15th. scruple 
01/11/25up

  

  

「……嘉弘さん……」

 そう希理子が呼び掛けた人物は昔希理子の『恋人』であった人だった。とは言っても実際の恋人で

はない。『PA』としての関係上での恋人だったのだ。

 その時、この青年は希理子にとって『ターゲット』で、雇い主はこの青年の10歳違いの弟だっ

た。今から2年近く前、希理子が15歳の時にスタートした仕事である。希理子は雇い主の希望どお

りこの青年と『恋におち』、そして別れた。最後に会ったのは今日のように強く日射しが照りつける

も、湿度が高い蒸し暑い夏の日だった。

「探したんだよ、奈緒子。ずっと君を探してたんだ」

 穏やかな微笑をたたえながらその青年はゆっくりと希理子のすぐ側、1メートル手前の所までやっ

て来、そして手にしていた花束を差し出した。

「君が好きだっていう花、お墓の近くに持ってくるのはなんだと思ったけど、どうしても君にあげた

かったから」

 そう言って差し出されたのは直径7、8センチ程のミニひまわりをベースにした可憐な花束だっ

た。赤と金の太めのリボンに白と銀の細いリボンで飾り付けられたそれは目にもあざやかで、でもそ

れでいて決して嫌味でない上品なものだった。

「でもね、それ、君が本当に好きな花なのかな?」

 その突然の登場と行動に唖然としながら押し付けられた花束を受け取らされた希理子の顔を、青年

は覗き込むようにしながら希理子に問いかけの形をとった確認をする。

「ねえ、奈緒子────いや、『矢部希理子』さん」

 明確な音声として刻まれたその言葉に希理子は大きく目を見開いた。そしてその希理子の表情に確

かに嘉弘という名の青年が口元を緩めたのを確認して小さく肩をすくめた。

「残念ながらホントのことさね」

 汗ばんだ額に貼り付こうとする前髪をかきあげながら真正面からその青年を見つめ、そらさぬ瞳の

まま希理子らしい苦笑の笑みでその青年に対して返答を返した。

「大地からの呪縛から逃れるように懸命に背をのばして大空に向かうその勇ましい姿が、こいつが目

指してる太陽なんかよりずっと輝いていて、だからあたしはこの花が────『向日葵』が大好きな

んだよ」

 それが悪い?────とでも言いたげな挑むようなその瞳に青年はますます顔に浮かべた笑みを豊

かにした。

「よかった、それでこそ僕の大好きな奈緒子だ」

 無邪気に笑うその姿は20代半ばの青年とは思えぬ程満ち足りたもので、その満面の笑みを浮かべ

たまま、青年は着ていたサマージャケットの上着のポケットからちゃらりと鍵が付いたキーホルダー

を取り出した。

「家まで送るよ、なんだったら君の行きたいとこ────そうだね、新しい『彼』の所まででも送っ

てあげるけど」

 坂の下に止めてある白い乗用車を指し示しながら青年は希理子を促す。

「結構」

 希理子は不機嫌な表情そのままにその手をぴしゃりと払いのけた。

「か弱い乙女を付け回して喜んでるような惰弱な男の車に乗らなきゃなんない程あたしは落ちぶれた

女じゃないんだよ」

 そして何もかも見通すような鋭い瞳で青年の瞳を覗き込む。

「あんただろ?ここ2週間程あたしのこと付け回してたストーカーは」

「ひどいな、『ストーカー』はないんじゃない?」

 希理子の冷たい言葉に青年は肩をすくめた。

「僕としては探偵な気分だったんだけどな。マッキーの歌にもあるじゃない、偶然街中で見かけたい

