13th. realize 
01/11/05up

  

  

「ゴメンなさい」

 これから宿敵四谷鵜の原戦が始まるという直前、上南バスケ部のメンバーが集まっている控え室に

は何故だかゲームに向けてのものとは別の緊張が満ちていた。

 開口一番そう口を開いた少女と開口一番そう口を開かれた少女の間に漂う緊張がその場に支配して

いたのだ。

「あやまってすむことだとは思わないけど、私どうしてもあなたに謝りたくて……本当にゴメンなさ

い」

 小さいがハッキリとした、心からの謝罪の言葉だった。深々と頭を下げながらそう言葉を発したゆ

かりの前には希理子が立っている。ゆかりは先日心ならずも上南メンバーを侮辱してしまい希理子を

怒らせてしまったことを謝りに来ていたのだ。

「ふーん…」

 そう曖昧に頷きながら希理子は自分たちの周囲を見回した。そこにはすでにユニフォームに着替え

終えた部員達が向かい合った2人の様子をかたずをのんで見守っていた。それを見て希理子はため息

を付く。

「───ホントこいつらお人好しだ」

「えっ?」

 ぼそりと希理子の口から漏れたその言葉にゆかりは顔をあげた。そんなゆかりに向かって希理子は

頷いてみせる。

「いいよ、もう。だけど今回だけだからね」

「じゃあ……」

 希望を見い出したように瞳を輝かせたゆかりに対して希理子は周囲を指し示す。

「こいつらが許してるのにあたしだけが怒っててもしゃあないしね。ホント揃いも揃ってお人好しの

連中だ。あたしだったら簀巻きにして東京湾に沈めてやるようなことなのにさ、こいつらが許しちま

ってるんだ、だったらこれ以上あたしが口出しする必要はない」

 そう言った言葉と視線の先には希理子のその言葉に揃いも揃ってほっと安堵の息をついた部員達が

居た。

 先日、希理子が居なくなってしまった後のやり取りで部員達はすっかりゆかりが自分達にした暴言

を赦していた。それどころかゆかりにそこまでの言葉を言わせてしまった責任を感じて、翌日からは

希理子に対してゆかりのことを赦すようにと懇願さえしてきていたのだ。

 本当に馬鹿な連中だと希理子は心底思った。お人好しもお人好しすぎてそれ以上の言葉が出てこな

い。でもだからこそ上南で、それこそが上南たるゆえんなのだと馬鹿みたいに納得してしまった。

「けど2度目はないからね?あたしは悪魔で天使じゃない、仏さんみたいに3つも顔持っちゃいない

んだ。だから今度もしも『もしも』があったら本気で赦さないからね」

 そう言って希理子は笑った。その笑顔は誰もが圧倒される、大らかで潔く優しくて格好いい笑顔だ

った。希理子独特の、誰もを夢中にし魅了してしまう格好いい笑顔だった。

「ありがとう───」

 その笑顔に思わずゆかりは涙ぐんだ。

 希理子は下手な慰めや許容の言葉を口にはしなかった。例えどんな言葉であろうとも『本気』が欲

しかったゆかりに希理子が『本気』を返し、そしてそれでもなお微笑んでくれたことが嬉しかった。

初めて家族や桜井以外の人間に『一人の人間』として───庇われなければならない弱い存在じゃな

い人間として扱って貰えてるのだと確信して涙が溢れてきた。

 そんなゆかりの感情をわかっているのかいないのか、希理子は小さく肩をすくめながら苦笑し、ゆ

かりの頬に手を差し伸べた。しなやかな指先が溢れこぼれた涙を掬い、そして同時に希理子の顔がゆ

かりのそれに近づいた。

「!!!!!!!!」

 思わず絶句する。自分の身に降り掛かった出来事がゆかりには瞬間理解出来なかった。

「きっ、きっ、希理子(さん)〜〜?!!!!!」

 多分に何十音声でその絶叫が狭い室内に響き渡った。だが一身に注目を集めているその先で希理子

は悪戯が成功した子供そのものの無邪気な笑顔でカッカッカッと高笑いした。

「テヘヘッ、いただき!」

 先程希理子はゆかりの流した涙の粒をゆかりのやわらかな頬の上でぺろりと嘗めあげたのだ。その

あまりの衝撃にゆかりはただ呆然と希理子の方を見つめている。

 だがそんなゆかりに対してくるりと向き直ると希理子は人さし指をピンとはって突如レクチャーし

