べることをひたすら要求し、2人とも
必死でそれを満たしていた、というわけだ。
だがそれだとて知らぬ人が見れば『そんなに腹が減る程何やってたんだか……』と思われていても
仕方がないようなものでもある。
さすがの桜井もそこまでの推測は働いていなかったが、注文した際に平静を装いながらも驚きを隠
し切れていなかった店員を思い出しても、2人がその大量の『獲物』を運んでいる際にすれ違ったほ
かの客達の奇異なものを見るような視線を思い出しても自分達がこの店内でかなり浮いた存在である
ことは違いないだろう。
「『衣食住』の欲求の中で一番『性欲』に近いのが『食欲』だって知ってる?」
希理子はニヤつきながらからかうように言う。
「『食欲』も『性欲』も満たさなきゃ結局と子孫が残せないから、『食欲』が激しい人は『性欲』も
激しいんだって」
とりあえず桜井は朝からする会話ではない───少なくとも、実際の恋人同士ではない組み合わせ
の若い男女でするには相応しくない会話ではない、と思いつつも希理子の意見に反論する。
「それは正確じゃないと思うぞ?世の中にはどっちかだけ極端でもう片方は普通だったり、逆にどっ
ちかだけ異常に欲求が強くても、もう片方の欲求は少ない人間もいる」
「まね」
反論されるか、と思った桜井の推測とは裏腹に希理子はあっさりと肯定した。だがそれだけでは終
わらない。
「でもそのうちの片方が満たされないとわかっちゃったから、もう片方に走るケースが多いんだって
さ」
そこまでやってにやりと笑う。
「あんたの場合は一体どっちなんだろうねぇ?」
そう言ってクスクス笑う希理子は楽し気で、そしてしていた会話の内容からか少し妖艶で淫らな感
じがする。
昨日いろいろあったゴタゴタのせいで睡眠不足と精神的、肉体的疲労が現われたのか、いつもより
白く血の気が引いたその姿がなやましげで男の征服欲を確かに刺激している。
「さてね」
ますます朝からする会話ではないな、と確信しつつ、これ以上つっこまれても困るし、つっこみ返
すのはもっと何なんだし、ということでなんとかこれで切り上げようとテーブルの上に残されていた
最後のハンバーガーに手をかけた。
「とりあえず今わかってるのは早く喰っちまわないと学校に遅刻するっていうことだな」
「!!」
その言葉に希理子は慌てて時計を見やる。時刻は7時半を少しまわっていた。ここから学校までは
乗り換えが上手くいったとして30分少々掛かる。ロスを考えるとちんたらしているヒマはない。
「行くよ!あたしゃ一限から移動なんだ、早く行かなきゃ間に合わない」
そうそうに希理子は自分の分として確保していた食料を文字どおり飲み干すと、カバンを片手に慌
てて立ち上がった。
「待てよ希理子、置いてくなよ!」
慌てて桜井も自分の分を胃袋に詰め込み希理子の後を追い掛ける。
「あーあ、行っちまった……」
後片付けもしないで先に店を出ていた希理子は目の前を過ぎ去っていく電車を見ながら盛大なため
息をついた。
店のすぐ横に駅があるのだが学校へ向かう方向のプラットホームは反対側にあり、踏み切りを渡っ
てからでないと地下道を歩いて遠回りしないといけないややこしい作りになっている。
「大丈夫、すぐ来るよ」
反対側の電車も通過する為、遮断機が降りた踏み切りの前で変に落ち込んだ様子の希理子を見て桜
井はなだめるように言う。
「まだ大丈夫、間に合うさ」
だがそう言っても踏み切りはなかなかあがらない。この駅の踏み切りはある一定の時間だけ『魔の
踏み切り』という別名を持っている。いったん降りてしまうと連続して快速が通過したりしてしまう
ため、長い時では2、3分程も遮断機が降りっぱなしになってしまうのだ。
昼間の暇な時間ならともかく、1分1秒を急ぐ朝のラッシュ時にはこのわずかな時間が何倍にも長
く、貴重に感じられる。
「ああん、もう!」
それはイラチな傾向がある希理子にとってはなおさらのことで行き交う電車を見送りながら希理子
