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「修ちゃんはお父さんそっくりね」
────それは遠い昔、母が少しくせのある自分の髪を撫でながらよく口にした言葉だった。
幼い頃はお転婆で勝ち気で短気で頑固だったのだそうだが、自分の記憶の中にある母の姿はあくま
でも優しく穏やかで消え入りそうな印象だった。
何でも子供を産んだ際───つまり自分が生まれた時に身体を壊してしまったそうで1年の内の3
分の1はベッドの上で過ごしていたほどか細く弱々しかった。だけど芯が強い人でどんなに辛い時で
も人にその辛さを見せない、いつでも笑みを浮かべている心の強い人だった。
幼い頃にはどういう意味でかはわからなかったが自分と母にはいつも悪意が付きまとっていた。そ
れは母が『桜井』という家が望んでいた階級に所属していた女性ではなかったことが原因らしかっ
た。
代々が医者の家系で親族のほとんどが開業医を営んでいる、いわゆる名家である桜井家と違って母
方の実家はいわゆる『普通』の家だった。母が子供の頃に自分にとっては祖父にあたる人が亡くなっ
ており、母は母独り子独りの、その日の食事にもありつけないこともあるような貧しい環境で育った
のだ。
だから自分の母親に楽をさせたい、安心させたいという一念で手に職をつけようということで母は
看護婦への道を歩んだのだそうだった。そしてその職場で、念願叶って准看護婦として勤めていた病
院で母は大学を卒業したばかりの父と出会いやがて結ばれた。
だがこの結婚は誰からも祝福を受けなかった。本人達の強い意志で結局押し切る形で結ばれた2人
だったが、桜井の、父方の祖父母は母の目の前で母のことを悪し様に言っていたし───そして死ん
でから10年ちかくたった今でさえ桜井家の嫁であったことを認めようとはしないほど母は『桜井』
の家には受け入れられなかった。
そしてそれには幼い頃自分も病弱だったことも起因していた。自分を産んだ時に母は身体を壊して
しまったせいでもう2度と子供が望めなくなっていたのだ。
その為、唯一の跡取りである自分が病弱でとてもまともに育つとは思われなかったせいで、さすが
に祖父母は自分のことだけは孫であることには変わりないということで可愛がってはくれたが、親族
の中には自分ごと母を桜井の家から追い出そうとする動きも絶えなかったのだ。
でもそんな中でも母はいつでも笑っていた。医師として忙しく働く父を支え、自分だって身体が丈
夫じゃないのに寝込んでばかりだった自分の看病をしてくれた。
幼心にそんな母の姿を見て早く大きくなりたい、丈夫になりたい、そして母を直せる医師になりた
いといつも夢見ていた。
「お母さんも頑張って身体直してまた看護婦として働けるように頑張るから、修ちゃんも早く大きく
なってお医者さんになってお父さんを助けてあげてね。そして3人で困ってる人たちをいっぱい助け
てあげようね」
母は医者になりたいと言った自分にいつだってそう言っていた。本当に綺麗な笑顔で、いつだって
すぐそこに居て微笑んでくれた。
だけどその母の願いは叶うことはなかった。成長するにつれ人並みに健康になっていった自分とは
反対に母はますます衰弱し、最後には歩くことさえ困難なほど痩せ衰えていき、そしてそのまま還ら
ぬ人になってしまった。───自分が8歳になったばかりのことだった。
その日から自分の中には大きな影がはびこっている。
今際の際の母の言葉は『お父さんを助けてあげてね』だったが、その父は母の臨終の間際に側には
いなかった。死にゆく母の側でその近寄ってきていた死を心から悲しんでいたのは自分だけで、心細
くて見上げた父方の祖父母の顔には厄介ごとがやっと終わるとでもいった、どこか母の死を当然と
し、喜んでいるような節さえあったのだ。
だからせめて父に───仕事が忙しくてほとんど家に居た試しがない父にせめて側に居てほしかっ
たのに、父は前から予定が入っていたオペがあるということで死にゆく母を病室に残しオペ室に向か
ってしまった。結局父が母の側に戻ってきたのは母の魂が飛翔してしまった後、3時間も経過した後
でのことだった。
そしてその後の母の葬儀はとても悲しいものだった。桜井家の嫁が亡くなったということで病院関
係者がそれこそ数え切れぬほど集まった盛大なものだったが、母の死を悲しんでいる人間はほとんど
いなかった。それどころか自分がまだ幼いのだから早く再婚して母親を与えてやるべきだなどと母の
棺の横でさえ神妙ぶったカオを装いながら口にするものさえいたほど寒々とした悲しいものだった。
