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『修ちゃんはいい子ね』
───その言葉を聞きたいが為に、いつも浮かべてくれる優しい笑みを見たいが為だけに自分は
『笑顔』を覚えた。
ただ医者として『名門』の家の血を引いているというつまらないことをかさにきて、一般の、それ
も母子家庭出身の人間であるということだけで財産目当てのように罵られ続けている母にどうしても
笑ってほしくて、ただそのためだけに笑顔を覚えた。自分が笑ってさえいれば母も笑ってくれたから
───。
そしてその『笑うこと』の唯一の目的である母が死んだ後、『笑顔』が武器になることを知った。
武器になり、そして身を守るための楯になってくれることを知った。
笑ってさえいればまだ『子ども』である自分を周囲の『大人』たちは勝手に汚れなき存在として位
置付けてくれると知り、それを利用することを覚えた。
だがそうやって『笑って』いる内に、その浮かべた笑顔が偽物だと誰にも気付かれない程『本物』
として定着してきた報いなのか本当の『笑顔』を忘れてしまった。───心から『笑う』ということ
を忘れてしまった。
だけど自分は笑うことは止めなかった。もしも笑うことを止めれば負けてしまうと思ったから──
─母を死に追いやった桜井という家に負けてしまうとそう思ったから、絶対に負けるわけにはいかな
いとそう誓っていたから笑うことを止めなかった。
そんなふうに心を切り売りするような生活の中で幼馴染みのゆかりの存在だけがある意味での救い
だった。
もともとは元気な人だったらしいが、物心ついた時から寝込んでばかりだった母と幼いころから心
臓を煩い、同じように病床にいることが多かったゆかりの姿は重なって感じられ、自分がそばにいる
ことだけで喜んでくれるその幼い存在は、荒んでいく心を少しだけ慰めてくれた。
そんなわけだからゆかりはいつだって無条件で愛し、何でもしてやりたい存在だった。
幼い時から彼女の口からくり返された『お兄様のお嫁さんになるの!』という言葉でさえ、『桜
井』という家の呪縛から逃れるために進学した高校でした出会いさえなければ叶えてやりたいと、叶
えてやってもいいと思っていた程ゆかりは自分にとって大切で愛おしい存在だった。
だけどそんな桜井の目の前でその命が失われようとしていた。ハッキリと、すぐそこに『死』が存
在していた。
「何ぼけっとしてんだい!!」
「───希理子」
激しく頬をひっぱたかれて桜井はハッと我に返った。突然の発作でゆかりの心臓が停止したのを確
認したショックで一瞬呆然としてしまっていたのだ。
「救急車!、それから心臓マッサージをするよ、絶対死なせてたまるものか!!」
ぐるりと首をふって桜井にそう指事をすると、希理子は桜井の腕からゆかりの身体を奪い取るよう
に自分の方に引き寄せ、フローリングの床の上に真直ぐに横たわらせた。そしてすこしくいっと顎を
うえに向けるようにして気道を確保するとすぐさま心臓マッサージを開始した。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10!」
横たえたゆかりの心臓のちょうど真上に左手を置き、その上に右手を重ね合わせると、そのかけ声
とともに規則正しく力を込める。そしてそれが終わるとすぐさま口移し───すなわち『マウス・ト
ゥ・マウス』で息を吹き込み、先ほどの所作をくり返す。
桜井はそれを横目で見ながらダイヤルし、救急車を手配した。
「すみません、心臓の発作を起こして心臓が停止してるんです。場所は──────」
そうやってやり取りしている間も懸命に希理子はゆかりに対して心肺蘇生法をくり返しているが全
く反応がない。マッサージで激しく打ち付けられる力に華奢な身体は力なく揺れ、まったく反応しな
い。
「ちくしょう……死なせるもんか……」
心臓マッサージを開始してから3、4分たっても一向に息を吹き返そうとしないゆかりの身体の上
で、希理子は汗だくで息も絶え絶えな様子だが、それでもその行為をやめようとしなかった。
ドラマや小説などではドラマチックに書かれるその行為は本当はとてつもない重労働なのだ。もと
もと2人分の呼吸を一人で補うということだけでも人間の身体にとって十分負担なのに、それに心臓