はうめき声をあげた。
「焦らない、焦らない」
焦っているのは同じだが、元来マイペースすぎる気概がある桜井は横にいる自分以上に焦っている
存在を認識することで、ますます悟りの境地を開いてみせていた。小さな子どものように素直に自分
の不快感を現す希理子を可愛いなぁなどと朝から煩悩じみたことを思っていたのも影響があるかもし
れない。
「来る時は来る、来ない時は来ない」
「ううっ」
ハッキリきっぱり言い切られた桜井のその言葉に希理子は益々顔をふくらませる。
だがその直後、思いっきり顔をしかめ直すと、今度は何を思ったのか機嫌よさげにくすくす笑いは
じめた。
「?」
その様子に今度は別の意味で桜井は面喰らう。
希理子の思考回路が余人とはまったく違う変調をすることを知ってはいるつもりだが、今回ばかり
はどういう経過を辿っているのか想像がつかない。
「希理子?!」
だから突然笑い出した希理子に桜井は素直に問いかけた。
「あ、いや何、ゴメン…」
笑いを押さえ込もうとしながらも希理子はまだ笑っている。
「もうこんなこともないんだろうと思ってさ」
「??」
わけがわからずに桜井は目を白黒させる。そんな桜井に希理子は解説してみせた。
「前もさ、あっただろ?こんなこと」
そう言って希理子は指先でくいっと小さく何かを回す仕種を見せた。そのことで桜井は希理子の示
唆したいことをふっと思い出した。
「───ああ!、あれか」
ずっと昔、今からちょうど2年程前、同じように急いでいるのに踏み切りに引っ掛かったことがあ
ったのだ。あの時は2人ではなく5人だった。公式戦だというのに伝達ミスで1年のメンバーだけに
1時間遅れた集合時間が伝達されていたのだ。
ある意味薄情で、ある意味懸命な先輩達は1年達を待たずに先に試合会場に行ってしまっていた。
そこで慌てて現3年、当時の1年組は慌てて先輩達の後を追い掛けたのだ。それでも順調に行けばな
んとかギリギリ試合開始5分前にはつけるはずだった。
しかしその学校まであと200メートルぐらいのところで『あかずの踏み切り』に引っ掛かってし
まったのだ。その時ばかりは全員が焦っていた。落ち着いていたのは部外者を装っていた希理子と桜
井だけで、焦りまくったガンなどは『平気だ』と言い張って遮断機に押し入って踏み切りを渡ろうと
までしたのだ。
「あのときは凄かったな、もう少しで葬式をあげる所だったんだから」
「まっ、アイツが助かったのも、すべてあたしのおかげさね」
そう言って希理子は高らかに笑った。事実希理子の言う通りで怒りのあまり冷静さを失っていたガ
ンは停車している普通電車の後ろから快速電車が走っているのに気付かず、希理子が後ろから『ズボ
ン破けてる!』とからかって足留めしなければもう少しでバラバラ死体になっていたところなのだ。
「でもさ、ちょっと残念だったかもね」
「どうして?」
真剣にそういう希理子が今までの会話で何処を残念に思っているのか掴みきれなくて、桜井がそう
尋ねた。すると希理子は真剣な───正確には『真剣を装った』表情でその答えを返答した。
「だってさ、事故でなくて故意に、過失で電車停めるとその遺族に損害賠償が請求されるんだろ?あ
の場合、ガンが死んじまってたら確実にそのケースだし、だとするとそのバカの代償がどれくらい掛
かってくるもんだか結構興味深いものがあったりして」
「おいおい」
桜井としては苦笑するしかない。半分以上本気でないことはわかっているが、残り数パーセントの
割り合いで確かにそれを希理子が期待しているのがありありと見えて、だけどまあ自分的にもガンが
死ぬのはイヤだけど、希理子の興味を理解してしまった自分も感じて、そうするしかなかったのだ。
「でもまあ、こんなことももうすぐ終わりだよさね」
「えっ───」
何だか先ほどまでの軽口とは明らかに違った口調での希理子のその言葉に桜井は希理子の表情を伺
う。
「もう必要無いからね、どうやらそんなことしてるヒマなくなったみたいだし」
