蝶よ花よ
       

  


  

 夕暮れどきの喧噪が小林は好きだった。

 晩ご飯の支度の為に慌ただしく買い物をする主婦の人、ランドセルをかたこと鳴らしながら帰宅し

ている子供達の姿、あちこちで夕食のおかずの香りがただよっている。

 昔なら日本のあちこちで見られたこの『日常』も最近では珍しいものらしい。らしい、のだが下町

で生まれ育ちこの街から出たことも、出るつもりもない小林にとって当たり前で、さして珍しいもの

ではないけれど、だけど大切なものだと心から思う。

 小林はそんな中、その光景の一部として配達を終えて幾分軽くなった自転車を飛ばしながら家路を

急いでいる。

 今日は高校を卒業してから継いだ酒屋の企画として月に2度開いている日本酒の聞き酒、飲み比べ

の会を催す日なのだ。この会はかなり盛況で、今では滅多に出回らなくなっている貴重な全部手作り

の極上品の日本酒の頒布会も兼ねていることもあって、最近では話題をよんでかなり遠くからも訪れ

る人も多い。また同時にそれぞれの日本酒にあった料理や簡単なおつまみのレシピを紹介したりもし

ているので、日本酒通のみならず、若い女性の参加者も結構いるのだ。

 予約だけで40人あまりの申し込みが来ているから、今日の参加者はおそらく飛び込みを含めると

6、70人にはなるだろう。最初は店先でやっていたそれも最近では近所の公民館の一室を借りなけ

れば入り切らないほどなのだ。その準備をするため小林は家路を急いでいるのである。

「ただいま」

 店先に自転車をとめ、回収してきた空き瓶を降ろすと小林は駆け込むようにして家の中に入った。

その瞬間、がたりと居間へ続いているガラス戸が開いた。

「遅い!」

 間髪あけず、すかさず飛んできたのは彼の愛妻からの叱咤の声だった。まさに仁王立ちといった格

好で小林を睨み付けている。

「予定より15分も遅いじゃないか!早く荷物運び込まなきゃお客さん来ちまうよ!」

「すみません」

 その言葉に小林は素直にあやまった。

「つい3丁目の坂田さんと話し込んでしまって」

「ああ、あの時代劇大好きじいさんだね!困ったもんだ、うちのダンナたぶらかして」

「たぶらかしてって……」

 その奇妙な言い回しにくらりと来たが、そんな小林の感慨にはもろともせず彼の愛妻は力説する。

「だってそうだろう?!時代劇の話っていう美人局で気をひいて、愛する妻のもとに夫を帰らせない

なんて立派なたぶらかしじゃないか!それとも他に言いようがあるっていうのかい?!」

「いいえ」

 何だかかなり違うと思ったのだが小林はそのことにはつっこまず素直に頷いた。その理由は2つ。

何だかんだ言っても時代劇という共通の趣味の話題のために確かに足留めされてしまっていたこと

と、何より普通とは違う理屈を力説する妻希理子の姿があまりにも可愛かったからだ。

 小林と希理子は小林の卒業を待ってすぐに結婚した。若すぎる結婚ゆえに周囲から反対の声が上が

ろうものだが、この2人の結婚に対して意義を唱えるものなど誰もいなかった。

 特に小林側の母親は息子より1つ年上のいなせでキップのよい希理子をとても気に入り、2人の結

婚の日をゆびおり数えて待っていた程だ。その為、現在小林と希理子は小林の家に同居はしてはいな

いのだが『味噌汁のさめない距離』にマンションを借りて生活しているのだが、夕食だけは常に一緒

にとっている程なのである。

 希理子いわく『しゃべんない可愛くない息子2人よりしゃべってくれる可愛い娘の方がそりゃいい

にきまってるだろ?』とのことで、事実小林の母親は息子そっちのけで義理の娘を溺愛している。希

理子も基本的に懐いてくれる人間は放っておけないタイプなので、周囲がうらやむほど嫁姑の仲は良

好だ。近所では誰もが『うちにも希理子ちゃんみたいなお嫁さん欲しいわ』とか『うちの嫁も希理子

