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「僕を手伝って欲しいんです」
少年はそらすことない瞳でそう告げた。
「僕にはもうあまり時間がないんです。でもどうしても兄さんに───兄の嘉弘に人を信じる力を取
り戻して欲しいんです。だから僕に力を貸して欲しいんです」
ゆったりとした口調の言葉だったが、その中に秘められた真摯かつ切羽詰まった想いに希理子は─
──PAとして出会ったばかりの依頼人に驚きを隠せなかった。
依頼人が病人で、しかももうすでに余命幾許もない少年であることは理解してきていた。それゆえ
にある種荒廃した、後ろ向きな感情を内に秘めた相手であると予想をしてきていたのだ。
しかし向かい合った少年はそれとはまったく違っていた。まだ12かそこらだというのに自分の生
と死について真正面から向かい合い、そして理解し立ち向かう強さを持った強く優しい瞳をしてい
た。
だからこれまで積み重ねてきたPAとしての技術───内心の感情を綺麗に隠すことすら忘れて、
希理子は思わずこんな言葉を口にしてしまった。
「あんたさ、ホントに死ぬの?──────!!……」
言ってしまってから希理子は本気で後悔した。いくら何でもこれはキツすぎる、本人に対して聞い
ていいはずない、言っていいはずない言葉だった。
だがその希理子の失言にたいして少年はやんわりと微笑むとこくりと小さく、でもはっきりと頷い
た。
「はい、あと1年持てばいい方だと思います。長らえたとしても15歳にはなれないでしょうね」
そう告げる口調はまるで『お天気ですね』とでもいうように淡々としており、だけれども現実から
逃げているとはとても思えぬものだった。
「子どもの頃からいつ死ぬか、いつまで生きられるか、そんなことばっかり聞かされてきたから自分
の限界は理解してるつもりです。もちろん諦めてるとかいうんじゃなくて、可能性があるなら───
─チューブでベットに繋がれてただ生かされるだけじゃなくて、こうやって誰かとお話したり、青空
の下を歩くことが出来るようになる可能性が1%でもあるのなら最後まで闘うつもりですけど、おそ
らく僕は大人にはなれない───そんな時間は残されてない」
澄み切った春の日ざしの中、その言葉はとても緩やかな音色となっていた。
「────────」
そのせつなさに希理子は思わず瞳を伏せた。
「ふふっ、そんな顔しないで?」
だけどそんな希理子の頬にそっと────恐る恐るいたわるように痩せた、白い指先がのばされ
た。
「僕はまだ生きてます────生きていくんです。まだ死ぬわけにはいかない、だって僕はまだ出来
てない、兄さんを────あの優しくて、信じられないくらいお人好しで、誰からも好かれてた本当
の兄さんに戻ってもらうまで────僕がこの世界から消え去っても本当の意味でひとりぼっちじゃ
なくてすむようになるまで死ぬわけにはいかないんです」
そこまで言うと希理子にすがりつくようにしながら少年は頭を下げた。
「お願いします。僕をを助けて下さい、手伝ってください────寿命をたてにとって脅す卑怯者だ
と思われてもかまいません。だって僕は実際にあなたを脅迫してるんです───死にかけの人間、そ
れも子どもからお願いされちゃ断れないでしょ?それがわかってるから同情をかって、あなたが僕の
依頼から逃げられないようにしてるんです」
驚愕と衝撃がかくせない希理子の目の前で少年はもう一度依頼をくり返した。
「お願いします、僕をを助けて下さい、手伝ってください───兄さんに昔の兄さんに、誰にでも優
しくて、みんなから好かれてた、あの優しい兄さんに戻ってもらわくちゃ僕は死んでも死にきれない
んです」
────これが依頼人加納嘉幸とPA『霧島奈緒子』の出会いであり、これから続いていく関係の
始まりだった。