「?」
ワケがわからない。希理子の言葉が何を示唆しているのか───『何』を必要とせず、『何故』ヒ
マがなくなったのか。ただ何となく、漠然とだが今から1時間あまり前の自分の父親と希理子の会話
が関係しているように感じ取れた。
案の定、たしかにそれは正解で、希理子は物悲しそうではありながら嬉しそうに───本当に嬉し
そうにほころんだ笑顔でこう言った。
「やっと念願が叶うんだ。ずっとずっとこの時を待ってたんだ、待ちわびてたんだ。これも全部あん
たの親父さんのおかげだよさね」
「!──────」
桜井は希理子のその表情に───言葉に秘められた想いの深さに目を見開く。
こんなに心から嬉しそうな希理子を桜井はこれまで見たことがなかった。そして見たことがなかっ
た笑顔を引き出したのが自分ではなく、自分の父で───心の奥底で憎んでいる自分の父親であると
いうその事実が辛く、激しく痛い。
だがそんな桜井に気付かずに希理子は実にあっさりとこう宣言した。
「あたしガッコウ辞めるよ。あんた達が今年の夏、決めれるか決められないか、それを見届けたらガ
ッコウ辞める」
「どう…して?」
衝撃のあまり言葉がはっきりと出てこない。だけどそんな桜井の震えるような問いかけに対しても
希理子は実にあっさりと返答を返した。
「だってもう遠回りして時間潰してる必要も、そんなヒマもなくなったからね。そんな無駄なことし
てるヒマがあったらカネをもっと稼ぎたいし、稼いどかなきゃならないだろうからね」
だがこの希理子にすれば単純明快で何の問題もない理由が思わぬところで桜井の中の引き金を引い
ていた。
「───『無駄』だって?」
普段の日溜まりを感じさせる声が絶対零度の刃を持った響きで吐き出される。
「ガッコウ通うことが───俺達と過ごすことがお前にとって時間の無駄だというのか?!」
桜井からしてみれば信じられないことだった。何だかんだ言いながらも高校生活をそれなりに楽し
んでいると思われていた希理子がそんな風に───これまでも2年余りの歳月を無駄だと感じていた
というその事実が信じられなくて───受け入れたくなくて、思わずその先を問う。
「そうだよ」
だが希理子は桜井の怒りというよりも悲痛な想いを一言で肯定した。
「これまでならともかくこれからはまったくの無駄だよ。そんなことをしてるヒマなんか全くない。
そんなヒマあるんだったら稼がなきゃ───もっともっと稼がなきゃ」
希理子の言葉は冷たく乾いていた。まっすぐに言い返す瞳がその想いが本気であることをまっすぐ
に伝えていた。
だけどそれだけではなかった───確かにそれだけではなかったのだが、桜井はそれには気付かな
かった。
ただ、希理子から伝えられた『これまで』と『これから』を否定する言葉に感情が揺さぶられ、暴
走していく思考が止められない。いろいろあったことに対する精神的疲れと昨日から寝ずで病院につ
めていた疲れことによる肉体的な疲れの両方によって客観的判断も、理性もすべて吹き飛んで自分の
心の一番正直で残虐な部分に逆らえない。
だから思わずこんな言葉を口にしていた。
「───で、お前は親父をたぶらかしたのか?」
「……なに、を……」
言われたのか、希理子には一瞬理解出来なかった。
「だから聞いてるんだよ、親父をたぶらかして───色仕掛けでもして、カネを巻き上げたのか?」
「───あんた」
たんたんと言いはなたれた桜井からの言葉に希理子は目を見開き絶句する。
だがそれは桜井を調子づかせただけで、次に紡がれた言葉は更に無慈悲で残酷だった。
「俺を利用して親父に近付いて、それで親父と寝てカネでも巻き上げたのか?」
「!!──────」
桜井の言葉と折り重なるように乾いた音が鳴った。
最初それが何処を音源としたものか桜井にはわからなかったが、数秒遅れてやってきた焼けるよう
な痛みにそれが自分の頬の上で発したものだったのだと悟った。
「あんた、最低だね」