るはずのない恋人の姿を追って後をつけて行くっていうヤツ」

「ふーん」

 だがその青年の言葉を希理子は鼻で笑った。

「こんな東京から1時間以上も離れたトコに『偶然』やって来て、しかも『今彼』の住んでるところ

まで知ってる男をストーカーじゃないっていうなんざ、結構多彩な人生歩いて来たつもりだけど知ら

なかったよ。一つ勉強になったよ、どうもありがとね」

「どういたしまして」

 情け容赦の一つもないその言葉にもその青年はひるまない。それどころかその会話を楽しむように

微笑すら浮かべている。

「ちっ」

 わかっていたとはいえやはりダメージの色を見せない青年の姿に希理子は舌打ちすると、青年の横

をすり抜けるように大股で歩き出した。

「もう結構だよ、あたしはあんたに付き合ってるヒマなんざないんだ。あたしとあんたはもう赤の他

人、恋人同士でもなんでもない、付きまとわないでおくれよ」

 その冷たい言葉を希理子は肩ごしに放り投げたが、青年は希理子との距離を離されぬように、手を

伸ばせば風に揺れる美しい黒髪に触れることが出来るであろう程度の距離を保ちながら、青年は希理

子に言葉を投げ返した。

「残念だけど僕はまだ君との別れを認めてはいないよ。本当の『君』を知っても僕はまだ『君』を愛

してる。『奈緒子』だろうが『希理子』だろうがそんなことどうでもいいよ。『君』が『君』である

なら、僕が愛した人と同じ魂を持ってるんならそんなことどうでもいいんだよ」

「何言ってんだい!」

 希理子は振り返りはせずに、だが語気を荒げてその言葉に反論した。

「『本当』の『あたし』なんざ誰も知るもんかい!あたしだってわからないから探してる最中なの

に、他人のあんたに『あたし』の『何』がわかってるって言うんだい!?ちゃんちゃらおかしいよ」

 はき捨てるような希理子の言葉に青年はゆっくりと首を振る。

「『他人』だからわかることだってあるよ。君がホントはどんなに純粋で純真で、素敵な人なのかっ

ていうことは他人の目からじゃないとわからないよ」

「はっ」

 躊躇いなく口にされた青年の言葉を希理子は笑い飛ばした。

「あんたの御託に付き合ってるヒマなんざないよ。『全部』はわかってなくたって、あたしは自分が

どんなに汚くて最低の人間かってことぐらい重々承知してるよ。綺麗事もお情けもたくさんだ、そん

な言葉2度と聞きたくないよ」

 ぐるりと一瞬だけ振り返り、軽蔑の視線を青年に向けると、希理子は先程同様に────もしくは

それ以上の早さで希理子は歩き始めた。

 だがそれだけ言われても青年はなおも余裕の笑みで希理子の後ろに付いて行く。

「じゃあもう言わないよ。でもね、もう一つ花束買ってあるんだ。僕以上に『他人』の墓に詣でるヒ

マがあるんだったらさ、ちょっとぐらい僕に付き合ってくれてもいいんじゃない?」

「お断り!」

 半分意味不明の言葉に希理子は即答すると、下り切った坂を曲がってバス停に続く道へと進路をと

ろうとした。だがそれに続く青年の言葉が希理子の時を止めた。

「それが嘉幸の墓だったとしても?」

「!───────」

 目を見開いた希理子の視界の先で青年はその希理子の反応に満足げに微笑んだ。

「さすがにこの名前には反応してくれるんだ?よかった、これであいつも報われるってなもんだろ

う」

 ゆっくりと希理子の横を通りすぎながら停めてあった車の助手席のドアを開く。

「乗って?嘉幸の────君と僕とで殺してしまった哀れな弟に会いにいこう」

 
 
 