2人はまず打ち合わせをして兄嘉弘の『リハビリ』から始めることにした。『兄の幸せになる姿を
見届けること』が依頼内容だとウソの依頼内容を嘉弘に告げ、そのウソの依頼を果たす為の同志とし
て恋人同士を演じようと希理子は嘉弘と接触したのだ。
そしてそれは思惑どおり上手くいき、嘉幸以外の誰にも心を開くことがなくなっていた嘉弘は徐々
にではあるが『奈緒子』に対しても心を開くようになり、『ウソのなかのウソ』として始めた関係の
通り、いつしか嘉弘は『奈緒子』に恋をしてしまっていた。
それに対して嘉幸は嬉しそうに笑っていた。
「ホントすごいな、奈緒子さんは。僕がお願いした以上の成果を出してくれるんだもの」
「何だいそれ!」
希理子はプクリと顔を膨らませながらそんな嘉幸に抗議した。
「だってこれは『ウソ』なんだよ?ハッキリいうけどあんたが死んじまったら終わっちまう関係だ。
それなのに本気で惚れられちまってもうっとおしいだけじゃないか」
希理子は嘉幸に対して普通ではタブーとされる『死』を示す言葉をあえて封じはしなかった。それ
は嘉幸が望んだことでもあり、また同時に今を懸命に生きている嘉幸に対する希理子からの敬意の現
れでもあった。
「いいんですよ」
それゆえにそんなふうに自然に不平を口にする希理子に対して嘉幸は希理子よりも3つも年下だと
いうのにさとすような口調でこう告げた。
「生きるのに精一杯の人間に恋をする余裕なんてないもんです。恋が出来るっていうことは『外』に
対して目が向いているっていうこと────心を開いてきているっていうことです。それって凄いこ
とじゃありませんか?」
「そうかな?」
「そうですよ」
顔に疑問符を張り付けたままの希理子に対して嘉幸は笑う。
「そもそも奈緒子さんが素敵すぎるから兄さんは本気であなたを好きになっちゃったんです。それっ
て奈緒子さんの罪じゃありませんか?」
「なんだいそれ!」
それに対して希理子は反論する。
「そんなのあたしにはどうしようもないことじゃないか!女は花だよ、世界中でたった一輪しか存在
しない至高の花だ。花として生まれたからには綺麗に咲きたいのは当然で、それが毒花かどうか見分
けるのはあんたたち男の、虫としての使命だろ?勝手に手折ろうとしといて棘で傷付いたから責任と
れなんざ言われても、そんなのこっちの知ったこっちゃないね!」
「ふふっ」
その言葉に嘉幸はますます笑う。
「そう言えるのが奈緒子さんなんだよなぁ」
そう言いながら嘉幸はそっと希理子に手を伸ばした。嘉幸は癖なのかどうなのか判らないが、誰か
と話している時にはその相手に触れたがった。
「普通の人ならそんなこととても言えませんよ。思ってても口に出せないし、出そうとしない。けど
奈緒子さんはそれを言っちゃうし、言っちゃえるんですよね。ホントに凄い人だなぁ」
高校に進学してから伸ばしはじめた希理子の風にゆれる髪をもて遊びながら、嘉幸は本当に、心か
らそう思っていると言った表情で満足そうに頷いている。
基本的に誰かに触られることが嫌いな希理子だが、嘉幸の手だけは好きだった。病気の為痩せ衰え
て、ひどい言い方をすればほとんど骨と皮だけのその指が何故だかとても優しく柔らかく、決して不
快な感覚を与えないからだ。
それどころかいつも浮かべられている柔らかな笑顔そのもののように、何故だか包み込むような温
かさをその差し伸べられる指先から感じる。
だけどその感覚と嘉幸の奥面のない自分を賛美する言葉が何だか恥ずかしくて、希理子はぷいっと
顔を背けた。
「ふ、ふんっ、おべっか使ったって何も出やしないからね!あたしはあたしに正直なだけさ、誰にな
んて言われようとも自分を変える気なんざさらさらないね」
頬を赤く染めてのその言葉とその仕種は、常ならば実際の年令より少し大人びて見える希理子を幼
い少女のように変えた。
その姿を嘉幸は嬉しそうに、楽しそうに見つめながらますます優しく髪を梳き、その横顔に珍しく
