カンガルー日和
窓から射し込んだ春の光が、畳の上に小さな四角い日だまりを作り出していた。(「チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏」)
象工場のハッピーエンド
生まれてはじめてステレオを買ってもらった時、ビング・クロスビーのクリスマス・レコードがついてきた。四曲入りのコンパクト版で「ホワイト・クリスマス」「ジングル・ベル」「アベ・マリア」「きよしこの夜」が入っていた。(クリスマス)
東京に出てきたのは1968年の春だった。(ほかにも参考になる記述あり)(ジョン・アプダイクを読むための最良に場所)
ビーチ・ボーイズの数あるヒット・ソングの中でも「ファン・ファン・ファン」がいちばん好きだ。(FUN、FUN、FUN)
生まれてはじめて買った英語のペーパーバックのうちの一冊がロス・マクドナルドの「My Name Is Archer」だった。(マイ・ネーム・イズ・アーチャー)
水丸さんと一緒にやったの、最初は文化出版局の「TODAY」という雑誌。本は『中国行きのスロウ・ボート』(画家と作家のハッピーエンド)
家を建てて和室を作ったんだけど、掛け軸と襖絵を水丸さんにお願いした。(画家と作家のハッピーエンド)
(この本には)書き下ろしがある。「カティーサーク自身のための広告」「A DAY in THE LIFE」「マイ・ネーム・イズ・アーチャー」(画家と作家のハッピーエンド)
村上朝日堂
五十六年の夏に都心から郊外に越した。(そば屋のビール)
夏は大好きだ。(夏について)
文章を書くコツは文章を書かないことであるーと言ってもわかりにくいだろうけど、要するに「書きすぎない」ということだ。(文章の書き方)
僕は二十代の前半から八年くらいジャズ喫茶を経営していた。(報酬について)
僕は物心ついてから高校を出るまでに二回しか引越しをしなかった。兵庫県西宮市の夙川の西側から東側へ、そして次に芦屋市芦屋川の東側へと移っただけのことである。(「引越し」グラフィティー(2))
僕が大学に入ったのは一九六八年で、とりあえず目白にある学生寮に入った。(「引越し」グラフィティー(3))
目白の寮を追い出されてから練馬の下宿に移った。西武新宿線の都立家政の駅から十五分くらいの距離にあった。(「引越し」グラフィティー(4))
ジャズ喫茶といえば「ヴィレジ・ゲート」とか「ヴィレジ・ヴァンガード」なんかが暗っぽくて好きだった。女の子と行く時は「ダグ」とか「オールド・ブラインド・キャット」なんかがよかった。(「引越し」グラフィティー(4))
都立家政の暗い三畳間で半年暮して、また引越すことにした。一九六九年の春のことである。今度の住居は三鷹のアパートである。六畳台所つきで七千五百円、二階の角部屋まわりは全部原っぱだから実に日あたりが良い。(「引越し」グラフィティー(5))
三鷹のアパートで二年暮してから、文京区の千石というところに越した。小石川植物園の近くである。結婚したからである。僕はまだ二十二でまだ学生だったから女房の実家に居候させてもらうことにしたのだ。(文京区千石と猫のピーター)
いつまでも居候をしているわけにもいかないので、国分寺に引越した。そこでジャズ喫茶を開こうと決心したからである。はじめは就職してもいいかな、という感じでコネのあるテレビ局なんかを幾つかまわったのだけど、仕事の内容があまりにも馬鹿馬鹿しいのでやめた。僕と女房と二人でアルバイトして貯めた金が二百五十万、あとの二百五十万は両方の親から借りた。昭和四十九年のことである。(国分寺の巻)
兵庫県芦屋市立精道中学校出身(大森一樹について)
ダッフル・コートというのが好き。VANジャケット製のチャコール・グレイのもの。(ダッフル・コートについて)
兵庫県立神戸高校出身(聖バレンタイン・デーの切り干し大根)
十八の年に受験勉強が嫌になって、神戸から船に乗ってふらっと九州に行った。(旅行先で映画を見ることについて)
早稲田大学文学部映画演劇科出身。映画を見る金がなくなると早稲田の本部にある演劇博物館というところに行って、古い映画雑誌に載っているシナリオをかたはしから読んだ。(ビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」)
僕の住んでいる船橋市というところ(毛虫の話)
僕は実をいうと熱狂的に豆腐が好きである。(「豆腐」について(2))
学生時代、新宿の小さなレコード屋でアルバイトをしていた。一度藤圭子さんが来たことがあった。(僕の出会った有名人(2)藤圭子さん)
吉行淳之介さんは僕が文芸誌の新人賞をとった時の選考委員(僕の出会った有名人(3)吉行淳之介氏)
僕がよく行く洋書専門の古本屋が神田にある。(本の話(2)鷲は土地を所有するか?)
子供時代、僕は近所の本屋でつけで好きな本を買うことができた。(本の話(3)つけで本を買うことについて)
その昔、警察にひっぱられて陳情書を書かされたことがある。屈辱的なのは警官が鉛筆で書いた下書きの上を、それと一字一句違えずになぞって清書しなければならないことであった。(ケーサツの話(2)陳情書について)
新聞なんてなくたってちっとも困りはしないのだ。それよりドイツの若い連中がみんな反核バッジを胸につけていたりするのを見ている方が、世界の空気の流れみたいなものを肌で感じとることができる。本当の情報とはそういうものだと僕は思う。(新聞を読まないことについて)
偏食がちな人間である。魚と野菜と酒についてはほとんど好き嫌いはないけど、肉は牛肉しか食べられないし、貝についてはカキ以外はまるでダメである。(食物の好き嫌いについて(1))
一人ぐらしの学生時代、いちばんヒンパンに作っていた料理は「ありあわせスパゲティー」に尽きる(食物の好き嫌いについて(3))
ウィーンのウィンナ・シュニッツェルはおいしくない。それに比べて意外に美味いのがハンガリー・グラシュである。
六本木の狸穴(まみあな)そば(番外 お正月は楽しい(2))
(妻は)知り合ったのは十八か十九。僕は七年、大学にいた。女房は五年いた。最初の授業で隣に座ってたんですね。専攻は別なんだけど同じクラスだった。クラス討論していた。「アメリカ帝国主義のアジア侵略」というテーマだった。店を出すのに二人でアルバイトして、あと銀行から借りた。うちにいてもだらしない格好はぜったいにしない。風呂あがりにパンツ一枚でいつまでもゴロゴロするとか、そういうことはしない。(男にとって早い結婚≠ヘソンかトク)
これは日刊アルバイトニュースに一年九カ月にわたって連載したコラムを集成したもの(あとがき)
村上朝日堂の逆襲
うちの近所の「小野豆腐店」の厚あげはなかなかいける。(早・遅ゲーム)
以前国鉄中央線の線路わきに住んでいたことがある。交通ストが始まって列車がレールの上を走らなくなると、我々は線路わきに寝転んでのんびりとひなたぼっこをした。(交通ストについて)
東京に出てきていちばん驚いたことは僕の使う言葉が一週間のうちにほぼ完全に標準語に変わってしまったことだった。(関西弁について)
僕が生まれてはじめてスーツを着たのは十八の歳だった。今でもよく覚えているけど、VAN・JACKETのグレーのヘリンボン・スーツである。シャツは白のボタンダウンで、タイは黒のニット。(ダークブルー・スーツ)
僕はブルックスブラザーズのブレザーコートが好きで、(ダークブルー・スーツ)
飼っていた猫の名前・・・きりん(アビシニアン)、みゅーず(雌・シャム猫、少女漫画『ガラスの城』の登場人物からとった)、ブッチ、サンダンス(『明日に向って撃て!』のコンビからとった)、しまねこ(しま猫)、みけ(三毛猫)、スコッティー(スコティッシュ・フォルド)、くろ(黒猫)、ピーター、とびまる、コロッケ (猫の死について)
スワローズのライトがイージー・フライを落としたエピソードがある。これは『スワローズ詩集』の一編となった。(ヤクルト・スワローズについて)
使っている鉛筆はF。(セーラー服を着た鉛筆)
身長は一六八センチ(中年とは何か? その2「肥満について」)
早稲田大学文学部には七年通った。(学習について)
生まれてこのかた選挙の投票というものを一度もしたことがない。(政治の季節)
高いところがまったく駄目である。これまでで一番怖かったのはウィーンの聖シュテファン寺院の上である。(めまい)
結婚して二年目くらいのことだったと思うけど、僕は半年くらい「主夫=ハウスハズバンド」をやっていたことがある。(グッド・ハウスキーピング)
僕は国立大学を落っこちて私立大学を二つパスした。(13日の仏滅)
僕が生まれた場所は一応京都だけどすぐに兵庫県西宮市夙川というところに移り、それから同じ兵庫県芦屋市に移っている。(阪神間キッズ)
青山一丁目の『ル・コント』で久しぶりにアイスクリームを食べた。銀座の『美々卯』であつもりうずらそばを食べた。(国分寺・下高井戸コネクションの謎)
先日「明日香ひなまつり古代マラソン」というのに出場してきた。フルマラソンに参加するのはこれで三回目だけど、前回が一九八三年のホノルルだから、約二年半ぶりの四十二キロということになる。これまでのレースでいちばん印象に残っているのはアメリカのワシントンDCで走った名もない十キロ・レースだった。このところ神宮外苑や湘南サイクリング道路といったフラットなコースばかり走っていた。(長距離ランナーの麦酒)
THE SCRAP 懐かしの一九八〇年話
(ボビー・ベアについて)もう落ちぶれちゃったんじゃないかという感じがするのだけど、べつにヒット・チャートだけが音楽ではない。(P42)
(アメリカのユバ市が「大都市圏で住みやすい街ランキング」で最下位だったことに対して)その査定の根拠となっているのは気候と地形、住宅事情、医療施設、環境、犯罪発生率、教育施設、文化・厚生施設、経済状態といった要素(P144)
村上朝日堂 はいほー!
僕は一月十二日生まれだから星座で言えば山羊座、血液型はA型である。(わり食う山羊座)
僕は以前四年近くこの習志野駐屯地のわきに住んでいた。(落下傘)
好きな作家を三人選べと言われたら、すぐに答えられる。スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・チャンドラー、トルーマン・カポーティ。(スコット・フィッツジェラルドと財テク)
初めてオペラに触れたのは中学生ぐらいのときにテレビで見たマリオ・デル・モナコの絶唱する『道化師』。劇場で見た本物のオペラは高校生のときで、ミラノ室内歌劇団の『オルフェウス』。場所は大阪フェスティバル・ホール。(オペラの夜1)
雨天炎天
かくのごとく、旅においては物事は予定どおりに順調には運ばない。何故なら我々は異郷にいるからである。(文庫P75)
(旅の日記は)書けるときに書いておかないと、どこで何があったかすぐに忘れてしまう。いろんなことがあり、似たような町が続くので、前後がすぐに混乱してしまうのだ。旅行について何か書くときには、とにかく何でもいいから細かいことをすぐにメモすることが肝要なのだ。
やがて哀しき外国語
僕は一九九一年の初めから、約二年半にわたってアメリカのニュージャージー州プリンストンに住み、そのあと二年間をマサチューセッツ州ケンブリッジに住んでいました。(「やがて哀しき外国語」のためのまえがき)
最初にニュージャージー州プリンストンを訪れたのは一九八四年の夏のことである。プリンストン大学がスコット・フィッツジェラルドの母校だから自分の目で一度見てみたかったから。その七年後に僕はまたプリンストンを訪れることになった。今度は長期間にわたって大学に滞在するためである。僕と女房は一九九〇年の初めに三年間にわたるヨーロッパ滞在をやっと終えて日本に戻ってきたばかりだったけど、翌年一月にはプリンストンに住むことになった。最初の一年、僕はずっと家にこもって長編小説を書いていた。この長編小説は不思議な紆余曲折を経てぱっくりとふたつに細胞分裂し、一つは『国境の南、太陽の西』となり、もうひとつは『ねじまき鳥クロニクル』になった。(プリンストンーはじめに)
一九九二年のボストン・マラソンは四月二十日に行われた。僕がこの大会を走るのは昨年に続いて二回目だったが、タイムは七分遅い三時間三十八分だった。(梅干し弁当持ち込み禁止)
僕は日本に住んでいるときには新聞というものを原則としてとらない(大学村スノビズムの興亡)
ビールのサミュエル・アダムズが秋に出すちょっとダークなオクトーバー・フェストは僕の好物である。(大学村のスノビズムの興亡)
先日シンシア・ロスさんという人から、夕食に来ないかという招待の手紙をいただいた。シンシアさんはスコット・フィッツジェラルドの孫にあたる。(アメリカ版・団塊の世代)
ホノルルマラソンは一九八三年に走った(アメリカで走ること、日本で走ること)
アメリカに来て暮らすようになってから、中古レコード店をまわってジャズの古いレコードを漁ることが、大きな楽しみになってしまった。僕はジャズが好きで、十三の歳からこれまでずっとレコードを集めてきた。(誰がジャズを殺したか)
専業作家になるために店をやめてからは、その反動で、一時期ほとんどと言っていいくらいジャズを聴かなくなってしまった。単純に純粋に楽しんでジャズを聴けるようになったのは、つい最近のことだ。(誰がジャズを殺したか)
もし僕が一九五二年にアメリカにいたら、何があってもNYに行ってクリフォード・ブラウンのライブを聴いていただろう。(誰がジャズを殺したか)
先日ボストンのジャズ・クラブにトミー・フラナガン・トリオを聴きに行った。演奏はまあまあだった。でももしトミー・フラナガンに何かリクエストするとしたらやはり『バルバドス』と『スター・クロスド・ラヴァーズ』の二曲だなあとぼんやり考えていたら、驚いたことにステージの最後にこの二曲をメドレーでやってくれた。これにはさすがの僕も唖然とした。(誰がジャズを殺したか)
ペパー・アダムズに関してこの間ちょっと不思議な話があった。ある中古レコード店に入ろうとしていると、通りかかった若い男が僕に時間を尋ねた。「四時十分前だよ(イッツ・テン・トゥ・フォア)」と答えてレコード店に入り、最初に目についたレコードが、実にペパー・アダムズ“TEN TO FOUR AT 5 SPOT”のぴかぴかのオリジナル盤だった。(誰がジャズを殺したか)
十一月の初めから約四週間ばかり、バークレーにあるカリフォルニア州立大学に行ってきた。講演をして、それから週に一回のウィークリー・セミナーを持つためである。(バークレーからの帰り道)
アメリカについて家に落ちつき、荷物をほどいたあとでまず最初にやったのは自動車を買うことだった。日本にいるあいだは車というものをまったく運転しなかった。不便を感じなかったのだ。でも六年ほど前にイタリアに住んだときに、あまりの生活の不便さに根を上げ、あきらめて一念発起して免許をとった。(黄金分割とトヨタ・カローラ)
ジャズ喫茶は七年続いたわけだけれど、その七年のあいだ我々の役割はほぼ完璧に平等であった。だいたい同じ時間働き、家事を分担し、収入も平等だった。(元気な女の人たちについての考察)
鏡に向かって「私は今日も元気だ。私は今日も元気だ」と言い聞かせているのではないかと思うこともないではない。(元気な女の人たちについての考察)
二ヶ月ばかりスペイン語を習いにいった。考えてみれば、今までいろんな外国語を勉強した。中学高校では英語、大学ではドイツ語をとった。卒業後はフランス語、ギリシャ語、イタリア語、トルコ語。ぼくがいるのは大学の東洋語学科。(やがて哀しき外国語)
外国人に自分の気持ちを伝えるポイントは三つ。自分が何を言いたいのか自分が把握すること、シンプルな言葉で語ること、大事な部分はパレフレーズすること。これはそのまま文章の書き方になっているな。(やがて哀しき外国語)
小説家になったほとんど最初の段階で、文章を使って個人的な言い訳をすることだけはやめようと決心した。小説の世界では理解を積み重ねて得られた理解よりは、誤解を積み重ねて得られた理解の方が、往々にしてより強い力を持ちうるのだ。(運動靴をはいて床屋に行こう)
習志野から藤沢から大磯へと移り住んだ。(運動靴をはいて床屋に行こう)
先日ニューヨークに行ってロバート・アルトマンの新しい映画の試写を見て来た。(「カーヴァー・カントリー」を描くロバート・アルトマンの迷宮映画)
一度何か圧倒的な経験をしてしまうと、それが圧倒的であればあるほど、それを具体的に文章化する過程において人は何か激しい無力感のようなものにからめとられてしまうのではないだろうか。(ロールキャベツを遠く離れて)
学生時代には映画の脚本を書きたかった。授業には出なくとも毎日のように大学の演劇博物館にかよって古今東西の映画の脚本を読みあさっていた。(ロールキャベツを遠く離れて)
店を七年続けた。店はロールキャベツを出していたので、朝から袋いっぱいの玉葱をみじん切りにしなくてはならなかった。(ロールキャベツを遠く離れて)
神様が出てきて、もう一度お前を二十歳に戻してあげようと言ったら、たぶん僕は「ありがとうございます。でも、べつに今のままでいいです」と言って断ると思う。あんなもの一度で沢山だ。(ロールキャベツを遠く離れて)
僕は二十九になって突然「そうだ、小説を書こう」と思った。そう言うと、学生たちはみんな唖然とした顔をする。「つまり、・・・その野球の試合に何か特別な要素があったのでしょうか?」「そうじゃなくて、それはきっかけに過ぎなかったんだね。太陽の光とか、ビールの味とか、二塁打の飛び方とか、いろんな要素がうまくぴったりとあって、それが僕の中の何かを刺激したんだろうね」「もしその四月の午後に球場に行かなかったら、ムラカミさんは今小説家になっていたでしょうか?」「Who knows?」(ロールキャベツを遠く離れて)
店には毎日沢山の客がくる。不思議なもので、たとえ十人のうち一人か二人しかあなたの店を気に入らなかったとしても、その一人か二人があなたのやっていることを本当に気に入ってくれたなら、そして「もう一度この店に来よう」と思ってくれたなら、店というものはそれでけっこううまく成り立っていくものなのだ。(ロールキャベツを遠く離れて)
生まれてはじめて小説を書いて『群像』の新人賞を取ったとき、そして僕がみんなに「実はこのあいだ新人賞を取ったんだよ」と言ったとき、僕のまわりにいた人々はほとんどひとりとして、それを信じなかった。何かの冗談だと思ったようだった。(ロールキャベツを遠く離れて)
ヤクルト球団創設29年目にして初優勝、僕もちょうど29歳だった。(ロールキャベツを遠く離れて)
昔アメリカに行ったとき、ブルックス・ブラザーズ、ポール・スチュアート、Jプレス、こういう店に一歩足を踏み入れると、心が何となくうきうきしたものだった。いまはそういうことはない、ザ・ギャップとかバナナ・リパブリックといった若者向きのカジュアル・ウェアの店で買うくらいのものだ(ブルックス・ブラザーズからパワーブックまで)
ポール・ニューマンの『動く標的』を十回くらい見た。(ブルックス・ブラザーズからパワーブックまで)
車はドイツ製フォルクス・ワーゲンを買った(ブルックス・ブラザーズからパワーブックまで)
『ノルウェイの森』を書いたときは、大学ノートの罫を万年筆なり水性ボールペンでこりこりと埋めていた。「ワープロやパソコンに変わって、文体に変化はありますか」とよく質問される。僕にもよくわからない。またかとうんざりすることになる。(ブルックス・ブラザーズからパワーブックまで)
高校時代はほとんど毎日のように麻雀をしたり、女の子と遊んだり、ジャズ喫茶に入り浸ったり、かたっぱしから映画を見たりした。(ヒエラルキーの風景)
僕には昔から、他人から与えられたものに対してどうしても真剣に取り組めないという困った傾向がある。(ヒエラルキーの風景)
作家になっていちばん嬉しかったことは、「これでやりたいことがやりたいだけできる」ということだった。(ヒエラルキーの風景)
本を読むのはとにかく好きだったから、その結果としてとくに勉強はしなくても国語の成績は悪くなかった。社会はなにしろ世界史が得意だった。早稲田の当時の入試は三科目だけだったから、国語と英語と世界史を勉強すれば、それほど苦労して受験勉強をしなくても入学できるだろうと踏んでいた。塾にも予備校にも一度も通わなかった。なんとか国立大学に入ってくれないかと親に言われて、一年浪人して嫌な数学と生物とを詰め込もうとこれ努めたが、案の定うまくいかなかった。これが一九六八年に入学した状況説明である。(ヒエラルキーの風景)
日本のことが外国に出てみて改めてよくわかった、ということが僕の場合に何かあるとすれば、それは「日本は、僕が想像していた以上にエリートが幅をきかせている国だったんだ」ということである。(ヒエラルキーの風景)
プリンストンからマサチューセッツに引っ越した。プリンストン大学はなかなか居心地がよくて、ずるずると二年半もすんでいた。資格は最初はビジッティング・スカラーで、それが一年半続き(普通は一年だが頼んで半年延ばしてもらった)、それからビジッティング・レクチャラーに変わった。僕の英語力で大学院生を相手に文学を論じることはできないので日本語でやらせてもらうことにした。(さらばプリンストン)
みんなの提出した学期末のペーパーに点をつけて、先生としての義務も果たした。いよいよプリンストンともお別れである。(さらばプリンストン)
通り過ぎる人には通り過ぎる人の視点があり、そこに腰を据えている人には腰を据えている人の視点がある。どちらにもメリットがあり、死角がある。(あとがき)
一九九〇年一月から翌年の一月まで、一年間日本で暮らした。(あとがき)
大学のそばのダンキン・ドーナッツでコーヒーとドーナッツを買ったり、誰かの家のパーティーでワインをすすった。(あとがき)
ここに収められた文章は『本』に連載した原稿に手を加えたものである。また加筆とはべつに「後日付記」と言うかたちで末尾に付け足した。(あとがき)
夜のくもざる
このシリーズ広告のもともとの発案者、依頼者は糸井重里氏(あとがき その1)
本に収録するにあたって全体のトーンを調整するためにそのうちの8編を外し、2編をあらたに書き下ろした。(あとがき その1)
うずまき猫のみつけかた
極端な中華料理アレルギーである。生まれてからラーメンなんて一度として食べたことがない。どうしてこんなことになってしまったのか、理由はよくわからない。たぶん幼児体験のようなものではないかとは思うのだけれど、いったいどこで何があったのか思い出せない。(P54)
千葉の〈千倉館〉に泊まったことがある。(P63)
神戸でよく行った店 海岸近くの〈キングズ・アームズ〉、中山手通りの〈ピノッキオ〉、トアロード〈デリカテッセン〉のサンドイッチ(P246)
雑誌連載のエッセイだったが、本に収録するに当たって大幅に加筆し、長くしました。(P251)
村上朝日堂はいかにして鍛えられたか
アルクール(HARCOURT)青山のバー(95年日本シリーズ観戦記「ボートはボート」、安西水丸の秘密の森)
一度だけテレビのCMに出演したことがある。マラソンのシーンで、外国人ランナーに混じってゴール前のデッドヒートを繰り広げている。(そりゃまあ、僕はビールを飲むのが好きだけど)
店を持って借金で苦しんでいたころ、三万円足りないときに奥さんと夜道を歩いていて三万円拾った話。(下を向いて歩こう)
僕は昔千駄ヶ谷にあった「プリンス・ビラ」という木造二階建てのアパートに住んでいました。(日本マンション・ラブホテルの名前大賞が決まりました)
旅行に携えていく本として「これならいつでもどんな旅行でもオーケー」というオールマイティーな本は中央公論社から出ている『チェーホフ全集』である。拙訳『レイモンド・カーヴァー全集』を出すときに、「できればあの『チェーホフ全集』と同じサイズで、同じ体裁にしてください」と頼んだ。それくらい『チェーホフ全集』を気に入っていたのだ。(旅行のお供、人生の伴侶)
この本には「週刊朝日」に一九九一年十一月号から一年一カ月のあいだに連載されたエッセイがまとめられています。(あとがき)
辺境・近境
旅行とはトラブルのショーケースである。ほんとうに家でスクラブルでもしているほうがはるかにまともなのだ。それがわかっているのに、僕らはついつい旅に出てしまう。目に見えない力に袖を引かれて、ふらふらと崖っぷちにつれて行かれるみたいに。そして家に帰ってきて、柔らかい馴染みのソファに腰をおろし、つくづく思う。「ああ、家がいちばんだ」と。(文庫P238)
僕はだいたいにおいて、実際に旅行しているあいだは、そんなに細かく文字の記録はとりません。そのかわりいつも小さいノートをポケットに持っていて、その都度その都度ヘッドラインみたいなものそこに並べて書き込んでいくんです。たとえば「風呂敷おばさん!」とかね。あとでノートを開いて「風呂敷おばさん!」という言葉を見れば、ああそうだ、そうだ、トルコとイランの国境近くのあの小さな町にあんなに変わったおばさんがいたな、とすっと思い出せるような態勢にしておくんです。(文庫P296)
