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その日、桜井は病院で過ごした。
自分の両親やゆかりの両親とも翌日に学校をひかえている、しかも受験生の桜井につき合うことは
ないと帰宅することをすすめたのだが帰る気にはならず、結局病院に残ったのだ。
そうして一晩つきそって夜が明けた頃、ゆかりの容態もかなり安定していることから朝練もあるこ
となので桜井は学校に行く為にいったん家に着替えに戻ることにした。
それで眠気覚ましにコーヒーを買い、それを片手に病院を出たのであるが、夏の早朝の澄み切っ
た空気は昨日からのごたごたで疲れきった身体に心地よく、桜井は大きく息をついた。
昨晩、桜井は一睡もしていない。ゆかりの病室のすぐ近くの空いている病室で交代で仮眠をとるこ
とになっていたのだが、いろいろと考えることがあって身体を休める為に横にはなっても眠ることが
出来なかったのだ。
結局いくら考えても結論など出なかった。考えても不確定要素が多すぎて、まったく結論が出せな
かった。
ただわかったのは自分が自分で思っている程『希理子』のことを知らなかった、そのことだけ。
今回のことで希理子が『PA』を始めたのがここ最近のことではなくかなり前から────少なく
とも、今わかっている段階からいえることでは1年以上前から活動していたということだ。おそら
く、ゆかりが漏れ聞いて、ゆかりから聞いた話をつなぎ合わせると2年以上前から、高校に入学した
時にはすでにPAとして仕事をこなしていたみたいなのだ。
それなのに自分はいっさいそんなことに気付かなかった。────気付いていなかった。
そう考えるとただただ自分自身の希理子のことならかなり知っているという思い込みが滑稽に思
え、その根拠のない自信が何処から来ていたものなのか考えさせられる結果となった。
すると、桜井がそんな思考を巡らせながら病院の敷地を出ようとしていると、向かおうと思ってい
た前方の、駅の方角から人陰が近寄ってくるのに気がついた。
その人陰は一瞬立ち止まり桜井のことを確認すると、またそれまで歩いていた速度に歩幅を戻して
ゆっくりと近付いてきた。
「居るだろうとは思ったけど、やっぱり残ってたんだね?」
そう言って声をかけてきたのは希理子だった。
希理子も桜井同様に疲労の色が浮かんでいる。普段なら日焼けに無頓着な割には色白で、それでい
て健康的に血色の通っている希理子の顔色が青白くくすみ、その目もとにどことなく疲れの色を浮か
び上がらせているのだ。
「ああ、やっぱり気になってな」
希理子のそんな様子に桜井は気をやるが、とりあえず聞かれたことに反応をすると、今度は自分が
『とりあえず』の台詞を返した。
「希理子もだろ?朝に弱いお前がわざわざこんな時間に来てくれるなんてさ」
「ははっ」
その言葉に希理子は小さく笑った。
「あたしの場合『ついで』だよ、『ついで』。ついゲームに集中しちまってさ、寝るの忘れてたん
だ。そしてらかなりイイ時間になっちまってたからさ、学校行くまでのヒマつぶしにゆかりちゃんの
寝顔でもこっそりのぞきに行こうかねと思っただけさ」
「オイオイ」
そんなことウソだとばればれの台詞だったが、自分が見せた優しい部分を評価されることを嫌う希
理子を気づかって、桜井はとりあえずそのウソにのったフリをすることにした。
「ま、とにかくのぞいてみる?」
「うん」
急遽桜井は朝練を自主休部することにして希理子に付き添うことにした。
病室まで案内し、音を立てないように外から中を覗き込むと、やはりまだ顔色は冴えないがゆかり
はぐっすりと良く休んでいた。
「とりあえずは大丈夫みたいだよ」
「『とりあえずは』、ね」
周囲を慮って告げられた桜井の言葉に希理子は微かに顔をしかめた。やはりゆかりの発作に希理子
は責任を感じているようだった。
希理子にしてみれば嘉弘との因縁を綺麗に清算しておかなかったことが今回の自体を招いてしまっ
たのだという思いがあり、自分がもっと上手く立ち回ればこんなことにはならなかったと責任を感じ