ほんの少しだけ憂いを秘めた言葉を漏らした。
「あ〜あ、ホントやになっちゃうな。奈緒子さんといると捨てたはずの夢をまた見たくなってしま
う」
「?、どういう意味?」
耳に届いたその言葉に希理子は目を白黒させる。
嘉幸は生まれつきの病弱ゆえに日常生活のほとんどを制限され生きているが、それゆえに逆に生き
ることにどん欲だった。
実際の年令より遥かに大人び、冷静で思慮深く、誰に対しても優しい性格で一見気弱そうにすら見
えるのだが、実際は他人を犠牲にしたり、不幸にしたりするといったことを必要とすること以外のす
べてのことに関して嘉幸は決して自分の意志を覆すことをしようとはしない頑固さを持っていた。
たとえどれ程時間が掛かろうともこつこつと、そのときの自分に出来る精一杯であらゆることをな
しとげてきたのだ。希理子はまだわずか数カ月だが依頼人とその使用人という関係を超えた、何故だ
か心ひかれあうこの少年との交わりの中でそのことを熟知し、それなのにそんな彼らしくないその言
葉に驚きをかくせなかった。
それゆえに思わず問いかけたのだが、嘉幸は『秘密です』とにこりと笑うとそれ以上の質問を封じ
た。だがその返答に不満そうな希理子をなだめるようにたった一言だけ付け足した。
「いつか、どうしても我慢できなくなったら教えてあげますよ。本当ならそんな日が来ない方がいい
んだろうけど、奈緒子さんがそんなこと許してくれそうにないからそのうち全部教えてあげます」
そう言って笑う嘉幸の顔はやっぱり少し憂いを帯びていて、それゆえに今は問うていい時期ではな
いのだと希理子は自分に言い聞かせて、その場では『うん』と頷いた。
こんなふうにして希理子はいくつかの季節を嘉幸と過ごした。
もちろん恋人を演じている嘉弘を交えた時間の方が断然多かったのだけれど、二人きりのときには
たわいのない話をいくつもした。おしゃべりな希理子と聞き上手な嘉幸が2人で過ごす時間はいつだ
ってあっと言う間に過ぎ、強がりで弱い部分を誰にも見せたくない希理子も3つも年下なのに包み込
むように優しいこの少年に対しては何故だか素直に自分の悩みや、言葉ではどうしても言い表わしに
くいやるせなさのようなものを打ち明けることが出来た。
あくまで希理子はPAとして接する為、自分の本名や実際の生活に関して実名をあげて話すことは
しなかったが、ほんの少しでも生き延びられる可能性があるのならどんなに苦しい治療でもすすんで
受けている嘉幸のその姿を見て自分の過去を振り返り、バスケの試合中に無理をし過ぎた為に右ひざ
を傷め、その結果2度とバスケが出来なくなってしまったとわかったときに自暴自棄になってしまっ
た時のことをこう語った。
「バカだったな、ってホントそう思うよ。たぶん───ううん絶対、昔に戻れて過去をやり直すこと
が出来たとしてもあたしは同じことをしちまう────絶対に誰になんて言われようとも試合に出て
膝を壊しちまうってことはわかってるんだ。そのことに関しては反省することはないし、後悔もして
ない。けどね、今こうやって頑張ってるあんたを見てるとこう思うのさ────『本当にあの時、あ
たしは精一杯、自分のために何かが出来てたのかな』って────医者の『もうバスケは二度と出来
ないでしょう』っていう言葉を頭から鵜呑みにして、強がり言ってたって本当はバスケがしたくて、
バスケを諦めたくなんかなかった自分の為に足掻きももがきもしなかった自分が情けなく思えてき
て、たとえどんなにカッコ悪くても足掻いてもがいて叫んでたら違う『今』があったんじゃないかと
思えて仕方がないんだよ」
これは誰にも────バスケ部の友人はもちろんのこと両親や家族にさえ打ち明けたことのない希
理子の本心だった。今だから、というのももちろんあるが、嘉幸と出会う以前から希理子にはこのこ