夢のサーフシティー
(海外旅行に持っていく携帯品として)Barbourの防水コート。これは防寒耐水において非常にすぐれたもので、真夏をのぞけばほんとうに役に立つ。これに帽子をかぶれば、まず傘はいらない。(P32)
(読者からの「酒鬼薔薇事件の容疑者はどうしてあのような行動に出てしまったのか」についての回答)僕も学校というものに、どうしても馴染めないところがありました。画一的なシステム、くだらない意味のない規則、教師の暴力、退屈きわまりない授業……そういうことです。(中略)自分が出た学校とは、今でも関わりを持ちたいとは思いません。べつに懐かしいとも感じないです。(中略)実を言うと、僕も中学校のころにヒットラーにものすごく興味をもった経験があります。ヒットラーのことが好きになったとか尊敬できたというそういうことじゃなくて、そのあり方に対してなぜは強い興味を持ったのだと思います。(中略)だから少年の気持ちはわかるとか、そういうことを言うわけではありません。ただ、ものすごく後味が悪いということです。犯罪の異常性に対抗するための、「これが正しいシステムだ」という明確なシステムを、誰も示すことができないという事実が(つまり混沌を混沌であると言い切るための根拠がうまく見つからないという事実が)、おそらく僕らに寒気を与えているのだと思います。(中略)僕は小説家であり、小説家というのは基本的には「孤独なるもの」の味方です。卵が石の壁にぶつかるとしたら、つねに卵の側に立ちます。(中略)ただ僕がひとつ思うのは、基本的になにより怖いのは、個人の暴力(それがどれほど破壊的に見えたとしても)よりはむしろ組織の暴力だということです。(P57)
初出誌 ぱそ97年4月号〜98年3月号(97年6月号をのぞく)(P62)
そうだ、村上さんに聞いてみよう
僕はそんなに大した人間じゃないですが、小説家としてはやはり一生懸命小説を書いているし、書くという行為の中で、なんとか自分を超えたものになろうとはしています。映画「アマデウス」の中でモーツァルトが、「僕はくだらない人間ですが、僕の音楽はそうではない」と叫んでいますが、僕もできることなら同じようなことを言いたいですね。(P24)
(女性関係について)マンネリになったら、僕なら、その時点で離れます。それはとてもはっきりしています。人生というのは、退屈しながら生きていくにはあまりにも貴重なものです。(P47)
(がんの告知について)「人にはそれを知る権利があるはずだ」と確信します。(中略)「そんなことは知りたくない」という人もおられるとは思いますが、僕はちゃんと知らせてほしいです。(P61)
(流されないためのコツ)この世界で自分が何をいちばん強く求めているか、それを知ることです。(P73)
僕はヘンデルのリコーダー・ソナタは、朝に6時半に聴くには、もっともふさわしい音楽のひとつだと思っています。(中略)同じヘンデルのオルガン協奏曲も「朝向き」ですが、これは7時台8時台の方がより好ましいです。6時台にはほかにグリークの「抒情小曲集」が不思議に合います。(P77)
どんなに素晴らしいコンサートに行っても、あなたにもし演奏を理解する耳がなかったらそれは何の意味もないし、ラジオから流れてくる貧弱な音で聴く音楽だって、あなたの側に優れた感受性があれば、それはあなたの人生をすっかり変えてしまうかもしれない。要するにもっとも大事なのは、あなたの外側にあるものよりは、あなたの内側にあるものだということです。(P85)
好きなだけ時間があって、なんでも自由にできても、だから自由に生きられるかというと、そんなことないですよね。必要なことは、自分の中に「これが私にとっていちばん大事なんだ」と思える何かを結晶させていくことです。そしてそれを護っていくことです。(P90)
モラルというのは時代によって上がったり下がったりするものではないかというのが、僕の基本的な(そしてかなり確固とした)考え方です。それはただ流動的にかたちを変えているだけです。優れた世代とか、劣った世代とか、そういうものも存在しません。「モラルはどんどん低下している」という意見を耳にするたびに、今より昔のほうがモラルが高かったのなら、どうして前の戦争のような愚かな大量殺戮が行われなくてはならなかったのだろうかと、僕はいつも思うのです。あるいはモラルという名の下に行われることは、本当にすべて正しいのだろうかと。(P100)
女性は40代で差がつきます。男性の場合よりも、「残る人」と「落っこちる人」の差が歴然としてきます。(中略)ポイントは「@自分に甘えないAでもかりかりしないBそして大きく出ない」ことです。「大きく出ない」というのは、ちょっとわかりにくいかもしれませんが、けっこう大事なんです。(P103)
結婚生活は悲惨か? そのとおりです。悲惨です。しかし結婚しなくたって、人生はもともと悲惨なのです。だから二人の悲惨を持ち寄って、もたれあえばいいのです。(P115)
相手の女性が「私のどこが好きなのか、100言ってみて」と言うのなら、「そんな甘いこと言ってるトシじゃないだろうが」と思っても「よしきた!」と101並べるのが男です(少なくとも、僕ならそうします)。(P118)
ヘミングウェイとジャック・ロンドンは自殺し、フィッツジェラルドとレイモンド・カーヴァーはアルコール中毒の中で呻吟し、カポーティは実質的に自らを破壊しました。大げさな言い方をすれば、小説を書き続けるというのは、破壊性との間断なき闘いなのです。(P128)
(結婚について)僕のささやかなアドバイスは「その人の前に出ると、思わず顔がほころんでしまうような相手がいちばんだ」というものです。条件なんて関係ないです。(P129)
自分の考えていることをあまり他人には(家族にもですが)語りません。(中略)でもだから家人に心を開いていないかというと、そんなことはありません。心は開いています。ただうまく正確に言えないこと、中途半端に言わないほうがいいような気がすること、自分だけのものにしておきたいこと、そういうことは口に出さないというだけです。(P130)
僕の考えるおやじ化しないための基本的なポイントは「@背筋をのばして歩くA腹に贅肉をつけないB静かに食事をする」ことだと思います。(P138)
親子だから家族だから当然愛し合うものだという言い分は、いつもいつも正しいとは限らないと僕は思います。うまく愛し合うことができないケースも少なくないです。(中略)それは、何故か、僕が自分の小説で再三追及しているテーマのうちのひとつでもあります。(P141)
僕の好きな文章は「@鋭利なリズムのある文章A深い優しさのある文章Bユーモアのある文章C姿勢が良く、志のある文章」です。(P168)
(小学校教員の読者の「読者感想文をうまく書くコツとは?」に対して)先生としてあなたにできることはいくつかあります。まずひとつはただ漠然と「本を読んで感想文を書きなさい」というのではなく、テーマやポイントをもう少し細かく限定してあげることです。たとえば「誰でもいいから、一人の登場人物を選んで、その人について思ったことを書きなさい」とかそういうことですね。(中略)でもそのためには、あなたも一生懸命本を読んで考えなくてはなりません。(P174)
(読者の「自分の変化をどう思うか」という質問に対して)かたちあるものはどんどん過ぎ去っていき、消えていきます。同じかたちのままとどまるものは何一つありません。(中略)「過去の村上さんが好きだった」ということですが、もし僕が「過去の村上さん」のままだったとしたら、逆説的な言い方になりますが、あなたはきっと今頃がっかりしていると思います。なぜなら「村上さん」の本質は変化していく中にあるからです。変化のない「村上さん」はもはや村上さんではないからです。(P185)
(読者の「上手な作文の書き方は?」に対して)「私について」書かなくてはいけないと思うから、悩むのです。たとえば「牡蠣フライ」について書こうと思えばいいのです。「牡蠣フライ」について書いているうちに「牡蠣フライ」と自分との結びつきをみつければいいのです。そういう考え方をすると気が楽になります。(P192)
人生というのは負けるに決まっているゲームを闘っているようなものです。いずれにせよ、僕らはみんな、遅かれ早かれ、くたびれて倒れて死んでしまうんだから。(中略)でもどうせ負けるとわかっていながら、ルールを守ってきちんと全力を尽くして負けるのと、どうせ負けるんだもん、ルールなんかどーでもいいやと思って、適当にやって負けるのとでは、気持ちの「残り方」が違います。(P209)
村上朝日堂 スメルジャコフ対織田信長家臣団
(読者の「物語作者は、スイスイ型かゴリゴリ型のどちらかである。スイスイ型は、まず出たとこまかせに思いのままをぞんざいに書く。それから丹念に読み返し、うまくいってないところを直していく。ゴリゴリ型は一度にワンセンテンスずつ書き、それがぴったり決まらないと次へ進まない」に対して)僕は典型的な「スイスイ型」です。一行目から思いつきでどんどん書いていって、気がついたら終わっています。長編小説も短編小説も全部それで書きました。一行一行考えて書いていたりしたら、頭痛くなっちゃいますよね。ただしできあがったものの書き直しはしつこくやります。(P25)
表参道の地下鉄の駅から根津美術館に抜ける通り(「コム・デ・ギャルソン」とか「ヨックモック」のある通りです)は、うちの近所なので、僕もよく歩くのですが、そこにある日突然、「まことに勝手ながら、これからこの通りを『シンデレラ・ストリート』と呼ばせていただきます」という看板が出てきました。「そんなの、冗談じゃねえよ」と僕は思います。(P50)
僕にとって、短編小説をうまく書くコツは、前もって仕掛けを「ひとつ半」用意して、3日で書きあげることです。もちろん時間をかけて書き直す必要はありますが、集中して気合を入れて、3日でとにかくすぱっとケツまで「つばめがえし」で書ききるのが大事です。長編の書き方とはぜんぜん違います。(P95)
村上ラヂオ
僕がこれまでの人生でいちばんよく覚えているスーツというと、20年ほど前に「群像」新人賞をとったとき、授賞式に着て行ったオリーブ色のコットン・スーツ。スーツというものを持っていなかったので、青山のVANのショップに行ってバーゲンで買った。(文庫P13)
世の中にはたまに「サビのない人」みたいなのもいますよね。言っていることのひとつひとつは一見まともなんだけど、全体的な世界の展開に深みがないというか、サーキットに入っちゃっていて出口が見えないというか…。(文庫P53)
僕はりんごはだいたいにおいて、ぎゅっと堅くて酸っぱいのが好みで、だから日本では紅玉をよく食べるし、ボストンにいるときにはマッキントッシュばかり食べていた。(文庫P60)
僕がボストン郊外にあるタフツ大学に「居候小説家(ライター・イン・レジデンス)」として在籍していたとき、大学に行く前によくドーナッツを買った。途中の道筋にあるサマーヴィルのダンキン・ドーナッツの駐車場に車を停め、「ホームカット」をふたつ買い求め、持参した小さな魔法瓶に熱いコーヒーを詰めてもらい、その紙袋をもって自分のオフィスに行った。(文庫P98)
(「群像」新人賞の)「受賞が決まりました」という連絡があり、音羽にある出版社に行って担当の編集者と会った。それから出版部長(だかなんだか)のところに行って挨拶をした。普通の儀礼的な挨拶だ。そうしたら「君の小説にはかなりの問題があるが、まあ、がんばりなさい」と言われた。まるで間違えて口に入れてしまったものをぺっとそのへんに吐き出すような口調だった。この野郎、部長だかなんだか知らんけど、そんな偉そうなものの言い方はないだろう、とそのときは思った。(文庫P106)
飛行機の国際線に乗ると、食事の前に「何かお飲み物は?」と尋ねられる。そういうときあなたは何を飲みますか? 僕はだいたいブラディ・メアリを頼みます。(文庫P146)
昔、ある月刊誌で書評を頼まれたことがある。僕は本を書く人間で、批評する人間じゃないから、書評ってできればやりたくないんだけど、そのときは事情があって、「まあいいや、やりましょう」と引き受けた。でも普通どおりにやっても面白くないから、架空の本をでっちあげて、それを詳しく評論することにした。(文庫P150)
僕はずっと小説を書いているけど、ものを書く上でも、そういう感情の記憶ってすごく大事だ。たとえ年をとっても、そういうみずみずしい原風景を心の中に残している人は、体内の暖炉に火を保っているのと同じで、それほど寒々しくは老け込まないものだ。(文庫P172)
少年カフカ
村上さんはA型山羊座(P13下段)
『世界の終わりとー』ロシア語版への序文(P19下段)
(2002年のドイツ旅行について)念願のバーデンヴィーラ―に泊まることができたのが、今回の旅の収穫のひとつでした。(中略)スイスとの国境付近にある小さな温泉街で、チェーホフが息を引き取ったところ。(中略)ここの町のいちばん古いホテルに泊まった。(P19)
気分がもやもやしたとき、ピアノでバッハのインヴェンションを練習することがある。(P20下段)
我々はしばしば「魂」について考察する。(中略)僕にわかるのは、我々には意識というものがあるという事実だけだ。我々の意識は、我々の肉体の中にある。そして我々の肉体の外にはべつの世界がある。我々はそのような内なる意識と外なる世界の関係性の中に生きている。その関係性は往々にして、我々に哀しみや苦しみや混乱や分裂をもたらす。でも、と僕は思う。結局のところ、我々の内なる意識というものはある意味では外なる世界の反映であり、外なる世界とはある意味では我々の内なる意識の反映ではないのか。つまりそれは、一対の合わせ鏡として、それぞれの無限のメタファーとしての機能を果たしているのではあるまいか? そういう認識は、僕の書く作品のひとつの大きなモチーフになっているし、この『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という小説は、そのようなヴィジョン(あるいは世界観)がもっとも顕著なかたちで出たものであると言えるかもしれない。僕は1982年に『羊をめぐる冒険』という最初の本格的な長編小説を書いて、その3年後に、この『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を出版した。これを書きあげたとき僕は36歳で、これでようやく自分が一人前の作家になれたという気がしたものだった。僕には書くべき自分の物語があり、用いるべき自分の文体があった。あとは力をためて、ただ書き進めていくだけだった。(P21)
朝って好きなんだ。昔バーみたいなのを経営していて、そのころはもちろん夜型の人間だったんだけど。夜明け前に寝て、お昼頃に起きるみたいな生活をしていたんです。でも店をやめるときに「これからは早寝早起きをしてやる」って決めたんです。夜明けとともに起きてやろうと。人生のリセットみたいな感じで。それからもうひとつには、闇の中で仕事を始めて、仕事をしているあいだにだんだん明けていくというのって、感じとしてとてもいいんですよね。なんか僕の書きたい作品世界をそのまま象徴しているみたいなところがあって。(P24)
朝はよくバロック音楽を聴きながら仕事をする。小さな音で。(P25上段)
『羊をめぐる冒険』だけは前もってロケハンみたいなことをした。(P26上段)
僕としてはとにかく『スプートニクの恋人』では、次の長編小説のための準備みたいなことをしておこうと考えたわけです。野球でいえば、シャープな単打を狙っていこうと。長距離を狙うんじゃなくって。(P26下段)
麻原の提出したような、魅惑的ではあるけれど危険性を含んだ物語に対抗できるような、別の価値観を持った物語性を提出すること、それも我々フィクション・ライターに求められていることのひとつだという気がする。(P32)
僕はペリエ中毒です。プレーンのペリエが好きです。僕が好きなのは、ウォッカをペリエで割って、そこにレモンを絞る飲み物です。僕はこれを個人的にシベリア・エキスプレスと名づけています。(P41上段)
二年ばかりボストンに住んでいたころ、いちばんよく行った書店はケンブリッジの「ハーヴァード・ブックストア」(P41)
半年くらい西武線の「都立家政」というところに住んでいました。(P41)
モルツおいしいですよね。(P43)
これまでに書かなかった、あるいは書けなかったようなものごとが書けるようになるというのは、ものを書く人間にとっていちばんうれしいことのひとつです。そういうことがあると、年をとるのもまあ悪くないかなと思えます。(P44)
僕は焼肉って食べない(P45)
(『海辺のカフカ』で、佐伯さんの恋人をリンチした人たちが裁判で過失致死になっていることについて)「傷害致死」が正しいです。あとでわかって、増刷ぶんからはすでに変更されています。初版をお持ちの方はすみませんが、「過失致死」を「傷害致死」と書き直しておいてください。(P48)
僕はこの『海辺のカフカ』という作品を、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の精神的延長線上にあるものとして書いた(P49)
僕にとって小説を書くというのは、ほんとに息をするのと同じようなことで、それなしには生きていけないみたいなことです。(P50)
(『海辺のカフカ』の)帯の文章は僕と編集者が協議して決めました。(P56)
(『海辺のカフカ』について)実は初校の段階では、神戸の町にきつねうどんが降ってくるエピソードがあったんですが、「それはやりすぎだ」という意見があって、削りました。(P56)
小説家になっていちばんうれしいのは、試験がないことと、通勤しなくてもいいことです。(P56)
「人はみんな病んでいる」というのが僕の基本的な世界観です。僕らはみんなその治癒を求めて生きているのです。あなたが誰かに治癒を求めようとすれば、あなたもまた誰かを治癒しなくてはなりません。僕らはその交換行為の中で「生きている」という実感を得るのです。多くの場合。(P58)
僕も昔一時期サーフィンをやっていたので(あまりうまくはありませんでしたが)、いろいろと学ぶところはありました。(P61)
大磯の「船橋屋」の柿ピーは大好き。(P65)
僕も受験勉強ってとりあえずやりましたが、やっぱりかくれて本なんか読んでました。それから大学受験のあいだ、僕にはかわいいガールフレンドがいたので、しょっちゅうデートしてました。もう受験どころじゃなかったですね。(P66)
人がどうして物語を愛好するのか、というのはむずかしい問題です。たぶん物語というかたちをとってしか、人と人との間で理解し合えないものごとが存在するからだと僕は考えています。理屈で「こうこう、こうなんだよ」といくら説明しても伝えられないこともあるし、どれだけ詳しく経緯を語っても伝わらないことがあります。そういうことも、物語というかたちをとってうまく語ることができれば、多くの人々と共有できるわけです。だからもしあなたが僕の書いた小説を読んで、「うん、そうそう、そうなんだ」とうなずいていただける部分がひとつでもあれば、僕とあなたは何かを共有したことになります。僕が物語に求めているのは、簡単にいえばそういうことです。(P67)
長編小説を書くときに、僕が自分に対して設定するいちばん大きなハードルは「達成感」です。(P68)
僕は基本的に人生は孤独なものだと考えています。でもそれと同時に、孤独さというチャンネルを通して、他者とコミュニケートできるはずだと信じています。僕が小説を書く意味はそのへんにあると考えます。(P69)
この人の新刊が出たら、何はともあれ読んでみたいという作家は僕にも何人かいます。ラッセル・バンクスとかティム・オブライエンとか。(P74)
うち(村上さん)の母親は戦争中に大阪市内で女学校の先生をしていた。か。(P75)
大事なのは(小説の)謎を解くことではなく、謎をくぐりぬけることだと僕は思います。謎を自分の一部とし、自分を謎の一部とすること。そういう行為の中に解答が含まれているわけです。(P77)
青山ブックセンターで本を買って、向かいのカフェに座って買ったばかりの本をよむのが好き。(P81)
井伏鱒二を読むのはいいこと。長谷川四郎も、織田作之助も。(P81)
(図書館はどこも月曜日が休館であることについて)僕もあとからそれに気づきました。それで第2刷からは、その「月曜日云々」の箇所は削除してあります。(P90)
死んでしまった親しい人に対して僕らができるのは、ただ彼らを記憶しつづけることだけです。そう言ってしまうと簡単そうだけど、何かを記憶しつづけるというのは実はなかなか大変なことなんです。(中略)気を引き締めていないと、僕らはいろんなことをどんどん忘れていってしまいます。たとえそれが大事なことであっても。(P93)
僕はスピリチュアルなものとか、ニューエイジ的なものとか、そういうものにはほとんど興味がありません。占いにも、超常現象にも、幽霊にも、虫の知らせにも、興味はありません。血液型にも星座にも(ときどき冗談で書きますが)興味はありません。とても実際的な人間なんです。ただ僕は心的な状況としての「壁の存在」とか「入口の存在」を信じています。僕らはその壁を抜けて違う場所に行くことができるし、その入り口を開けて別の世界に行くことができるのです。(P93)
僕のロシア語翻訳者はコワレーニンさん(P95)
僕は納豆は食べます。たまにしか食べませんが(関西人なので)、決して嫌いではありません。(P95)
「君の心は深い森となる」というのが隠喩、「君はきゅうりのようにクールだ」というのが直喩。でも現在では一般的に比喩=メタファーというかんじで、隠喩・直喩の区別なく使われているようです。(P102)
安岡章太郎の『流離譚』は高知の山を抜ける話(P103)
僕もリアルタイムでビートルズやドアーズ、ブライアン・ウィルソンやらの音楽を聴いたり、あるいは好きな作家の小説を発売と同時に読んできたりして、それは人生の滋養にみたいになっています。そういうのって大事ですよね。同じ時代の空気を吸っていくこと。(中略)自分の頭でものを考えようとすると、いろんないやな目にもあいます。憎まれたりすることもあります。でもそうしないことには、どこにも行けないんですよね。僕は切実にそう思います。(P104)
僕は長編小説を書き始める場合には、よく外国に行きます。そうすると集中しやすいので。長編の最初の百枚って、ほんとに大変なんです。この『海辺のカフカ』の場合もカウアイ島の奥の方に数ヶ月こもっていました。(P106)
僕は長編小説を書くときには、いつも「何か新しい、前とは違うものを書いてみよう」と思って書いています。そして、プロの書き手としては当然のことですが、「読み手はこれをどのように読むだろう」ということを念頭に置きながら書いています(サービスしているというのではありません。ただ念頭に置いているだけ)。(P108)
文体というのは、英語でstyleつまり「姿勢」と置換えてもいいのではないかと思います。でも僕はむしろ「生き方」のほうに近いと思います。歩いたり、息を吸ったり、そういう生きることすべての総体です。僕らはそういうものを使って文章を書き、その文章を使って小説家は小説を書く。生き方が変われば文体も変わります。だから文体を見れば、多かれ少なかれ、大体その人の人柄はわかります。(中略)小説には「文体」と「内容」という二つの要素があります。これまでの正統的な文章は「内容」を中心に語られてきました。文体というのは二次的なものだと考えられていた。でも僕は「文体」と「内容」は等価であり、お互いを規定しあっているという立場をとっています。つまり「文体」と「内容」はお互いを抜きにしては語れないのだと。(P109)
四国にはすかいらーくもデニーズもなかったんです。あとで気づいて(『海辺のカフカ』の)2刷からは直しています。(中略)初版を買った人は頭の中で「吉野家」とかに訂正しておいてください。(P111)
豚肉って、ちょっとダメなんです。(P119)
僕はそのころ(高校生のころ)19世紀のロシアの小説にはまっていました。酒はあまり飲まなかったけど(当時は弱かったから)、タバコは吸っていたし、よく徹夜マージャンをやっていました。(P128)
僕らの人生において知識がいちばん身につくのは、金がなくて暇がある時期です。(P130)
僕は基本的に文章というのは中毒的であるべきだと考えています。危険思想ですが。でもそれと同時に自覚的でなくてはならないと思っています。(P134)