ごく一部───高校時代や看護婦時代の母の友人達だけはおおらかで誰にでも優しかった母の死を
心から悲しんでくれたが、ただの病院の為の社交の場と化してしまっていたその場では浮き上がり、
粗雑なものとして扱われていた。
許せなかった、───とにかく許せなかった。もっと幼い子供だったらまだしも8つになっていた
自分にはもうある程度の分別はついていた。だから何を言われているのか、何をバカにされているの
か正確に理解していた。
だから抗議した。笑うなと、母を悪く言うなと抗議した。財産目当てで父をたぶらかした悪女だと
母を悪く言った『大人たち』に抗議した。でもそれに対して返ってきたのは反省の態度でも詫びの言
葉でもない、自分と母に対するますますの侮辱だった。
『母親の教育が悪いからこんなに生意気なことをいうのだ』だとか『家柄が悪い人間に育てられる
と子供はまともに育たない』とかそんな言葉がひそひそとその場から辺りかしこに広まった。
悔しくて悔しくて悔しくて自分は大声で叫んだ。母がどんなに素敵な女性だったのかを、優しい人
だったのかを叫んだ。母を悪し様にいう周りの人間の方がよっぽど人間として最低だと大声で叫ん
だ。
するとその騒ぎを聞き付けて駆け付けてきた父は自分に騒ぐのをやめるようにと促してきた。だけ
ど止めなかった、父にも───母があれほど愛した父の口からも母の素晴らしさを語ってほしかっ
た。周りの大人達がいうような女ではなかったと言ってほしかった。
なのに返ってきたのはまったく逆の反応だった。
『───恥をかかせるんじゃない』
自分の頬をぶった後、父はそう言うと自分をその当時家政婦に来ていた人に部屋に帰らせるように
押し付けて去っていった。
それどころか初めてぶたれた痛みに頬を押さえながら、宥められるように自室の方に連れ戻されな
がら呆然と目線で追ってしまった父は自分が抗議した『大人たち』に次々と頭を下げていた。自分が
───桜井が悪いのだと、子供ゆえの非礼だと思って許してほしいと詫びてまわっていた。
その背に───その姿に桜井は絶望を感じた。滅多に遊んでもらった記憶もないし、それどころか
夕飯させ一緒取ることが珍しい父が自分の味方ではなかったのだと───母の味方ではなかったのだ
とその時悟った。
それから3年後───母の喪があける前後くらいから家に頻繁に訪れるようになっていた女性が自
分の母親になっていた。
もう反発はしなかった。できれば母と呼んで欲しいという言葉その通りに母さんと呼んでやった。
勉強だって一生懸命やった。運動神経は今一つだったけど出来うる限り身体も鍛えて病気もしないよ
うになったし、周囲からは『神童』とさえ言われる程に努力した。
やがて成長し、高校に進学する際、母の母校であった上南に進学することを希望した。現役で国立
に合格出来る学力を保つことを条件に部と一人暮らしの許可を得て、現在こうやってここで暮らして
いる。
「───母さん」
手に取った写真の中で笑っている母の姿にそう呼び掛ける。この写真は母が死ぬ3か月程前───
最後に退院した時に撮った最後の家族写真だった。
もうすでに死を予兆させる程痩せて血の気のひいた青ざめた姿だが、やはりその笑顔はとても綺麗
で見ている人すべてに安らぎとあたたかさを与えてくれた。
だけど同時に母を守れなかった、あんなに悲しい、孤独な死を迎えさせてしまった自分の幼さが─
──愚かさがふつふつとわき上がってきて桜井の心を掻きむしった。
「そんなに俺って父さんに似てますか?」
問いかけてみるがもちろん答えなど返ってくるはずがない。写真の中ではあいかわらず優しい笑み
を浮かべてそこに佇んでいる。
「俺はね母さん、何だってするって決めたんです。俺の願いを叶える為には何だってするって決めた
んです」
そう言いながら希理子が動かしてしまった写真立ての位置をずらし、いま手にしている写真立てが
一番前に置けるようにチェストの上を整えた。
「あの男が────父さんがこれまでしてきたのと同じようになんだってするって決めたんです」
そしてその写真立てを一番目立つその位置に何より大切そうに、壊さないようにとそっと置く。か
なり視線を下にしないと見えなくなった母の姿に桜井は小さく微笑みかけた。
「だって、じゃないと俺の望みなんて母さんと同じように簡単に押しつぶされてしまうでしょう?」
そう言って笑う桜井のその姿は桜井を知っている者すべてが目を疑ってしまう程、普段の穏やかさ
とは掛け離れた、ゾッとするような冷たさと残酷さを全身から発していた。
そしてますますその冷たい笑みを深く変えながら物言わぬ母に向かって宣言する。