ているのだ。
そのことは桜井もわかっている。だけれども希理子に下手な言葉など掛けられない。100%希理
子に責任がなければ慰めや否定の言葉も出来るだろうが、結局は『希理子』という存在が引き金にな
ってしまった以上何割とまではいかないが、何%かの責任は希理子にもある。
それなのにそれを無視して慰めの言葉を口にしてもウソになるだけで余計に希理子に責任を感じさ
せてしまうことは目に見えている。だから慰めの言葉など口に出来ない。
それゆえに変わりにこんな言葉を口にした。
「もう朝飯食べたか?」
「────はぁ?」
その言葉に思わず希理子は目を丸くする。
「だからさ、もう朝飯食べたか聞いてるんだ。俺まだだからさ、よかったら一緒にって思ってさ」
そんな希理子に桜井はいつものニコニコ顔を浮かべながら相対する。
「────あんたは」
その様子に希理子は大きなため息をつくと、それでも何処か嬉しそうに笑った。
「あんたはいつもそんなんだね。『とりあえずメシ』がモットーだもんね」
「そう」
希理子の表情に明るさが戻りはじめたことに安堵して、桜井は冗談めかせながら大きく頷いた。
「『腹が減っては戦が出来ぬ』ってね」
そう言って再び敷地の外に出ようとし、病室の側をそっと離れた。
「それにしてもいい病院だね」
病室のある3階から1階まで降りて中庭沿いの廊下を通過しようとしていた時、まじまじと興味深
気に辺りを見回していた希理子がそう言った。
「そう?」
おべっかか、とも思ったのだがどうやら本気でそう思っているらしい希理子の言葉に桜井はその訳
を促す。
「だってね、本気で『バリアフリー』になってるっていうか、『バリアフリー』にしようとしてるの
がわかるよ」
そう言ってから希理子は側にあった手すりを示した。
「これだってね、ちょうどいい高さにあるし、継ぎ目もないだろ?これって結構重要なことなんだ
よ」
そう言われて見てみるとまだ早朝の時間ゆえにひとっこ一人いない廊下には一直線に途切れること
なく手すりが渡されていた。
「あたしらみたいに健康な人間にとったらさ10cmや20cm程度の隙間ってたいしたことないけ
どさ、身体が不自由な人には問題らしいんだ。とくに階段で手すりが切れてると恐くて動けなくなっ
ちまうこともあるんだってよ」
その希理子の言葉を受けて館内のことを思い返してみると、たしかに階段の手すりもちゃんと切れ
間なく繋がっている。
ずっと昔からそうだったのでそんなこと当たり前で気にしたことなどなかったのだが、確かにそう
言われてみるとこの病院のようにつなぎ目なく手すりがつながっている所は滅多にない。
「それに極力手すりの下のところにモノおかないようにしてるしさ、ドアの所にも段差がないし、何
よりエレベーター静かだったじゃん!」
希理子は心底感心したようにそう言った。そう言われて桜井は再びざっと病院内のことを思い返
し、その希理子の言葉すべてが事実そうであることを確認した。そしてあることを思い出した。
「あっ───────」
この病院は今から十数年前に現在公園として解放されている敷地から移転したものだ。その計画は
自分が誕生する前からすすめられていたそうだが、実際に設計し、建築されたのは自分が物心ついて
から後の話だ。そしてそのころ母は────自分を生んでくれた実際の母親はまだ存命中で、医師と
して、当時は病院の副院長として忙しくたちふるまってた父とほんの少しの暇をみては熱心に話し合
っていたものだ。
桜井の母は元看護婦としての立場から────そして現在病人である自分の経験からに基づいて、
当時は評価されることなどなかったが、現在では『バリアフリー』と一般に言われている、障害者で
も過ごしやすい環境の整備に力を注いでいた。
その頃の桜井にはまだそれがどういうことか理解出来なかったが当時としては画期的というか、む
しろ周囲の評価からは『そこまでやらなくても』とすら言われていたようで、普段は病気の療養の為
表にでることがなくなっていた母がこのことに関してだけは周囲に一歩も引くことなく意見を提示し
