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初めての口付けは水の味だった。
強引に蛇口に口を寄せて口内を漱いでいた希理子は顔はもちろんのこと着ているブラウスも完全に
透けて見える程しどろに濡れており、重ね合わせた口唇も当然それに濡れていた。
『────なかったことにしよう』
そう言って先に口を開いたのは希理子のほうだった。
呆然と互いを見つめあいどれぐらいの時間が経った後だったのか、気が付くと消え去っていた蝉の
鳴き声が強すぎる夏の日射しと相まって耳に付くように感じられるようになったころ、希理子はそう
言って抱きしめたままだった桜井の腕の中からするりと抜け出した。
『本当ならこれは重大な契約違反だけど、今やめるわけにはいかないからね、もうこれっきりにして
おくれよ』
何の感情も浮かばない声と表情で希理子はただそれだけを告げた。
『待ってくれ、俺は────』
その完璧な拒絶に何をどう言えばいいのかわからぬまま、桜井はとりあえず希理子を呼び止めた。
後から考えてみてもどうしてキスなどしてしまったのか自分にも理解できない。傷付き震える希理
子を癒したいと────愛しいとそう思ったのは事実だ。だけどそれがどうしてあのような行動に結
びついたのか自分でも理解できない。
傷付いた心に付け込むように身勝手な愛情と同情が自分がそうだと感じるよりも早くに身体を動か
し、希理子の口唇を己のそれとあわせ重ねてしまっていた。抱きしめてしまった身体の想像以上の柔
らかさとか細さと滴り落ちる水の冷たさが自分の犯した罪を自覚させて身体がすくんで動けなくなっ
た。
だがそんな自分の腕から抜け出してこの行為を───愚かな自分の身勝手な行動を一言で終わらさ
れてしまうことだけはどうしても受け入れることが出来なくて、身勝手を承知で桜井は希理子を呼び
止めた。
そんな桜井に希理子はやはり変わらぬ口調で告げた。
『言っただろ、あたし、「あたしに本気で惚れないで」って────「勘違いするんじゃない」って
言っただろ?わかってくれてなかったんならさ、ちゃんと心に刻み込んでよ、「《あたし》は《あん
た》を好きじゃない」ってね』
言葉にすることさえ煩わしそうな『慣れた』言葉がそこにはあった。何度も何度も口にし、おそら
く彼女に本気で恋してしまった男達を黙らせてきたのであろう言葉がそこにはあった。
『同情なんざまっぴらだよ、気安くあたしに触れないでよ、《あたし》は《あたし》だけのもの──
─《あたし》以外の人間に《あたし》の生き方を評価される筋合いなんざない』
まっすぐな────本当にまっすぐな瞳で見つめられ、宣言されたその言葉は桜井への完全な拒絶
であり希理子自身にとっての宣誓だった。
『────どうしてなんだ?』
だがその何処か思いつめたような表情とかたくなさが自分自身への拒絶よりも苦しくて、桜井は思
わず問いただしていた。
『どうしてお前はそれほど《誰か》を拒むんだ?《誰かからの愛情》を拒むんだ?今のお前はまるで
────』
そこから先の言葉を桜井は懸命にのみ込んだ。言えば口にした方も口にされた方もどちらもが傷付
くだけの言葉だとそのことだけはどうしても疑いようのない事実だったので、桜井はあえて口にはし
なかった。
だけどその言葉を希理子は続けた。
『まるで怯えているかのようだ────かい?』
『!────────』
他人事のように言われたその言葉に桜井は目を見開いた。その視線の先で希理子は笑っていた。そ
れはまさに自嘲の笑みで、小さくゆがめられた口元は自らを恥じているかのようだった。
だが続けられた言葉は自らのことではなくて、逆に桜井に対する問いかけだった。
『だったら聞くけどさ、あんたはどれだけ《あたし》を知ってるんだい?あたしが《何》 に怯えてい
るのか本当に知っているのかい?』
『それは────────』