マッサージまでするなど、健康な成人男子でさえ5分持つか持たないかというほどのものなのだ。
それを希理子は懸命に、ただひたすらにくり返している。自分の方がふらふらになりながらもマッ
サージを施す手も呼吸もいっさい弱めることなく、ただ懸命にそのどちらもをくり返している。
だがそれももう無駄かと思われた頃、心臓が停止してから脳死のボーダーと言われてる5分を少し
経過した頃、微かな反応が合った。
「─────────……」
「───!!」
希理子はそれを見のがさなかった。すかさずぐったりしたゆかりの頬をはたき、大きな声で呼び掛
ける。
「ゆかりちゃん!!」
「ゆかり!!」
救急への電話を終え、希理子を手伝おうとすかさず寄ってきた桜井も希理子に倣い大声で呼び掛け
る。
「……お……にい……さま……」
微かに開いた口の間から、確かにそう言葉がもれた。
「ゆかり!!」
慌てて顔を覗き込むと、微かに開いたまぶたの間からうつろな瞳が小さく揺れた。それに重なりあ
うようにして呼び鈴がなる。
『桜井さん、救急です、ドアの解除お願いします!!』
インターホンの向こう側から冷静かつ、それでも急いだ様子の声が聞こえてくる。
「はっ、はい」
慌てて桜井がドアの解除に向かうとその立ち上がる桜井の背中を追ってゆかりの視線が動き、そし
てそのまま横になった状態でゆかりは再びぐたりと崩れ落ちた。
「ゆかりちゃん!!」
「ゆかり?!」
その様子に慌てて希理子が再度胸元に耳を当て、そして次には手のひらを口元にやって脈拍と呼吸
を確認する。
「希理子?!」
「大丈夫」
ドアの解除を終えた桜井を見上げながら希理子は言い切った。
「意識を失っただけ」
その言葉に桜井はほうと息をつく。
そして続いてやってきた救急隊の人々の手によってゆかりが担架に乗せられると、そのまま続いて
病院に向かった。
掛かり付けでもあり、現時点でのゆかりの主治医がいる桜井の父が経営する病院まで搬送されるこ
とになっていたのだ。
病院にはすでに連絡を受けて駆け付けてきていた桜井の両親がおり、それに引き続いて30分程後
にはゆかりの両親も姿をあらわした。
「よかったです。息子さんがきちんとした応急処置をして下さっていたおかげで助かりました。もう
少し蘇生が遅ければ脳にも障害が出たかも知れませんが、今回は大丈夫でしょう」
そう言ったのは意識をうしなったままのゆかりを診察し、ついでにそのまま休養させるために薬を
投与したゆかりの主治医に当たる心臓外科医の言葉だった。
「ありがとう、修司くん」
「本当にありがとう」
「いえ……」
涙ながらにそうゆかりの両親から感謝の言葉を受けて、桜井は困惑した表情でその言葉を否定し
た。
「そもそもは俺達がゆかりちゃんを興奮させてしまったことが原因だし、それにレキュパイしたのは
俺じゃなくて彼女の方ですから────」
そう言って向けた視線の先には外来用の処置室がある。
ゆかりとともに病院にやってきた希理子はゆかりの無事が確認されるまではと側に居たがったのだ
が、全身キズだらけの姿を見た看護婦らが希理子を取り囲み、治療を拒否する希理子を引きずり込ん
でいったのだ。
それにはもちろん桜井も手を貸し、ざっとその場に居た医師に希理子から聞いた希理子の怪我に関
するあらましを伝えて、一応レントゲンやCTなどもするように手配した。
普段の状態の希理子なら自分が本当に嫌なら周囲を蹴散らして自分の意志を突き通すのだろうが、
さすがに自分自身の事故とゆかりへの処置への疲れからかぐったりした様子で予想の3分の1も逆ら
うこともなく、素直に意志や看護婦の指事に従っていた。
「まあ、じゃあ彼女にも───たしか矢部さんとおっしゃったかしら、彼女にもお礼を言わなけれ
ば」
そうゆかりの母親が希理子の側に行こうとしたその時に、ゆかりが運び込まれた処置室の扉が開
き、中からゆかりが運び出されてきた。
「ゆかり!!」
そのことにゆかりの両親ももちろん桜井らの意識もそちらに向かう。
「病室に移して様子を見ましょう。もう大分状態も落ち着いてますので大丈夫だと思いますが」
そう言った付き添いの看護婦の言葉に促されて、面々は病院の中でも一番広くて綺麗な特別室の方
にゆかりとともに移動していった。
「─────────」