「どうして、どうして……?!」

 ゆかりは半分泣きじゃくるような表情でそう問いかけてくるが、そう言いたいのは自分の方だっ

た。

 どうして希理子とよりにもよって自分の父親がホテルのロビーなどで会っているのか?────そ

れも密会といってもいいような希理子にしては珍しくきちんとした装いで一流ホテルのロビーなどで

現金を受け取ったり、おそらくそれと同じものと思われる白い封筒を受け取っているのか理解できな

かった。

 だけどこれまで懸命につちかってきた理性と状況判断力が何枚かの写真が示す明らかな事実を拾い

集め、仮想的過去を作り上げて行く。

 まず5日前の写真───この中には1階ロビー横のエレベーターホールでの2人の写真が何枚かあ

った。乗り込もうとしているそれと降りてこようとしているそれである。そこにはカメラ自体の時刻

表示もあるが、写真の中にも大きな時計が映し出されており時間の経過を示していた。

 その間の時間は1時間あまり。どうやら希理子はそのエレベーターから降りてきた直後に白い封筒

を受け取ったらしい。

 そして昨日の写真────そこには向かいあって座っているテーブルの上に何枚かの写真や資料と

思しき紙を広げ談笑している2人の姿があった。そこに映し出されているその写真や紙がどういった

種類のものかはわからないが、それらを前に希理子は何処か楽しげに笑っていた。

 その表情は桜井でもめったに見たことない程くつろいだもので、写真からでも2人が相当親密な関

係であることが読み取れた。そしてその談笑の後に、こちらははっきりと封筒から現金を出して確認

している希理子の姿が映し出されていた。このことから5日前に希理子が受け取っているそれも現金

であると想像出来る。

 以上これらの事実から推測出来ることは希理子と自分の父親が深い関係にあるということだ。ホテ

ルで密会し、現金を受け渡すような『深い関係』にあるということだ。

 己でその推測を立てておいて桜井にはそのことが信じられない。

 自分の父親と希理子がということ意味だけでなく、どうして父が、という想いとどうして希理子

が、というそれぞれに対してそんなことをする人間ではないという想いもあって、写真というこれ以

上ない現実を受け入れられないのだ。

 だけどそうとしか考えられなくて────考えるしかなくて、ちょっとやそっとでは裏切らない理

性が自分にこの『現実』をのみ込ませようと激しく訴えかけてくる。

「私、どうしても信じられない!だっておじさま、そんなことするような人じゃないもの、絶対違う

もの!」

 写真を持ってきたゆかりも桜井と同じ推測を立てていたらしく、渾身の力で桜井に否定を求めてす

がりついてくる。

「ゆかり…………」

 思わず希理子から相手を期待させるからやめるようにと言われていた呼び捨てで名を呼び、桜井は

口籠った。

 幼馴染みのこの可憐な少女はここに来るまでも信じられず苦悩してきたのだろう。家族ぐるみの付

き合いで、血縁関係にはないにしても下手な親族よりも深い付き合いをしてきているのだ。その自分

にとっても大切な、自分の父親の親友である桜井の父の道徳に反する裏切り行為をどうしても受け入

れたくなくて、すがる想いでここまでやってきたのだろう。

 それを思うと何とか上手いごまかしを投げかけてやりたいと思うのに、ことがことだけにいつもな

らすらすらと出てくるそんなセリフも欠片の一つすら出てこない。

「私、許せない……」

 そんな戸惑いに言葉を失っていた桜井の腕の中でゆかりは確かにそうつぶやいた。

「あの人、お兄様の恋人なのでしょう?なのにどうしてこんなにひどいことが出来るの?!────

こんな、人間として最低なことが出来るの?!」

 そこまで言ってゆかりは桜井から少し身体を離し、渾身の意志を秘めた瞳で桜井を見上げた。

「あたし絶対許さない、こんな最低なことする人、人間として最低なことし続けてきた人、絶対に許

せないんだから!!」

「………ゆ…かり?……」

 その言葉に今回のことだけではない、別の何かを示唆するニュアンスを感じ取って、桜井は自分を

ただ一途に見上げる少女に不安定な瞳を投げかける。

 するとその薄く、微かに血の色を失った硬質の口唇から桜井の予測を遥かに超えた言葉が返ってき

た。

「『プライベート・アクトレス』────そういうのでしょう?あの人がやってることって」

「!────────」

 思わず目を見開き全身を硬直させた桜井に向かってゆかりは続きの言葉を紡ぎ出す。

「お金の為なら何だってする、どんな人だって騙しちゃう、雇われた人の為にならどんなことだって

平気でする、現実世界だけの『アクター』なんだって私教えてもらったわ」

「ゆかり……」

 ただただ衝撃を受け、どう反応を返せばいいかわからないそんな桜井の前でゆかりは自分が知った

───正確には知らされた事実を桜井に突き付けた。

「お兄様は騙されているのよ、だってあの人言ってたもの、この写真くれた人言ってたもの、『自分

もあの女に騙されたんだ』って、『本当の恋人だと信じてたあの人に裏切られたんだ』ってそう言っ

てたもの!!」

 そう言いながらゆかりは再びカバンの中から1枚の写真を取り出した。今度はすこし擦り切れた、

何度も何度も手に取り見直されたであろう、そういう写真だった。

「これ見てよ、これがあの女の本性なんだから!」

 突き付けられた写真の中、一人の青年と少女が本当に幸せそうに笑っていた。愛おしそうに肩を寄

せあうその姿は一対の絵のように穏やかで、あたたかな安らぎに満ちていた。

 だけどそれはおかしくて、その人物をよく知っているはずの自分から見ると明らかにおかしくて、

桜井は思わずゆかりの手から奪い取るようにその写真を手に取り、それこそ穴が飽きそうになる程じ

っと見つめた。

 だがやはりそれは確かで、父親と自分の誰より愛する少女を映し出したその姿と同様に、確かに過

去にあった現実の姿で、それ以外の何物でもなかった。

「これね、去年の春頃の写真なんだって、去年の春頃一緒に旅行した時に撮った写真なんだって。こ

れでもお兄様はあの人信じるの?!あのとんでもない嘘つき女許せるの?!」

 ゆかりは微かに震える桜井に向かってきっぱりと宣言する。

「私は許さないんだから、絶対許さないんだから!」

 その声が桜井の脳裏に高く、強く響く。

「あの女、絶対許さないんだから!!」

 ────震える視線の先、手の中の切り取られた世界の中で『過去』の希理子は、『今』自分の父

に見せているのと同じ穏やかな表情で幸福そうに微笑んでいた。

  

 