人は変わります。僕も変わるし、あなたも変わります。愛も変質しますし、内閣支持率も変わります。僕らはあらゆるシフトの上にかろうじて生を送っています。記憶を大事にし、上を向いて歩くこと、これしかない。(P137)
うちの秘書ってけっこういろいろとやることがあるんです。海外とのやりとりが多いので(これが仕事の半分以上)、タフな英語力が必要ですが、作家の仕事なので、もちろん日本語がしっかりしていないと話にならない。(P143)
僕はもちろん国際的に作品が読まれることを望んでいますが、それを念頭に置いて作品を書くことだけはやめようと思っています。僕は日本語で小説を書いていますし、僕の読者の中心は言うまでもなく日本の読者です。(P147)
すべての戦いを終わらせるための戦い、というのは、もともとは第一次世界大戦の別称です。第一次世界大戦を戦った人々は「これはすべての戦争を終わらせるための戦争なんだ」と自分に言い聞かせえて戦いました。でもその結果は?(P147)
僕はフライド・チキンって食べないから、(ケンタッキー・フライド・チキンに)一度も入ったことないんですけど。マクドナルドには年に二回くらい入ります。(P148)
「原作をしのぐ翻訳はあるか?」。この答えははっきりしています。僕は小説家兼翻訳者ですが、確信をもって断言できます。原作をしのぐ翻訳があったとしたら、それはすでに翻訳ではありません。そしてその作業をおこなった人は翻訳者ではありません。僕が翻訳者として目指していることは、エゴを捨てて、ほんの少しでもオリジナル・テキストに近づくことです。(P149)
小説における物語の意味は、読者の魂にある種のリアルな「疑似体験」をさせることです。そしてその体験を魂のどれくらい深いレベルでおこなえるか、それがそのまま小説の価値になります。(P150)
どうして僕が普通じゃないことを書くのが好きかというと、僕の場合、「普通じゃないこと」をしっかり書くことによって、「普通であること」がより明確に理解できるようになるからです。僕はいつもそう思って書いています。(P153)
サーフィンは昔、藤沢の鵠沼に住んでいるころに、友人に誘われてちょくちょくやりました。ぜんぜんうまくないです。でもハワイに行ってやっていたこともあります。それなりにいろいろと怖い目にもあいました。(P154)
アメリカで猫に噛まれて、病院にいったらぶっとい注射を8本くらい打たれて(狂犬病と破傷風)、一晩熱が出てうんうんうなったことがあります。ほんとに痛かったし。(P158)
村上さんの奥さんはてんびん座。(P158)
四国のうどんはほんとに冗談抜きにしておいしいです。(P159)
ワードで言うと、画面ひとつがだいたい原稿用紙4枚分なので、一日に二画面半を書く、という見当でやっていました。(P161)
僕も持ち物に名前をつけるのが好きで、今使っているVAIOくんにはとりあえず「やたろう」という名前をつけています。ヤクルト・スワローズの坂元弥太郎投手から名前を借りました。iBookくんは「りょうた」です。これは五十嵐亮太投手からとりました。(P162)
(高校時代)僕なんか自慢じゃないけど、授業中に文学全集一そろいくらいの量の本を読破しました。(P165)
自分のしたいことがわからなくなっている、ということですが、それならためしに一度、自分のしたくないことをやってみればいかがでしょう? そっちなら思いつけるんじゃないですか?(P167)
僕は旅行で出たときは、読んだ本は全部その場に置いていくということを習慣にしています。それを拾った人がまた読んでくれるのではないかと思って。(P168)
いちばん大事なのは、自分が何を好きか、何に興味があるかを、しっかり限定することなんですよね。(P169)
僕は小説については、ある程度書き上げるまでは誰にも見せませんが、書き上げたあとは何人かの人に見せて、意見を聞きます。そして書き直したり、あるいは書き直さなかったりします。作品を書き上げた直後というのは、興奮していて、なかなか自分では見えない部分があるからです。うちの奥さんの意見も聞くし編集者の意見も聞きます。(P172)
(友人を亡くした読者に対して)僕も少なくない数の友達を亡くしました。平凡な意見ですが、その人たちのぶんも生きていかなくてはならないんだなとよく思います。日常生活の中で「やだなあ、こんなこと」とか「まったくもううんざりするよな」とか思いそうになると、思い半ばでして死んじゃった人たちのことを考えます。そして「がんばらなくては」と自分に言い聞かせます。上を向いて歩くようにします。(P173)
ことばにできないことというのは、往々にしていちばん大事なことです。僕はそう思います。頭ではわかっているんだけど、いざことばにしようとすると、うまく出てこない。でも、そういうことは無理にことばにしないで、ことばにならないままのものをじっと胸に抱えている方がいいかもしれない。鳥が卵を抱いて温めるみたいに。そのうちにだんだんとことばが形をとってくるのではないでしょうか。(P174)
僕は22で結婚して、わけのわからないままどたばたして、もう結婚生活31年です。子供はいませんが、それにしても、結婚するとか子供をつくるとかいうのは、わけがわからないままどたばたやっちゃうのがいいのかもしれないと思うこともあります。考えすぎちゃうとしんどいことってありますよね。(P175)
僕も無作為にページを開いてしばらく読むというのを、チャンドラーの『長いお別れ』とフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビイ』でながいことやってます。だいたい英語の本でやっているんですが、もう数十年やってても飽きません。(P180)
『海辺のカフカ』を書いているあいだ考えていたのはサリンガス事件。林泰男の公判を見てきて、やりきれさみたいなものがずっと頭にひっかかっていた。(P180)
僕に関心があるには、過去の僕自身を超えているかどうか、それだけ。(P181)
いつになるかわからないけど、いろんな物語といろんな文体を組み合わせた「総合小説」みたいなものが書けたらなあと思っています。(P182)
『ノルウェイの森』ってたしかに自分で装丁をやりました。(中略)デザイナーの人にまとめてもらったんだけど、そのデザイナーは「こんな表紙に自分の名前を出したくないから、出さないでくれ」と希望したということでした。ほんとに最初は評判が悪くて、「ほんとにこんなんでいいの?」とみんなに言われたんだけど、僕はあのイメージしか頭になかったので、強く言い張ってあれにしてもらいました。(P182)
「経験していないことの記憶をたどる」、これが物語を書くことの本質です。(P189)
僕は思うんだけど、わけのわからないものをわけのわからないままに抱える力っていうのは、人生にとって大事なことなんですよね。たいていの場合、ものごとの全貌なんてほんとにわかりっこないんだから。僕らはむしろわからないことと共生することの大事さを学ぶべきではないでしょうか。(P193)
青山墓地にはたくさんのカラスがいて、ジョギングをしているとよく威嚇されます。(P195)
僕は小説を書くときには、どんどん自分の中に降りていきます。そしてそこでいろんなものごとを発見し、それらを文章にしていきます。そこにはセックスや暴力がいやおうなく含まれています。僕が自分の中に降りていくのは、そこにある自分にとっての物語の核のようなものを見定めたいからです。(P196)
あいつは「なんとか世代だから」というようなまとめ方をするのって、よくないですよ。同じ世代だって、人それぞれぜんぜん違うんですから。(P197)
小説を書いているとき、僕はわりにきちんとした人間になれるような気がします。(中略)いつもきちんとした人間でいることって大変だけど、「これをやっているときだけは、とにかく」みたいなものがあると、人は救われます。(P198)
日本の免許証には性別の項がないんです。(中略)(『海辺のカフカ』の)第二刷からは訂正されています。ほかのIDを出すことになりました。初版の方だけが運転免許証になっています。(P200)
物語でも人生でも先がわかっていることってつまらないですよね。僕も小説を書きながら、「さあ、次は何が出てきて、どんなことが起こるんだろう」とわくわくします。(P203)
(作品に「結論がない」「解決がない」と言われることに対して)結論や解決というのは、読者と著者と本が集まって、三人で相談して決めることだろうと、僕はばくぜんと思っています。一度ではなかなか決まらないから、何度か集まって話し合う。でも集まるたびに、三人のあいだの距離感はちょっとずつ異なっている。たぶんちょっとずつ縮まっている。僕はそういう本を書きたいんです。ひとつしか解決がない、ひとつしか結論がないというような(たとえば「執事が犯人だ!」みたいな)物語は書きたくない。(P208)
ひとりひとりの人の病み方は、ひとつひとつ違います。ですから、それを一般化することはできません。しかし僕らがみんなそれぞれの意識というものをもって、二本足で歩いて、道具を使って生活している以上、僕らはみんな病を抱えて生きていかざるをえないというのが僕の認識です。(P208)
作家は変化し、進化していかなくてはならない。同じようなことを取り上げるにしても、同じようなスタイルを使うにしても、そこに新しい意味を加え、新しい物語の進展を提示しなくてはならない。(P211)
今はほかにインターネットとか携帯とかケーブルテレビとかMTVとか貸しビデオ屋とかテレビゲームとか、そういうものがいっぱいあるから、本なんて読んでいる暇はないんでしょう。それはよく分かります。でもだからこそ、そういう競争相手を蹴散らすような小説を僕らは書かなくちゃいけないと考えています。「小説なんてもうみんな読まないんだよ」と嘆くのではなく、「じゃあ、みんなが何をさておき読みたくなるような小説を書いてやろうじゃないか」を志したいと思います。(P214)
最初のころの僕にはまだセックスとか暴力とか、そういうことがうまく書けなかったんです。(中略)でも職業的作家として生き延びて、発展していくためには、そういう「自分の書けない領域」をひとつひとつつぶしていかなくてはなりません。いつまでも同じことはやっていられない。「暴力」と「セックス」は僕が乗り越えていくべき壁でした。僕にとってのこれからの課題は「悪」です。(P216)
僕の理想は、久しぶりにその本を手にとって適当なページを開いて、数ページためしに読んでみたら、ひきずりこまれてそのまま最後まで読んでしまいました…みたいな本を書くことです。(P218)
僕はこのあいだベルリンとケルンで朗読会をやりました。(『スプートニクの恋人』を朗読)(P220)
世間には実に様々なかたちの暴力が満ちているし、ある場合にはそれは圧倒的な力を持つし、どうがんばってもそれを避けることはできない、という状況も出てきます。そして人間の価値というのは、そのときにそのような暴力に対してどういうかたちで対処するかで決まってくることが多いのです。(P221)
猫は「猫が怖い」と思っている人がいるとちゃんとわかる。それで「もっといじめてやろう」と思ってますます寄ってきたりする。(P224)
本というのは、小説というのは、時間がたってみないと、本当の価値は定まらないもの(P226)
作家というのはだいたいにおいて、これまでに築いてきた土台の上に新しい何かを積み上げ、不必要になったものを捨てて、成長していくものです。(P226)
自由であること、これが僕にとっていちばん大事なこと。(P229)
スコット・フィッツジェラルドが娘にあてた手紙に「人と違うことを語りたければ、人と違うことばで語りなさい」と書いています。これは僕の座右の銘になっています。(P229)
物語というものを追求していくと、どうしても神話的な元型に近づいていくというところはあります。つまりひとつのカオスをべつのかたちのカオスに置き換え、その置き換え作業の中に「真実なるもの」を見出す、みたいな感じのことです。置き換えられたカオスの中に解答があるわけではない。置き換え作業そのものの中に解答が含まれている。僕はそういう小説を書いてみたいんです。(P231)
もし無人島に一冊の本を持っていくのなら、僕は「リーダーズ英和辞典」を持っていきます。(P235)
ぼくは基本的には平和愛好者なんだけど、強い力で上から押さえつけようとするものがあると、どうしようもなく生理的に反発してしまうところがあります。(P237)
僕が今のところいちばん耐えられないのは、社会が含んでいる非寛容さです。たとえばオウム真理教が含んでいる非寛容さ、そしてそれに対峙する一般社会が含んでいる非寛容さ。アルカイダの非寛容さ、ブッシュのアメリカの非寛容さ。僕はそういう非寛容さをひっくり返すような物語を書きたいと思っています。(P237)
駅のデザインて、どういう人がどういう気持でやるんでしょうね。僕には見当もつかないんです。(P239)
(芦屋の海を埋め立てたことについて)僕はやっぱり海を埋め立ててしまったということで、どうしても許せない部分があるんです。許せないというか、どうしても納得できないというか、そんなことをする必要があったんだろうかと、今でも疑問に思っています。自分の育ってきた土地が、無理やりにかたちを変えられてしまうというのは、けっこう悲しいことです。(P240)
一回底を見ちゃうと、少々つらいことがあっても、「まあ、あのときに比べたらましだよね」とか思ってやっていけます。(P241)
人はもちろん孤独です。僕も孤独です。あなたも孤独です。人と人とが理解しあうことなんて不可能です。それは絶対的な真実です。(P245)
芦屋打出図書館が存亡の危機にあるんですね。それは残念なことです。僕も昔よく利用しました。前の公園に猿の檻があって、そのことはたしか『風の歌を聴け』という小説にちょっと書きました。(P246)
小説家っていちおう死ぬまで小説家なんだ。そういうのって楽でいいですね。(中略)セレモニーって、ほんとに苦手なんです。(P246)
人間には伸びる時期があり、休止する時期があり、また伸びる時期があると思うんです。僕にとっての20代はほんとにじっと我慢する10年間でした。でもそのときに経験したことって、あとになってずいぶん役に立っています。(P250)
「悔しいこと」って、いくつになってもありますよね。(中略)「勝負に出る」のも強さなら、じっと耐えるというのも強さだと思います。(P251)
東京の近代美術館で、北脇昇さんの特集展示に惹かれた。(P252)
『海辺のカフカ』というタイトルは最初からは決まっていませんでした。途中でふと思いついてこうなったんだと記憶しています。でもなんかよく思い出せないんです。三分の一くらい書いたときにはもう決まっていたという記憶があるんですけど…。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書いて編集者に原稿を渡したときに、「タイトルがちょっと長すぎるので、『世界の終り』だけにしてくれませんか」と言われたことを記憶しています。「うーん、ちょっとそれは…」と言ってその場で断ったんだけど、断っておいてよかったです。最初からタイトルがばちっと決まっていたのが『スプートニクの恋人』でした。あの作品に関して言えば、タイトルしかなくて書き始めた、みたいなところがあります。タイトルが先に来るか、後に来るか、というのは、僕にとってはわりに大きなことかもしれませんね。(P252)
国産車ではホンダと三菱の車は所有していたことがある。(P253)
僕は昔「とんび」とか「きりん」とか「ころっけ」とかいう名前の猫を飼っていました。(P254)
僕は『地獄の黙示録』の圧倒的なファンです。もう20回くらいは見たと思います。「圧倒的な偏見をもって断固抹殺する」というトロくんの台詞は『地獄の黙示録』の中の台詞を引用しました。(中略)僕の作品には往々にしてこういう「引用」があります。オマージュのようなものです。(P255)
僕は遊園地ってあまりいかないですが、ジェットコースターはぜんぜん怖くありません。いやなのはぐるぐる回転するやつで、あいつらには近づかないことにしています。(中略)僕がいちばん怖いのは高い場所で、ピサの斜塔にも登れませんでした。(P259)
僕はほうじ茶が好きです。(P260)
僕は新しい小説を書くたびに、「自分の中の新しい筋肉を動かしているな」という実感はあります。そういう実感がないと、なかなか長い小説って書き続けられないものです。(P261)
文章がうまくなるこつは、書くのに時間をかけることです。(もちろん中には簡単にさっと書いて出してしまえる種類の文章もありますけど)(P263)
卒論は本を一冊も買わず(お金がなかった)、大学図書館に通って三日で書き上げて、それでAまでとってしまったというあつかましい村上です。(P264)
外国生活はいろいろと大変なことが多いと思います。僕のヨーロッパでの生活も、かなりトラブルと孤絶感に満ちたものでした。ほとんどつてもなかったし、頼るべき組織みたいなものもなかったし。でもそういう時期って、逆に得ることも多いんです。僕はヨーロッパでの生活の中で、『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』という二冊の長編小説と、いくつかの短編を書きました。それは僕の人生にあっては、ずいぶん意味深い時期になっています。(P273)
僕は「しるし」という言葉がたしかに好きかもしれないですね。というか、逆にいろんなところに「しるし」を読み取るのが小説家の役目じゃないかと思うことがあります。普通は見逃されてしまいそうな兆候のようなものを、目ざとく見つけていくこと、それが物語の始まりみたいになるんです。往々にして。だから日々の生活の中で注意深くならなくてはならないし、ある意味では謙虚にならなくてはならない。というのは、「自分が自分が」と思って生きていると、なんにも見えなくなっちゃうから。(P274)
僕も昔はけっこうだらだらしていました。もともとそんなきちんとした性格じゃないんです。小説を書き始めてから、「もっといい小説を書きたい!」と思って、そのために(ほとんどそれだけのために)勤勉で規則正しくて健康的な生活を始めたのです。(P276)
そういえばジョン・レノンさんが殺された日に、僕はある雑誌のために山川健一さんのインタビューを受けていました。(中略)僕ももちろんショックだったですが、とくにビートルズのファンではなかったので(へそ曲がりだから)言葉を失うというほどではありませんでした。もっとあとになってから、「ああ、あのときに大事なものが失われたんだな」という実感が湧いてきました。(P276)
僕は生まれてから肩って凝ったことないんです。(P278)
僕が書いた文章が試験問題に使われることはけっこうあるみたいです。前もって使用許可を求められることはほとんどありません。(中略)僕が言いたいのは、作者だから作品の意味がなんでもわかっているってことじゃないんだ、ということです。意味が最初からわかっていたら、小説なんてわざわざ書かないんです。(P280)
僕はこれまでの人生で嫉妬したことってほとんどまったくありません。(中略)ほかの誰かがうらやましいとか、そういう風に感じたこともないです。(中略)ひとりっこであることは、けっこうきつかったですよ。ひとりっこであるというだけで、よくいじめられたし。でもひとりっこでいいところは、自分ひとりだけでいても、それほど孤独感を感じないということですね。(P281)
僕は、今の小説が社会において果たしている役割は(あるいは果たすことを求められている役割は)、僕らが置かれている世界の混沌性を鋭く振り払うことではなく、それをどのように有機的に相対化するか、そういうことが中心になってきているのではないかと考えています。つまり「これが答えだ」みたいなものをすぱっと提出するのではなく、そこにある混沌性をべつの混沌性に、切々と置き換えていくこと。僕が小説を書くときのぼんやりと念頭に置いているのは(あるいは置かざるを得ないのは)、簡単に言えばそういうことです。そんなことをして何か意味があるのか? あると思います。だって小説には小説にしかできな「置き換え方」があるから。小説のいいところは結局、「時間がかかる」ということだと思うんです。受け取るのにこれくらい時間のかかる情報形態はほかにない。(P284)
僕も大学時代に映画のシナリオを勉強していまして、何度かシナリオを書いてみようと試みてみました。でも書けなかったです。ぜんぜん書けなかった。(P285)
お父さんを殺したい、あるいは自殺したいと思って生きてきたんだ。でも自分の人生がしっかり歩み始めると、そういうネガティブな思いってだんだん消えていきます。あるいはだんだん薄くなっていきます。でもだからといって油断をしないようにね。いちど身体に染み付いたネガティブな思いというのは、影のようにひっそりとあなたのそばについていることが多いものです。それは息を潜めてあなたの隙を狙っています。あなたが怒りに自分を失ったり、深く絶望したりしたようなときに、そいつはあなたの心に這い上がってくるかもしれません。あなたはそれにいつも注意していなくてはならない。(中略)誰かをずっと好きであること、ジムで身体を鍛えること、注意を怠らないこと。そういうことがあなたにできるもっとも大事なことなんじゃないかと僕は思います。(P287)
僕は細部(ピース)をひとつひとつ描き込むのが大好きで、そのひとつひとつが独立したお話みたいになればいいなと思いながら書いています。そしてそういうのがぱっとひとつに集まって、そこに大きな集合世界が出現すればいいなと考えているわけです。(中略)僕の暴力の描写はときには過度に映るかもしれませんが、それは少なくない数の人々が負っている傷の「移し替え」なわけで、やはり過度にならなくてはならないときもあるのです。そうしないことにはうまく傷の深さが伝わらないから。(P287)
香川県のうどんはほんとにおいしいです。(P289)
(読者との交流サイトを開いたことについて)本にとってもっとも大事なのは熱心に読んでくれる読者の存在です。だから僕は中間メディアみたいなものをすっとばして、スルーパスして、読者のみなさんと直接語り合いたかったわけです。(P290)
本当に言いたいことというのは、言葉では表現できないものです。だから僕はこうして「物語」を書いているわけです。僕が本当に言いたいことというのは、物語というかたちでしか表出できないんです。(中略)物語は、言葉が失われてしまったところから動き始めます。それは人々の心の「共感装置」なんです。そしてそれはただ与えられるものではなく、そこにはあなた自身の探求が必要とされています。(P290)
僕もときどき「ミスター・ドーナッツ」に入りますが、女子中学生やら小さな子供連れのお母さんやらに囲まれて、つらい思いをすることがあります。(P291)
本を書くときには読み手に対して何かを意識しているか? とくに意識はしていません。ただときどき、真っ暗闇の中で誰かの手を握っているような気持ちがするときがあります。それはきっと読者の誰かなんじゃないのかな。(P293)
くりご飯は僕も大好きです。(P294)
最近、歴史の中のいやな部分は見るまい、そういうものからは目をそらしてしまおうという風潮があります。(中略)でも見なくちゃいけないんですよね。しっかりと。(P295)
今になって思い返してみると、もちろん僕の場合はということなんだけど、学校で学んだことよりは、(僕は公立中学校から公立高校に進みました)、本から学んだことのほうが多かったような気がします。(P296)
簡単に言ってしまえば、僕のやろうとしたのは、なるべく中立的な言葉を集めてきて、それをうまく組み合わせて、できるだけ読む人の想像を膨らませることのできる文章を書くことでした。つまり単語自身の意味性、情緒性にからめとられることなく、その組み合わせの複合によって、何かを語りたかったのです。「俺はこう思う。俺はこれが言いたい」というような、作者が前に出て考える文章ではなく、僕自身はうしろに引いて、読者に自分で何かを感じてもらい、何かを考えてもらう文章を書きたかったのです。(中略)そのような作業が結果的に、既成のいわゆる「純文学」の文体とは異なった僕自身の文体を生み出すことになったのだと思います。(中略)僕の文体にとって大事な要素を三つあげてくれといわれたら、僕は「音楽性」と「ユーモア(おかしみ)」と「親切心」と答えると思います。日本の作家でいちばんシンパシーのようなものを感じるのはやはり夏目漱石です。彼の文章には、その三つが備わっているように見えるからです。(P298)