ちゃんみたいだったら』と口を揃えていうほどなのである。

 小林は希理子が家族にも周囲にも受け入れられたことを安心し、同時にとても誇らしく思ってい

る。自分的には最高に満足しているのだが、希理子は普通の『嫁』としては及第点にも程遠い人間で

ある。料理、洗濯、掃除、何もかもが苦手だ。喜怒哀楽も気性も激しい。だがそれでもそれをあまり

あるほど人間としての魅力がある。そんな女性を妻に持ち得た自分を誇らしく思い、その妻にまけな

いように自分を磨かなければと常に小林は思っているのだ。

「さ、早く準備するよ。時間はお金で買えないんだからね!」

 そう言って希理子はテキパキと持っていくモノを次から次へと小林に差し出した。すでに聞き酒の

会で試飲する分のお酒は公民館に運び込んである。あとはその席でふるまう簡単なおつまみや頒布受

付用のちらしや宅急便の送付票などだ。嵩はとるがあまり重くない、大きめの紙袋2つ文程の分量

だ。

「じゃ、行こうか!」

 店を完全に閉め切って希理子はさきほど小林が配達に使っていた自転車の後部に腰をかけた。

 希理子がこれほどはりきっているのには実は理由がある。この聞き酒の会はもともと希理子の発案

で始められたものなのだ。もともとお酒ならなんでもOKだった希理子は小林の元に嫁いでからすっ

かり日本酒にハマってしまった。大量生産の、ほとんど人の手が加わらず機械だけで作られているお

酒しか口にしたことがなかった希理子は産地や水、作り手によって風味が違うものとは思わなかった

のだ。それゆえいろいろなものを試したいと思ったのだが試飲は基本的に現地に行かなければ行えな

いし、そのメーカーのものしか味わえない。そこで希理子は直接いくつものメーカーと交渉して試飲

用のお酒を提供してもらい、その見返りとして定期的にこういった聞き酒の会をもよおしたり定期購

入の顧客を紹介することでその契約を取り付けたのだ。

 この企画はかなりの反響をよんだ。タウン誌でとりあげられたり、下町の新しいビジネスとしてロ

ーカルではあるがテレビから取材がくるまでになったのだ。その企画立案が、見た目だけは超一級品

の美女ということも集客の大きな要因になっている。すでに人妻とは知りつつも希理子見たさに遠く

からやってくる若い男もいるほどなのだ。

「あ、そうだ、小林」

 後部座席(?)でゆられながら希理子は何かを思い出したように小林に話をふった。

「あたし、もうこの会手伝えなくなるからさ、澤村か誰か酒強いヤツにあたしの仕事引き継いでもら

わなきゃなんないんだ」

「どうしてです?急に。ガッコウで何かあったんですか?」

 希理子がこの企画にかなりのめり込んでいることを知っている小林としては不思議としか言い様が

ない。

 美容師の学校に行きながら、さらに義兄であるヒロミの店でバイト兼見習いをしながらも自ら率先

してやってきた企画なのだ。周囲が無茶だと、身体を壊すと注意しても自分がやるといって聞かなか

ったほどなのだ。

 それゆえに小林は何か自分の知らぬところで希理子にトラブルでも起きたのかと心配になった。

「うにゃ」

 希理子はぶるんぶるんと首を横に振りながらその問いかけを否定した。

「見てるだけだと悔しいし、ストレスたまるから参加したくないだけ」

「?」

 返ってきたその意味不明の質問に小林は小首をかしげた。何故なら希理子は運営する立場にありな

がらいつだって我先に試飲して楽しんでいるのだ。もちろん馬鹿呑みはしないものの、お客さんそっ

ちのけで酒に手をだしているときもある。常連さんなどはそんな希理子の様子をいつものことだと笑

っているが、初めて参加した人は目をしばたかせているほどだ。そんな希理子が今さら『見てるだ

け』が悔しいとか言いだすなどおかしすぎる。

 考えれば考えるだけおかしな方向に思考が行くので、小林は内なる不安を解消する為にも問いを重