はじめた。

「いいかいゆかりちゃん、女はね簡単に男の前で泣いちゃいけないんだよ。女の流す涙は惚れ薬と一

緒、どんな男だってイチコロで仕留めちまう。でもこれは禁じ手で使っちゃいけない反則さ。もしも

本気で誰かに惚れて欲しいなら涙なんか流さず笑顔で仕留めな。そしたらもっとあんたは綺麗になれ

る───身も心も全部がね」

 そう言ってニヤリと笑ったその顔は女というよりも男そのもので、その男らしさにゆかりは思わず

顔を真っ赤に染めた。

「ははっ、ホント可愛いの!」

 そんなゆかりを面白そうに笑うと希理子はかまわずぎゅっとゆかりを抱きしめた。

「いずれこんな可愛い子がケダモノ共の毒牙にかかるのかと考えると勿体無いよ、いっそあたしが喰

っちまおうか?」

「おいおい希理子」

 その希理子の言葉に桜井が苦笑してみせた。

「お前が言うと本気にしか聞こえないからやめてくれ」

 確かに桜井の言うとおり、希理子の言葉は半分以上が本気で響いていた。そして周囲も希理子なら

実際にやりかねないと魔王ならぬ魔女の手からのお姫さま救出に思案の表情を浮かべ始めている。

「わかった、わかった」

 その言葉に希理子は大きく首をすくめて両手を広げてゆかりを解放した。ゆかりは突然の希理子の

行動に顔を真っ赤に染めあげ、先程とは別の意味で涙目になってしまっていた。

 そんなゆかりに希理子はポンと肩を叩きながらもう一度笑いかけた。

「さ、あんたもしっかり応援してやっておくれ。あんたの大好きな兄様も含めた上南全員の夢を叶え

る為の大事な一戦だ、ここで勝たなきゃ次がない。だからあんたもこいつらに力をかしてやっとく

れ。立つフィールドは違うけど、同じ夢を見る一員として」

「ええ」

 ゆかりはその言葉に大きく頷いた。その返事に希理子は満足そうに頷くとチームの要である桜井と

馬呉の方を振り返った。そして小さく首をくいっと動かしたその仕種に桜井は理解の意味で小さく頷

き、その桜井が今度は馬呉をポンと軽く腕の辺りを叩いて促した。それを受けて馬呉は部員全員に向

けて声をはりあげる。

「いくぞ、俺達は絶対に勝つ!これをラストゲームにしてたまるかよ!!」

「おうっ!」

 そのかけ声を受けて部員達は立ち上がってコートに向かい、ゆかりはみずきたちとともに観客席に

向かった。

 それから約30分後、両校ともの簡単なコート練習を終えた後、試合開始のブザーと共に東京都地

区予選第7回戦、事実上の決勝戦とも言われている試合が始まった。

 序盤接戦から始まったゲームだったが前半後半には上南が大きく点差を開き波に乗った、かに見え

た。だが後半には桜井だのみの上南封じの秘策として四谷鵜の原がマッチアップゾーンディフェンス

を展開し、今度は逆に四谷鵜の原が大きく上南をリードした。

 そんなとき悲劇が起こった。プレイ中に成瀬がこむら返りをおこしてコートに倒れたのだ。逆転の

メドも立たない状況の中で起きたその悲劇は上南を絶望の淵へと叩き込んだ。

「いいんです、いま勝てればいいんです!!」

 成瀬の叫びが不安に揺れる会場内で悲痛に響いた。

「これが最後なんです、この試合に負けたらもう先輩たちとバスケできなくなっちゃう‥‥ここでや

めたら退場したらきっと後悔する!!」

 今川に支えられ、とても一人で立ってなど居られない状態のはずなのにドクターストップをかけよ

うとする医師に成瀬は食い下がった。

「おれ足なんか‥───足なんかどうなってもいいからゲーム出させてくださいッ」

 その瞬間、パアンと小気味よいまでに乾いた音が会場中に響き渡った。

「あ、え‥‥‥‥」

 突然感じた頬の上の熱に呆然とした成瀬の目の前には怒りで我を失った希理子がいた。はあはあと

息を乱しながら、呆然とする成瀬に向かって喰ってかかる。

「おい!今なんてった、なんてったんだ!」

 自分より体格のいい成瀬の胸ぐらをつかみあげながら希理子は怒りの形相で成瀬に向かって必死に
詰め寄る。

「こんな足ひきずってどうにかなるとおもってんのかい、このウスラボケが!」