実を言いますと、僕は最初のうちは登場人物に一切名前をつけませんでした。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』くらいまでは、登場人物のおおかたは名前を持っていません。(中略)当時の僕としてはすごく恥ずかしかったんです。(中略)でもどうしてもそれではうまく小説が書けなくなってきて、『ノルウェイの森』では登場人物にしっかり名前をつけていくことにしました。(中略)で、一回やっちゃうと、もうそんなに恥ずかしくなくなって、あとはもうばんばんつけまくりました。(P299)
僕はほとんどの場合、ラフスケッチは一切作りません。「気の向くまま」に書いていきます。そういう書き方が僕の小説にあっているからです。(P300)
『イル・ポスティーノ』のマイケル・ラドフォードが『国境の南、太陽の西』を映画化するという話は、いちおう契約はすませたものの、先のことはぜんぜんわかりません。(P303)
僕は「なるべく深くてややこしいものごとを、なるべくわかりやすくて読みやすい文章で語りたい」と願って生きています。こう言ってはなんだけど、世の中には簡単なものごとを、わざわざややこしい文章で書いている人がけっこうたくさんいます。(P304)
モルツもおいしいですよね。僕は最近バース・エールを壜のまま飲むというのが気に入っています。(P305)
僕は小説を書くとき、とくに読者の年齢層を意識して書いているわけではありません。僕はだいたいいつも「人生の大事な時期にいて、正しい方向を捜し求めている人々」を意識して作品を書いています。(P305)
愛を告白するのは世界でもっともかなりむずかしいことのひとつです。(中略)僕がお奨めするいちばん現実的な方法は、まず適度な「言葉による言い寄り」(やりすぎない)、それから適度な「フィジカル・コンタクト」(これもやりすぎない)、そしてその反応を見て、ちょっとずつ次に進む、というプロセスです。最初から決めてやろうと思ってどーんとやっちゃうと、ときとしてわりにしんどいことになります。(P306)
現実を生きるだけでは足りないし、自分の内部に生きるだけではどこにも行けません。そのふたつの作業をうまくコントロールして、バランスをとっていくことが大事なんだと思います。(P307)
うどんが食べたいときは自分で作ります。かつおを昆布で出汁をとって、塩と醤油と日本酒。ねぎと油揚げ。好きなように味付けをします。(P307)
僕はいつもベートーヴェンのシンフォニーにことを考えて長編小説を書いています。どれがどれより優れているとか、そういうことではなく、「今日は三番を聴きたいな」とか、「今日は八番の気分だな」とか、そういうあり方をひとつひとつの作品がしてくれればいいのだけれどなと考えているわけです。そして全部でワンセットとして機能するということ。(P308)
僕の高校時代、ブルーノートっていうジャズのレーベルの輸入LPが2800円もしました。その当時2800円だから、そりゃもう大変なものだったんです。(中略)でもお小遣いをこつこつためて、お昼ごはんを抜いて、無理して買っていました。今でも大事に聴いています。(P310)
原則的なことを言いますと、小説というのは、説明するものじゃないんですね。台詞にせよ、地の文にせよ、言葉でいろんなことを説明してはいけない。言いたいことはそのまま言葉にはせず、何か別のものに託してしまう―これが小説の本来のあり方です。託されたものというのは、ただすっと読んでいただけでは見えないときがあります。森の奥にひそんでいるまぎらわしい色の獣を探すときみたいに、じっと目を凝らさないと見えてこないことがあります。僕は若いときにヘミングウェイの短編小説を繰り返し読んで、「何かに託する」というのがどういうことなのか、なんとなく理解できました。ヘミングウェイの短編といいうのは、さっと読んでいてもスピードがあって面白いんだけど、じっと読み込むと、その託されたものがじわじわっと見えてくるんです。すごいなあ、と感心しました。(P311)
ちょうど僕が15歳のとき(高校に入っていましたが)、クラスの女の子が一人不登校になっちゃって、クラスの全員が「出ておいでよ」という彼女あての手紙を書かされたことがあります。それでしばらくしてその子がわりにけろっとした感じで、また学校に出てくるようになって(不登校の原因は教えてもらえなかった)、そのときに「村上君の手紙がいちばん面白かった」というようなことを言われた記憶があります。(P312)
僕はおもにアメリカ文学の翻訳をやっていますので、新作が出るたびにすぐに買ってきて読む作家は何人かいます。ラッセル・バンクス、ティム・オブライエン、ポール・オースターなどなど。(中略)僕は高校の修学旅行では、ロス。マクドナルドの「The Name Is Archer」の英語ペーパーバックを読んでいました。はい。けっこうまわりから浮いていたような気がします。(P313)
「大公トリオ」は曲名。「百万ドルトリオ」は演奏者の団体の名前。CDショップではベートーヴェンの室内楽のピアノトリオで探す。(P314)
(村上春樹が日本文学をだめにした、という人がいることについて)僕に言わせれば、「村上春樹ごときにだめにされる文学なら、だめになったってそりゃしょうがないじゃん」ということになります。(P317)
僕はタイムリーなことというのはなるべく小説の中には持ち込まないように気をつけているのです。(P318)
(『海辺のカフカ』について)紙は僕と編集者とで選びました。持ち運びに楽なように、薄くて軽いものを選びました。(P318)
多くの場合、作家の描くテーマってだいたいいつも同じなんです。スコット・フィッツジェラルドの場合なら、夢を求めて、夢に近づいて、そして燃え尽きていく人々の姿。誠実に生きようとして、その結果モラル的に崩壊していく人々。そうですよね? でも物語のかたちは少しずつ変わっていく。『ギャツビー』と『夜はやさし』とでは、ずいぶん作品のトーンが違ってきています。(中略)どちらが好きとか、作品として上、というんじゃなくて、『ギャツビー』と『夜はやさし』はあわせ鏡として一組で存在しているのだと思います。(P318)
評論家の批評というのは、多くの場合、まず自分の批評性の枠みたいなのがあって、そこに作品を入れるような感じがあります。(中略)でも読者の感想というのは、もっとずっと正直です。枠とか方向性なんかとは関係なく、ダイレクトにすっと意見がやってきます。文学のあり方がどうのこうのというよりは、その小説に(お金を払って)読むだけの価値があったかどうか、という話になってきます。そういうのって、すごくストレートですよね。(中略)そしてみなさんの意見をたくさん読んでいると、おおかたの総意(あるいは総意のばらけ)みたいなものがだんだんくっきりと見えてきます。(中略)そして僕は思うんだけど、僕がどのような小説を書こうとしているか、おおまかに言ってプロの批評家よりはみなさんの方がより明確に掴んでおられるようです。(P319)
バッハの音楽はもちろん芸術的に深い価値をもっているわけですが、それと同時にとてもフィジカルな効果を発揮します。僕もそういう小説を書くことができればと、常々考えています。(P321)
僕もアルファ・スパイダーにしばらく乗っていました。(P323)
僕は文庫本のデザインにはほとんどかかわっておりません。(P323)
世間の人って小説なんかほとんど読まないんですね。(中略)たかが作り話だし、読むのに時間がかかるし、目も痛むし。でも読まなくてもとくに不便のないものを、苦労しながら読んでしまう人々がいることで、世界はそれなりにちょっとずつ深みを獲得していくのだと思います。(P324)
僕は小説というのは、優れた小説というものは、読者に記憶を付加していくものなんじゃないかと考えています。あなたが自分自身のものとして体内に抱えている記憶に、新たな情景を少しずつ小説は(もしそれが優れた小説であれば)加えていくことができます。あなたはそれを熱源にして生きていくことができます。僕はできることなら、そういう小説を書きたいと考えています。(P326)
僕もセロリ好きです。セロリとりんごとレタスのサラダをときどき作ります。そこにオリーブオイルと塩とレモン汁をかけます。噛み心地が独特で、「サラダの極北」という感じがあり、ナイスです。(P327)
僕は実は「コーヒーをいれる」という表現があまり好きじゃないんです。(中略)それで個人的に「コーヒーをつくる」と言っています。(P328)
僕は思うんだけど、文学にとっていちばん大事なものは、おおむねかたちにならないものです。世間の多くのものごとは「かたち」で動いていきますが、文学はそうではない。(中略)僕にとっては質の高い熱心な読者の皆さんが誇りであり、唯一の勲章のようなものです。(P329)
昔、習志野の空挺師団の訓練地の横に住んでいまして、毎日のように落下訓練を見ていました(P330)
僕もよく「僕はほんとうに正しいことをしているんだろうか」と自問します。そして大方の場合、残念ながら、正しいことをしているという確信はもてません。(中略)僕が唯一自問しなくていいのは、小説を書いているときです。小説に関して言えば、僕はいつも「自分は今正しいことをしているんだ」と思えるんです。しっかり確信できる。(中略)そして僕は小説を書きながら、いつも「そうあったかもしれない自分」を模索しています。違うレールの上にいる自分を発見することができます。(P331)
作家には「もうじゅうぶん書いたから、もういいや。今度から別のことを書こう」と思えるものごともあれば、思えないものごともあります。ヘミングウェイに向かって「孤独に生きるむずかしい顔をした男の話はもういいよ」とは言えないでしょうし、フランツ・カフカに向かって「迷路で行き惑う神経症的な人間の話は読み飽きた」とは言えないですよね。ぼくにもそういうものごとはいくつかあります。(P331)
僕らは生きている限り、いろんなものを傷つけ、損なっていきます。そして生きれば生きるほど多くのものを喪い続けていきます。たとえば僕らは時間を損ない、可能性を喪っていきます。残念なことではありますが、それが生きることの意味なのです。僕らはみんな喪われたものの影の中に生きているんだと言うこともできます。でも、それにもかかわらず、いったん生きていくことを選んだ以上、僕らは全力を尽くして生きていかなくてはならない。(P333)
僕は世界のいろんな場所を旅して、いろんな暴力的は光景を見てきました。まだ新しい死体を目にしましたし、武装ゲリラに囲まれたこともありました。このあいだも貿易センタービルの崩れたあとの大地を見て、息をすることが苦しくなりました。(P333)
僕はふだんはティンバーランドのローファーか、ナイキのスニーカーを履いて暮らしています。(P336)
あらゆる団体の役職に就かない、あらゆる文学賞の選考委員にはならない、あらゆる餃子は食べない、という方針でやっている。います。(P339)
小説を書くというのは、覚醒しながら夢を見ることに似ています。(P340)
僕は一度ブロンクスの公立小学校の「文芸クラブ」の子供たち膝をつきあわせてお話をしたことがあります。三年くらい前にニューヨークの「92nd Street Y」というホールで朗読会をしたとき、その前にそういうセッティングがあったんです。生徒は黒人か、ラテン系か、アジア系がほとんどで、白い顔をした子供はほとんどいません。(P340)
見たことのない映画のシナリオを読んだことがありますか? 最初は読みにくいかもしれないけど、一度馴れちゃうと面白いものです。台詞と、ところどころのト書きだけで、頭の中に映画の情景がどんどん浮かんできます。つまり自分だけの映画を頭の中で作っているわけですね。(中略)もともとは映画を観るお金のないときに、そのかわりに図書館に行って古今東西の映画のシナリオを(娯楽として暇つぶしに)読んでいただけなんだけど、それは「頭の中に映像を描きながら文章を書く」ための練習になりました。(中略)それから台詞(会話)がどれほど重要なものかということも深く認識しました。(P346)
小説にできるのは、物語という回廊を通して、メタファーという入り口を抜けて、そっと手を差し伸べることだけです。「人はすべて病んでいる」というのは、僕の考え方のひとつの側面であって、それは限りなくパラフレーズされています。小説というのはそのパラフレーズ(言い換え、置き換え)のプロセスなのです。読者が小説を読んで実際に感じるのは、メッセージそのものではなく、そのプロセスのありかただろうと僕は考えます。(P347)
大事なのは、自分の中にある欠如を埋めることではなく、むしろ欠如は欠如として認めて、その上で「自分には何ができるのか」と考えていくことにあるんじゃないかと思います。僕だって自分のネガティブな部分について考え始めたらきりがありません。それでもこうやって生きて、小説を書き続けられるのは、自分の中にある「少しでもまともなもの」をフルに使ってやっていこうと努力しているからです。(P347)
自分の想像力で自分が動いていると思っていても、実はよそから与えられた観念によって動かされている。つまり「からっぽな人々」のことですね。でも自分ではそれに気づいていない。これだけ情報があふれかえった世界に住んでいると、どこまでが自分の想像力か、どこまでがよそから与えられた情報なのか、だんだんわからなくなってきます。人々の心を挑発すること、想像力を挑発すること、それも僕が小説を書く目的のひとつです。(中略)そういうものがなければ、小説はただのお話になってしまうし、それじゃつまらないと僕は思うんです。(P349)
予定なしで書いていくというと、すごく大変なことに思えるかもしれませんが、長い時間をかけて書いているものなので、ばたばたと慌てることはないし、マイペースでやっていれば何とかなるものです。(P350)
小説にとって大事なことのほとんどは、言葉の網ですくわれるものにあるのではなく、その網からこぼれ落ちていくものの中に含まれています。でも、それでもやはり、言葉の網である程度意味をすくっていかざるを得ない、ということもひとつの事実ではあるんですが。(P351)
我々は多かれ少なかれ幻想を抱え、あるときにはそれに支配され、またそれに導かれるようにして人生を送っています。もし幻想がなければ、僕らの人生はずいぶんぎすぎすとした面白みのないものになってしまうと思うんです。幻想は人生の痛烈さをやわらげてくれますし、ある種の到達点のイメージを僕らに与えてくれます。もちろん僕にもそれはあります。ただ年齢をかさねるにつれて、我々は幻想と現実の住み分けのようなものができるようになっていきます。そして幻想が現実の邪魔をしないように調整できるようになります。(P353)
僕も外国に暮らしていた時期が長く、そのあいだはいろんな意味合いで差別的な扱いをうけた覚えがあります。そういう目にあうと、悲しいというか、なんだか情けない気持になりますよね。こんな程度のことで人は差別をするのか、とあきれてしまうこともあります。でも日本人として日本にいても、けっこう差別を受けることはあります。同質性からはずれるというのは、日本ではきついことなんですね。そういうのがいやで、外国に出て行ったところがあるんだけど、出て行っても同じようなものなんだなという部分はありました。(P356)
50肩とかありませんか? 僕は二年ほど前にありました。(中略)僕は本当の年齢というのは、実際の年齢によってではなく、「自分がどれだけ変わろうという意思を持ちうるか」ということである程度決定されていくものではないかと考えています。(P357)
僕は大学生のときに、友達と一緒に日本女子大の門にかかっている看板を盗もうとして、警官に追いかけられたことがあります。もちろん酔っぱらっていたんだけど、若いときってろくでもないことをするものなんだ。(P358)
僕も瀬波温泉の旅館には何度か泊まったことがあります。村上トライアスロンに出場するためでした。(P359)
想像力・創造力をはたらかせ続けるコツ、というのはとてもむずかしいんですが、やはり一言で言ってしまえば、集中力だろうと僕は思います。何かひとつのものを何時間、何日、何ヶ月のあいだじっとよそ見をしないで見つめていられる力。そういう力って身につけるのはとてもむずかしいんです。僕が通っているいるスポーツジムに「贅肉はつきやすく、落ちにくい。筋肉はつきにくく、落ちやすい」という暗い標語のようなものが貼ってあるんですが(暗いですね)、集中力というのは、やはり筋肉のようなものだと思います。(P359)
文体というのは、一種の生き方であって、そういう文体を進んで受け入れる人には、どこかそれなりの共通意識のようなものがひょっとしてあるのかもしれません。(中略)僕はおもうんだけど、何かをほんとうに失った人は、この世界における空白の存在意味を知っている人です。別の言い方をすれば、その空白を実際に目で見たことのある人です。そしてその空白を見る前と見た後では、人の生き方そのものが変わってきます。(P360)
僕は歴史(国家的なものにせよ、より個人的なものにせよ)というのは「集合的記憶」だと考えています。つまり個体、個人としての記憶が片方にあり、それと同時に集合体としての記憶があります。それは車の両輪のようなものです。(中略)だからたとえば、「私は第二次世界大戦のときにはまだ生まれていなかったから、戦争に対する責任なんてなんにもないよ」とは言えないんだ、というのが僕の意見です。それは集合的記憶の中で、僕らは常にコミットしつづける事実です。(中略)僕らはそのような記憶の代価を常に支払っていかなくてはならない。僕らは日本人であることによって、日本人としての連続性を問われることになる。「そんなの、私はいやだよ」と言っても簡単には解放してもらえない。それが歴史の意味です。(P361)
青年とは少年を呑み込んでしまった存在であり、大人とは青年を呑み込んでしまった存在だと僕は考えます。(P362)
言葉にならないものを心の底にそっと長く沈めておくというのは、人間の心の成長にとって大事なことだと思います。世の中にはそういうことが逆にできない人もいるのです。(P362)
僕があなたに言いたいのは、何かをやるからにはできるだけ楽しみなさいということです。方法やルールなんてそんなにたいした問題じゃないんだと僕は思います。ものを造る作業がどれくらいあなたを楽しい気持にさせるか、それがいちばん大事なんじゃないかな。(P364)
僕は文書作成にはiMac(つとむくん)とiBook(りょうたくん)、メール専用でVAIO(やたろうくん)を使い分けています。個人的なことを言いますと、僕の場合、小説ってマックでしか書けないんです。(P365)
僕はAという作品を乗り越えるためにBという作品を書くということではなく(もちろんある部分ではそういう気持は強くあるのですが)、最近ではむしろAという作品と共存して連帯するためのBという作品を書こうという気持があります。(P367)
人生というのは奇妙なもので、ずっと何も起こらないのだけれど、あるとき何かが起こって(大きなことかもしれないし、ちょっとしたことかもしれない)、それで僕らの人生は様相をかなり変えてしまうことになります。そして一度変わってしまったものごとはもう二度ともとには戻らない。そういういくつかのポイントが僕らの人生にはあります。(P367)
僕は昔、表参道と青山通りの角の、交番の前にあった小さなしもた屋風のうなぎ屋さんが好きで、よく食べに行きました。(P368)
人はみんな自分の中に深い森を抱えています。僕らはみんな多かれ少なかれ、自分の内なる森と、外なる森(他者を含んだ現実世界)との相互反映の中に生を送っているわけです(P371)
僕もストレスくらいちゃんとありますよ。人間ですから。頭にくることだってたまにはあります。でもそういうときには表に出て走るんです。頭がすっとします。おまけに身体も丈夫になります。(P372)
僕は年賀状ってぜんぜん書かないんです。(P374)
僕は思うんですが、英語はぺらぺら流暢にしゃべれるけど、退屈なことしかしゃべれないみたいなやつ、けっこう世の中に多いんです。そういうやつになるよりは、べつにしゃべり方は下手でもいいから、無骨でもいいから、自分が言いたいことをちゃんと持っている、みたいな人にまずなるのが大事なんじゃないのかなと、僕は考えます。(P375)
僕は昔は「とにかく自分の好きなことを、好きなように書こう」みたいな感じで、かなり個人的なパースペクティブで物語を書いていました。現実の社会からは一歩身を引いたところで、多くの場合いくぶん幻想を交えた場所で、個人としてクールに静かに誠実に生きていく―みたいな話です。(中略)でもある時点から、たぶん『ねじまき鳥クロニクル』くらいからだったと思うんですが、僕の書く物語は自然に、少しずつその肌合いを変化させてきたように思います。僕の書く物語の主人公は、奥に引っ込んで一人で自分のスタイルをまもって生きているというよりは、好むと好まざるとに関わらず、一歩前に出て何かと闘わなくてはならなくなってくるわけです。そうしないことには、個人性のようなものがだんだんうまく守りきれなくなってくる。それはあるいは僕の人生そのものの反映でもあるかもしれない。僕も好むと好まざるに関わらず、だんだん前に押し出されてきて、そのぶん何かと戦わなくてはならないようになってきた。何かを維持するには、それなりに努力しなくてはならなくなってきたわけです。そのことがおそらくは物語にもフィードバックしているんじゃないかと思います。(P375)
僕はずっと「自分のやりたいときに、自分の書きたいことを、自分の書きたいように書く」という一貫した方針でやってきました。だから自分が変化するかどうか、というのは僕にとって目的ではなく、ひとつの自然な結果に過ぎません。フィクションを書く上で、僕にとって大事なことは、まず第一に自分に正直であることです。ただそこには当然変化はあると思います。前と同じことをやっていてもちっとも面白くないから。だから小説を書くたびに、前とは違う何かを試み、違う何かを書くように、いくつかのテーマを設定してやっています。(中略)ものを書くというのは(あるいは造り出すだというのは)基本的に孤独な作業で、暗い長い穴を通して、誰かと結びついているんだという確信がなければ、ほとんど何も産み出せません。それは距離的な穴であると同時に、時間的な穴でもあります。(P376)
僕も一時期「主夫」をしていたことがあります。おかげさまで家事はひととおり全部できるようになりました。(P377)
何かがあって誰かに心を傷つけられるというのは、とてもつらいことですね。(中略)でも長い距離を置いてみれば、誰かを傷つけてしまうというのはもっとつらいことなんです。ほんとですよ。どんなに心が傷ついても、それが自分のことであれば、「忘れよう。さあ、がんばろう」と思えば、だいたいなんとかなります。でもいったん他人を傷つけてしまうと、それはもう自分のことだけではなくなってしまいます。だから僕はつらいことがあっても、「傷ついたのが僕であって、傷つけたのが僕じゃなくて、それはまあよかった」と考えるようにしているんです。(P377)
僕は今でもカティーサークは好きです。さっぱりとした個性があります。スコッチのブレンディッド・ウィスキーの中では、僕がいちばん気に入っているもののひとつです。(P379)
(『海辺のカフカ』について)たしかにとても複雑な話です。でも「複雑なんだ」という事実をいったん事実として呑み込んでしまえば、そんなにむずかしい話でもないんです。つまり、森は様々な樹木で満ちています。そこにはいろんな動物が住んでいます。でもあなたがやるべきことは、そこをとにかく通り抜けることなんです。あなたが本を読み終えたとき、あなたは既に森を通り抜けています。いちばん大事なのはそこです。(P380)
物語は、僕にとって世界を視る装置でもあります。その装置をひとつひとつ通過することによって、僕自身も少しずつ変化し、おそらくは成長していきます。(P382)
僕にとって小説を書くというのは(物語を書くというのは、と言ったほうがいいかもしれませんが)、自分の心の中にあるいろんな場所の地図を描いていくようなものです。それは僕自身の心の中にある個人的な場所なんだけど、同時にすべての(あるいはかなり多くの)人々の心の中にある個人的な場所でもあるはずです。あなたが僕の本を好んで読んでくれるというのは、たぶんあなたと僕との間に、共有される領域が多いということなんじゃないかと思います。ときにはそこには、あなたの見たくないものや、あるいは知りたくないものも出てくるかもしれません。でもやはり僕が目指しているのは、究極的には明るい出口です。(P384)