とに関するわだかまりがずっとあったのだ。ただしそれを認めることが希理子には出来なかった、─
───いや、出来なかったというよりむしろしなかった。そうしてしまえば強くありたいと願う自分
の弱さを認めるような気がして、あえてそのことに触れようとはしなかったのだ。
だが嘉幸のほとんどゼロと変わらない確率でさえ諦めないその姿勢を間近で見て、どうしてもこの
問題から逃げ続けている自分自身が嫌になって、希理子はその想いを口にすることで慰めとか同情と
かそんなものが欲しいんではなくて、ただ単純に逃げ続けることを止めるきっかけが欲しかったの
だ。
それに対して嘉幸はそんな心の動きを読み取っていたのか希理子の独白をただじっと何も言わずに
受け止めると、ただゆっくりと言葉をひとつ紡ぎ出した。
「遅くなんてないですよ」
「えっ────」
どこか後ろめたくて、視線をそらしていた希理子が嘉幸の方に目をやると、嘉幸はいつもの穏やか
なすべてを受け止める笑みでもう一度その言葉をくり返した。
「遅くなんてないですよ。間違えてたって気づけたなら今からやり直せばいいんです。昔になんて戻
らなくたって、今出来ることの精一杯を今からやって、それで100%を目指せばいいんです。後悔
するのも反省するのもその後で幾らでも出来ますよ。気付いたなら動かなきゃ────やらなきゃダ
メですよ。ぐだぐだうじうじ考えるよりまず動くんです、出来る全部を今からやるんです。それでダ
メなら泣くなり喚くなり、八つ当たりでも何でもしてください。まあ、僕には聞くぐらいしか何も出
来ませんけど、きっと今よりずっといい気分になれますよ」
「あんた──────」
その言葉に希理子は言葉を失う。それはおそらく希理子に対する慰めというよりも、嘉幸が自分自
身に言い聞かせ続けてきた言葉で、だからこそ深くて重くて真摯で何より優しくて、希理子は思わず
涙ぐんだ。
「────泣かないで下さい、奈緒子さん」
そんな希理子に嘉幸がおそるおそる指先を伸ばす。
「たった今、泣いてもいいっていいましたけど、あなたに泣かれると何だかとてもつらくて、悲しく
なってしまいます」
そう言いながら微かに震える指先でそっと瞳の縁に浮かんだ涙を拭い、希理子に対して微笑みかけ
る。
「いつか言いましたよね、僕、『奈緒子さんといると捨てたはずの夢をまた見たくなる』って。ホン
トに奈緒子さんは許してくれないんだから困っちゃいますよ」
「?、それどういう意味?」
珍しくからかうような口調のその言葉に希理子はいささか面喰らう。そもそも今のこのシチュエー
ションにその言葉がどうして繋がってくるのかも判らない。ただ自分を穏やかに見つめ、微笑みかけ
てくるその嘉幸の瞳が、これに先立つ会話のときのように憂いを帯びていて、しかもその憂いの種類
が心の一番深い部分で希理子が求めているそれであるような予感さえして、何だかそぞろに落ち着か
ない。
そんな希理子に嘉幸は再びにこりと笑うと突然何の脈絡もなさ気な話題に振り替えた。
「ねえ奈緒子さん、どうして僕が『あなた』を雇ったか知ってますか?」
「えっ?」
前ふりのないその質問に希理子が目をぱちくりさせると嘉幸は小さく微笑んで、悪戯をした子ども
がどことなく後ろめたさを持ちながらも、それでも自慢せずにはいられないとでもいったそんな表情
で言葉を続けた。
「そもそもおかしいとは思いませんでしたか?僕があなたに依頼した内容は『兄に人を信じる心を取
り戻してもらうこと』でしたよね?その為に僕はあらかじめ兄の恋人のフリを演じてくれる女性を探
していたとあなたにもお伝えしたはずですよね。だったら兄よりもずっと年下のあなたに依頼するよ
りも、もっと年上の女性に依頼する方が自然だと思われませんでしたか?」
「……あ────」
そう言われればそうである。希理子にしてみれば事務所が勝手にあてがってきただけと思ってお