答えられない。よく知っているはずだと信じていた希理子のことを自分はつい最近本当は何も知ら
なかったのだと思い知らされたばかりだ。『PA』しかり今のこの独りで涙するキズの深さしかり─
───本当に大切なことなど自分は何一つ知らなかったのだ。
『だったら黙っててよ、百のうち2、3しか知らない人間に自分のなかグチャグチャにかき回され
て、それでもあんた笑って答えてやれるってんのなら《あたしの全部》教えてやるよ────あんた
に全部くれてやるよ』
希理子は笑った─────その言葉と共にまるで華のようにわらった。その完璧な拒絶に桜井はそ
れ以上の問いかけも言い訳も出来はしなかった。
それに満足したのか希理子は本当に何ごともなかったかのように自分で桜井に向かって投げ付けた
カバンを手に取ると、桜井にも立ち上がり歩くことを促した。
学校へ戻る道すがら、桜井が希理子にゆかりから別れを告げられたことを報告すると、じゃああと
もう一歩だねと満足そうに微笑んだ─────もう終わりだねと満足そうに微笑んだ。
その気まずささえも存在する余地を与えない忘却に桜井は自分が希理子にとっての何者へもなりえ
なかった現実を否応がなしに突き付けられた。何故ならもしも少しでも『何か』になれる可能性があ
るのなら、これほど完璧な忘却を出来ようはずがないからだ。
その後、学校に戻って簡単な反省会と祝勝会を終えた後、希理子は何か用事があるからと言ってそ
そくさと帰っていった。翌日───つまり今日、身体を休める目的もあって半日だけということだっ
た練習にもある意味いつものごとく希理子は顔を出しはしなかった。試合でもない日に希理子が部に
顔を出すことなど稀で、しかも日曜日になどやってくることなど当然のごとくありえなかったのだ。
だが昨日の帰り際、最後のつめの話がしたいと言うことで耳打ちした言葉の返答にじゃあ明日の昼
から家に行くという返事を貰っていたので、桜井は独り自室で希理子の訪問を待っていた。
時刻は午後4時少し手前、1時過ぎには帰宅したというのに希理子はまだやってこない。具体的な
時間まで決めていたわけではないので文句を言える筋合いはないのだが、いったい何時に来るのだと
思ってしまっても仕方がない時間ではある。
とりあえず授業の予習を終え独自の受験勉強をしながら待っているのだが、やはりいつものように
は集中できず思わず室内を見回してしまう。部屋の至る所には希理子が残していった『細工』が幾つ
か存在していた。
例えば食器棚のなかに置かれているチェックの模様のマグカップ、TVボードのなかに片付けられ
ているコンビニコスメが特集のタウン誌、電話器の横の観葉植物のポットの横には小さなヘアピン─
──これらはすべて希理子が先日訪れてきた際に仕掛けていったものだ。一人暮らしの男性の部屋に
あってはおかしい、だけど『恋人』がいるなら納得が出来るごく自然な持ち物&忘れ物たちだ。
そのどれもが実際に愛用の品なのだと希理子自身が語っていた。実際に使っていたものでなければ
リアリティが存在しないからと言って持ち込んできたのだ。中には実際に希理子が使用しているとこ
ろを見たことがある品もある。
それゆえに事実ではないのに部屋中の至る所で『希理子』という存在が息づき、まるで本当に希理
子がこの部屋に幾度も来ていたかのように感じさせるのだ。
恋人に別れを告げられた男というのはこういう気持ちなのだろうか?────思わずそんなことを
考えて桜井は部屋に残されているそれらの品々を見て自嘲的に笑った。あるはずのない思い出までも
が勝手に切なく胸を締め上げてくるのだ。
なのに同時に不思議な感覚もある。客観的に見ても主観的に見ても自分が『ふられた』という事実
は明らかであるというのにどうしてもそうとは思えないのだ。
なぜなら確かに自分に希理子にふられたのではあるが、それは希理子が『桜井』だから拒絶したの