(結婚したときのことについて)僕の場合はとても貧乏で、結婚式なんてものはぜんぜんやりませんでした。文京区役所の日曜窓口に婚姻届をもっていっただけです。朝いちばんだったので、宿直していたおっさんがもそもそ寝ぼけ顔で奥から出てきて、「えー、なに? 婚姻届?(日曜の朝からそんなもの出しにくるなよな) えーと、そこにハンコ押して。うん、そこそこ」みたいな感じでした。(P384)
僕と奥さんとの関係はそんなにシビアでもクールでもないんです。ごくふつうです。ただ二人ともわりに主張がはっきりしているので、ときとして論理の対立があるだけです。(P385)
僕はシューベルトの弦楽五重奏曲って、いつも昼寝するときに聴くんです。CDで小さい音でかけておいて、ソファに横になって、一楽章のどこかで眠り込んで、最終楽章のどこかで起きる、みたいな感じです。(中略)僕がいちばん眠くなる演奏はヨーヨーマを入れたクリーヴランド管弦四重奏団のものです。(P385)
(千駄ヶ谷の店を経営していた当時のことについて)僕もまだ20代で、せっせと肉体労働をしていました。毎日数十食のロール・キャベツを作っていたので、今ではロール・キャベツって見るのもうんざりというところがあります。(P386)
僕はピーコートの似合う女性って好きなんです。(P386)
僕くらいの歳になると、記憶というのがどれくらい大事なものかということが実感としてわかってくるような気がします。寒い夜には、記憶が暖炉の火のように僕らの心を暖めてくれます。人生にいちばん大事なことのひとつは、素晴らしい記憶を貯めていくことなんですよね。愛するべきときに人をじゅうぶんに愛すること、哀しむべきことがあれば、それをじゅうぶんに哀しむこと。(P387)
(『海辺のカフカ』について)小説の中では「救われる」という言葉を、とても漠然とした広い意味合いで使ったのですが、あえて定義するとすれば(本当はあえて定義する必要もないような気がするんですが)、「自分の中の何かを誰かにうまく引き渡すことができた」ということではないかと、僕は思います。人はそういう行為によって、自分の中にある空白のようなものを少し埋めていくことができるのです。またそういう行為によってしか埋めることのできない空白というのもあるのです。(P387)
僕は思うんだけど、30歳になるまではのんびり生きていればいいんじゃないですか。余裕があるのなら、何も生き急ぐことはありません。面倒なことは30になってから考えましょう。ただしいろんな「基礎体力」は20代のあいだに身につけておいた方がいいと思います。必要なことをそのあいだに仕込んでおきましょう。仕込みなしで過ごすと、30を過ぎてから急に何かやろうと思っても、そんなにうまくはいかないですからね。(P388)
うちに河出書房「世界文学全集」があったので全部読み、中央公論社の「世界の歴史」もあったので全部読んだ。(P389)
僕は思うんですが、「入試問題に現代作家の小説の一部が使用される」こと自体はまったく問題ありません。その設問が妥当かどうか、それが問題なんですね。僕の見ているかぎり、かなり無理のある設問が一部には存在するみたいです。(中略)事実的なことについては客観性は機能しますが、心情的なことについては、その多くは主観によって決定されます。(中略)個人的な意見を言わせていただければ、ばりばりの現役作家の小説の文章というのは、テーマや文体についての世間的評価、コンセンサスが定まっていないぶん、試験問題としてはあまり向かないんじゃないでしょうか?(P389)
僕が本を評論するときのルールを三つあげるとなると、@好きな作品に限ってやる、A仮説(推論)と事実をきっちり区別する、B同時代の作品はできるだけ避ける、ということになります。(P390)
僕が高校生のころのことを思い出してみると、女の子と「やる」ことしか考えてなかったような気がしますし、実際、そういうことにはかなり熱心だったですね。ほんとに。(P390)
カズオ・イシグロさんと僕の作品世界の共通性をおこがましくもひとつあげるとしたら、それは環境の人工性と、そこに入る人物の切迫性みたいなことになるんじゃないかという気がします。(P391)
うちの奥さんはオープンの車になんかほとんど乗ってくれません。(P391)
僕らはみんな自分の中に死を内包して生きています。親しい誰かが死ぬとき、僕らと死を隔てている壁のようなものが少しずつ薄くなっていきます。僕らの中の死が少しずつその影を濃くしていきます。そのようにして僕らはだんだん自らの死へと近づいていきます。僕はいつもそう感じています。(P392)
最近書店によっては、男性作家の本と女性作家の本がまったく別のコーナーに並ぶことが多くなっているみたいですが、僕はあまりあれが好きじゃないんです。(P393)
自分の考えていることや感じていることを、そのまま文章にするのは、とてもむずかしいことです。(中略)そういうときにどうするかというと、僕はいつも、僕と世界との間に、一種の仲介者のようなものをたてるんです。つまり、たとえば、僕と世界との間に「うなぎ」を置いちゃうわけです。そしてうなぎと僕と世界とで、三人で話をするわけです。(中略)僕が言いたいのは要するに、物事を世界とあなたとの間の問題だけにしてはいけないということです。うなぎにも語らせてあげてください。僕はいつもそういう感じで文章を書いています。(P393)
僕にとって小説を書くことはとても意味のある行為です。しかし書かれた作品の中にどのような意味があるのかと訊かれると、僕にはなんとも答えようなありません。つまり僕が小説を書くという行為についての意味なら説明できるのですが、出来上がった作品(テクスト)の意味は、既に僕の手を離れてしまっているのだということなんです。(中略)僕が書きたいのは、その物語を読み始める前と、読み終えたあとで、読者の立っている場所がほんの少しでもいいからずれてしまっているような小説です。(中略)物語の本来の意味とはそういうものなんだと思いますよ。ただかなり多くの人が、小説に明確な意味を求めます。そして僕の作品の中に明確な意味が見つからないと、往々にして腹を立てます。(中略)でも世界にはいろんな小説があってもいいし、またあるべきだと僕は考えています。(P394)
途中で投げ出した本は僕にもいっぱいあります。「これはすぐれた本だ」と言われても、そんなに面白くないと思ったら、すぐに放り出してしまいます。やはり人それぞれ向き不向きというものがありますし、人生は短いです。(P394)
作品にとって何よりも大事なのは、時間の試練にしっかりと耐えることではないでしょうか。(P395)
小説家にとっていちばん大事なことは、まず自分のために、それから自分にとって大事な人(たち)のために小説を書くことではないかと僕は考えています。読者はその自然な延長線上にいます。(P396)
テレビからはいろんな情報が豊富に得られるわけですが、それは圧倒的多数に向けてばらまかれている受動的情報です。それに比べると読書から得られる情報は限られたものでが、能動的な、とても個人的な情報です。これは僕自身の経験から言うんですが、人生という長丁場で本当に役に立つのは能動的で個人的な情報の集積です。(中略)僕がいちばん大事だと考えるのは、「繋がっている」という感覚です。物語とあなたがしっかりと繋がっているという感覚。そこからすべてが始まります。(P397)
僕も若いころは喧嘩っぱやくて、いろいろと問題がありました。見かけによらず、わりに簡単に頭に血が上る性格だったんです。でもそのうちに「正面から喧嘩したってなにも解決しないんだ。逆に面倒が増えるだけなんだ」ということが身に滲みてわかりまして、ぐっとこらえることができるようになりました。(P398)
僕はエッセイでは原則として@他人の悪口は書かない。A自慢、自己弁護はしない。B時事ネタは避ける。C現在進行形のことはなるべく書かない。D過度の主張は避ける。ということでやっています。これはあくまで「原則として」であって、ときどきマイルドな例外はあります。(P400)
僕は若いころ、誰か新しい人に会ったら第一印象で相手を判断していて、それでけっこう失敗しました。「こいつはあまり気に入らないから」と思ったけど、実際につきあってみたらいいやつだったとか、逆に「感じのいいやつだな」と思ってつきあっていたら、すごくいやな目にあわされたとか。それで第一印象というのをあまり信用しないようになりました。そんなもの意外にあてにならないんだと思って、いつもなるべく判断を留保し、時間をかけて判断するようにしています。(P401)
作家にとって不可欠なことは何か? あたりまえに考えて、まずまともな文章が書けることです。さらに言えば、ふつうの人が書くのとは違う、独自のまともな文章が書けることです。さらに言えば、その文章を使って、人の心を惹く物語が書けることです。もっとさらに言えば、その物語が商品価値を持つことです。(P401)
僕はだいたい毎年(日本にいればということですが)、3月20日に千代田線霞ヶ関駅に花を置きにいきます。地下鉄サリン事件で亡くなった方々の冥福を祈るためです。その日は献花のための祭壇が駅の中に設置されます。そのときに待っていく花は白です。(P402)
僕はもう50歳を過ぎていますが、それでも良い本や音楽を読んだり聴いたりするたびに、自分の中で何かが蓄積され、自分が少しだけ成長していくという感触があります。そういうのって素敵なことだし、大事なことだと思います。いくつになっても成長ってできるんですよね。もちろん現実生活から学べることだっていっぱいあるんだけど、本や音楽といったものから学べることは、そういうのとはちょっと違ったことなんです。心の中の「届き場所」がちょっと違うというか。(P402)
そういえば万年筆ってほとんど使うことなくなってしまいましたね。あまり使わないのも気の毒なので、僕はたまに気が向くと、万年筆を使って手紙を書きます。それから本にサインするときは、なるべく万年筆を使うようにしています。なかなか気持のいいものです。万年筆って手に取ると、独特の高揚感があるんです。(P403)
小説を書くということは、僕にとっては、もうひとつの人生を生きることです。つまり今あるのとはべつの、仮想的な人生を潜り抜けることなんです。そしてそうすることによって、僕という人間は確実に変わります。その仮想的な人生を、どれくらい自分にとって切迫したものにするか、言い換えれば、その小説を書くことによってどれくらい自分が変わりうるか、それが小説家としての力量になるわけです。(P405)
自分に子供を育てる資格があるか? それは当然考えるべきことだと思います。僕もずいぶん考えました。その結果、というか(まあそれだけでもないんだけど)、僕には子供がいません。そのかわりたくさんの小説を書きました。人それぞれの人生があります。(中略)親に自分に向き合おうという意思がある限り、子育ては心配いりません。(P406)
少年時代に「阪神タイガース友の会」に入っていた。(P407)
僕はできるだけ読みやすくて、面白い小説を書こうと心がけています。そのかわり、自分の書きたいことは、妥協せずにしっかりと書こうと思っています。(中略)僕は書きたいこと、伝えたいことがいっぱいあるんです。僕が世界に対して感じていることを、なんとかあなたにわかってほしいと思う。でもそんなにすっとはうまくいかないものです。(中略)だからとにかく物語というかたちにして、いわばパッケージとして、僕はあなたの中にそれを送り込んでいるわけです。うまくいけば、そのうちにあなたの中でそのパッケージがぱかっときれいに開いて、あなたにも「ああ、そういうことだったのか」とわかってもらえるかもしれない。僕がやっているのは、要するにそういうことなんだと思います。(P408)
僕は鍋焼きうどんを食べているときに人生の幸福のひとつの形態を感じます。(P409)
僕はこのあいだニューヨークのグラウンド・ゼロの現場に行きました。そこに実際に立ってつくづく思ったんですが、僕らの生きている世界というのは、どこかのテロリストがニューヨークの真ん中で、あるいは東京の真ん中で、核爆弾を破裂させたとしても、それが決して「ありえないこと」ではない、という悲痛な世界なんですね。この前の地下鉄サリン事件では、サリンガスの純度が低く、まだあれだけの被害ですんだというところがあります。(中略)純度次第では、あのときの被害者数が二千人でも不思議はなかったんです。いつもそのような可能性を頭の中に置いて生きていかなくてはならない。好むと好まざるにかかわらず、僕らは現在そういう世界に住んでいます。(P410)
魅力的に年齢をかさねる女性を見るのは、人生における大きな喜びのひとつです。それは考えようによっては、若くて魅力的な女性を見るよりも、素晴らしいことです。(P411)
僕はこのあいだジョージ・ハリソンの遺作CD「Brainwashed」を買ってきて、しみじみと聴いています。なんてことないんだけど、けっこう心に滲みます。(P412)
歌の作詞というのは、僕ができないものごとのひとつです。(P413)
僕は思うんだけど、すべての物事には必ずよき側面と悪しき側面があります。あなたは人間不信という宿命を負ったわけだけど、それはあなたという人間性をある意味ではとても深くしているはずです。(中略)そういう自分自身の「よき側面」に目をやるしかない。「悪しき側面」にあなたを掴ませないように。僕はそう思います。世界のどこかにはいつも日がさしているはずです。(P415)
僕の描いている人々は、決して世の中をすねたり、反社会的であったりするわけではありません。みんな自分の設定した持ち場でそれなりに全力を尽くして生きている人たちだと思うんです。その営為が結果的にうまくいくかいかないかはまた別にして。そうですよね? というわけで、僕が想定している読者もやはり、そういう人々です。たとえどこにいるとしても、何をしているにしても、それなりに全力を尽くして、自分なりの生きる意味を見出したいと考えている人々。誰かを何かを、真剣に愛したいと考えている人々。(P415)
人は正しいことだけをして生きているわけじゃありません。「正しくないこと」をしないことには、世界がうまく見えてこないときもあるんだと僕は思います。僕もいくつかの正しくないことをしてきました。でもそうしないわけにはいかなかったんです。それが人間です。(P416)
第二次大戦中に、ヨーロッパ中のムンクの絵は全部ヒットラーの手で集められて、ノルウェイ本国に送り返されたんだそうです。「こんな病んだ絵は、どこかにしまい込んでおけ」ということで。(P420)
学校って、中にはいいやつもいるけど、何にも考えてないろくでもないやつってけっこういっぱいいますよね。そういうやつらがたまたま力を持っていて、勝手なルールを作ったりしていると、頭にきます。でも社会に出ても、だいたい同じような構造になっています。だから学校にいるあいだに、そういうことに馴れておいたほうがいいですよ。大事なことを吸収しながら、自分は自分としてしっかり生きていくこと。(P422)
実を言うと、僕にとっては『カラマーゾフの兄弟』が理想の小説なんです。(P425)
僕は経験的に思うんだけど、自分の頭でほんとうに考えた意見というのは、多くの場合、大声では語れないことです。どうして大声で語れないかというと、それはあなたにとってとても大事な意見なので、思考をもう一度ゆっくり反復しながらでなくては他人には語れないし、そこには常に「これで本当に正しいのだろうか」という自然な懐疑があるし、その結果どうしても小声になってしまうのです。だから往々にしてあなたの意見は、大声で攻撃的に語られる意見に負けてしまいます。でも中にはちゃんとあなたの意見に注意深く耳をすましてくれている人もいます。そういう人がどこかに必ずいるんだ、と信じて生きていくしかありません。僕はそう考えるようにしています。(P426)
僕は決して謎解きのために小説を書いているわけではなくて、基本的には謎の中を潜り抜けていく人々の姿に(そしてまた彼らと同行する読者自身の姿に)意味を見出しているわけです(P431)
解題とは作品を書いた当時の経緯みたいなもの。(P431)
僕はいろんなところに行きましたよ。あてもなく地図を見ていて、「能登半島に行きたいな」とか思うと、いてもたってもいられなくて、寝袋かついで行っちゃうわけです。地図を見ていると、とにかくいろんな場所に行ってみたくなります。(P433)
旅行というのは、自分が自由であることの楽しさと寂しさをありありと認識するための体験。(P433)
12月8日のホノルル・マラソンに出場する。前夜祭にブライアン・ウィルソンが野外コンサートをやるので。(P433)
僕は思うのですが、本当に深く傷つけられた魂というのは、可能性と激しく交わらないことには、出口を見つけられない場合があります。それは「わかる人にしかわからない」と言ってしまえばそれまでなんだけど、でも僕はそのような魂のあり方を「わかる人にしかわからない」という場所に留まらないものにしたいと、そういう風に考え、希望しながら小説を書いています。(P434)
(若いときによく旅をしたことについて)そのときの体験や、出会った人々のことは今でもよく覚えています。旅行をするというのは、とくにある時期無謀な旅行をするというのは、いいものですよね。魂を広げて虫干ししたような感覚があります。(P435)
僕は15歳のころ、図書館のカウンターにきれいなお姉さんが座っていたりすると、緊張したり、ちょっと赤くなったりしたものです。(P435)
僕らは多かれ少なかれ、自分の中に空白を抱えて生きています。(P436)
僕はお金ができたから書かないとか、お金がないからたくさん書くとか、そういうタイプではないんです。書きたいと思ったらとにかく夢中になって書くし、書きたくないときには、何があっても書かないという方針で20数年間ずっとやっています。それが僕のやり方です。ものを書くことについては徹底的に自由で自発的であるように心がけています。(P436)
僕にも「思い出しただけで頭に来る」ということはあります。そんなにたくさんはないけど、たまにあります。(中略)でも経験的に言いまして、僕らが何かに対してひどく腹を立てているとき、僕らは自分の一部に対しても腹を立てていることが多いようです。(中略)本来なら肩をすくめてやり過ごしてしまえばいいものを、いつまでもぶちぶちとしつこく根に持って思っているというのは、それは自分の中にそれに対応して何か許しがたいもの、弱いもの、矛盾したものがあるから、ということではないでしょうか。僕はよくそう思います。(P437)
僕の作るこんにゃく炒めって、自分で言うのもなんだけど、すごくおいしいです。おいしく作るコツは、徹底的にこんにゃくをいぢめまくることです。いっぱい作って、ビールを飲みながら食べていると至福です。(P439)
僕自身は個人的には超自然現象とか、占いとか、未来の予知とか、その他のオカルト的なことには、ほとんどまったく興味を持っていません。星座にも、血液型にも興味はありません。そういうことについての話に加わるのも、できるだけ避けています。まあ冗談で所詮「山羊座A型」だから、とか言ってますが、真剣に言ってるわけではありません。神社には妻のつきあいでお参りしますが、おみくじってまず引きません。(P441)
僕が本のデザインや広告や価格設定に口を出すと、最初のころはあれこれと言われました。若いくせに生意気だとか、うるさいことを言うだとか、自分のことだけやってりゃいいんだとか。価格設定については以前、ある出版社と大喧嘩したことすらあります。(中略)本が実際に読者のみなさんの手に渡るまでは作家の責任はずっと続いているのだ、というのが僕の考えです。(中略)原稿を書いてしまったあとでも、やることはけっこういっぱいあるわけです。(P444)
僕も15歳のころには恋をしていました。(中略)15歳で恋をするというのは、ほかのどんなこととも違います。それは世界をひっくりかえしてしまうようなことです。そして僕は今でもその「ひっくりかえってしまった」世界に住み続けています。人生はそういうものです。一回ひっくりかえったものは、ひっくりかえったままなんです。それをもとに戻すことはできない。(中略)そこでいちばん大事なのは、あまり自分に同情しないことです。かならずいつか、一緒にその「ひっくりかえった風景」を共有してくれる人が現れます。それは人生でもっとも素晴らしいことのひとつです。自分に同情していると、そういう人をみつけるのがとてもむずかしくなります。(P446)
昔一時期千葉に住んでいたんですが、そのときは庭でナスを育てていて、朝にとれたものをお味噌汁に入れて飲んでいました。(中略)とれたての野菜ってほんとにおいしいんですよね。僕は胡椒ってあまり使わないんです。レモンと塩とオリーブオイルだけで、さっぱり食べるのが好きです。(P449)
僕はとにかく野菜をいっぱい食べるので、いちいち買っているのも大変だから、産地直送の野菜を注文して毎週届けてもらっています。(P451)
僕としては、少なくとも僕の小説をきちんと読んでくれる人には、僕という人間が何を考えて、どんな小説を書こうとしているのか、ある程度のところをわかっていただければと希望してします。(中略)もうひとつ、僕としては、多くの人に「だいたい」理解してもらうよりは、少しの人に深くわかっていただけるほうが、むしろ嬉しいのです。(P451)
僕もアルファ・ロメオ・スパイダーを気楽にバックさせていて、道端の枝にミラーをひっかけて、ミラーがぱこっと取れてしまったことがあります。それから246をまっすぐに走っていて、よく見ないで車線変更してきたトラックにドアをどすんとやられたことがあります。信号待ちをしていて、うしろからぶっつけられたこともあります。アルファ・ロメオって、もともと運が悪いんですかね?(P452)
できることなら99歳くらいまで生きて、現役でしっかりしたものを書いていたいなと思っています。(P454)
マラソンで死ぬ人の数は決して多くはないけど、死ぬときには人は死ぬ、ということです。(中略)できることなら、99歳くらいまでずっと走り続けていたいですね。(P454)
映画館の大毎地下、ビック映劇、なつかしい。『草原の輝き』は僕の大好きな映画のひとつです(P455)
(一人っ子だということで)僕はよくいじめられました。何かあると「どーせ、お前は一人っ子で甘やかされているんだから」とか言われました。のけものにされたりもしました。(P457)
(書き直すことについて)僕の場合は、書き直しすぎて失敗したということはほとんどありません。基本的には書き直せば書き直すほどよくなります。ただし、書き直すまでに時間を置かなくてはならないという場合はあります。そういうときに性急に直そうとすると、失敗することが多いようです。(中略)たっぷり寝かせておいて、それからいじる。(中略)これがrevise(書き直し)の成功の秘訣です。(P458)
自分の抱いた感想をほかの誰にも説明したくない気持は僕にもよくわかります。(中略)そういうときは、本当にじっと黙って、その気持を抱えているのがいいと思います。世の中には、というか、人生には、言葉に出せないこと、いったん言葉にして説明してしまうと失われてしまう心持ちがあります。だからこそ人は小説を書き、小説を読むわけです。そこではものごとは言葉によってではなく、物語によって語られます。物語というのは、いわば小さなブラックボックスです。僕らはそのブラックボックスをやりとりすることによって、心持ちをそのままやりとりするわけです。(P458)
15歳のころには僕は恋をしていたんだけど、そのときの気持ちみたいなのは、今でもありありと覚えています。まるで昨日のことのように。(P460)
小説を読むのは手間も時間もかかりますし、エネルギーを使って想像力を働かせなくてはなりません。しんどいわりに、情報を取り込む効率もよくありません。それならテレビを見たり、漫画を見たりするほうが楽でいいや、という人が多くなるのも当然かもしれませんね。しかし、それでもやはり、コンスタントに小説を読む人は、確実に層として存在します。優れた小説を読みたい、そして自分の頭で何かを考えたいと望む人々です。数的に見れば、それほど大きな勢力ではありませんが、能動的で自立的な意思をもっているぶん、そこには見過ごせない力が潜んでます。そしてそういう力が、社会に自然な深みを与えているのだと、僕は思うのです。(P460)