ねることにした。

「どういう意味ですか?」

「わからない?」

 前を向いて自転車を漕いでいる小林にはカオは見えないが何だか楽しそうな、からかうような感じ

である。

「身に覚えだったらたっぷりあると思うんだけど、それでもしらをきりとおすつもりかな?純直さ

ん」

「?????」

 ますますワケがわからなくなって小林は目をしばたかさせた。

 そんな様子を気配で感じ取った希理子はくすくす笑いながら、手をまわした腰に抱き着くようにし

ながらその逞しい背中に頬を寄せ、甘い響きで囁いた。

「来年の今頃には3人でお出かけしようね、『お父さん』」

「・・・・・・・!!!!!!」

 希理子の言葉が小林の脳裏で理解されるまで数秒の時間を要した。そして理解した瞬間、小林は衝

撃のあまりハンドル操作をあやまった。

「わっ、危ない!!」

 ふらついて壁に激突しそうになり、思わず希理子は飛び下りていた。その直後、小林はそのまま壁

に激突していた。

「あんた、大丈夫かい?」

 自転車ごと倒れ込み、かなり滑稽な格好になっている小林に希理子は半分面白そうに、半分心配そ

うに声をかけた。

 その瞬間小林はガバリと立ち上がり、つんのめるような勢いで希理子に詰め寄った。

「それ、本当ですか?!」

「ん!」

 自分の夫のあまりの勢いに思わず驚いて目を見開いた希理子に小林はなおも問いかける。

「それ本当なんですよね?!」

 キラキラと、縋るような瞳でのその問いかけに希理子は小さく笑い、ゆっくりと言い聞かせるよう

にこう返答した。

「3か月だって。もうしばらくしたらガッコウも休学しないとね」

「!!」

 小林は希理子がその言葉を言い終えるのとほぼ同時に希理子を思いっきりだきしめていた。

「こら、苦しいよ小林」

 自分の名字もすでに小林のくせにそのクセが抜けない希理子はたしなめるようにそうほんの少しだ

け足掻いてみせた。だけどそれは本当にいやがってのことではなくて、幸福な嬉しさに満ちたものだ

った。

 そんな希理子の様子に小林はますます腕に力をこめると頬擦りするようにしながら何度も何度もこ

うくり返した。

「ありがとうございます、希理子さん。ありがとうございます」

 目にはうっすらと涙も浮かんでいる。もう今年で二十歳になろうという大の男が真剣に感動し、そ

の喜びにうちふるえている。

「馬鹿だね、お礼をいう相手が違うだろう?」

 そんな小林を優しく抱きとめながら希理子は小林をたしなめた。

「お礼をいうならお腹の中の赤ちゃんに言ってやっておくれ。あたしたちのもとへやって来てくれる

最高の天使ちゃんにね」

「はい」

 何度も何度も頷いて、何度も何度も啄むようなキスをした。

 
 

 小林家に新しい家族が増えるのはそれから約半年後のこと、『飛鳥』と名付けられたその少女が蝶

よ花よと育てられたのはいうまでもない話である。
 

                             Fin.
 

    

     

 私の中ではすっかり定番の『小林飛鳥』ちゃん初登場です(次に出番があるかどうかはしりませんが)。初登場、っていっても名前だけの登場ですが。
 きっとイメージ的に誰よりも親ばかになるとおもいます、小林は。とくに女の子にはメロメロでしょうね。
 ちなみにどうでもいい設定としてコバキリ未来バージョンでは2人の間の子供はこの子だけです。ですから本気で小林はめろめろです。なんてったって希理子そっくりの美人さんのこどもだし(笑)
 この子と結婚する男は大変だろうな〜。 

                        2002/05/12  日向 葵。

 

  

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