だがそれに桜井は付き従わなかった。もちろんゆかりのことは心配だし気掛かりだが、ゆかりの周
囲にはゆかりの両親に合わせて自分の両親もいる、そのことから考えて希理子の方を優先させること
にしたのだ。
独り廊下の長椅子に座り、かすかに開いたままになっている処置室の様子を伺っていると、ゆかり
が病室に移動させられてから5分程して希理子があらわれた。
「何だい、待っててくれたのかい」
出てきた希理子は桜井の姿を確認すると少し驚いたように、だけど同時に少し安心したように微笑
んでみせた。
やはり今日一日いろいろなことが合って精神的にまいっていたのだろう。普段なら絶対見せないよ
うな素直な表情と感情を希理子は浮かべた。
「ゆかりちゃんは?」
「病室に移ったよ。心配ないって、今は薬で眠ってる」
「そう」
自分自身のことでなくまず最初にゆかりの容態を問い、返ってきたその答えに希理子は満足げに頷
いた。
「あんな可愛い子が死んじまったら世界の損失だよさね」
そう言って希理子は穏やかな笑みを浮かべた。
その頬には小さな絆創膏が3つ程貼られており、その他両手や首筋など至る所に同じように治療が
施されていた。ガラス片をかぶったままでもほったらかしにしていた髪も中で洗ったようで、もとも
とつややかな髪が濡れた後独特の輝きを放ちながらその背に垂らされている。
処置室にドライヤーなど置いていないので水気を取っただけで希理子は肩にバスタオルを掛けた格
好で出てきていた。
「ゆかりちゃんのところに行ってあげなくていいのかい?」
「ああ」
了承の意味でそう頷くと、桜井はゆかりの運ばれていった病室の方に足を向けた。
「ゆかりの両親がお前に感謝してたぞ、お礼が言いたいって」
希理子にも病室に来るように促しながら桜井がそう言う。
「感謝されるすじあいなんかじゃないさ」
その言葉に希理子はぶるんぶるんと首を横に振った。
「助けるどころか、あたしがゆかりちゃん殺しかけたんだ。あわせる顔がないよ」
「希理子……」
同じ思いで桜井は立ち尽くす。
そもそも今回の発作に関しては自分がプライベート・アクトレスとしての希理子に依頼し、ウソを
ついたのが始まりだったのだ。それから思えば希理子より自分の方がよっぽどゆかりに対してあわせ
る顔がない。
「でもお前は必死でゆかりを助けてくれただろう?」
この際自分のことは棚に置いておいて桜井は希理子を励ますことにした。
「救急の人も、先生もみんなお前を褒めてたぞ、適切な処置だったって」
心肺蘇生法───すなわち心臓マッサージは時間との勝負だ。人間の脳は繊細な器官だから心停止
開始5分を経過した時からその蘇生の割り合いが急速に低下していく。もしもそれ以上経ってから息
を吹き返したとしても何らかの後遺症が出るケースが多いのだ。
だが希理子はその場で出来る最善かつ適格な方法でゆかりに処置をした。ほとんどの人が体育の授
業や運転免許を取る時に必要な知識として学んで知っているものだが、実際の現場では慌てふためい
て何も出来ずにおろおろしてしまうだけなものなのだ。
それなのに若干17歳の少女が大の大人でも出来ないであろうほど完璧にそれを施し、なおかつそ
の経過を冷静かつ適格に救急隊員たちに伝えたというそのことは賞賛に値するものだった。
「俺なんか医者の息子で自分も医者になろうとしてるのにおろおろしてるだけで何も出来なかったん
だ。希理子はすごいと思うよ」
心からそう思い、桜井は自分を恥じた。これでは何のために学業の間に医療の基礎知識を身につけ
てきたのかわからない。
だがそれに対して希理子が落ち込みはじめた桜井を励ますように言葉を紡いできた。
「しゃあないよ、誰だって───そう、本物の医者だったとしたってあんたみたいになっちまってた
かもしれないさ」
そう言ってそっと桜井に向かってまっすぐに白い手をのばす。
「自分にとって大事な人間が、しかも目の前で死にかけてるってその時に冷静でいられる人間はそう
はいないと思うよ。だけどあんたは一瞬はほうけたけどすぐに立ち直った。たいしたもんだと思う
よ」
「希理子────」
差し伸べられた手が嬉しくて、自分に触れてきたその感触が嬉しくて、桜井は小さく微笑んだ。
感情をセーブすることを身につけている桜井だが、希理子といるときときだけは『本気』で笑うこ