人間の精神というのは、広大な宇宙のようなものだと僕は考えています。僕らはロケットを開発して外なる宇宙に出て行くわけだけど、僕らの内側にも同じような宇宙があるんです。そこは何があっても、何が起こっても不思議はない場所です。それは豊かな場所であると同時に、恐怖と危険に満ちた場所でもあります。小説家の役目はその場所のあり方を注意深く、少しずつ明らかにしていくことだと、僕は考えています。「思念」というのも、おそらくはそのような場所から届いてくるものです。それはある場合には僕らを温めます。多かれ少なかれ、僕らはそのような思念に取り巻かれて生きているのだと、僕は思います。僕らが生きていくうえで大事なのは、自分にとってどのような思念がもっとも深い意味を持っているかを見定める、ということではないでしょうか。僕の小説には、そういう作業に従事する人々がよく出てきます。(P461)
ノース・カロライナのアッシュヴィルに行ったことがある。スコット・フィッツジェラルドが長期滞在したリゾート・ホテルがある。(P461)
僕はたぶん、世間から見て「ちょっと普通じゃない」人が好きなんだと思います。そういう人たちがいろんなものごとを引き受けて、それで世間がうまくバランスを保って存在していられるのだと、個人的には考えています。(P462)
僕はプリンストン大学で、学生たちと一緒に江藤淳さんの『成熟と喪失』という評論を、サブテクストとして読んだ(P463)
(読書感想文について)実を言うと、僕は得意だったんです。高校時代から、宿題の読者感想文をクラスメートのために代筆して、そのかわりに昼ごはんをごちそうしてもらっていました。昔からだいたい今と同じようなことをやっていたんですね。(P464)
現在の世の中はものごとの進行するスピードがものすごく速くて、時間をかけて悠長に長い小説を読んでいる暇なんかないよ、というのが多くの人々の(とくに若い人々の)考え方のようです。たしかにそのとおりなんだよね。でも君は小説を読むし、僕も小説を読む。どうしてか? そうすることが必要だからです。物語の中に入り込んで、自分の想像力をフルに働かせたいからです。そうすることによって、僕らはほかでは得られない深い喜びを得ることができるわけです。(P465)
学生時代ひどく酔っ払って、立て看を担架がわりにして「あの坂」を運ばれたことがありました。恥ずかしい思い出です。途中で看板が割れて、石段で頭を打っちゃったんです。すごく痛かった。(P466)
僕は一種の採掘技術者のようなものです。とても専門的な仕事です。で、僕が何を採掘するのかというと、自分自身を採掘するわけです。だから僕の書く小説は僕自身であるとともに、僕という人間は一介の専門的技術者に過ぎないわけです。(P468)
僕は思うんですが、挑戦することはとても大事です。でも場合によってうまく「負ける」ことを覚えるのも、それに劣らず大事なことなんです。自立するのも大事だけど、場合によっては身を引いたほうがいいこともあります。(P468)
現代という時代は、ちょうど地球のオゾン層が破壊されていくのと同じように、人の魂と外界との間にあったはずの、緩衝地帯のようなものがだんだん崩れていきつつある時代なのではないかと、僕は感じています。とても危険なことですね。それは地下鉄サリン事件のときにもひしひしと感じたことですし、一連の少年犯罪や、あるいは9.11事件のときにも感じたことでした。そして僕は、もし人が自分のナマの魂といつかいやおうなく向き合わなければならないのだとしたら、なんとか少しでもうまいかたちで向き合わなくちゃならないし、そのためにある程度の準備をしておくことが必要だと思うのです。そして小説を読み、そこにある物語を通過するのは、その「準備」の作業として、いくらかは有効なんじゃないかと。(P469)
僕は中学校でさんざん教師にぶん殴られて、そのおかげで今でも、権威とかシステムみたいなものに対する憎しみを、ありありと深く胸に抱いています。(P469)
僕はだいたいにおいて、大きな作品を書くと、その次に小さめの作品を書いて、あるいは短編小説を書いて、というように変化をつけて小説を書いていきます。(中略)先発完投型のピッチャーと同じで、うまくエネルギー配分をしながら、長期的に前進していくわけです。(P470)
僕らはみんな多かれ少なかれ傷ついた心を抱えて、このややこしい世界をなんとか生き抜こうと、真摯に努力しているのでしょうね。だからこそ、僕の書く個人的な物語がまっすぐ届く場所が、多くの人の心の中にあるのかな。(P473)
僕は学校では体育の時間って大嫌いだったんです。でも学校を出てから、自分でスポーツをするのがすごく好きになりました。結局「あーやれ、こーやれ」って人に指図されるのが嫌いだったんだよね。(P474)
(15歳のころ)僕はその年代のときには、しょっちゅうテントをかついで山に登って、キャンプをしていました。そのときに見た満天の星は今でもまだよく覚えています。(P475)
僕は藤沢に住んでいるときには、よく南口の「久昇」に飲みに行ってましたよ。(P475)
哀しみは、人の魂を深くします。それも、僕が『海辺のカフカ』という小説を通して書きたかったことのひとつです。(P476)
うちの奥さんも『神の子どもたちはみな踊る』が好きみたいです。「書こうと思えばちゃんと書けるんじゃない」ということでした。夫婦のあいだとはいえ、すごいこと言いますよね。(P477)
(「親切心のある文体」とは)翻訳の文章を考えていただければわかりやすいと思うんです。英文和訳としてはあっているけど、三回くらい読み返さないと意味がわからないような翻訳文って、ときどきありますよね。そういうのが「不親切な」翻訳です。(中略)正確に訳し、しかも読者がすっと一度読んで理解できるような自然な日本語の文章にするのが、親切な正しい翻訳です。(中略)夏目漱石の文章って、そういう見地から見ると、とても親切なんです。(P478)
意味がなければスイングはない
今現役で活躍しているジャズ・ピアニストのうちで、いちばん好きな人を一人あげてくれと言われると、まずシダー・ウォルトンの名前が頭に浮かんでくる。(シダー・ウォルトン)
初めてシダー・ウォルトンのピアノを耳にしたのは、1963年正月のアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ来日公演のステージ。神戸のコンサート・ホールで、まだ中学生であった。次に彼の生演奏を聴いたのは、それからほぼ十二年後の1974年12月、クリスマスの二日前、新宿の〈ピットイン〉だった。そのとき僕は二十五歳(シダー・ウォルトン)
2002年12月6日、カピオラニ公園内にある野外コンサート会場〈ワイキキ・シェル〉でブライアン・ウィルソンのコンサート。ホノルル・マラソンの前夜祭として催された。実を言えば、僕はこのコンサートを聴くために今回参加したようなもの。(ブライアン・ウィルソン)
初めてビーチ・ボーイズの音楽に出会ったのは、たしか1963年のことだ。僕は十四歳で、曲は「サーフィン・USA」だった。当時、毎日夕方になると犬を連れて近くの海岸を散歩した。(ブライアン・ウィルソン)
シューベルトの数あるピアノ・ソナタの中で、僕が長いあいだ個人的にもっとも愛好している作品は、第十七番ニ長調D850である。(シューベルト「ピアノ・ソナタ」第十七番ニ長調D850)
ノルウェイの気鋭ピアニスト、アンスネスの演奏がなんといっても素晴らしかった。第一楽章から第二楽章にかけては、まるでグリークの音楽を聴いているような、健全な「むせかえり」がある。深い森の空気を胸に吸い込んだときの、清新でクリーンな植物性の香りが、しっぽの先まで満ちているのだ。若々しく、ギャラントであり、すぐれて情感的であるが、大時代な要素は注意深く丁寧により分けられ、排除されている。何よりも流れの筋が良い。全体の音楽的スケールは大きいが、門構えはコンパクトに抑えられている。そのへんの設定に、このピアニストの聡明さを感じないわけにはいかない。このソナタでは、とくにフォルテとピアノの弾き分けがとてもむずかしいのだが、その強弱のバランスが、この人の場合は絶妙である。とくにフォルテがいい。ばしゃばしゃとうるさくなく、その伸びのある音色は、青年期のうねるような、夢見るような、熱い想いの中にすうっと吸い込まれていく。僕はこの演奏の根幹にあるシンプルでストレートな世界観と、それをひるむことなく提示する若い志のようなものを、高く評価したいと思う。(シューベルト「ピアノ・ソナタ」第十七番ニ長調D850)
僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。(シューベルト「ピアノ・ソナタ」第十七番ニ長調D850)
僕は一度、1970年代前半にスタン・ゲッツが日本に来たときに、ライブを聴いている。(スタン・ゲッツ)
僕が初めてアメリカに行ったのは1984年の夏で、その目的のひとつは小説家レイモンド・カーヴァーにインタビューを行うことだった。(スタン・ゲッツ)
ルービンシュタインの残したレコードで僕がいちばん愛聴しているのは、シューマン「謝肉祭」(ゼルキンとルービンシュタイン)
1991年の初めから93年の夏にかけて、僕はニュージャージー州プリンストンにある、プリンストン大学教職員住宅に住んでいた。(ウィントン・マルサリス)
僕の家は神奈川県の海沿いにあり、寝泊りできる仕事場兼事務所が東京都内にある。(スガシカオ)
たしか1998年の春のことだったと思うけど、一カ月ばかりロンドンで一人暮らしをしていたことがある。『ダンス・ダンス・ダンス』の仕上げに励んでいた。(フランシス・プーランク)
初めてプーランクの音楽に巡りあったのは、高校生のとき。十七歳の僕はホロヴィッツの演奏した「パストラール」と「トッカータ」の二曲によって、プーランクの世界に引きずり込まれてしまうことになった。(演奏時間は二分十二秒と一分五十二秒)(フランシス・プーランク)
大学を出ても就職はしたくないし、じゃあ何をやろうかと考えて、ジャズの店を始めることにした。(あとがき)
専業小説家になったあと、五年か六年くらい、ジャズをほとんど聴かなかったことを記憶している。たぶん長いあいだ音楽を職業にしてきたことの反動だったのだろう。(あとがき)
「ステレオサウンド」に原稿を毎回渡していたが、雑誌にもページ割りの都合があり、そういうときには文章を削らなければならなかった。本書には、その長いバージョンが収めてある。(あとがき)
いつになるかわからないが、またべつのかたちで、じっくり音楽について語る機会があればと考えている。(あとがき)→のちに「村上RADIO」として結実する。
これだけは、村上さんに言っておこう
僕の考える良い文章とは、「ほかの誰とも違うけど、誰にでもよくわかる」文章です。言うは易く、ですが。(P62)
(読者の「どんなウィスキーが好きですか?」という質問に対して)「ラフロイグの8年もの」がグッドです。(P95)
僕はわりに、というか、終始一貫してきわめて個人的な人間で、どうすればうまく社会や他者とかかわりつつ自分を保持していけるか、そしてまたそのように自己を保持しつつ生きることの意味はどこにあるのか、ということをいつも考えながら、生きてきました。僕はたまたま文章を書く、物語を書くという作業をとおしてそれをより明確に深く確認していくことができたわけです。しかしものを書き始める前から、僕のpoint of viewみたいなものはわりにはっきりとしていました。それは「生きる目的は固定された何かの中にあるのではなく、対象にあわせて遷移していく自己のスタイルの落差の中にある」というものです。もっとわかりやすく言えば、生きることの本当の意味は「何をなしとげられるか」というよりも、その「何か」に向かう自分の「身の動き」のパターンの中にあるのではないかということです。(P130)
文体というのはだいたいにおいて音感で決まってくるような気がします。文体とは、目で作るものじゃなくて、耳で作るものではないかと、僕は思います。そのへんのグルーヴ感がよくつかめていない人が文章を書くと、読んでいてけっこう疲れることがあります。(P141)
『ノルウェイの森』までは手書きで書いていました。だいたいは400字詰め原稿用紙にモンブランの万年筆です。『ダンス・ダンス・ダンス』からワードプロセッサー(富士通)、『ねじまき鳥クロニクル』からコンピュータ(マッキントッシュ)になっています。(P161)
年をとると、感動の初対面の鮮烈さは消えていきます。しかしそれに代わって、理解する能力は深まっていきます。失ったものを嘆くのではなく、あらたに得たものに感謝するように心がければ、「感性」の質のようなものは決して失われないはずだと僕は思っています。(P161)
(読者の「自分のオリジナリティーとは何か?」という質問に対して)もし他人と違う人間になりたかったら、なるべく他人とは違うかたちの情報を摂取するようにすればいいと思います。みんなと同じ情報を得ていたら、多かれ少なかれということですが、みんなと同じ考え方しかできなくなります。あなた自身の情報を手に入れて、あなた自身の頭でそれを処理すること。そういう訓練を日常的に積んでいれば、あなたは(もちろんある程度はということですが)あなた個人の頭でものを考えることができるようになります。あなた個人の目で世界を眺めることができるようになります。(P182)
(読者の「今の時代の価値がどこにあるのか?」という質問に対して)それがどんな時代であれ、ひとつの時代を生きる人生にとってもっとも大事なのは、「自分を少しでもまともに保つこと」と「誰かを少しでもまともに愛する」ことです。そしてそれはたぶん時代とは関係なく、ある程度、自分の裁量で実践していけることです。それだけのことをとりあえず一生懸命やって、そのほかのことは「あとになってから、またあらためて考えてみよう」くらいでいいのではないかと思います。実際の話、「あとになってみないとわからない」ということも、けっこうたくさんあるからです。(P184)
(読者の「全共闘時代を振り返った感想は?」という質問に対して)僕がその時代から学んだもっとも大事な教訓は「美しい言葉で力強く語られるものごとは、まず信用するな」ということです。そういう言葉についていくと、だいたいひどい目にあいます。(P195)
ひとつ、村上さんでやってみるか
国によって事情は微妙に違ってきますが、チップをスマートにあげるコツは、だいたいにおいて素早くあげることです。ポケットにさっと手をつっこんで、お札をさっととり出して、見もしないで相手にさっと渡してしまう。そしてただにっこりして、ありがとうと言う。相手に考えるすきを与えない。これがコツです。もちろんその前に、しかるべき札をポケットにしっかり用意しておくわけです。(P265)
(憲法改正問題について)現在の憲法は日本の今の現実と照らし合わせてみて、大きな矛盾をはらんでいます。それは確かなことです。いくら「世界に誇れる平和憲法だ」「戦争放棄だ」といっても、現実に立派な軍隊が存在します。(中略)その矛盾が戦後50年以上にわたって、日本人の心理にある種の「ねじれ」というか、もっときつく言えば「偽善性」みたいなものをもたらしてきたという言い方もできます。(中略)それにだいたい今の憲法は、占領軍が起草したものであるということが通説になっています。(中略)にもかかわらず、僕は思うのですが、僕らはそのような矛盾や、ねじれや、偽善性や、出生の不分明みたいなものと、なんとか折り合いをつけて、一緒にうまく暮らしていく方法を覚えることを、切実に求められているのではないでしょうか? ちょうど僕らが友だちや家族とのあいだに矛盾やねじれを抱えながらも、なんとかうまく気持ちをやりとりして、ときどき喧嘩したりしながらも、また仲直りしてつきあったり、一緒に暮らしてる、みたいに。(中略)もし現実と論理が齟齬なくぴったりと整合してしまったら、というが現実にあわせて論理を変更させてしまったら、それは逆にとても恐いことなのではないかと、僕は危惧しています。(中略)結論を申し上げれば、「今のままでがんばってやっていこうじゃないか」ということです。今の憲法のねじれ「コミ」でしっかり支えていくことが大事なんじゃないかと。そうすることで、僕らはより「深い」精神性を持つ国民になれるのではないか、と。そのような僕の気持ちはおそらくこれからも変わることはないだろうと思います。(中略)それとは違う考え方をなさるみなさんも多いかとは思います。でも僕も長い歳月にわたってあれこれ考え抜いた末に、そのような結論に達したのだということを理解していただければ嬉しいです。ない頭でずいぶん真剣に考えてきたのです。僕らはまだもう少しは、今ある憲法とうまく折り合いをつけてやっていけるはずだと信じているだけです。(P287)
ひとつだけ言えることは、権威にだけはなりたくないということです。こういう仕事をしていて、ほんとうにひとつ間違うと、権威みたいなことになりかねません。それを避けていくのはとてもむずかしいです。でも僕は「ただの僕」でありたいと思っています(P303)
僕が文章を書く時にまず気をつけるのは「この文章は誰かを傷つけてはいるまいか?」ということです。それから次に「こんなことを書くことによって、僕は自分を損なっているのではないか」ということです。そのふたつの問いかけは、ものを書く人間にとってはすごく大事な問いかけです。(P310)
村上ソングズ
その手触りや、温もりや、重みは一瞬にして理解できる。それが僕らの人生にとってすごく重要な意味を持つものであることも感じとれる。しかしそれが具体的にどういうものであるのか、言葉を使って他人に説明するのは至難のわざである。(P22)
エルヴィス・プレスリーにとってのハワイが、架空の楽園としてのハワイでしかなかったのと同じように。僕らの人生にはそういう憧憬がどうしても必要なのだ。「ここではないどこか」に行けば「ここにはない何か」があるというあてのない幻想がなかったら、僕らの人生はとかくぎすぎすしたものになってしまう。(P111)
歳を重ねるにつれて、若いときには開いていたいくつもの扉が閉じられていくし、その多くには「もう終わった」と記されている。(P163)
雑文集
物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、はじめて風は目に見えるものになる。(文庫P23)
歳を取っていいことってそんなにないと思うんだけど、若いときには見えなかったものが見えてくるとか、わからなかったことがわかってくるとか、そういうのって嬉しいですよね。(文庫P124)
一九六七年に僕は十八で、高校を出て大学にも予備校にも行かず、一日中ラジオでロックンロールを聴いていた。(文庫P129)
僕はもともと「これをやれ」と上から押しつけられたものを、素直に「はい、わかりました」と引き受けられない性格なのだ。(文庫P290)
(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のような古典小説は)そのとき、その人が立っている場所によって、光の加減や向いている角度によって、おそらくそこには様々に違った姿が鮮やかに映し出されることになる。そういう多面的な検証に、長期にわたって耐えられる小説は、僕の読書体験から言っても、それほどたくさんあるものではない。(文庫P294)
初めてジャズに出会ったのは一九六四年で、僕が十五歳のときだ。その年の一月に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが神戸にやってきて公演したのだ。僕は誕生日のプレゼントがわりに、そのコンサートのチケットを手に入れた。(文庫P434)
小さい頃にピアノを習っていたから、楽譜を読んで簡単な曲を弾くくらいならできるが、プロになれるよな技術はもちろんない。(文庫P436)
僕の小説が語ろうとしていることは、ある程度簡単に要約できると思います。それは「あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが、それを見つけることができる人間は多くない。そしてもし運よくそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている。にもかかわらず、我々はそれを探し求め続けなくてはならない。そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから」ということです。(文庫P477)
おおきなかぶ、むずかしいアボカド ラヂオ2
(マニュアル車の運転について)オートマしか運転しない人よりも、人生は目盛りひとつぶん確実に楽しくなる。(P21)
エッセイを書くに際しての原則、方針みたいなのはいちおうはある。まずひとつは人の悪口を具体的に書かないこと(これ以上面倒のたねを増やしたくない)。第二に言いわけや自慢をなるべく書かないようにすること(何が自慢にあたるかという定義はけっこう複雑だけど)。第三に時事的な話題は避けること(もちろん僕にも個人的な意見はあるけど、それを書き出すと話が長くなる)。(P32)
僕がもっとも好きなジョギング・コースは、京都の鴨川沿いの道だ。京都に行くたびに、朝の早い時間そこを走っている。定宿のある御池のあたりから、上賀茂まで走って帰ってくる。それでだいたい10キロ。(P65)
(何かの加減でチョコレートが食べたくなったとき)そうなると僕は、一も二もなく近所のコンビニに走らないわけにはいかない。そこでチョコレートを買い求める(それはいつもだいたいグリコのアーモンド・チョコレートだ。とくに理由はないんだけど)。(P80)
(プロ野球が面白くなくなったことについて)とどめをさしたのが最近の「クライマックス・シリーズ」である。僕に言わせてもらえば、あんなのは営業のためにでっちあげられた、猿芝居みたいなものだ。リーグ優勝してもいないチームが日本シリーズに出場するなんて、どんな理由をつけたところで、ぜんぜん納得できないじゃないです。大リーグのプレーオフとは話がまったく違う。(P95)
僕はもうなかなかの歳だけど、自分のことを「おじさん」とは決して呼ばない。(中略)なぜかというと「私はもうおじさんだから」と口にした時点で、人は本物のおじさんになってしまうからだ。(P110)
青山の「バー・ラジオ」のブラディー・メアリ(P149)
あざらしオイルのサプリメント(P150)
「自由になる」というのは、たとえそれが束の間の幻想に過ぎないとしても、やはり何ものにも替えがたい素敵なことなのだ。(P173)
小澤征爾さんと、音楽について話をする
早朝の四時に起きて、一人きりで集中して仕事をする。冬であれば、あたりはまだ真っ暗だ。暁の予兆すらない。鳥の声も聞こえない。そんな時刻に、五時間か六時間、机に向かってただ文章を書く。熱いコーヒーを飲みながら、キーボードを無心に叩く。そういう生活をもう四半世紀以上続けている。(単行本P21)
生きるための意欲をチャージしている人々(単行本P26)
僕は文章を書く方法というか、書き方みたいなのは誰にも教わらなかったし、とくに勉強もしていません。で、何から書き方を学んだかというと、音楽から学んだんです。それで、いちばん何が大事かっていうと、リズムなんですよね。文章にリズムがないと、そんなもの誰も読まないんです。(単行本P129)
新しい書き手が出てきて、この人は残るか、あるいは遠からず消えていくかというのは、その人の書く文章にリズムがあるかどうかで、だいたい見分けられます(単行本P130)
サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3
収められたのは、一編だけを別にすれば、雑誌『アンアン』に書かれたもの(まえがき)
僕のオムレツの師匠は村上信夫さんです。(オムレツを作ろう)・
虹の根元を見たことがある。かなり不思議な光景だった(オムレツを作ろう)
いくつかの裁判を傍聴して個人的に強く感じたのは「何があっても、刑事裁判にかけられる事態だけはさけなくては」ということだった。(裁判所に行こう)
野菜が好きで、毎日大量のサラダを食べる。洗面器くらいの大きな器に野菜を山盛り入れて、ばりばり食べる。(スーパーサラダが食べたい)
外国を旅行して頭を悩ませるのは、やはりチップのことですね。僕の個人的な経験からすると、細かいことは考えずに、「まあこれくらいだろう」とおおよその見当をつけてやっていくのがいちばん良いみたいだ。コツは、とにかく自信をもってやってのけることです。(チップはむずかしい)
小説家になってよかったなと思うのは、日々通勤しなくていいことと、会議がないことだ。もうひとつ小説家になった喜びを深く感じるのは、素直に「知りません」といえるときだ。(知りません、わかりません)
きっと人にとっていちばん大事なのは、知識そのものではなく、知識を得ようとする気持ちと意欲なのでしょうね。(知りません、わかりません)
僕は十五歳のときにジャズに出会った。僕が好きなクラブはたくさんあるけど、いちばん素晴らしいのは、ニューヨークの「ヴィレッジ・ヴァンガード」。(ジャズは聴きますか?)