 一方その頃、嘉弘の車に乗った希理子も桜井が今手にしているのと同じ写真を見ていた。

「懐かしいだろう、覚えてる?それが『僕達』が撮った最後の写真だ。あの時は楽しかったね、奈緒

子ははしゃぎ過ぎて池に靴片っぽ落っことしちゃったよね」

「────あたしは『奈緒子』じゃない」

 ボリュームを小さめにし、車内を希理子が好きな松任谷由実で満たしながら楽しげに話し掛けてく

る青年に希理子はすげなく言い返した。

「あ、そうだったね」

 だけどそんな口調にも青年は気分を害した様子もなく、緩やかにカーブを描いている海岸線に車を

走らせて行く。

「本当は『希理子』っていうんだったよね、ゴメンね、奈緒子」

「………………」

 訂正しても無駄だと悟り、希理子はぷいっと車外に視線をやることでそれ以上の反論を諦めた。

「あの時は山道だったけど、こんなふうにして君をナビ席に乗せてドライブしたよね?新幹線だと1

時間なのに車だと渋滞に巻き込まれて5時間以上もかかって君は着くまでずっと不機嫌だった。だれ

ど目的地に着いたとたん、それまで車酔いだの何だの言ってたのに嬉しそうにはしゃぎまわって、そ

の姿があんまり綺麗だったから僕は君が森の妖精にでもなってしまったんじゃないかと思って心配に

なったんだ」

 ゴールデンウィークを利用して行った軽井沢は高地ゆえの遅い春の到来に最も美しい季節だった。

若葉薫る散歩道、重なりあう若葉からこぼれ落ちてくる光の美しさに希理子は純粋に自然の美しさに

酔いしれた。

「これがね、僕の一番大好きな写真なんだ。君は写真はあんまり好きじゃないからってめったに一緒

に撮ってくれなかったのにこんなふうに最高の笑顔で微笑んでくれてる」

 そう言いながら器用に右手一本でハンドルを操作しながら希理子の膝の上に置かれたその写真を取

り上げ、定位置とばかりに車載のコンポの前に備えつられてある、本来なら高速の回数券を挟み込ん

でおくためのホルダーにそれを挟み込み、そして一言付け足した。

「何より一緒に映ってはなくても僕にはこの写真の向こう側に僕達と同じように笑ってる嘉幸の姿が

見えるからね」

「────────」

 その言葉に希理子は息をとめる。この青年がいう『嘉幸』────『加納嘉幸』は青年の実の弟で

あり、希理子にとって何人目かの雇い主だった。

 初めて会ったのは少年がまだ12歳の頃でそれからニ月も立たずに少年は13になり、約1年後1

4歳になれずにその生涯を終えた。小児がんだった。

 希理子はこの少年からある依頼を受け、兄である嘉弘と接触し恋人同士になった。────今から

もう2年近く前のことだ。

 最後に青年と会ったのはその依頼人、弟の嘉幸の四十九日のときのことでそれ以来希理子は一度も

青年と顔を合わせたことがなかった。

「僕にはね、未だに理解できないんだ。どうして君が去ってしまったのか────『いつわり』から

始まった関係とはいえ、僕達は確かに愛しあっていたと思うんだ」

「違う、違うよ!!」

 希理子は即座に否定する。

 しかしそれを否定するように青年はゆっくりと首を横に動かし、自らの言葉をそのまま続けた。

「ううん、君は確かに僕を愛してくれてた。なのに君は突然『自分ではダメだから』とだけ言って何

処かに行ってしまった」

 淡々とした言葉が車内を満たし、その言葉が今をその当時へと引き戻した。

 依頼主である少年嘉幸の依頼はとても変わったもので、初めてその依頼を聞いた時、希理子は目を

真ん丸にした。

 嘉幸は生まれた頃から病弱で健康には恵まれていなかった。喘息持ちで何度か救急車で運ばれる程