「おい‥希理子」

 突然のことに呆然としていた他のメンバー達が我に返り、暴れる希理子を押さえ込もうと馬呉が後

ろから羽交い締めにする。

 だがそれでも希理子は成瀬に対して挑むのを止めなかった。

「自分の足がどうなってもいいだと?!ふざけたこといってんじゃないよ!!」

 押さえつけられながらでもそう言って尚も成瀬に詰め寄ろうと懸命に手足をばたつかせた。

「身体こわしたら‥‥インターハイどころじゃないんだよ、何夢みたって終わりなんだよ」

 希理子の瞳にうっすらと涙が浮かび上がる。

「どんな夢みても、もうあんた自身じゃかなえらんなくなっちまうんだよ」

 その声は叫びではなかった。観客席の人間にはとどかない、コートの───希理子の周辺にいた人

間だけが聞き取れただろうほど小さな声だった。

 しかし声は届かなくとも希理子の想いは───悲痛な想いは会場全体を包み込んだ。結局希理子の

頬に涙は伝うことはなかったが、流されなかったそのことが余計に希理子の中の傷の深さを周囲に知

らしめた。

 直後、疲労のあまり澤村も倒れ、上南ベンチは緊迫した慌ただしさに包まれたが希理子はそれ以上

成瀬を問いつめることもなく、ただ成瀬と澤村をコートにもどすこと───ひいてはメンバー全員に

最後になるかもしれぬこの試合に全力をつくさせるためだけ動き出した。

 そしてさまざまな紆余曲折を経て最後にコート上で勝者となっていたのは上南の方だった。

「みなさん!」

 着替えも終えて体育館を出てきた上南メンバーのところに試合後の興奮さめやらぬゆかりが駆け寄

ってきた。

「すごかった、すごかった、すごかったわ!」

 頬をすっかり薔薇色に上気させながらゆかりはただそれだけを繰り返した。

「みなさん、すごくてホントに───」

 何故だか自分事のように嬉しくてゆかりは思わず目に涙を溜めて、そのままの表情で上南メンバー

を見回した。そんなゆかりの様子にやはり試合後の興奮と感動がぬけ切っていなかったメンバーたち

は嬉しそうに照れ笑いを浮かべた。

「てへへ、応援ありがとうね、ゆかりちゃん」

 あとはいつものスリーメンズ・フープのメンバーや澤村や桜井のファンの女の子達が上南メンバー

を取り囲み、あれやこれやの大騒ぎになった。

 そんな中、わき上がるメンバー達を余所に表情を沈ませる者が居た。

「どうしたんだ、希理子?」

 何とか『写真を一緒に撮って下さい!』攻勢を逃れ、一息ついた桜井がそう問いかけた。

 試合が終わった直後は他のメンバーと同じように興奮さめやらぬ様子で騒いでいたというのに、何

だか翳りを帯びた表情でたたずむ希理子の様子が気にかかり、そう問いかけたのだ。

「いや別に───はしゃぎ過ぎて疲れただけだよ」

 希理子はいつもの表情で肩をすくめながらそう言うと、くるりと桜井に背中を見せた。

「騒がしいのに疲れたからさ、そこらで茶でもしばいてから学校に戻るよ。あんたらは先に戻ってお

いておくれ」

 上南のメンバーはこれから学校に戻って試合後の反省会と簡単な祝勝会をしようということになっ

ているのだ。

「───って、大丈夫なのか、希理子?」

「平気、平気」

 そう言った背中があまりにも細く見えたので問いかけた桜井に対して希理子はぴらぴらと手を振る

と、振り返りもせずに体育館の裏側に続いている緑地公園の方に姿を消していった。

 直後再び女の子達に取り囲まれて身動きが取れなくなってしまった桜井はそんな希理子の様子に気

を掛けつつも、結局後を追えずに騒ぎにまきこまれていた。

 やがてそんなことも一段落し、やっと帰路につけることになった桜井にゆかりが別れの言葉を告げ

た。

「じゃあ私はもう帰るわね」

 ゆかりも他の部員達から祝勝会を一緒にやろうと誘われたのだが、やはりメンバーだけで楽しむ方

がよかろうとみずき達とともに遠慮することにしたのだ。

「そうか、でも気をつけて」

 ちょうど日中の一番暑い時間帯であることもあって、送っていけないことが気掛かりな桜井は心配

そうな様子で頷いた。