り、あまり深くは考えてはいなかったが、事務所側だってこの依頼内容を聞けば普通もう少し年上の
女性をこのアクターに選ぶはずだ。
だとすれば何らかの理由があって、あきらかに不自然な自分が選ばれたということだ。
「ごめんなさい、僕はあなたにウソをついていたんです。兄に昔の兄に戻って欲しいっていう気持ち
はもちろん本当だけど、それを手伝ってもらう為の女性にあなたを選んだのは偶然じゃなくて、僕が
『あなた』を知っていたからなんです」
「えっ────」
その言葉に希理子が目を見開くと嘉幸はゆっくりと一つの事実を告げた。
「奈緒子さん────いいえ、本当の名前は『矢部希理子』さん、現在は上南高校のバスケ部のマネ
ージャーで、昔は富士中学の女バスでポイントガードしてたんですよね?あなたは中学総体の都大会
の決勝戦で右膝を故障し、今では歩くことには支障がないけれど走れない身体になってしまった」
「……どうしてそれを?」
嘉幸の口から滑り出てきたその事実に言葉を失いながら希理子が問いかける。
すると嘉幸は初めてそこで辛そうに表情をゆがめながら、希理子に対してその答えを告げた。
「見てた、というよりも見てしまったんです。去年の秋の初めの頃、まだ松葉杖を外せてなかったあ
なたが自虐的に自分の足を殴り続けてたその姿を────」
「!────────」
それは希理子にとって誰にも知られたくなどなかった過去の姿だった。
その年の7月にバスケを断念せざるを得なくなった希理子が実際に一生バスケが出来ないのだと
『現実』として認識せざるを得なかったのがちょうどその時期だったのだ。
もうすでにほとんど足は回復したはずなのに、ちょっとしたことで激しい痛みを訴えてくるそのこ
とが否応無しに現実を希理子に押し付けて来、だけれどもまだ完全に割り切れてもいなかったその時
期は希理子にとって────いや、もともと持っていたモノを失うという悲惨な経験を負った人間に
とって、どうしても乗り越えなければならない最も辛い時期だったのだ。
希理子は想い通りに動かない足に対するいらだちで────もう二度とバスケが出来ない悲しみで
その頃情緒不安定だった。天の邪鬼で誰にも弱味を見せたくない性格なゆえに学校や家では強がって
平気な顔をしてみせていたが、誰もいないところではそのいら立ちをモノや自分自身にあたってい
た。
リハビリに行った病院の帰りには人気の少ない裏庭で松葉杖を振り回し、何度もそれで周囲の木を
殴りまくった。そして今度はそれに疲れ果てると、思う通りにならない足を何度も何度も叩き付けた
ことさえあったのだ。
もちろんそんな無茶をすればただではすまない。希理子の足は見る間に腫れあがり、膝は激しい痛
みを訴えだした。それでも希理子はそれを止めようとはせず、そんな自分の足などいっそ壊れきって
しまえとばかりにますます激しく殴り続けた。その姿をたまたま嘉幸は目撃してしまった。
希理子の通っていた病院は嘉幸の掛かりつけの病院ではない。だがその病院の医師の一人が、嘉幸
の担当医として嘉幸の掛かり付けの病院でも勤務していた。その関係でその日嘉幸は特殊な検査を受
ける目的でその病院を訪れていたのだ。
「見かけた時、止めに入ろうとは思ったんです。でも自分を殴り続けているあなたの姿を見ていると
どうしてもそこから一歩が踏み出せなくて、ただ見ているしか出来なかったんです。でもそれがひと
しきり終えるとあなたはまっすぐに立ち上がった────立てるはずないぐらい腫れ上がった足で、
あなたはまっすぐに立ち上がったんです」
瞳を閉じなくても嘉幸にはその光景を思い出すことが出来た。
黄昏れ時の感傷に満ちた切ない色彩の中、大きく肩を揺らしながら何度か呼吸を整えると、希理子
は松葉杖を軸にしてだがまっすぐに立ち上がり、その歩みに相応しい強い瞳で前方を見つめながらま
っすぐに歩き出したのだ。
それまでも奇怪な行動を見ていた嘉幸からしてみれば、希理子は泣きじゃくり、きっと弱々しい虚