ではなく、『自分に焦がれる者』だったからふられたような気がするからだ。
希理子は何かを怖れている───自分にはそれが何故だかわからないけれど、自分が愛されること
を怖れている。
今自分達が演じているように愛し愛される関係についてあれほど希理子は造詣の深いような素振り
を見せるのに、それが自分自身がからんだことになると一切拒絶しているのだ。思い返してみるとこ
のような関係───つまりはPAと雇い主という関係になる以前、自分は希理子を想ってはいたがそ
れを告げることも示唆することもしてはいなかったただのチームメイトだった時でも希理子は何故か
誰かから特別に想われることを拒んでいたような気がする。
性格は良い様にいえば独創的、はっきり言ってしまえばかなり歪んでいる希理子ではあるが、その
見た目に関しては誰もが認めるものだった。自分も初めて近くで会話した時にその美しさに圧倒され
たことを覚えている。
だからそれゆえに希理子に言い寄る者は多かった。特にその破天荒すぎる性格がまだあまり知れ渡
っていなかった1年の時には上級生からよく告白されていたようだった。だけどそのどれにもハイと
頷いた形跡はない。それどころかわざと嫌われるように仕向けてまでさえ自分に向けられる愛情を拒
絶していた節がある。
まあ確かに例外はあるだろうが、自分に寄せられる好意は誰からのものだ。例え同じ気持ちは返せ
なくてもそれなりの形や誠意で応えてあげたいと思うのが普通だろう。
だけど希理子は違う、明らかに違う。誰かに『特別』に思われるくらいなら、いっそその存在を消
して欲しいとさえ思っているようだった。
なのに同時に希理子は誰かの中に存在しうることを求めている。『誰か』の中の瞳に自分の存在を
確認するかのように気が付くと周囲を観察している。
その矛盾が自分には理解できない。『愛されたくない』のに『存在したい』など普通では考えられ
ないことだ。
それに希理子は『恋愛をしているヒマはない』とも『恋愛は余裕がある人間だけが愉しめばいい道
楽だ』とも言っていた。そんな時間があればカネを稼ぐのだと。
確かに希理子はカネの亡者のようなところがあるが、決して贅沢を好む人間ではない。ブランド品
には興味を示さないし、私服だってフリマでまとめ買いしたとか自慢げに話している。
実際希理子がどれだけの額を受け取っているのかは知らないが、PAの料金はかなり高額だ。手数
料で半額取られていたとしても高校生がバイトで稼ぐ額を遥かに上回っているはずだ。だがその稼い
だ金を何に使っているのか───もしくは何に使おうとしているのかまったく見えてはこない。
これから思うに果たして希理子は『カネがないから余裕がないのか』それとも『余裕がないからカ
ネを稼いでいるのか』、そんなことすらわからない。
そもそもどうして希理子はPAなどしているのだろう?PAなどという普通の人間ではその存在さ
え知らないような職業についているのだろう?────疑問符が幾つも浮かんできて、だけどそのど
れにも解決の糸口さえ見出せなくて何が何だかわからなくなる。
そんな時、部屋の呼び鈴がなった。 マンションの入り口に設えられているオートロックの玄関に来
訪者が来たというサインだった。
「はい──────」
『お兄様───』
やっと希理子が来たのかと思い、桜井はそれまでの思考を振り払うように勢いよく立ち上がった。
そしてインターフォンの受話器を取るとそこから聞こえてきたのは希理子の声ではなく、だが聞き慣
れた少女の声だった。
「ゆかりちゃん?!」
来訪される約束は受けていなかった。彼女がやってくる時はいつも前日までに在宅の確認があった
のだ。
なのに今日はまったく予告なしにやってきたものだから、昨日の今日ということでさすがの桜井も
驚きを隠せなかった。
『お話があるの、お兄様───おじゃましてもいいかしら?』