「平気よ、平気。近くまで迎えにきてもらうことにしてるから」

 だがそんな桜井の心配をふきとばすようにゆかりは笑みを浮かべて首を横に振った。

「だっていつまでも心配してもらうだけの子供じゃダメだもの」

「ゆかり…ちゃん───?」

 そう言ったゆかりの声に何処かいつもとは違うものが含まれているような気がして桜井はその瞳を

覗き込んだ。

「私ね、何だかわかった気がするの───悔しいけれど何だかわかった気がするの」

 その桜井の視線の先でゆかりは笑った。その声同様にその笑顔はいつもの『笑み』とは明らかに違

っていた。

「あの人、本当に優しい人なのね───悲しいくらいに優しい人なのね」

 誰のことだという誰何は必要なかった。

「私なら自分以外の人の為にあんなに怒ったり悲しんだり出来ないもの───しようとすら思わない

もの。でもあの人は簡単にしちゃうのね、呼吸するくらい簡単にしちゃうのね───だから仕方な

い、あんなに素敵な人なんですもの仕方がないわ」

「ゆかり───」

 思わず息を呑んだ桜井に向かって、ゆかりはもう一度小さく微笑むとそのまま言葉を続けた。

「平気よ、平気。───ほら私、笑っているでしょう?」

 さばさばとらしくないほどに割り切った言葉を口にしたゆかりの顔には確かに笑みが浮かんでい

た。だがそれは明らかに深い悲しみを心の奥底に押し込めながらも悲しい笑顔だった。

「大丈夫…なの。平気だから───」

 でもやはり押さえきれない悲しみが涙という形で溢れ上がってきた。

「私、帰るわね」

 ゆかりは慌てて涙を見せぬように後ろを振り向くと背中を小さく揺らしたまま『別れ』の言葉を告

げた。

「さようなら、お兄様───」

 それだけ言うとゆかりは周囲が気遣いの言葉を掛けてくるのを笑顔で遮りながら早足で立ち去って

いった。

「ゆかり──────」

 その背中を何故だか寂しく感じながら桜井はそうつぶやいた。

 確かに涙は媚薬かもしれない───何故だかそのとき試合前に希理子が口にしていた言葉が脳裏に

よみがえってきていた。ゆかりに対して恋愛感情を一切抱いていなかったはずの、他に好きな人がい

る自分でさえこれほど心を締め付けられるのだ。これがもしも少しでもそういう心づもりがある人間

に対して与えられたものであったならどれほどの効力を発揮したのだろうか、と心の何処か遠いとこ

ろでそう判断している自分が居て、桜井は何故だか苦笑した。

「じゃあ戻るか」

 やっとのことでもみくちゃにされていた澤村も解放され部員達は学校に戻る為の最寄り駅に向かっ

て歩き始めた。あいかわらずわいわいガヤガヤと周囲は騒いでいるが、ゆかりの涙を見たことで桜井

の心は何故だか暗く重かった。

 だがそんな桜井に馬呉が突如話し掛けてきた。

「お前さ、桜井、希理子を探しにいってやってくれんか?」

「えっ───?」

 思いも寄らなかったその言葉に桜井は目をしばたかせる。

 馬呉にはすでに希理子が人込みや騒ぎを嫌って休憩してから合流すると告げていたはずだ。なのに

探しにいけというその言葉のワケが理解できなかったのだ。

 だがそんな桜井に向かって繰り返された言葉は想像を遥かに超えたものだった。

「あいつな、今頃きっと泣いてるから───泣いて泣いて泣きまくってるから、あいつのこと探しに

いってやってくんか?」

「……どう、して?」

 驚きよりも衝撃で桜井は思わず口籠った。そんな桜井に馬呉は周囲には聞かれぬように声を落とし

ながらその推意のワケを告げた。

「あいつな、誰かがいるところだと泣けないんだ────どんなに辛かろうが、苦しかろうが独りで

隠れて泣くんだ。昔から人に自分の弱いトコ知られるのをとことん嫌ってたヤツだから、泣きたくな

った時は独りで隠れて誰にも知られないようにして泣くんだ」

 希理子の幼馴染みといっても過言でない馬呉はそれこそ子供の頃から希理子のことを知っている。

幼い頃からあの性格ゆえに希理子はさまざまな誤解を受けていた。

 可愛げがないだの子供のくせになまいきだの、近所では才色兼備と評判の姉がいたことも手伝って