ろな瞳だろうと思っていたのに、実際の希理子はそれまでの行動とは正反対に揺らぎも弱気もいっさ
い見せない姿で歩きだしていたのだ。
その姿に嘉幸は心底驚いた。これまでの長い病院生活での経験上、希理子のようなケースの人間は
幾人も見てきている。しかしこんなふうに立ち上がって去っていった人間を初めて見たのだ。
「その時僕、思ったんです。どうしてもあの人と話がしてみたい────どうすればあんなに強い瞳
で前を見すえられるのか教えてほしいってそう思ったんです。だからあなたのことを病院の看護婦さ
ん達から聞いて調べてもらっていたら、偶然あなたが『PA』をしてるって知って、それであなたの
所属する事務所にコンタクトを取ったんです」
「それじゃあ────」
そこまで聞いて希理子はすべての察しがついた。そしてそれを肯定するように嘉幸は頷いた。
「はい、だから本当は兄のことを利用して、ただあなたと話がしてみたい一心であなたを雇うことに
したんです」
それが嘉幸がウソをついていた、というよりも隠していた真実だった。
そのあまりの内容に希理子は怒ることすらも忘れてただただ唖然とし、どこか次元の違う質問を投
げかけた。
「だったらあんたがっかりしたんじゃないの?実際話してみたらこんな女だったなんてさ」
「まさか!!」
その言葉に嘉幸は即答する。
「そんなこと絶対にありえません!!実際に話してみたら、そのとき想像したのよりずっと素敵でカ
ッコよかった!僕の想像なんかぜんぜん比べ物にならないほど、あなたは素敵で、素敵すぎて───
─だから僕は捨てたはずの夢を諦めることが出来なくなってしまった」
そこまでいうと嘉幸はまっすぐに希理子の瞳を覗き込み、すこしもそらすことなく、躊躇うことも
なく、ハッキリとこう告げた。
「僕の捨てた────諦めた夢は『素敵な人と恋をすること』だったんです。大人になれないことが
わかってた僕だから、誰かに好きになってもらってもその人を残していくことが判ってるから、自分
の大好きな人を悲しませたり、困らせたりするぐらいだったら恋なんてしないほうがいいと思って諦
めたはずなんです。だけどあなたと出会って、あなたを知って、その夢が諦めきれなくなってしまっ
た────ほんの少しでもいいから長らえて、あなたの笑顔を見て、あなたの声を聞いて、あなたの
側にいたいだなんて大それた夢を抱いてしまったんです」
それこそが嘉幸の『憂い』の原因だった。嘉幸はまだたった13でしかないが大切な人を失う痛み
を知っている。以前に嘉幸が失ったのは『家族』であって、それはもちろん恋人ではないけれど、そ
れでもその辛さは身にしみて痛い程知っている。
それゆえにその『痛み』を誰かに強いるかもしれないようなことは避けたかった。たとえ『お互
い』に愛しあうことがなくても、想いを寄せられていると知っていただけでもそれなりに痛みを伴う
ものだ。
だからこそ子どもゆえの────『未経験』ゆえの潔癖さでそれを最初から拒んだ。だけれども知
ってしまった『恋心』は無邪気なだけでは許してくれなくて、嘉幸に欲望を持たせた。
すなわち『誰か』の心に残ること────自分の中に芽生えた感情を相手に告げ、その甘い疼きを
死して後、その人の中に残すこと────。
「奈緒子さんは僕を誤解してるみたいだけど、本当の僕はこういう人間なんです。────卑怯で、
卑劣で、最低の人間なんです」
そこまで言って嘉幸は希理子の審判を待った。
こうなればもうそれは『イエス』か『ノー』かしかない。それも判決の種類は嘉幸の愛を受け入れ
るか、受け入れないかではなくて、こういう行動をとった嘉之を許すか、許さないか、ということな
のだ。
それに対して希理子は数瞬の沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「────ねえ、それって『大それたこと』なのかい?」