ひどい、命に関わるような発作を起こしていたのだという。そのうえ、少年が8歳、青年が18歳の

時に両親共に交通事故で失い、すでに両親ともの祖父母も旅立っていた為に2人きりの寂しい家庭環

境だった。

 だがありがちなごとく、もともと資産家の家庭だったゆえに周りに親族とも言えないような関係の

大人達が、この二人の兄弟が手に入れた莫大な遺産を手中に納めようとハイエナのごとく寄ってたか

って群がってきていた。

 すでに大学に進学していた嘉弘が強固にそれに反発し、両親が信頼していた弁護士が2人を法的に

守ってくれた為、その財産を死守することは出来たそうだが、それでもまだ幼い嘉幸のことをたてに

親切ぶって接近してくるものたちが後を立たなかったのだという。

 だから基本プロフィールとしてそのことをすでに承知していた希理子は、依頼してきた時にはすで

に全身に転位しているがんのせいで余命幾許もないことを知っているという少年が、自分が想像した

のとはあまりに掛け離れた存在であることに本当に驚かされた。

 確かに顔色は悪くとても中学1年の少年には見えない程背も低く肉付きもなかったが、それでも両

方の瞳には自分の未来をしっかり見据えながら、懸命に自分の運命と抗おうとする強さと聡明さに満

ちていた。

『お願いします、僕の最期の願いをかなえてください』

 少年の口からすべての事情と目的を聞き終え、病院の中庭のベンチでそう頭を下げられた時、希理

子はこの少年の強さと優しさを心から尊敬した。だから一見奇妙で、だけどこれ以上ない親愛に満ち

たその依頼に希理子は全身全霊を持ってあたることを約束したのだ。

 その為希理子は嘉弘に接触し、嘉幸が『PA』である自分に接触してきたことを告げた。そして彼

の望みが『兄の幸せになる姿を見届けること』だという依頼を明かし、自分に協力してくれることを

頼んだのだ。嘉弘はその弟からの自分に対する愛情を思って涙し、嘉幸が息を引き取るまでの間『恋

人』を演じることを了承したのだ。

 それからは桜井のとき同様に希理子の書いた筋書き通りに嘉幸の前で『恋におち』、二人────

いや三人は嘉幸の残りの余生を満ち足りたものにすることを目的に残り僅かな日々を懸命に暮らし

た。そしてそうやって1年と少しの日々が経過したある日、嘉幸は病院のベッドの上で息を引き取っ

た。

 だけどそれだけなら兄弟がともに相手を思い遣った美しい悲話で終わっていただろう。だがしか

し、事実はとんでもない方向に進んでいたのだ。

 嘉幸が死ぬ直前まで毎日つけていたパソコンの日記に自分が希理子を雇い兄を欺いていたこと、だ

けど欺くために雇ったはずの希理子に恋をし、報われない想いに絶望して一刻も早く自分に死が訪れ

ることを願う文章が記されていたのだ。そしてそれでもなお、2人の幸福を願う最期のメッセージと

共に。

 これを見た嘉弘は半狂乱になった。大切にしていた弟の、大切に想っていた人を自分が演技からは

じめたこととはいえ本当に愛してしまっていたこと、そしてそんな弟の想いに気づけなかったことに

後悔し、最期には自分と希理子が弟から生きる気力を奪い、結果として殺してしまったのだと自分を

責めるようになったのだ。

 だがそれでも弟からの最期の言葉、『2人とも幸せになってね』という望みを叶えようと嘉弘は弟

の死から立ち直ろうとした。そしてそれを希理子は────奈緒子は支えてくれようとしていたはず

だった。

 なのに奈緒子は突然別れを告げて2度と姿を見せなくなってしまった。

 その為、嘉弘は連絡をとろうにも本名も、実際の年令も知らない奈緒子を探しようがなく、嘉弘は