とが出来た。ウソで固めた、無限ともいえる経験に寄って積み重ねた笑顔ではなく、本当の感情だけ
で笑うことが出来た。
それは希理子と出会い、希理子を知り、希理子という人間と関わっていく中でいつしか取り戻せて
いた『自分』の姿だった。希理子と居る時だけは幸福だった───少なくとも今よりはずっと幸福だ
った幼い頃に戻ったように本当の笑みも感情も浮かべることが出来るようになったのだ。
「さっ、早くゆかりちゃんの側に行ってやりなよ?」
そんな桜井の様子にほんの少しだけ照れた様子で微笑むと、希理子はさっさと歩くように桜井を促
した。
「好きな人間が側にいるだけで人間ってのは不思議と勇気づけられるもんさ」
そう言って希理子も横に並ぶ。会わずに帰ろうと思っていたのだが、顔だけは見て帰ろうと気を変
えたらしい。
会おうとしても薬が切れるのはおそらく明日の朝になるだろうから、今度もことを含めて綺麗に決
着をつけるとしても後日、もう少し容態が落ち着いてからということにして無事な姿だけ確認しよう
と思ったのだ。
だがそんなふうにして病室に向かおうとしていた2人の───いや希理子の後ろ姿に思わぬ声が投
げかけられてきた。
「やっぱりここに居たんだ」
「!?」
日曜の、それも午後9時を回った病院の、静まり返った空気の中でその声は異様なまでに響き、2
人を驚かせた。
「桜井くんのお家を訪ねたみるとさ、女の子が救急車で運ばれたって聞いたから、あわてて僕もこっ
ちにやってきたんだよ」
「───嘉弘さん」
その突然の登場にさすがの希理子も一瞬唖然とし、それだけつぶやいてたちつくす。
そんな希理子に向かって嘉弘は微笑むと、希理子と同じく絆創膏だらけの手で持っていた小さなカ
バンを差し出した。
「はい、忘れ物。あの後大変だったんだよ?警察に根掘り葉掘り聞かれたりしてさ。君のことごまか
すの大変だったんだから」
「!!」
その言葉に今度は桜井が目を見開いた。
ただただ先ほどまではこの自分より幾つか年上の青年が突然現われたことに驚いていたのだが、こ
の青年のその言葉から希理子が事故に合った際に同乗していた相手だとわかったのだ。
そんな驚愕と疑問の入り交じった視線を一身に受けながらも嘉弘はいつもの桜井と同じようにある
意味鉄壁の防御となる穏やかな表情を浮かべながら、小さく会釈をするように桜井に向かって微笑ん
だ。
「残念だったね、君」
そう言ってにこやかな様子を浮かべながら嘉弘は次に思わず耳を疑う言葉を吐き出した。
「あの子が死ねば君はこんなまわりくどいことしなくても自由になれたのに」
「─────────!」
一瞬何を言われたのか分からず───いや分かっていても理解したくない言葉を言われた桜井はそ
の場に唖然と立ち尽くした。
だがそんな桜井に対してかわらず穏やかで、そして明らかに悪意に満ちた笑みを浮かべながら嘉弘
は同じ内容の言葉をくり返した。
「本当はさっさと死んでほしいと思っているんでしょう?だったらとりあえず君を『桜井家』に縛り
付ける枷は一つ減るわけだしね」
「!!」
その言葉に乾いた音が重なった。
「き…りこ─────」
驚いたのは男二人だが、声を発したのは桜井の方だった。
「──────どうしてあんたは何も変わっちゃくれなかったのさ?!」
嘉弘の頬を殴った右手の手首を掴みながら、希理子は絞り出すようにそう声を発した。
「───奈緒子?」
「どうしてあんたは何も変わっちゃくれないのさ?!」
懸命に感情を抑え、今にも泣き出しそうな、嗚咽を堪えた表情で嘉弘を睨み付けながら希理子はそ
う言葉をくり返した。
「もういいよ、あんたには無駄だし、あたしにも無理だよ、これ以上あたしはあの子の『依頼』を果
たせない───嘉幸との『約束』は果たせない!」
そう言って希理子は嘉弘が来た方に───緊急用外来入り口がある方に向かって歩き出す。
「来な」
振り向きもせず希理子は嘉弘を促す。
「あんたに『真実』を教えてやるよ────あたしと嘉幸だけが知っている、あたしたちがおかしち
まった『1年前』の真実をね」
凍り付いた空気の中でその声だけがハッキリと響いた。
TO
BE CONTINUED・・・
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