希理子はとても冷たい目で───この世で最も汚いものを見る目で桜井を見下ろした。
「ホントにホントに最低だ」
身体も華奢で、身長も文字どおり頭一つ分希理子の方が低いのに、睨みあげているはずのその瞳は
確かに桜井を見下していた。
そしてそれ以上ものを言うのも嫌とばかりに降りていた遮断機があがりはじめていたのに合わせて
さっと身をひるがえすとすたすたと歩き始めた。
「──────てよ」
桜井は熱くなった頬を押さえながらその背中に叫んだ。
「待てって言ってるだろう!!」
それは温厚で知られている桜井にしては珍しい激昂だった。地団駄を踏むように希理子の方に近付
くと、希理子の二の腕をわし掴んで力任せに振り向かせた。
「何するんだい!!」
突然の桜井のその行動に希理子は掴まれたのとは反対の方の手を振り上げるが、それも桜井の空い
ている方の手で掴まれてしまった。
「逃げるのか?!」
苛立たし気に睨みあげてくる希理子に向かって桜井は鋭く言い放つ。
「自分が言いたくないこと、都合が悪いこと示唆されるとお前は逃げるだけなのか?!」
朝の駅前の独特の喧噪の中でその言葉がやけに鮮明に響き渡った。
「それってキッパリ肯定ってことだよな?!俺が言っていることが正解だっていうことだよな?!お
前はカネの為に俺の親父と寝てたってことだよな?!」
その言葉に希理子は動きを止めた。
「カネの為なら誰とでも寝る女だってことだよな?!」
確認でも疑問でもない、ただ希理子を辱める為だけに発せられた言葉が周囲の空気を凍らせる。
「どうなんだ、言ってみろよ、答えてみろよ?!」
「……はっ、ははっ……」
桜井のその絶叫に近い怒号に希理子はしばしうつむくと漏らすように声を立てて笑いはじめた。
「……はっ、ははっ、ははっ、はははっ……」
だがその笑い声はいつもの希理子のものではない────聞いているだけで周囲をも楽し気にして
しまう希理子の笑い声ではない、泣いているような切ない音色だった。
「何がおかしいって言うんだ?!」
桜井からしてみれば思ってもみなかったその反応に眉根を寄せながら桜井はそのわけを問いつめ
る。
「何がおかしいっていうんだ!?」
「……ははっ、うっさいよあんた……」
だがそこにかえってきたのは先ほどよりももっと冷たい瞳と、どこか諦めにも似た無感情な反応だ
った。
「人のことぐちゃぐちゃ言う前にさ、自分も正直になったらどうなのさ」
「?!」
返ってきた反応が怒りでなかったこと────そしてこのどう捉えていいのかわからぬ言葉に桜井
は希理子の次の言葉をうかがう。
「だからさ、正直に言えばいいって言ってるんだよ、『どうして俺じゃなくて親父なんだ?!』っ
て、『どうして俺とは寝てくれなくて親父なんかと寝たんだ?!』ってそう言えばいいって言ってる
んだよ。正直にそう言えば考えてやらないでもなかったのにさ」
「!!────────」
その希理子のその言葉にカッと血が上り詰めた。────血が上り詰めたのに、全身にぞっとする
ような寒気が走った。
そんな桜井を余所に希理子はこれまで進もうとしていたのとは真反対側に向かって歩き始めた。駅
とは逆の、住宅地へと────桜井のマンションがある方向へと向かって歩きはじめた。
「来ないの?」
希理子は桜井の横を通り過ぎ、5メートル程進んだ所で振り返った。
「気が変わらないうちに早くしなよ、あんたのお望みどおり相手してやるからさ」
「えっ────」
理性では理解していても、感情が納得しないその言葉に桜井は目を見開く。
だけどそんな桜井を無反応に見つめたまま、希理子はこれ以上ない淡白さでこれからの行為につい
てこう述べた。
「『一回10万』────それ以上ビタ一文まかんないから」
望んだのか、望んでいないのかわからない、でも迎えてしまった現実が確かにそこに存在してい
た。
TO
BE CONTINUED・・・
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