教師や大人達から不等な評価を受け続けていたのだ。その度に希理子はその場では平然とやり返して

はいたが、いつも陰に隠れて誰も知らないところで泣いていたのだ。

「俺な、見たんだ、去年の関東大会で今川が希理子みたいにプレイできなくなっちまったとき、あい

つが隠れて泣いてたのを。だけど俺ではとてもじゃないけど近寄れなくて───なぐさめてやること

なんか出来なくて、何も出来なかった」

 そのときの様子を思い出しながら馬呉は悲しそうに表情をゆがめた。

「だからあいつの側に行ってやって欲しいんだ───なぐさめてやって欲しいんだ。今日の成瀬のこ

とは今川のとき以上に希理子がしちまった経験とオーバーラップしてたから、今頃希理子何処かで泣

いてんだと思うんだ」

 見た目以上に責任感が強い希理子はチームに勝利を導きたい一心で故障を隠してプレイし続けてい

た。そして迎えた結末がバスケはもちろんのこと、もう2度と満足に走ることすら出来ないという悲

劇だったのだ。

 そんな希理子の前で繰り返されかけた今回の出来事は重く、深く希理子にのしかかっているはずだ

った。

「俺じゃ無理なんだ────俺じゃあいつを救ってやれない、支えになってはやれないんだ。でも

たぶん口ではなんだかんだ言ってても、ホントは心から希理子が信用してるお前なら、あいつの痛み

を背負ってやれるんじゃないかと思うんだ」

「馬呉───」

 そう言った馬呉の言葉には普段の希理子とのやりとりからは感じられない、もっと深いつながりが

見えて桜井は思わず口をつぐんだ。

「頼む、あいつの側に行ってやってくれ。独りで泣くなんて寂しいことさせないでやってくれ───

お前にしかこんなこと頼みたくないんだ」

 そう言って頭を下げた馬呉の言葉と共に桜井は駆け出していた。

 どうして気付かなかったのか───そればかりが頭の中でこだまする。

 天の邪鬼な希理子、強がりな希理子、人に弱味を見せることを何より嫌う希理子───そんな希理

子から出されていたSOSを自分は確かに受け取っていたのに、それを大したことではないとかって

に解釈して見過ごしてしまっていた。後悔したところで始まらないけれど、それでも後悔ばかりが頭

を過って、自分が情けなくて仕方がなかった。

 必死に走って試合会場の裏手───希理子が向かっていった緑地公園の中で目をこらす。連休の土

曜日ではあるがちょうど昼食時ということと、もうあと数日で7月になろうという暑い日に公園に来

ている人間などいなかった。

 だが走りに走ってある一角───子供用に設えられている滑り台などの遊具のあるところの近くの

木陰にうずくまっている人影を発見した。つややかに流れ落ちている黒髪やその細い後ろ姿から見て

希理子に間違いがなかった。

 近寄るにつれ鮮明になっていく視界のその先で希理子はしつられている簡単な手洗い場に向かって

うずくまっているようだった。だが小刻みに───ときおり大きく震えるその様子の不自然さに桜井

は思わず目を見開いた。何故なら希理子はその手洗い場で泣くのではなく嘔吐していたのだ。

「ちくしょう───」

 懸命にその衝動を堪えようと希理子は震える全身を抱きかかえる。しかし身体は───心はいうこ

とを聞いてくれなくて治まる気配をみせてはくれない。

 それでも口の中に残る胃液の不快感の取り除きたくて、希理子は蛇口をひねって勢いよく水を出

し、その水に直接口をつけて口の中を漱いだ。弾き飛ばされた水が希理子の顔や全身を濡らして白い

ブラウスはうっすらと透けてしまっている。

 人間の身体は思っている以上に心に正直だ。心が受け付けていないことは身体も当然のように拒否

反応を示す。

 希理子にとって成瀬の今日の言動はとても受け入れられない、思い出したくもない過去をむしかえ

されたもので、それを拒絶する心のあまり希理子は嘔吐の衝動が押さえきれなかったのだ。

 それは『泣く』というレベルを超えた、『泣く』ことさえ出来ない身体が示す心の防衛拒絶反応だ

った。

「希理子──────」