インターホン越しに伝わってくる声色はどこか震え強張っていた。
「いいよ、上がってきて」
その様子に桜井は何ごとかといぶかしみながら慌てて玄関のロックを解除した。ゆかりが部屋にた
どり着くまでのほんの2、3分の間、素早く思考をめぐらせるが何一つ想像が付かない。昨日の別れ
際の様子から考えてどうしてゆかりが自分の元を訪れて来るのかまったくわからなかった。
そうこうしている内にゆかりがエレベーターで桜井の部屋がある7階にたどり着き、今度は部屋に
設えられている呼び鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
些か慌てふためきながら扉をあけると、そこにはいつもの微笑ではなく凍り付いた表情でゆかりが
立ちつくしていた。
「いったいどうしたの、ゆかりちゃん?!」
もともと透けるように白い肌がすっかりと青ざめ、どう見ても尋常な様子ではなかった。具合が悪
くなっているのかと心配になり、靴も引っ掛けずにゆかりに近寄る。
「お兄様────」
そんな桜井をゆかりはすがるようではあるが、むしろ落ち着いた様子で見上げた。
「どうしても聞いてもらいたい────ううん、見てもらいたいものがあってやってきたの」
「『見てもらいたいもの』?」
とりあえずゆかりを中に招き入れながら桜井は首をかしげる。ゆかりの様子からみて普通でないこ
とは確かだが、それがどういった種類のものであるか想像できない。
「私も信じられなかったんだけど、こんなの突き付けられたら信じるしかなくって────だからお
兄様にも見てもらおうと思ってやってきたの」
言葉どおりに信じがたい事実を懸命にのみ込み、やっとのことで覚悟を決めてきた、という様子で
ゆかりは桜井の瞳に自分の視線をあわせる。
「お兄様、落ち着いてね、多分ショックを受けると思うから先に言っておくけど、落ち着いてね?信
じられないと思うけど落ち着いてね?」
「ゆかりちゃん?!」
ゆかりの口から出たその思わぬ言葉に桜井は目をしばたかせる。まったく何が言いたいのかわから
ぬままでのその言葉に戸惑うだけでどう反応を返せばいいのかわからない。
「これ見て」
そんな桜井にゆかりは手に持っていたカバンの中から数枚の写真を取り出した。
勢いに押されるように受け取った、フィルムではなくデジカメで撮られたのであろうその写真はあ
まり鮮明とは言いがたかったがそれでもハッキリと中に映る人物を確認することは出来た。
「どうしたの?これ」
まず一枚目を見て桜井は顔をしかめる。
内容というよりもその写真が明らかに隠し撮り────映し出されている人物がまったくカメラに
視線が向いていないことが明らかなその写真を見て驚きというよりも衝撃が隠せない。こんな写真を
どうしてゆかりが持っているのか、ということの方が映し出されている人物のことよりも気にかか
り、そのワケを視線でゆかりに伺う。
「いいから全部見てよ」
しかしゆかりはその問いかけには答えずに次の写真を見ることを促した。
何故だかせっぱつまったかのようなその様子に桜井はますます内心首をかしげる思いで次の写真を
めくるが、そこでやっと手の中にあるこの写真の被写体が1人ではなくて2人────それもどちら
もが自分がよく知っている、そして本来ならまったくかかわりのない人物であることに気が付いた。
「?!──────」
どうやら写真は2種類あり、そのどちらもが同じ人物達を写してあることにはかわりがないが、2
日間それぞれ別々の日であることが写真の中の日付けと被写体の服装の変化から読み取ることが出来
た。
その写真の日付けから見ると5日前と昨日────場所はどちらもホテルのロビーかどこかのよう
だ。
どうしてこの2人がこのような場所で会っているのかわからぬまま写真をめくり続けていくと、そ
の途中で────昨日の日付けの一枚の写真が桜井の全身を硬直させた。