暇な時代にカード占い研究を始めた。(占い師としての短いキャリア)
好きなビール・・・ローリング・ロック、バス・ペール・エール、サミュエル・アダムズ、ブルー・リボン(ブルー・リボン・ビールのある風景)
この夏、スイスのレマン湖に行った。(すまないな、ルートヴィッヒ)
高校生のときから麻雀にすっかり夢中になり、勉強そっちのけで徹夜麻雀ばかりしていた。(すまないな、ルートヴィッヒ)
年をとるということを、いろんなものを失っていく過程ととらえるか、あるいはいろんなものを積み重ねていく過程ととらえるかで、人生のクウォリティーはずいぶん違ってくるんじゃないか(楽しいトライアスロン)
常日頃から、外国旅行に持っていくための服を用意している。旅行の途中で捨てていける服のことです。そして着ては、片端から捨てていく。選択に手間も省けるし、荷物も減っていくし、一挙両得です。(さあ、旅に出よう)
本の紹介。『自分の体で実験したい』(自分の体で実験する人たち)
墓碑銘として、これはいいんじゃないかと思うものはある。「何ひとつ思うな。ただ風を思え」トルーマン・カポーティの短編小説の『最後のドアを閉じろ』の最後の一行。僕の最初の小説『風の歌を聴け』も、この文章を念頭にタイトルをつけた。(私が死んだときには)
親に見捨てられた病弱な子猫の面倒をみて、立派な成猫に育てた経験があります。(コップに半分)
(猫に名前をつけるのに)そのときビールを飲んでいれば「きりん」とつけるし、白くてほっそりした猫はかもめに似ていたから「かもめ」とつけた。大学生のとき三鷹に住んでいたんだけど、夜アルバイトから戻る途中で子猫を見つけた。僕が呼ぶと、鳴きながらあとをついてきた。猫はそのままうちに居ついてしまった。名前はつけなかったけど、ある日ラジオを聴いていたら、飼い猫がしばらく前にいなくなったという人がいて、その猫の名前がピーターだった。で、ピーターになった。(猫に名前をつけるのは)
二十四歳から三十二歳までの七年間、客商売をして生計を立てていた。(無口なほうですか?)
子供の頃うちで飼っていた猫が、庭にあった高い松の木に勢いよく登ったのはいいけど、下を見たら身がすくんで、そのまま降りてこられなくなった。朝起きて見に行ったら、もう声も聞こえなくなっていた。そしてそのまま二度と姿を目にすることはなかった。(高いところが苦手)
大富豪が貧民に変装して高級レストランに行く。門前払いされると変装をといて「おいおい、実は私だ」と名乗る。でも店の主人は言う。「たとえあなたが誰であろうと、コジキのまねをすればコジキです」(貧乏そうに見えるのかな)
本の紹介。ノルウェイの作家、トル・ゴタス著『なぜ人は走るか』(とんでもない距離、ひどい道)
後悔していること。学生時代に歯磨きを手を抜いていたこととピアノの練習をやめたこと。(信号待ちの歯磨き)
ジョージタウン大学で新入生を相手に講演したことがある。ホテルチェックインのときに割り込みされた。そういうアメリカ人もいれば、「すまなかったね。アメリカ人がみんなああじゃないんだ」と言った小柄なアメリカ人もいる。この出来事から学んだのは、日本で困った目にあっている外国人を見かけたら、進んで助けてあげなくてはということだ。(ワシントンDCのホテルで)
二十歳のとき、夏休みに一人で長い徒歩旅行をした。路線バスで高校野球のラジオ中継をやっていた。三沢高校の太田幸司が決勝戦で延長18回を一人で投げ切り、それでも決着がつかず、翌日おこなわれた再試合だった。(いちばんおいしいトマト)
この本は、「Anan」2011年3月30日号から2012年4月4日号に掲載された「村上ラヂオ」、「GINZA」2012年4月号に掲載されたエッセイを加筆修正してまとめました。(最後)
「岩にしみ入る」の項・・・「僕はウシ年山羊座のA型」
「さあ、旅に出よう」の項で、外国旅行に出るとき、旅先で捨てて行くためのTシャツや靴や下着を持って行くと書いている。また、「旅行というのは予定していないことが起こるから楽しいんだ。すべて当初の計画どおりにすいすいとこともなく運んだら、旅行する意味なんてあまりないかもしれない」と書いている。
村上さんのところコンプリート版
しばらく前に奄美大島に行って、田中一村の美術館を訪れました。僕は田中一村の絵が大好きなので。
僕は昔の蒲郡ホテルに冬場泊まって、牡蠣のフルコースを食べるのが好きでした。今は改築され、「蒲郡クラシックホテル」に変わったと聞いています。僕は昔の建物に泊まって、そのときにそこをイメージして「土の中の彼女の小さな犬」という短編小説を書きました。
いちおう調理師免許を持っています
(マラソンの)僕のベストタイムは3時間27分なんです。
初めて買ったアナログレコードは「The Many Sides of Gene Pitney」13才のときだっけなあ。
僕はお正月に日本にいるときは、よく赤坂の日枝神社と豊川稲荷に行きます。
ローマのテレビでルー・リードの「The Original Wrapper」のミュージック・ビデオを見てインスパイアされ、「TVピープル」という短編を書きました。
ズボンのポケットにジョン・アップダイクの『ミュージック・スクール』という本を一冊突っ込んで、ほとんど何も持たずに東京の大学に出てきました。
(読者の質問「もし作品を通して世界に大きな影響を与えられるとしたら、どんな影響を与えたいと、村上さんはお考えですか?」に対する回答)出口を見失って苦しんでいる人に、「出口はあるかもしれない」と思わせることができたらいいなあと思っています。もし誰かにそういう影響を与えられたら、小説家としては冥利に尽きます。
「ビッグ・スウェル」おいしいですよね。いかにもIPAらしいきりっとした味わいです。
僕は英語と国語と世界史を選択して早稲田大学に入ったのですが、ほとんど勉強しませんでした。
デモには主催者はいますし、主催者の意向でデモの体質や形状は変わってきます。主催者が色つきだと、デモもやはりいくぶん色つきなものになってしまいます。でも(洒落じゃなくて)ある時点でデモが自発的に行動を取り始めることがあります。主催者の意図とは無縁に、人々そのものが生き生きと動き始めます。そうするとそのデモは本物になります。世界に向かって生きた訴えかけを始めます。僕はそういうデモを信じます。
講談社から出ている全集の中でいくらか書き直しています。つまりヴァージョンが二つあるわけです。中でもいちばん大きく書き直したのは『貧乏な叔母さんの話』だと思います。
カウアイ島ならノース・ショア、とくにキラウェアとハナレイがおすすめです。僕は昔『ハナレイ・ベイ』という短編小説を書きました。この近くに住んでいたんです。
僕は藤沢(鵠沼)と三鷹に住んだことがあります。(中略)僕は学生時代、寮を追い出されたあとしばらく、都立家政駅の近くで三畳間に暮らしておりました。
(読者の「小説以外のものを書くときに何か心がけているようなものはあるでしょうか?」という質問に対する回答)どこかのバーでお酒のグラスを傾けながら、素敵なガールフレンドを相手に、面白い話をしているような気持ちで文章を書くとよいと思います。肩の力を抜いて、でも微かな下心を持って。
健康のためには早く歩いた方がいい。
藤沢駅南口にある「久昇」という飲み屋はなかなか良いですよ。昔よく行きました。
今から24年前にアメリカでサイン会をしたときは15人くらいしか来なくて、やることがなくて暇をもてあました。
どのような解説書も説明本も、それがどれだけ優れたものであったとしても、あくまでテキストの一部を切りとったものに過ぎません。作品を富士山にたとえれば、一つの角度からそれを捉えた写真のようなものです。そこから全体像は浮かび上がってはきません。でも作品を読んだあなたは、実際に富士山に登って、下りてきた人です。あなたは既に全体を体験しているのです。今さら攻略本が必要ですか?
れんこんを薄切りにして、それを酢を加えた水にしばらくつけておきます。あくを抜くんです。それからペーパータオルでその水気をきれいにとります。塩こしょうをします。そしてフライパンにひたひたに油を入れて熱し、そこで軽く揚げます。好みによってたかのつめを入れます。簡単な料理ですが、ビールにあうと思いますよ。僕はこれがけっこう好きです。
(39歳専業主婦の「愛されているという確信を一度も持ったことがなく、それが悪夢となって何度も夢に出る。姑にも悩まされた。自分はいま自分の子供を愛し、子供も私を愛してくれる」という話しへの回答)薄らぐことはあっても、おそらく消えることはないと思います。その悪夢があなたという今ある人間を作ってきたからです。あなたはこれからも、その悪夢とともに生きていく必要があります。つらいかもしれませんが、それが真実です。にもかかわらず、そのような重荷を背負いながらも、あなたは自分の子供を愛することができるし、子供と良い関係を保つことができる。それは素晴らしい達成です。その達成を続けていってください。人は誰しも多かれ少なかれ、それなりの悪夢を抱えて生きています。その悪夢を乗り越えることによって、人はそれぞれに成長していきます。抱えている荷物が重ければ重いだけ、いったんそれを乗り越えれば、人は大きくなれます。
僕は人生最後の食事には、やはり鍋焼きうどんが食べたいです。冬場はもちろん、夏でもがんばって鍋焼きうどん。辞世の句「ヤクルトは、最後の日にも、また負けた」
(40歳女性の「虐待を受けて育ちました」という話への回答)自分の体験を乗り越えて、良いお母さんになってください。というか逆に、良いお母さんになることで、自分の体験をうまく乗り越えられると思いますよ。
僕が通っていた香櫨園小学校は僕が三年生のときに新設されまして、そのときまで通っていた浜脇小学校から「香櫨園小学校」が分離してそちらに移りました。
年に一回メディカルチェックをするときに、主治医(みたいな人)とあれこれ話をするくらいです。甲状腺の研究をしておられる方で、一度甲状腺について話し合って、それでふと思いついて「タイランド」という短編小説を書きました。
大人になるとはどういうことか、一言でいえばあきらめていくことだと思います。良い意味でも悪い意味でも。うまくあきらめられる人は、うまく大人になれるということじゃないかな。
僕が小さい頃(たぶん小学校の低学年だったと思います)、須田剋太さんという画家が近所に住んでおられました。司馬遼太郎さんとよく一緒に仕事をしておられたとても有名な方ですが、子供がお好きだったようで、おうちの離れに子供を集めて絵画教室のようなものを開いておられました。僕はそこに行って、絵を習っていました。というか、みんなで好きに絵を描いて、それを須田さんがにこにこと「これはいいねえ」とか「ここはこうしたら」とか感想を言うというようなところでした。とても良い方だったと記憶しています。僕が須田さんから受けたアドバイスは、「ものを枠で囲うのはよくないよ。枠をはずして描きなさい」というものでした。なぜかそのことだけを今でもはっきり覚えています。あとはピアノを習っていました。ソナチネくらいまでいったかなあ。あまり良い生徒ではなかったです。
僕くらい兵庫県立神戸高校図書館の本をたくさん借りて読んだ生徒はいないんじゃないかな。
ずるはしない、全力を尽くす、というのが僕の職業倫理リストのいちばん最初に来ます。
最初のフルマラソンをホノルルで走りました。
「タイトルのストックならいくらでもあります」という文章とともに並んでいるストックに『応援団長殺し』というのがある。(それがのちに『騎士団長殺し』になったのかも)
「パンケーキ・ミックスでつくればパンケーキ、ホットケーキ・ミックスでつくればホットケーキ」と考えています。実際に味も違うみたいです。僕はパンケーキの方が好みですが。
『風の歌を聴け』は新人賞に応募したときはぜんぜん違うタイトルだったんですが、「群像」編集部にタイトルを変えてくれと言われて変更しました。
レッド・ガーランドのアルバム「GROOVY」におけるポール・チェンバーズの音と、オスカー・ピーターソンのアルバム「WE GET REQUESTS」におけるレイ・ブラウンの音が、僕にとっての良い音のレファレンスみたいになっています。
サリンジャー関係は著作権の縛りがかなりがちがちに堅いので、その欲求不満もあって「イエスタデイ」という短編小説を書きました。あの風呂場のシーンはいちおう『ズーイ』のでだしをパロっているんですが。
うちはとにかく野菜と魚が中心です。とくに野菜をたくさん食べます。たまに肉を食べます。ご飯は酵素玄米を食べています。調味料はできるだけ自然素材を使っています。そして腹七分目くらいを量の目安にしています。
僕はわりに文章の途中にカッコ等を挿入するのが好きです。文章にうまくツイストとターンをかけられるからです。
僕は資産運用みたいなことにはとことん無関心です。株にも国債にも、まったく知識も興味もありません。自分の年収がいくらなのかも知りません。
22歳で結婚してしまった。
ケニー・バレル、いいですねえ。僕がいちばん好きなジャズ・ギタリストです。オルガンのジミー・スミスと共演した“BLUE BASH!”というアルバムを聴いて、感服してしまいました。
僕の最大のライバルは過去の僕自身です。だいじなのは、過去の自分を乗り越えていくことです。かつての自分を更新し、ヴァージョン・アップさせていくことです。いつも「自分に負けたらおしまいだ」と思っています。他人のことなんか気にしなで、自分をしっかりと見つめていくことが大事ですよ。自分にきっちり勝つことができれば、他人にも勝てます。というか、勝ち負けなんてほとんど気にならなくなります。実はそれがいちばん大事なことなんです。
僕の考える結婚の基準はとても単純です。「この人と一緒にいたらぜったいに退屈しないだろうな」と思えることです。どんなに素敵な人でも、どれほどいろんな条件が揃った人でも、「退屈だな」と感じたら、まずやっていけません。
文章を書くときにいちばん必要なのは、おそらく親切心だろうと僕は常々考えています。相手が読みやすく、わかりやすく、受け入れやすく感じる文章を書くこと。それが大事です。文章というのはあくまでも伝達のためのツールですから、読みにくい文章というのは、そもそも根本原理に反しています。そういう「わかりやすい」文章を立体的に組み合わせることによって、できるだけ深く、奥行きのある総合作品をつくりあげていきたいというのが、僕の基本的な考え方です。
どこかの雑誌で、そのような完全殺人(細い針で形跡をのこさずに、クビの後ろの特殊な一点を刺す)も可能だと書かれているのを読んで、それにインスパイアされて青豆の殺人方法を思いついたと記憶しています。
ダッフルコートは今でもよく着ています。Paul Smithのものと、Tommy Hilfigerのものを持っています。今年の冬は寒いので、けっこう着る機会があります。ピーコートはVan Jacketのものを着ています。気に入ったコートがあると、冬もけっこう楽しいですね。
僕はごく普通のプレーン・ドーナツか、オールド・ファッションか、シナモン・リングしか食べません。
僕も高校二年のときに女の子とつきあっていましたが、自分の心ってよくわからなくて、ときどき混乱しました。
僕は批判されて頭にきたら、逆の方向に書き直します。「ここは短くしたほうがいい」と言われたら逆に長くする。「ここは長くしたほうがいい」と言われたら逆に短くする。でもそうやっているうちに、作品ってよくなっていくんです。不思議だけど。
いくつになっても学ぶことはたくさんあります。そして人は多くの場合、痛みから学びます。それもかなりきつい痛みから。
お客の全員に気に入られなくてもかまわない、というのが僕の哲学でした。店に来た十人のうち三人が気に入ってくれればいい。そしてそのうちの一人が「また来よう」と思ってくれればいい。それで店って成り立つんです。経験的に言って。それって小説でも同じことなんです。十人のうち三人が気に入ってくれればいい。そのうちの一人がまた読もうと思ってくれればいい。僕は基本的にそう考えています。そう考えると気持ちが楽になります。好きに好きなことができる。
僕は厚木基地で10キロのレースを走ったことがあります。視覚障害の方の伴走で走りました。
飛田茂雄さんと柴田元幸さんという、翻訳に関しては最高の教師を得ることができました。
僕はもともと猫的な人格なので、誰かに「ああやれ」「こうやれ」と言われるのが我慢できないのです。右を向けと言われたら、つい左を向いてしまう性格です。
僕がすきなピンチョンはなんといっても『V.』です。
猫は犬と違って、とてもリアリスティックな動物なので、無駄なことに力は使いません。人の顔なんてあっという間に忘れてしまいます。必要ないから。でもしばらくするとなんとなく思い出しますよね? ああ、そういえば……みたいな感じで。そしてちょっと繕ったりする。そういうところもなんとなく猫らしくてナイスです。
僕は無人島に持っていくのなら、研究社の『リーダーズ英和辞典』と昔から決めています。最近は電子版を使うことが多いですが。
人はもともと失敗するものです。いいじゃないですか。運命の神には好きなだけ笑わせておきましょう。あなたはあなたの好きな道を進めばいい。そのうちなんとかなります。
「群像」で新人賞をとったときは、その賞金で猫を買いました。スコティッシュ・フォールド。耳の垂れた猫です。ペットショップのウィンドウで見て、どうしてもほしくなって衝動買いしてしまいました。かわいそうに、わりにすぐ死んでしまいましたが。
四十歳のころは『ノルウェイの森』がすごいベストセラーになり、現実的にいやなことがたくさんありました。おかげで人間関係みたいなものも少なからずこじれ、精神的にかなり落ち込んでいました。僕にとっては一種のクライシスだった。あの頃は本当に、ひとりぼっちで暗い井戸の底に座っていた、みたいな感じでした。でもしばらく我慢して抜けて、なんとかまた浮かび上がることができました。人生にはそういう時期もある程度必要みたいですね。
自分の人生というのは実験室みたいなものだと考えることです。「よし、自分を実験台にしていろんなことを試してみようじゃないか」と。僕はいつもそう考えるようにしています。
僕がジャズクラブをやっていた頃、出演してくれていた人たちの演奏をちょくちょく聴きに行きます。向井滋春さんとか植松孝夫さんとか。
僕が求めるのは、時間と自由です。
僕にとってのサンドイッチの原点は、神戸のトアロードにある「デリカテッセン」のサンドイッチです。スモークサーモンかローストビーフの二種類しかなくて、カウンターで食べるんですが、これがほんとうにおいしかった。パンから、マスタードから、野菜から、みんなおいしいんです。高校生のときからこれにはまっていました。
(読者の「桜桃忌や河童忌のように、もし村上さん自身がつけるとしたらどんな忌がいいですか?」という質問に対して)「大猫忌」みたいなのでいいのではないでしょうか。愛用の着ぐるみを飾ってください。
(夏目漱石の)『行人』は良いですね。僕も好きです。『こころ』はいささか理屈が多すぎるような気がします。
エリア・カザンに『ブルックリン横丁』という古い映画があります。主人公の12歳くらいの女の子が、学校の先生に物語について教わるところがあります。先生は彼女に言います。「真実を伝えるために必要な嘘があります。それは嘘ではなく、物語と呼ばれます」。細かい台詞は忘れたけど、たしかそんなだったと思います。その女の子はそれを聞いて「私は作家になろう」と決心します。僕がとても好きなシーンです。
僕のお気に入りのフォントはOSAKAとCOURIERです。
『三四郎』を読み終えたあとに僕の心に残るのは、ずっしりとした納得感です。
(読者の「結婚生活の長続きの秘訣を教えてください」という相談に対して)ひとことでいえば妥協です。たとえ相手が妥協しなくても、こちらが妥協する。それが大事です。そうすればだいたいうまく行きます。でもいつ何が起こって、すべてがひっくりかえるか、そんなことは誰にもわかりません。人生、一寸先は闇です。しかし、とにかくそれでも、闇がくるまで辛抱強く妥協を続ける。それしかありません。
僕はトラッド・ジャズが好きです。
『デイヴィッド・コパフィールド』に出てくるユーライア・ヒープが僕にとっての、文学史上「最も好きな悪役」です。この人はなにしろ圧倒的に素晴らしい。ユーライア・ヒープさんに出会うためだけでも、この長大な小説を読む価値はあります。
僕は昔から読書感想文を書くのが得意でした。読書感想文を書くコツは、途中でほとんど関係ない話(でもどこかでちょっと本の内容と繋がっている話)を入れることです。それについてあれこれ好きなことを書く。そして最初と最後で、本についてちょろちょろっと具体的に触れる。そうするとなかなか面白い感想文がすらすら書けます。
僕は思うんですが、小説の優れた点は、読んでいるうちに、「嘘を検証する能力」が身についてくることです。小説というのはもともと嘘の集積みたいなものですから、長いあいだ小説を読んでいると、何が実のない嘘で、何が実のある嘘であるかを見分ける能力が自然に身についてきます。これはなかなか役に立ちます。実のある嘘には、目に見える真実以上の真実が含まれていますから。(結論)小説はすぐには役に立たないけど、長いあいだにじわじわ役に立ってくる。
編集者に手渡す時点では「これ以上は今は直せない」としっかり確信しています。もちろん時間が少し経てば、あるいはまた編集者の意見を聞けば、手を入れたいところ、手を入れなくてはならないところはいろいろと出てきます。それは当然のことです。しかし「まだ直したいところがあるなあ」と思いつつ、原稿を編集者に手渡すようなことはありません。もうこれ以上直すところはないと思うまで、原稿は渡しません。だから僕は原則的に締め切りをつくらないようにしているのです。それは(僕にとってはということですが)ひとつの大事なモラルのようなものです。
バリトン・サックス、好きです。マリガンももちろん好きだけど、ペパー・アダムズが僕のmost favorite bari playerです。彼の大型ナイフのような鋭いサウンドはいつ聴いても痺れます。日本人なら原田忠幸さんがかっこいいですね。
僕の場合は、30歳で小説家としてデビューしました。決して早いデビューではありません。でもそのときには(それが小説を書いた最初だったのですが)、自分の基本的な文体のようなものはできていたと思います。あとはそれをちょっとずつ発展させていっただけです。どうやってその文体を見つけたのか? たぶん生きることによってです。文体というのは結局は生き方なのです。
「マスダ名曲堂」懐かしいですね。僕もあそこでよくレコードを買いました。あの頃(高校時代です)、僕はウラジミール・アシュケナージに夢中になっていて、アシュケナージの演奏するラフマニノフのピアノ協奏曲3番(London)を買ったことを記憶しています。
僕の好きなウィスキーはアイラ島の「ラフロイグ」です。普段はベイシックな10年ものを飲んでいます。10年ものがいちばんラフロイグらしい味わいだと僕は思っているのですが。空港の免税店でときどき「ラフロイグ・カスク」を買ってきます。これも悪くないですが、やはり基本は「10年」ですね。
説明するのはとてもむずかしいのですが、僕は「僕自身と契約を結ぶ」という気持ちで小説を書いています。僕と僕自身とのあいだで、小説を書くというコミットメントを共有するわけです。そこには他の要素はほとんど入ってきません。
前の夜に「明日はこれを聴こう」と五、六枚のレコードを用意しておいて、朝起きるとそれを順番に聴いていきます。朝はだいたいクラシック音楽を中心に聴きます。前の夜に、明日の朝のためにLPを選ぶのがけっこう楽しいんです。