「えっ?────」
返ってきた言葉が疑問符の様式をとっていたため、嘉幸は目をぱちくりさせた。
「あたしは誰にも恋なんかしたことないからそれがおかしいかどうかなんて判らない。でもあんたと
話してると楽しいし、嬉しいし、気持ちがいい────それがずっと続いてほしいって思うことは卑
怯で、卑劣で最低なことなのかい?」
的外れな答えで問いかけかもしれないが希理子は真剣だった。これ以上希理子の現在の心境を表せ
る言葉は世界中の何処を探しても存在しなかったからだ。
そしてそれは同時にそのとき嘉幸がもっとも欲しかった言葉でもあった。
だから嘉幸はしばしの沈黙を利用してその言葉を噛みしめると、これまで希理子に触れた中でも特
別に優しい手でそっと希理子の頬に触れた。
「いいえ────おかしくなんてありません」
その言葉と共に嘉幸の頬には涙が伝っていた。受け入れられた安堵感と幸福感が涙腺を緩ませ、知
らぬ間に涙を流させていたのだ。
「馬鹿、なんで泣いてなんかいるのさ?!」
嘉幸の流す涙の美しさに思わず見とれ、恥ずかしくなってしまった希理子は嘉幸が触れてきている
ように嘉幸の頬に手を伸ばし、いささか強引に手の平でその涙の筋を拭った。
「ごめんなさい」
そう言って嘉幸は恥ずかしそうに頭を下げたが、それでも涙は止まろうとはしなかった。
そうやっているうちにその涙が伝染したのか希理子の頬にも同じようにそれが伝い出し、お互いが
お互いに泣いてしまっていることの恥ずかしさを隠す為に互いの身体を抱き締めあった。
抱擁というにはあまりにもぎこちなく、ただ身体がかさなり合うだけのそれだったけれど、それは
まだ未成熟な心を有しあう2人にとって充分すぎる程幸福に満ちたものだった。
それからわずか半年程の後、嘉幸は自身の言葉通り大人になることなく息を引き取った。最後の最
後まで生きることを諦めず、己の病気と闘い続けての最期だった。
希理子は嘉幸の死に関しては泣かなかった。確かに悲しくて辛いものではあったが、いずれくるも
のと理解しての関係であり、そして己の死を悲しまないで欲しいというのが希理子にあてた嘉幸の遺
言だったからだ。
そしてもう一つの遺言が最初の希理子への依頼通り『兄の嘉弘に人を信じる心を取り戻させてあげ
て欲しい』というものであり、その為に嘉幸は嘉弘にあてて偽のメッセージを残していた。
本当は互いに思いあうようになっていた希理子との関係を自分自身からの一方的なものだったよう
に記し、嘉弘にとって絶対の存在であった自分ですら己を裏切る存在であったのだから、他の人間だ
ってみんなそのような弱さを抱えている存在であると示し、その弱さゆえに支えあうことが必要なの
だと知って欲しいと願ってのことだったのだ。
だがそれは嘉弘には届かなかった。偽の恋人である希理子との関係で周囲に対して心を開きつつあ
った嘉弘であったが、嘉幸を失ったショックが大きすぎて何も受け入れられなくなってしまった。
そのせいで希理子がやってきた以前よりも嘉弘は『絶対の存在』に依存するようになり、運命共同
体のように希理子だけを信じ、希理子以外のすべてを拒絶するようになってしまったのだ。
希理子は必死で嘉幸との約束を守ろうと努力した。誰にでも心を開くように────自分が演じる
『奈緒子』という架空の存在に依存せずといられるように可能な限りの手をうった。
しかし嘉弘のそれはひどくなるばかりで、結局希理子はこれ以上自分が嘉弘のそばにいると害にな
るだけだと考えて黙って嘉弘の側から姿を消した。
────これが嘉弘が知らなかった、知らされることのなかったすべての真相であり、本当の結末
だった。
「……いったい僕は嘉幸の何を見ていたんだ!ずっと一緒に居たのに、アイツの考えてることは全部
わかっていると思っていたのに────」
嘉幸の本当の『日記』に書かれていたその真実は嘉弘のすべてを打ち砕いた。