「ひどいでしょう?!あんまりでしょう?!何考えてるのかしら、あの人!」
ゆかりのどこか神経質な声が脳裏で響いて反射している。だけどその言葉の意味さえ理解できない
衝撃が思考の総てを凍り付かせて何を言っているのか理解できない。ただ手の中にある写真のことだ
けで一杯で他に何も受けつけられない。
写真の中では希理子が笑っていた。満面の───部の中でもかなり親しい付き合いである桜井でさ
え滅多にみたことないほど心から楽しそうな笑みで希理子は笑っていた。
だけどそれだけじゃなくて────いっしょに映っているのはそれだけじゃなくて、その事実が桜
井の全身を硬直させている。
「どうしておじさまがあの人と一緒にいるの?!」
ゆかりの声が静まり帰った室内でこだまする。だが桜井には答えられない。答えて欲しいのはむし
ろ桜井の方で、手の中に映る写真から目が離せない。
ゆかりの言葉の示すとおり、写真に映っていたのは希理子と自分の父親で、どうしてこの2人がホ
テルのロビーなどで親しげに会話をしているのか理解出来ない。
しかも写真の中に映し出されている事実はそれを遥かに上回る衝撃を桜井にもたらしていて、もう
何が何だか、どういうことなのか一切わからない。
強張る指で必死にそのワケを見い出そうと残りの写真をめくっていくが、やはり突き付けられる現
実は変わらず、それどころかそれが明らかな事実であったということを証明するだけで桜井の疑問に
は答えてくれない。
その為ただただ混乱し、必死に思考をめぐらせている桜井に対してゆかりはなおも問いかけてく
る。
「ねえどうしておじさまがあの人と一緒にいるの?!」
その悲鳴にも似た問いかけに桜井はやはり答えられない。
ただわかることは『これ』が事実であるということだけ────写真という過去にあった出来事の
1シーンを正確に残す道具が明らかな事実としてその過去を突き付けてきているということだけ──
──。
「どうしておじさまがあの人にお金なんか渡してるの?!」
ゆかりの言葉が部屋中に響く。激しく揺さぶるように腕を掴まれ、思わず手の間から滑り落ちた写
真が床の上にばらばらに散らばる。
「どうしておじさまがあの人にお金なんか渡してるの?!」
フローリングの床の上に舞った写真には繰り返されたその言葉が示すとおり、桜井の父親が希理子
に現金を渡している姿が克明に映し出されていた。
一方そのころ、希理子は東京を離れとある場所に来ていた。
予定ではもう少し早く到着し桜井の部屋に向かうつもりだったのだが、正確な場所を聞いてはいな
かった為迷ってしまいこんな時間になってしまっていたのだ。
「ヤバいなぁ……連絡入れといた方がよかったかね?」
そうぶつぶつと独り言を漏らしながら希理子は肩を竦める。
昼過ぎにと約束しておきながら、ケイタイの画面に映し出されている時間がすでに夕方の4時を少
しまわってしまっていた為反省したのだが、少し都心を離れてしまっている為にケイタイのアンテナ
は1本も立たずに圏外を示してしまっており、連絡の入れようもない。
バス停のところまで戻れば確か公衆電話があったはず────と希理子はここまでの道すがらを思
い返しながら、ここまで遅くなればついでとばかりに焦ることをやめてのんびりしたペースで歩き始
めた。
今希理子がいるところは見通しはよいが見晴しはよくない。────というか、普通の人間ならあ
んまり心地のよい場所ではないだろう。視界の遥か先には波間の向こうにウインドサーフィンなどを
楽しむ姿を見ることはできるが、そこにたどり着くまでのほとんどには灰色の墓石が延々と続いてい
る。希理子はひとり墓参りに来ていたのだ。
だが墓参りといっても自分の親戚のものではない。それどころか会ったことはおろか会話を交わし
たことさえなかった人物を訊ねての墓参りだった。
でももうすぐすべてを終えることになるだろう今、どうしても希理子はその人を訊ねておきたかっ