「俺は絶対許さない───母さんを殺したのは、あんな風に寂しく死なせたのは桜井家だ、そして父
さんだ。───許してたまるもんか、絶対許すものか、誰が継ぐものか、あんな家!絶対誰にも継が
せはしない、あんな家も、母さんを犠牲にして大きくしたあんな病院も完膚なきまでにたたき潰して
やる」
その冷たい言葉が静まり返った部屋にゆっくり浸透し、そして霧散していく。その中で桜井はもう
一度写真立ての中の母親に手を───指を伸ばした。
「それまでは俺は父さんと同じものでかまいません。とても人間とは思えない、人の心を失った化け
物でもかまいません。だけど俺は一生あの男を許さない───母さんが死んでも涙一つ浮かべず、さ
っさと家の為に後妻を迎えたあの男を許さない、絶対に許さない。優しい母さんはこんなこと言う俺
のこと怒るだろうけど、悲しむだろうけど、だけどあの男だけは絶対許さないってそう決めたんで
す」
そこまで言うと、写真の中の母の姿にそっと指を重ねあわせたまま 祈るように───許しを請うよ
うにそっと目を閉じた。
「許してくますよね?母さん──────」
桜井の声に答えるものはもちろんなかった。
「───さてはて、やりすぎたかねぇ」
一方、そんな桜井を部屋に残して帰路についていた希理子は独り完全に夜の闇に覆われていきつつ
ある空に向かってぽつりとつぶやいていた。
夕方というよりも夕方と夜の境であるこの時間帯は他のどの時間帯よりも哀愁と郷愁に満ちてい
る。電車を乗り継いで帰りついた地元の街はすでにどの家庭でも夕飯の支度を始めているらしく、ど
こかしこから食欲を刺激する匂いがこぼれ落ちていた。
希理子はそんな街並をほんの少しだけ遠回りしながら自宅へ歩を進めていた。
目をつぶっていてさえ歩けるほど良く知っている街並だが、一人でそんな中をとぼとぼと歩いてい
ると明かりのともった家の中ではどんな家族団欒が繰り広げられているのだろうとらしくもない感傷
さえ浮かんでくる。
「でもこれを越えなきゃアイツもホントの意味で前に進めないだろうしね」
希理子は自分自身の感傷を振り払うようにぶるんぶるんと首を横にふると、取り合えず現在の自分
の依頼人であり、ターゲットであり、そして仲間である男のことに思考を切り替えた。
桜井が一人暮らしをしていることは以前から知っていた。部屋を訪れたことはなかったが、実際に
押し掛けたことがあるらしい馬呉などがうらやましがって話していたのを聞いたことがあったので、
そのこと自体には驚きはなかった。
『時間が惜しいから』───確か何かの拍子に一人暮らしのワケを問いただされていた桜井はそう
答えを返していた。確かにほとんど神奈川県の住人である桜井が都の中心にある上南まで通学するの
はかなり遠く、しかも部や予備校通いに加えて影に隠れてストバスにまで手を出していたのだから、
桜井が時間が惜しいという理由はわからなくもなかった。
だけど自宅に居た方が庶民である自分から見れば超おぼっちゃまである桜井は完全3食昼寝つきの
最高の環境を得られるのではないかと、あまり関心はなかったのだが恵まれた家庭環境へのうらやま
しさもとい妬みゆえにそう思ったものだ。
しかしそう思いつつも、そう話す桜井の表情を見て何だか微妙に違和感を感じたことだけは鮮明に
覚えている。
周りの他の誰もが気付いてはいなかったようだが、確かにそう話す桜井の瞳の奥で暗い何かが一瞬
だけ浮かんで、そしてすぐに『消え去った』というよりも『消し去った』のを希理子は目撃してしま
っていた。その様子は今日、つい先程桜井が父親に似ていると希理子が評したときに桜井が見せた一
瞬の空白ととても良く似ていた。
希理子は先程桜井に対しては何ごともなかったかのように話をしたが、実際には昨日桜井の父親か
らその家庭環境のことなどを少しだけ耳にしていた。そこで初めて桜井の今の母親が血の繋がらぬ義
理の母であるということも知った。
話しても仕方がないと判断したがゆえに伝えられていなかったのかもしれないが、少なくとも2年
もの間バスケ部というつながりにおいて同じ夢を見て来た仲間としてそのことを教えてもらっていな
かったという事実が、何だか物悲しく寂しかった。
桜井は本当に上手に笑う。『笑顔』はどんな場面においてもかなり有効な鉄壁のバリアであるとい
うことは希理子もこれまで生きて来た17年あまりの人生の中で、そして何より『PA』としての経
験の中で学んで来た。
だけど桜井以上に上手に笑う人間を見たことはない。老獪で喰えないと評されている人物を何人も
相手にしてきた希理子だが、桜井以上に上手に笑い、本心を隠してしまう人間にあったことなどな