続けたこともあって、親族から余計に煙たがられるようになってしまったのだ。
完成した後には、ちょうどおりしも障害者に優しい環境作りが推進され始めていたこともあって高
く評価されることになったのだが、設計の段階では『無駄金づかいだ』とか『もっと合理的にしろ』
だとか言われることが日常茶飯事だったみたいだ。
そのことを思い出し桜井は自分の母とそして憎んでいるはずの父の偉大さを少しだけ理解した。
当時、まだ医院長だった桜井の祖父はどちらかといえば医師としてよりも経営者として利益を優先
させようと新病院の建設には極力コストを押さえようとしていた。だけどそれを父は押し退け、自分
と妻である桜井の母の意見を押し通し、結局当時としては最高レベルの医療環境を実現させたのだ。
「こんな病院めったにないよ?────こんな、『患者の立場』に立って作られてる病院っていうの
は、さ」
希理子のその言葉に桜井はそんな病院を完成させた両親への誇らしさを感じ、それと同時に希理子
にそこまで評価されているそのことに嫉妬のようなものも感じた。
そこにゆっくりというよりもゆったりとした声が響き渡った。
「どうもありがとう。当然のことをしているだけだから誉められても仕方がないことなんですが、そ
う評価していただけると嬉しいですよ」
「!────────」
その声に驚き、ふり返ると案の定、自分の、桜井の父修一だった。
「スタッフの者に聞きましたがゆかりちゃんに適切な処置をしてくださったのはあなただそうです
ね?医師として────ゆかりちゃんを娘のように思う者の一人として、お礼申し上げます」
そう言って修一は深々と頭を下げた。
「よしとくれよ」
その姿に希理子は心底イヤそうにつぶやく。
「ハッキリ言っちまえばあたしのせいでゆかりちゃんは発作起こしちまったんだ。自分に出来る全部
でゆかりちゃん助けようとするのは当然だろ?」
それこそあんたが言うように、ね?────希理子はそう言って苦笑してみせた。その様子に修一
は微笑む。
「それでも普通出来ませんよ」
「よしてくれってば」
一瞬、押し問答になってしまいそうな雰囲気すらただよったが、やはり桜井の父と言うべきか、こ
れ以上謝辞を口にすると、余計に希理子に負担になると感じてか、修一は会話をそらしてきた。
「あっ、そうそう矢部さん、頼まれてた『あれ』、何とかなりそうですよ」
「!」
その言葉に希理子は目を見開く。
「何時だい?何時手に入るんだい?!」
修一の言葉に希理子は急に活気づき、バッと修一に詰め寄る。
「一体何時手に入るんだい?!」
その希理子の声もその表情もかなり切羽詰まっているようだった。
「もうすぐですよ」
修一は落ち着くようにと促すように緩やかに微笑む。
「あと一週間程もあれば何とか出来ると思います」
「そう!」
その言葉に希理子は嬉しそうに────本当に嬉しそうに息をついた。
「やっとあたしの願いが叶うよ」
万感の想いがこもった言葉だった。
「?!」
その言葉のわけが────二人の会話の意味がわからずに桜井は目を見開くが、何時もなら周囲の
感情の変化に敏感な希理子が一切そんな桜井の様子に気付かない。
「やっと、やっと、あたしの念願が叶うよ」
希理子はもう一度そうくり返した。そんな希理子の様子を修一は微笑ましい様子で見守っている。
だがそれが────そのことが桜井には気に喰わない。
自分が希理子のことを自分が思っていた以上に知らないことを自覚したばかりだが、それでも自分
より遥かに希理子との付き合いが短い父が────自分が誰より憎んでいる父が、自分の知らない希
理子の望みを知っているそのことが気に喰わない。
「長かったよ、やっと、やっと──────」
もう言葉にすらならない希理子の感動が波紋となり空気を揺らす。
そのことがこれから数日後思わぬ出来事を引き起こすのだが、この時の2人は────少なくとも
希理子は知る由はなかった。
TO
BE CONTINUED・・・
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