 どういう言葉をかければいいのかわからなかった。桜井には希理子の嘔吐がその心の痛みを代弁す

るものであるとわかったのだが、わかったがゆえに生半可な言葉を口には出来なかった。

 でも側に行きたかった───そうやって独りで苦しんでいる希理子を独りにしておきたくはなかっ

た。だから恐る恐る希理子の側に歩を進めていった。

「──────桜井?!」

 自分の背後から突如現れたその存在に希理子は大きく目を見開く。

「希理子、俺──────」

 やはりどういった言葉を口にすればいいのかわからなくて、桜井はただ希理子を見つめながらゆっ

くりと近づいていく。その表情にはどうしても消しきれない、希理子を思うがゆえの痛みがハッキリ

と浮かび上がっていた。

 だがそんな桜井の表情を認識すると希理子は大きく拒絶した。

「来るな!!」

 側においてあったカバンをわし掴み桜井に向かって投げ付ける。

「何しに来たのさ?!あたしを笑いに来たのかい?!」

「違う!!」

 即座に否定する。

「そうじゃなくて、ただ──────」

 言葉が続かない。

 同情を何より嫌う希理子にとって今の桜井の様子はそれ以外の何物でもなく映ったのであろうこと

はわかっていた。

 だがそれを否定する言葉も───どう違うのか説明する言葉も思い浮かばない。

「ただ俺は……俺は───────」

 言葉よりも先に身体が動いていた。慰めを拒絶する希理子に向かってただ身体が動いていた。

 そして生まれた数瞬の空白───先に口を開いたのは希理子の方だった。

「─────なにしたのさ……」

 抱き締められ、つなぎ止められた身体の中、希理子は呆然とすぐ側にある桜井の顔を見つめた。嘔

吐感も怒りもあまりの衝撃に吹き飛んでいた。

 だが衝撃を受けていたのは希理子だけではなくてむしろ桜井の方で、桜井は自分がしてしまった行

動が信じられなかった。

「───なに、したのさ……」

 だからそう繰り返された言葉に呆然と口を開いた。

「キス、した────」

 覗き込まれた瞳を逆に覗き込みながら、桜井は呆然ともう一度その言葉を繰り返した。

「俺がお前にキスした」

 
 


 一方、桜井に自分から別れを告げたゆかりは傷心の心を抱えた間まで街を彷徨っていた。

 桜井には迎えに来てもらうといっていたが独りになりたくて会場となった体育館から少し離れた所

を一人彷徨い歩いていた。

 桜井の希理子に対する想いのワケを理解出来たとはいえ、あきらめなければならないとわかったと

はいえそれでも悲しさは抜けない。────愛しさは消えない。

 ずっとずっと好きだったのだ、子供の頃から大好きなお兄様と結婚することだけを夢見て生きてき

たのだ。

 初めての、一等大切な恋の結末だ。理性では納得していても心が完全には理解してくれない。

 いっそ嫌いになれたらと思うのに、桜井のこともそして自分から桜井を奪った希理子のことも嫌い

にはなれなかった。だから苦しくて苦しくて悲しくて、どうしていいのかわからなかった。

 するとそんなゆかりの前に一人の男性が姿を現わした。

「『妹尾ゆかり』さん────ですね?」

 突然声をかけられてゆかりは目をしばたかせた。考え事をしていた為に前方からやってきたその青

年に気付いてすらいなかったのだ。

「ちょっとお時間を頂けませんか?」

「あの────」

 突然名前をよばれ、しかも続いた言葉がナンパのようなセリフだったのでゆかりは警戒し、半歩分

後ずさった。

 だが青年が次に投げかけた言葉がゆかりを別の方向に動かした。

「あなたの大事な幼馴染み『桜井修司』くんと『奈緒子』────いえ、『矢部希理子』さんのこと

で」

 
 
 
 高く強く降り注ぐ光が夏の日に暗く濃く、消えない影を落とした。

                                 

                               TO BE CONTINUED・・・

    

    

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