たのだ。
その為、あえて私服ではなく制服でこの場にやってきた。自分とその人────その家族を最も明
確に結び付けるのはこの服装であると信じたから、希理子はあえて制服でこの場所にやってきたの
だ。
上南の制服は設立した当初からまったくデザインが変わっていないそうなので、同じ服装をしてい
たこともあるのだろうと思い、自分達の先輩でもあったというその人を敬う意味で暑いのを承知で着
てきたのだ。
制服のブラウスはかなり風通しが悪い上に汗を掻くと透けてしまう。しかも希理子は半そでではな
く長そでをひじまでまくった格好で着用しているからなおさらだ。
その不快感に希理子ははっきり顔をしかめながら、先程墓標を訊ねた人も過去に自分と同じ思いを
していたのだろうと思って小さくくすりと笑った。
「いったいあんたはどんな学生さんだったんだろうねぇ」
持ってきた白い花束をポンと墓石の前に捧げ置いて、しゃがみ込んで墓前に手をあわせる。その墓
に刻まれている名は『桜井』────ここは桜井の母親が眠る墓所であった。
「まったく大したタマだよ、あんたの旦那もその息子もね。このあたしをふりまわしてるんだからさ
ぁ」
言葉とは裏腹に苦笑というよりもあたたかな感情につつまれた小さな笑みをうかべながら、希理子
はその墓石に向かって語りかける。
「見守ってやってよね、死人を悪く言うつもりはないけどさ、あんたがあんまりさっさと死んじゃっ
たからこんな馬鹿げた茶番、やらなきゃなんない羽目になってるんだからさ」
そう言って長い髪をかきあげながら立ち上がる。その時吹いた風が夏の光と潮風をはらみながら希
理子の髪を揺らし、そこに小さな波を作った。
「じゃあね、全部ケリつけたらまた来るよ」
希理子はそれだけ言い残すとくるりと振り返りその場を後にした。ゆっくりと坂を下り、もと来た
道を引き返す。
踏み締める度に立ちのぼる夏独特の雑草の匂いと、照りつける夕陽と共に響く蝉の鳴き声が哀愁を
誘い、希理子はハンカチで汗を拭いつつその感傷の中で帰路を急いだ。だがそうして歩みをすすめる
うちに、ほぼ坂を下りきり、突き当たりのカーブを曲がれば最寄りの駅へと向かうバス停というとこ
ろで、前方にまっすぐに自分に向かって歩いてくる存在がいることに気が付いた。
ちょうど逆光になっているために視界がはっきりとしていないが明らかにその人物は自分の方に向
かって近づいてきていた。
「?───────」
かなり遠出をしてきているためにこの辺りに知り合いなどいない。それなのにあきらかに自分を目
指して歩いてくるその人物に希理子はいぶかしみの視線を送るが、だが前方からやってくるその人物
はやはりまっすぐに自分の方へと近づいてくる。
わかるのはそれが20代半ばの男性であるということ。すらりと伸びた肢体は平均からくらべると
少し背が高い方だった。ゆったりと右肩上がりに歩くその姿が顔ははっきり見えないものの希理子の
中の何かにひっかかり、希理子は思わず目をしばたかせた。
「────まさか」
脳裏を過った一つの映像に希理子は目を見開き立ち止まる。
その間にもその人影はゆっくりと希理子の方へと近づいて来、やがて光に遮られて確認できなかっ
たその顔もはっきりと視界に捉えることが出来た。
「……どうして────」
自分の考えが明確な形で立証され、希理子は身体が震えるのが押さえきれなかった。
そんな希理子に向かってその人物────その青年は微笑みかけた。
「ひさしぶりだね、もう一年ぶりぐらいになるだろうか────奈緒子」
「……嘉弘さん……」
同じ時、同じ時間、同じ空の下、だけどまったく違う空間の中、見つめあう二組の男女の中に流れ
る空気は同じはずではあり得ないのに、どこか同じ色をしていた。
TO
BE CONTINUED・・・
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