い。
それゆえに桜井がただの金持ちのボンボンには見えず、どうしてあれほど本心をひた隠しにするの
か───ひた隠しにしなければいけないのか、ずっと疑問に思っていたのだ。
だけどここ数日の一連の動き、そして昨日の桜井の父から聞いた話で桜井を形作ったもの────
桜井を取り巻く環境の一部を知ったことで、その疑問の一片がほんの少しだけ紐解けてきたような気
がしていた。桜井がどうして笑えるのか───どうして笑っているのか、そんなことの一部がほんの
少しだけ見えてきたような気がしていた。
「───あ〜、やめやめ!」
希理子はそこまで考えてそれまでの思考を振り払うように大きく頭を振った。
推測や憶測は思考と判断を鈍らせる。何よりこれ以上、そのことについて考えを進めていくととん
でもない過ちをしでかしてしまいそうだった。
人間には誰だって知られたくない過去がある─────同情などされたくない純粋な祈りがある。
だけどこれ以上『桜井』について思考をすすめると、どうしてもその方向に感情が引っ張られてしま
いそうだった。
「やばいなぁ……」
希理子は苦笑まじりに自分の頭を掻きむしった。
他の人間の目にどう映っているのかは知らないが、一見何ごとに対しても余裕ありげな桜井の態度
が自分の目にはその反対の、ギリギリのところで踏ん張っている姿の様に見えていた。それはおそら
く桜井と同じようにギリギリの切羽詰まったところで生きている自分だからこそ気付きえたことなの
だと今の希理子にはわかっていた。
自分には誰にも言えない───言うわけにはいかないと誓っている『秘密』がある。今の自分はそ
の『秘密』の為に───その『望み』を叶える為に生きている。だから余裕などない────『仕事
だから』以上に他人のことに首をつっこんでいる余裕などないのだ。
なのにすっかり調子が狂ってしまっている。仕事の範疇を越えたことに自ら首をつっこみつつあ
る。このままでは本当に自分が決めた方向から自分自身で外れていってしまいそうだった。
「やばいなぁ……」
希理子はそう言いながらもう一度自分の頭を掻きむしった。
言い聞かせなければならない───否定しなければならない。今のままでは自分の望みを叶えるこ
とが不可能になってしまう。なのにどうしてもいってはいけない方向に感情が引きずられていこうと
してしまっているのだ。
このままは、と焦れば焦る程、自分自身の心だというのに思う方向とは逆の方に動かされていって
しまってるのだ。
「やばいなぁ……」
希理子はもう一度つぶやいた。
「あたしにはそんな『資格』なんかないのに─────」
否定とも絶望とも取れるそのつぶやきはせまりくる闇の中でも限り無く鮮明だった。
その希理子が自分の感情を整理していた同じ空の下─────もっと正確にいうならば、少し大き
な声で叫べば希理子の耳に声が届くであろう距離に一人の男が佇んでいた。まだ20代半ばの青年─
──桜井や澤村などには遠く及ばないが、充分格好いいと認識されるだろう見た目の持ち主だった。
夜の漆黒を切り取ったかのように美しい黒髪が被い、そしてどこか切なげに揺れている希理子のそ
の後ろ姿をこの男はただジッと見つめていた。
希理子は気付いてはいなかったが、実はこの男は希理子が桜井のマンションにたどり着くその前か
らずっと希理子の姿を追っていた。つかず離れずジッと───希理子の姿を見失わないように、気付
かれないように希理子を付け回していたのだ。
その視線の先で希理子はもう一度自分の頭を大きく振ってあらゆる思考を停止させると、いつもの
帰り道に合流する道に進路を戻して家路についた。
ドアを開け、閑古鳥は鳴いていたがまだ営業中だった自宅の美容室のエリアを通り抜けると、その
まま自室に向かって階段を駆け上がっていった。───その姿もその青年はただじっと見つめてい
た。
そして完全に希理子の姿が消え去るとその時はじめて感情をその顔に浮かべた。それまではただジ
ッと無表情で希理子の一挙一動を見守っていただけだったのだ。
「見つけた─────」
そうつぶやいた顔にはあきらかに笑みが浮かんでいた。そしてその視界の隅にあった表札のところ
まで移動すると、表札にあった希理子の名を指先でなぞりながらこうつぶやいた。
「やっと見つけたよ、『奈緒子』」
その時、その青年は長い長い放浪の末にやっとオアシスにたどりついた旅人が見せるような、満ち
足りた、至福の笑みで微笑んでいた────。
TO
BE CONTINUED・・・
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