ウソから始めた関係とはいえ本当に愛しあっていたと思っていた希理子が実際は嘉幸と結ばれてい
たという事実も受け入れがたいものではあったが、それよりも何よりも自分が保護し、守らなければ
いけないと思っていた弟が、実際は思っていた以上に大人で、自分のことを案じていた事実を知って
嘉弘はその場に崩れ落ちた。
「嘉幸は言ってたよ『兄さんは僕の自慢だった』って、『今だってもちろん尊敬してるけど昔の兄さ
んは周りの人が全員心配になっちゃうほどお人好しで優しくて、だからこそ誰からも好かれてたん
だ』って。聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらいキラキラした目して、いつだってそんな話して
た」
希理子はそれだけ言って、嘉幸との約束を守れず、その兄の心を救えなかった自分のふがいなさか
ら流れ出た涙を強引に拭うと最後にもう一言だけ、と嘉弘に対して嘉幸からの受け取っていた想いを
伝えた。
「ねえ嘉弘さん、いつまであんた後ろばっかり見てるのさ?あんたの弟は────あんたの自慢だっ
た優しくて賢い弟は、いつだって前だけを見てたじゃないか!それなのにそうやって生きることの素
晴らしさを教えたあんたがいつまでもそんなでどうするのさ?そんなんじゃ何時までたっても嘉幸は
心配して成仏出来ないじゃないか」
もうそれ以上伝えることは何もないとばかりに希理子はぐるりと振り返った。
ここから先、人として本当に立ち直るかどうかは嘉弘次第だ。人は支えあって生きていくものだ
が、時にはどれほど辛くても一人で立ち上がらねばならない時がある。
だから希理子はその場に嘉弘を残し、もう2度と会うことはないであろうこの青年の側から───
昔、誰より心を通わせあった少年の兄の側から立ち去ることにした。
だがその背中に声が掛けられた。
「────待って、奈緒子」
弱々しくはあったが、現実を受け入れようとする強さがそこに現れはじめていた。それゆえに希理
子は立ち止まる。
「一つだけ聞かせて欲しいんだ。君は今でも────嘉幸が死んでから1年たった今でも嘉幸のこと
を愛してる?」
その声が静まり返った室内で確かに響いた。
「────当然だろ」
希理子はまずそう答えた。
「嘉幸とした恋は────嘉幸が教えてくれたことは一生忘れない。まだとてもそんな気にはなれな
いし、恋なんてしてる余裕ないけど、いつか誰かと嘉幸としたように愛し合える日が来るとしても、
一生嘉幸を愛し続けるよ」
そして笑う。
「だってあたしは『最低な女』だからさ、平気で二股三股掛けてやるよ────『一生モンの恋』と
してね」
その笑顔はとても綺麗で、自信と誇りに満ちたものだった。ほんの1年程度の短い時間だったけれ
ども、一緒に過ごした時間を決して後悔しないという決意というよりもむしろ、宣誓のような言葉だ
った。
そしてその笑顔を残し希理子は再び歩き出した。
『今度生まれ変わってもあなたに恋するぐらい、あなたの生きたいように生きて』────それが
嘉幸が希理子個人にあてた最期の手紙に記されていたメッセージだった。
嘉幸を失って以後、それまでもそうしてきたつもりだったが、それまで以上に希理子は『自分らし
く』生きることを貫いてきた。そして自分らしく生きる為に今希理子は自分なりの努力をしている。
「ねえ、嘉幸!」
希理子はうっすらと涙で膜がはってしまった瞳で夜空の星に問いかける。
「あたしは間違ってなかったよね?!」
返ってくるはずのない答えを無限に続く『未来』に問う。
その時星が一つ流れたが、それが肯定だったのか否定だったのか、その時の希理子にはまだ答えは
見つかってはいなかった。
TO
BE CONTINUED・・・
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