ただ自分の脳裏と数少ない希理子の写真を頼りに捜しまわり、やっとのことで希理子を見かけ後とつ

けたのである。

 それがインターハイ5回戦翌日、希理子が桜井の部屋を訪れた帰りのことだったのである。

 これが嘉弘が知る『事実』である。

「だからね、やっと君を見つけた時、嘉幸が僕を心配してこの偶然を与えてくれたんじゃないかって

感謝したんだ」

 本当に嬉しそうに嘉弘はそう語り、それに続く言葉を紡ぎだした。

「でもね、だからこそ許せないんだ。君の幸せは僕の幸せ、どんなに上手く演技していても、何処か

寂しそうで辛そうだった君を支えてあげたいと思ってたから、君が笑ってるのはすっごく嬉しいん

だ。だけどね、あいつはダメだよ────君が今付き合ってる『桜井修司』、あいつじゃ君を幸せに

出来ないよ」

「なっ……」

 続いて出てきた思いも掛けない言葉と名前に希理子は目を見開く。

「だってさ、あんなに可愛らしい婚約者がいるんだよ?なのに君に二股掛けて、挙げ句の果て君を悲

しませるような男、絶対に僕は許せないよ」

「何言ってるんだい!!」

 希理子はすかさず叫んだ。

「アイツはあたしの『雇い主』、あたしとアイツの間には『PA』として関係しかないよ!なに邪推

してるんだい!!」

「嘘だ」

 だがその言葉を嘉弘は即座に否定した。

「君はあの男のことをかなり意識してる、何よりあの男の方は絶対君を愛してる────わかるんだ

よ?同じ男として、同じ人間を愛している僕からすれば」

 語気も語調も強いわけではなく、声も荒げているわけではないのにその言葉は希理子の次の言葉を

封じてしまった。

「だからこそね、許せないんだ。君のこと何にもわかってないあの男が、自分が一番君のことわかっ

てるみたいに振る舞ってるの、絶対許せないんだ。だからね、すこしお灸をすえてやろうと思って、

自分がどれだけ君のこと理解出来てないか突き付けてやったんだ」

「まさか嘉弘さん、桜井に会ったのかい?!」

 その言葉が示唆する事実に希理子は目を見開き、噛み付くように問いかける。

「ううん」

 だがその返答に嘉弘は軽く首を横に振り、ハンドルを回しながらあごだけでくいっと助手席の前の

ボードを示した。

「開けてみて、面白いものが入ってるよ」

 その言葉に促されて希理子が留め具を90度回転させその扉を開けると、中からばさりと何十枚、

下手すれば100枚以上はあるであろう程大量の写真がこぼれだしてきた。

「これは────────」

 ここ数日誰かに付け回されていたことは感づいており、それゆえにこのようなこともあるかもしれ

ないと予測はしていたが、それを明らかに肯定する形としてそれらの写真が希理子の目の前に現れて

きた。

「その中でもね、特によく撮れてる写真を何枚か『桜井』くんに届けてもらったんだ。特に彼のお父

さんとの密会写真を中心に選んどいたから今頃きっと家族ぐるみのおつき合いで観賞会でもしてるん

じゃないかな?」

「あんた……」

 本当に面白そうにくすくす笑うその姿に希理子は絶句する。

「そんなにあたしが憎いのかい?!」

「まさか!」

 希理子の口からこぼれ出たその絶望的なセリフに即座に首を振る。

「愛してるよ、ホントに愛してる。だからこそ君を苦しめるあいつらが許せなかったんだ」

「『あいつら』?!」

 奇妙に語彙が引っ掛かり希理子は顔をしかめる。先程もつい流してしまったが同じように何かがお

かしいと感じたのだ。

 その原因を拾うべく嘉弘が口にした言葉を頭の中で反芻した。

 『届けてもらった』────誰に?『家族ぐるみのおつき合い』────桜井が一人で父親に詰め

寄っているだけならこんな言葉は出てこない。じゃあいったい他に誰が介在している?

「────あっ!!」

 めぐらせた思考の末出てきた人物像に希理子は悲痛な声をあげた。

「まさかゆかりちゃんにあたしのこと話したのかい?!」

「そうだよ」

 当たって欲しくないと希理子が描いた予想を嘉弘はにこやかに肯定した。

「だって彼女が一番ふさわしいだろう?なんていったって今回の君の仕事の『元凶』なんだし」

「!!」

 その言葉で希理子は嘉弘が『何もかも』を理解しているのを理解した。桜井の依頼がなんなのか、

どうしてそれが発生したのか、何よりゆかりが心臓病を煩っている少女であると知っているというこ

とを理解した。

「降ろして!」

 希理子はがちゃがちゃと助手席の扉を開けようと動かした。

「嘉弘さん、あんたいったい何考えてるのさ?!あの子に真実なんかきかせちまったら興奮して発作

起こしちまうかもしれないんだよ?!」

「それが?」

 騒ぐ希理子とは裏腹に落ち着き払い、それどころかそれが当然とばかりに面白そうに微笑みながら

嘉弘は言葉を続けた。

「だって君を苦しめたんだ。そろそろ守られてるだけじゃなくて『真実』を知ってもいいころじゃな

いのかな?」

 残り少ない命ならなおさらね────そう嘉弘は希理子に対して微笑んでみせた。

「降ろして!」

 その言葉に絶望と、それ以上の衝撃に震えながら希理子は叫んだ。

「あたしはあの子が好きなんだ、生きて幸せになって欲しいんだ、だから桜井に手を貸してるん

だ!」

 懸命に扉をこじ開けようとするが、運転席でロックされてしまっている扉はびくともしない。

「降ろして!何とか手を打って誤魔化さなきゃ、まだ弱いあの子の心じゃこの衝撃には堪えられない

よ!」

「ダメだよ」

 絞るように吐き出されたその言葉を青年は即座に否定する。

「今から嘉幸の墓参りに行く約束だろう?君を苦しめてる子の為に君がそんなに必死になる必要なん

てないよ」

「嘉弘さん!!」

 だが希理子のその悲鳴のような叫びにも青年は耳を貸さなかった。ただまっすぐに正面を見据え、

緩やかな下り坂のカーブを曲がり切ろうとハンドルを動かしていた。

「────────────!!」

「奈緒子?!」

 瞬時のためらいの末、希理子は嘉弘の握るハンドルに飛びついていた。

「停めて、降ろしてよ!!今のあたしにあんたに付き合っているヒマはない!!人の命が掛かってる

んだ!」

「離して、危ないよ、奈緒子!!」

 そう叫びあっている間にも横から希理子がハンドルにしがみついているのを取り合うようにもがき

あっている為大きく蛇行し、反対側車線にまで侵入してしまう程激しく車が揺さぶられている。

「停めて、停めて!!」

 その言葉と共に渾身の力を込めて希理子がしがみついたハンドルを自分の方────助手席に向か

って左側に切った。その反動で大きく車が左に振られ、下り坂だったこともあってブレーキは踏んで

いてもそれなりの速度でスピンし、山あいの斜面にそって設えられているガードレールに向かってつ

っこんだ。

「!!────────」


 
 
 
 次の瞬間辺り一面にフロントガラスが弾け飛び、夏の夕陽を受けてその崖の真下にある海と同様に

その輝きをまき散らした。 



                                 

                               TO BE CONTINUED・・・

    

    

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