(読者の「なぜ早稲田に?」という質問に対して)映画演劇科があったというのがいちばん大きな理由です。関西の大学にも受かっていたので、そちらに行くこともできたし、そうすればもっと穏やかでのんびりとした学生生活を送っていたと思うんですが、なぜか急に東京に行きたくなって、早稲田進学を選びました(入学金を振り込む期限の前日に決心しました)。それ以来、今日に至るまで、ジェットコースターのような日々が続いています。
不健全な魂を支えるには、健全な肉体が必要になります。
ヤクルト・スワローズのデーブ・ヒルトン選手にサインをもらったことがあります。広尾の明治屋の前でばったり出会って。「サインをくれますか?」と言ったら、「いいよ」とサインしてくれました。1978年の夏、まだ小説家になる前、台所のテーブルに向かって『風の歌を聴け』をこつこつと書いていたころのことです。
僕は一時期、藤沢周平さんの小説にはまりました。ずいぶん読みましたよ。面白いですよね。なにしろ文章もうまいし。戦後の日本の小説家の中では、安岡章太郎さんと並んで、いちばん文章のうまい人じゃないかな。
(読者の「『何度も観返している映画ベスト3』はなんですか?」という質問に対して)二つしかありません。どちらもすごく古い映画ですが、ジョン・フォードの『静かなる男』と、フレッド・ジンネマンの『真昼の決闘』です。四面楚歌みたいな状況に置かれたときに(何度かそういうことがありました)、よく観ました。観終わると、「僕もがんばらなくちゃな」という気持ちになれます。どちらもとてもよくつくられた映画です。何度観ても飽きません。
(読者(東日本大震災の被災者)の「こんな、つらい気持ちとうまく付き合っていくには、どうしたら良いのでしょうか。コツみたいなものってありますか?」という質問に対して)僕にはその問いにはとてもお答えできそうにありません。うまくやっていくコツなんて、どこにもないような気もします。僕にただひとつ言えるのは、記憶を無理に消すことはできないということです。もし記憶が消せないのだとしたら、それと一緒に生きていくしかありません。それを「これはこの世界の必須の一部なのだ」と思って、むしろ積極的に引き受けてやっていくしかありません。それを進んで引き受けるメリットは何かあるのか? とくにないと思います。あなたがその分、深く強い人間になれるという以外には。
(読者の「物語を紡ぐということに対する自信のようなものは、いつ持たれましたか?」という質問に対して)僕の感覚からいうと、それは「自信」というのとは少し違うものです。むしろ確信に近いものかもしれません。自分が何かしらの源泉に結びついているという確信。それは新人賞をとったときからうすうす感じていました。まず最初に「根拠のない確信」みたいなものが必要とされます。根拠はあとから見つければいいんです。でも最初に確信がないと、ちょっときついかもしれない。
(読者の「言いたいこと、伝えなければならないことを、過不足なく、ちゃちゃっと書きたいのですが、そのコツを、ささっと教えていただければ嬉しく思います」という相談に対して)英語でいうseduceです。誘惑して、こっちに引っ張り込んで、ものにする。たらしこむ。基本的にはそういう具合に文章をかけばいいんです。
僕が神宮の外野で寝転んでいて、「そうだ、小説を書こう」と思い立ったあの歴史的な日(?)に先発投手として投げていたのが、まさに安田投手でした。
僕にとっての理想の書斎の条件は、大きな長い机があること、大きな音で音楽が聴けること、昼寝のできるソファがあること。その三つです。
読みやすいけどむずかしい、というのが僕の考えている理想の小説のひとつの姿なんですが。
小田原城の近くにある鰻屋さん、いいですよね。たまに行きます。
僕はレモンが死ぬほど好きです。ほんとに。以前ハワイで住んでいた家の庭に、マイヤーレモンの木が生えていて、日々大きなレモンの実をつけてくれました。それを使ってサラダを食べたり、ウォッカを割ったり、とても幸福な日々を送っていました。
僕はだいたいにおいて、レモンとオリーブオイルと塩胡椒だけでサラダを食べます。それで味付けは十分だと思うんですが。
LPの並べ方。ジャズはミュージシャンのラストネームのアルファベット順、クラシックはおおむね時代順に並べています。ロックはアバウトです。何がどの辺にあるか、だいたい覚えているのですぐに取り出せます。
phile(ファイル)というのは「愛好家」「**を愛するもの」という意味です。Anglophileが「英国びいき」で、audiophileが「オーディオ愛好家」という感じです。「ムラカミファイル」「ハルキファイル」というのはちょっと軽くていいかもしれませんね。
Art Pepperというジャズのアルトサックス奏者が「ナツメグ」と「シナモン」という曲をつくっています。本人の名前が胡椒(ペパー)だから香辛料を曲の名前にしたわけですが、シナモンやナツメグは実は麻薬の隠語でもあります。
僕はローマではよく「ジュリオ・チェーザレ」というホテルに泊まっていました。
金で買えるもっとも素晴らしいものは、時間と自由と静けさだと僕は考えています。
イスラエルで「壁と卵」のスピーチをしたときは「四面楚歌」に近い、孤立した状態でした。いちばん幸せだったときは「群像」の新人賞をとったときだったと思います。とても大事なものをこの手でつかんだという実感がありました。そのあといろんな賞をもらったけど、「群像」新人賞をもらったときの喜びには及ばなかったですね。
僕もこのあいだ30日ドライエイジドのリブを食べたんですが、かなりおいしかったです。
ローマに住んでいるとき、ずっと「何も書きたくない」という時期が続いていたんだけど、テレビでたまたまそのビデオを見て、はっと思って短編小説(「TVピープル」)を書き始めました。だから僕にとってルー・リードは印象深いミュージシャンです。
パリで食べるクロワッサンっておいしいですよね。朝、開いたばかりのカフェに行って、ヘラルド・トリビューンを読みながら、焼きたてのクロワッサンと、たっぷりのブラック・コーヒーという朝食をとるのは至福です。
「あなたくらいうまい人っていないわよ」。文章に関してそう言ってもらいたいなと、僕は常にそう思って生きています。
『ダンス・ダンス・ダンス』からあとはずっとキーボードで小説を書いていますので、鉛筆はプリントアウトしたものに手を入れるときくらいしか使いません。
ワードプロセッサーが登場する以前は僕はだいたい万年筆を使っていました。ほとんでモンブランでした。インクはパーカーのロイヤル・ブルー。『ノルウェイの森』は旅行をしながら書いたので、大学ノートにボールペンで書いていました。鉛筆は校正・推敲でしか使っていません。でも鉛筆って好きです。
僕がCDを持っていて、よく聴いているのは、圓生の「真景累ヶ淵」です。怪談噺なので、そんなに笑うところはありませんが、とにかく怖いです。圓朝の『真景累ヶ淵』は岩波文庫版も持っていて、これも読みごたえがあります。
「物語」が有効にものを考えるための大きな助けになります。僕らはロジックという座標軸を使ってものを考えながら、ストーリーという座標軸をそこに導入することによって、ものごとをより立体的に把握することができます。ロジックだけではだめ、ストーリーだけでもだめ、その二つを合わせることによって、視点は立体的になります。そのようにすれば「どこまでが出来合いの意見で、どこからが自分自身の意見か」というのが、思いのほか見えやすくなります。僕が「物語がなくてはならない」「小説を読むことが大事だ」というのはそういう意味合いにおいてです。
ラオスにいった何があるというんですか?
「ぼくは鳥を食べないので」(文庫P47)
(かつて滞在した「レジデンス・ミコノス」の当時暮らしていた)19番のユニット。そこで僕は『ノルウェイの森』の最初の数章を書いた。(文庫P97)
(スペッツェス島でくらしていた二十四年前の)当時の僕は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という小説を書き上げ、次の作品『ノルウェイの森』の執筆に取りかかることを考えている三十代半ばの作家だった。(文庫P113)
(もしタイムマシーンがあったら)1954年のニューヨークに飛んで、そこのジャズ・クラブでクリフォード・ブラウン=マックス・ローチ五重奏団のライブを心ゆくまで聴いてみたい。(単行本P115)
1983年のコルティブオーノの赤ワイン(文庫P203)
ワインというのは、その土地の固有性が生み出す自然の雫なのだということが実感できる。(文庫P212)
旅っていいものです。疲れることも、がっかりすることもあるけれど、そこには必ず何かがあります。(文庫P274)
騎士団長殺し
額が広く、髪がまっすぐで美しく、体つきに比べて耳が大きかった。(単行本第一部P18)
いちいち想像したくはなかったが、一度動き出した想像の連鎖をどうしても断ち切ることができなかった。(単行本第一部P37)
私の中にあった自然な直観が弱められてしまったのかもしれない。海岸の砂が波に徐々にさらわれていくみたいに。(単行本第一部P71)
ぱっと見てそのまま通り過ぎても、何かを見落としたような気がして自然に後戻りし、今一度見入ってしまいます。(単行本第一部P124)
その恍惚に似た不思議な表情は、明け方の川面に漂う靄のように、ほどなく薄らいで消えていった。(単行本第一部P300)
彼が今回花屋に支払った代金だけでおそらく、つつましい大学生なら一ヶ月は食いつないでいけるのではないかと私は想像した。(単行本第一部P381)
静かではあるけれどとても簡潔な、そして譲歩の余地のない通告だった。(単行本第一部P478)
それがどんな夢だったのかまったく思い出せなかった。思い出せるのは、それがとても明白で鮮やかな夢だったということだけだった。夢と言うより、何かの手違いで眠りの中に紛れ込んできた現実の切れ端のようにも感じられた。(単行本第二部P164)
空気の澄み具合と風向きによって、いつもは聞こえない遠くの音が妙にくっきりと耳に届く。(単行本第二部P264)
村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事
僕の場合、翻訳という作業は根っから性格に向いていたのだと思う。そしてそういう「向いたもの」にうまく巡り会えただけでも、僕の人生の幸福度の目盛りは、確実にいくつか刻み目を上げることができたと思う。(P8)
(たくさん翻訳を手がけたことについて)感無量とまでは言わないけど、汗をかきながら高い山を登ってきて、ふと振り返って麓を見渡したときのようなある種の感慨はある。歳月が奪っていくものもあれば、歳月が残していってくれるものもある。(P12)
(二十九歳のときに小説家になり)これは良い機会だから翻訳もやってみようかという気持ちになって、安原顯さんに「翻訳をやりたいんですけど」と言ったら、「いいよ、やってくれ」ということになりました。安原さんはたまたま、僕が小説を書く前からうちの店のお客だったんです。それで訳したのがスコット・フィッツジェラルドの短編でした。(「残り火」「氷の宮殿」「アルコールの中で」の三篇が「海」一九八〇年十二月号に掲載された。(P88)
『熊を放つ』のときに、翻訳チェッカーのチームを組織したんです。(P94)
『心臓を貫かれて』はうちの奥さんから、これを訳してほしいって頼まれて、ちょっと読んでみたらすごく面白かったので、一気に訳しました。(P133)
一九七九年四月に『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を獲り、単行本は七月に発売された。そして同年、文芸誌「カイエ」(冬樹社)八月号に彼の最初の翻訳、フィッツジェラルド「哀しみの孔雀」が掲載される。(P192)
(「ハッピーエンド通信」)一九八〇年二月号にフィッツジェラルド「失われた三時間」、八月号には「マイ・ロスト・シティー」の翻訳を載せている。(P193)
みみずくは黄昏に飛びたつ
(長編を書き始めると)何はともあれ、一日に十枚は書きます。それは決まり事だから。(文庫P97)
(『騎士団長殺し』の人称を「僕」ではなく「私」にたのは)やっぱり年齢的に、「僕」という一人で長い小説を書くのはちょっときついかなという思いもありました。(文庫P98)
僕にとっては文体がほとんどいちばん重要だと思うんだけど、日本のいわゆる「純文学」においては、文体というのは三番目、四番目ぐらいに来るみたいです。だいたいはテーマ第一主義で、まずテーマ云々が取り上げられ、それからいろんなもの、たとえば心理描写とか人格設定とか、そういう観念的なものが評価され、文体というのはもっとあとの問題になる。でもそうじゃなくて、文体が自在に動き回れないようでは、何も出てこないだろうというのが僕の考えです。(文庫P285)
(短編は収録する本が変わるときに、けっこうな確率で書き直されているという指摘に対して)講談社の全集に入れるときにいくつかの短編は書き直していますね。
僕はあの本(『アンダー・グラウンド』)の取材を通して学んだことを、それからいろんな小説の中にひっそりと組み込んでいます。(中略)ひとつの具体的な例をあげれば、「かえるくん、東京を救う」の中で信用金庫に勤めている人がいますよね。ヤクザに撃たれる人。あの人は、僕がインタビューしたサリンガス事件の被害者の一人が部分的にですがモデルになっています。
本当の翻訳の話をしよう 増補版
毎年誕生日には、かつてジャック・ロンドンが所有していたワイナリーでいまも作ってる、ラベルに狼の顔が入ってるワインを一本空けるのが習慣になっています(笑)。(文庫P16)
飛行機の中でよく『雨月物語』を聴きます。白石加代子さんが読んでるやつ。このあいだは『罪と罰』を聴いた。ダイジェストだけど面白かった。(文庫P31)
猫を棄てる―父親について語るとき
村上千秋というのが父の名前だ(P15)
父は京都市左京区粟田口にある「安養寺」という浄土宗のお寺の次男として、大正6年12月1日に生を受けた。(P17)
僕の祖父にあたる村上弁識(P19)
僕の伯父にあたる村上四明(P29)
僕は京都市伏見区で生を受けた(P77)
僕が若いうちに結婚して仕事を始めるようになってからは、父との関係はすっかり疎遠になってしまった。とくに僕が職業作家になってからは、いろいろとややこしいことが持ち上がり、関係はより屈折したものになり、最後は絶縁に近い状態となった。(P85)
古くて素敵なクラシック・レコードたち
アマデウスQの『ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調 作品131』 アマデウスQの三人の演奏について、こう言っている。「どこまでも安らかな気持ちになれる。この美しさは尋常ではない。ブタペストSQが『求道』なら、こちらは『救済』だ。」
『トマス・ビーチャム ロリポップス管弦楽名曲集』 ロリポップというのは、アンコール向きの軽いクラシック曲なのだそうだが、こう言っている。「ビーチャムおじさんはそれらの選ばれた曲を、慈しむように大切に演奏する。このアルバムを聴いていると、心が自然にほのぼのしてくる」」
P172「リストのピアノ協奏曲は僕が初めて購入したクラシックのレコードだ(ピアノがエディット・ファルナディ、指揮がボールト)。」
P178「一九七九年、レナード・バーンスタインの指揮するNYフィルの演奏会でショスタコーヴィチ交響曲第5番のシンフォニーを聴いて、まさに言葉を失った記憶がある。場所は上野の東京文化会館、ステージが燃え上がるんじゃないかと心配になるほどの白熱の演奏だった。この時の演奏はコンサート・ライブとしてレコード化されている。」
P187「生で聴いたリヒテルのブラームスの2番協奏曲は、僕の音楽観を変えてしまうくらい素晴らしい演奏だった」
村上春樹全作品1979-1989@
自作を語る「台所のテーブルから生まれた小説」
1978年はヤクルト・スワローズが優勝した年だった。僕は春に書き始めて、優勝が決定する前夜に書きあげた。
村上春樹全作品1979-1989B
自作を語る「短編小説への試み」
「カンガルー通信」と「午後の最後の芝生」のあいだに『羊をめぐる冒険』が書かれている。「カンガルー通信」が僕の副業作家時代の最後の作品であり、『羊をめぐる冒険』からあとが専業作家時代になる。
「中国行きのスロウ・ボート」 ソニー・ロリンズの演奏で有名な『オン・ナ・スロウ・ボート・トゥ・チャイナ』からタイトルを取った。全集収録にあたって中盤以降にかなり手を入れた。
「貧乏な叔母さんの話」 全集収録にあたってかなり手を入れた。
「ニューヨーク炭鉱の悲劇」 全体的に刈り揃える程度に手を入れた。
「カンガルー通信」 刈り揃える程度に手をいれた。
「午後の最後の芝生」 字句や表現の変更にとどめた。
「土の中の彼女の小さな犬」ほとんど手は入れなかった。
短編集『蛍・納屋を焼く・その他の短編』の項
息せききって長編を書いてしまうと、しばらくはゆっくりと短編が書きたくなる。長編では書けなかったことを短編でやってみたくなるのだ。
「蛍」 服がぴったりと体に馴染んでいないという感覚がずっとつきまとっていた。ほんのちょっとだけ色が違う、ほんのちょっとだけ丈が違うというあの感覚である。他人が見てもあまり気にならないかもしれないが、自分ではそのちょっとがすごく気になる。だからそのうちにもう少し腕が上がったらこれはちゃんと書きなおしてやろう、いつか決着をつけてやろうと、思っていた。結局約四年後にこれは『ノルウェイの森』というかたちで改変されることになった。
「めくらやなぎと眠る女」 友達とふたりで、彼のガールフレンドを病院に見舞いに行くシーンは『ノルウェイの森』の中でも回想として使用したと記憶している。ほとんど手を入れなかった。
村上春樹全作品1979-1989C
自作を語る「はじめての書下ろし小説」
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書き始めた時点では、しばらく前に『文学界』のために書いた『街と、その不確かな壁』という中編小説を膨らませてリライトしようということだけは決まっていたのだが、それをどういう方向に書き直していくかということになると、まったく方針が立たなかった。このテーマでものを書くのはやはりまだ時期尚早だった。それだけのものを書く能力がまだ僕に備わっていなかったのだ。そのことは書き終えた時点で自分でもわかった。この小説を活字にしたことについては今でも少なからず後悔している。発表するべきではなかったんじゃないかと思う。でも考えようによっては、活字にしてしまったなればこそ、なんとかこれを書き直して少しでもまともなものにしたいという思いも強くなったのかもしれない。
この小説を書くあいだに僕は恒例の引っ越しをした。千葉から藤沢に移ったのだ。百坪もある浮世離れした広い家で、そこのいちばん奥にある静かな和室で、僕は延々と仕事をしていた。
書き終えた時は本当にほっとした。書き終えたのはちょうど僕の三十六回めの誕生日の夕方で、これはもう嬉しくてしかたなかった。それを女房に読ませたら、後半の方は全部書き直した方がいいんじゃないと言われた。頭に来てしばらくは口もきけなかったことを記憶している。
出版社からは題は『世界の終り』だけにならないかという申し入れが何度かあった。しかしこの作品は二つの話がパラレルに流れているところがミソなのでお断りした。英語に翻訳されたときには、そちらの出版社からはタイトルは『ハードボイルド・ワンダーランド』だけにならないかというまったく逆の申し入れがあった。これももちろん同じ趣旨でお断りした。
全集収録に際していくつかの部分に手を入れた。
村上春樹全作品1979-1989D
自作を語る「補足する物語群」
『カンガルー日和』に収められた作品は『トレフル』という雑誌に連載された。これは伊勢丹デパートの主催するサークルの雑誌で、その会員に毎月配られる。市販はされていないから、書店で手に入れることは不可能である。
『窓』は『バート・バカラックはお好き?』を加筆改題した。
『カンガルー日和』に収められた作品の中には、あとになって小説の中に引き取られていったものもいくつかある。たとえば『五月の海岸線』は『羊をめぐる冒険』の中に吸収された。『彼女の町と、彼女の緬羊』もやはり『羊をめぐる冒険』の原型となったが、この作品は『羊をめぐる冒険』の取材に北海道に行ったときに書いたものである。
『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』は、僕が満員の山手線の車中である広告ポスターを見かけたことが原型になっている。そのポスター(何の商品の広告だったのかどうしても思い出せない)のモデルになっていた女の子に、僕は理不尽なくらい激しく惹かれた。胸がいっぱいになって、脚が震えた。それは今思いおこしても本当に運命的な出会いだったのだ。それ以来彼女の写真を見かけたことは一度もない。
『サウスベイ・ストラット』は副題にもあるようにドゥービー・ブラザーズの曲のタイトルから取った。
『回転木馬のデッド・ヒート』のテーマは「聞き書き」だったが、今だから告白するけれど−全部創作である。これらの話には一切モデルはない。隅から隅まで僕のでっちあげである。僕がこの連載でやろうとしたことは、とてもはっきりしている。それはリアリズムの文章の訓練である。自分がどこまでリアリズムの文体で話を作っていけるか、というのが僕のそのときのテーマだった。
 このようなリアリズムの訓練の行きつく先は明らかに『ノルウェイの森』である。ぼくは言うなれば擬似リアリズムを様々な角度から反復し繰り返すことによって『ノルウェイの森』の下書きをしたのである。この訓練なしには、そして手応えなしには『ノルウェイの森』という小説は生まれなかったと思う。
村上春樹全作品1979-1989E
自作を語る「100パーセント・リアリズムへの挑戦」
僕が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書いたのは三十六の初めで、日本を出たのは三十七の終わりど頃だった。
『遠い太鼓』の中でも書いたことだけれど、『ノルウェイの森』一九八六年の末にギリシャのミコノス島で書き始め、翌年の春にローマで書き終えた。
『ノルウェイの森』を書くときに僕がやろうとしたことは三つある。まず第一に徹底したリアリズムの文体で書くこと、第二にセックスと死について徹底的に言及すること、第三に『風の歌を聴け』という小説の含んだ処女作的気恥ずかしさみたいなものを消去してしまう「反気恥ずかしさ」を正面に押し出すこと、である。
僕の考えるリアリズムというのは、まず簡易(コンヴェンショナルということではなくシンプル)でスピードがあること。文章は筋の流れを阻害せず、読者にそれほど多くの物理的・心理的要求をしないこと。感情というものはなるべく自立させず、あまり関係のないものにうまく付託すること。それが僕の設定した『ノルウェイの森』における文章的アクセスの概要であった。
『ノルウェイの森』というタイトルは最後の最後まで決まらなかった。選択肢としてはずっと存在していたのだが、あまりにもぴったりとはまりずぎているので僕としてはこれだけは避けたいと思っていたのだ。それからビートルズの曲のタイトルをそのまま借用するというのにも抵抗があった。でも僕の頭に染みついていて、他のどんな題もしっくりとは作品に馴染まなかった。最後に女房に読ませて、『ノルウェイの森』という題は教えずに「どういうタイトルがいいかな」と聞いたら、「『ノルウェイの森』でいいんじゃない」ということだったので、結局はこの題に落ちついた。
村上春樹全作品1979-1989F
自作を語る「羊男の物語を求めて」
『ダンス・ダンス・ダンス』は、『ノルウェイの森』を書いたのがその前年だから、僕の長編を書くいつものペースからすると、インターバルが異常に短い。これには幾つかの理由がある。ひとつには『ノルウェイの森』という小説はいつもの僕の作品とは基本的なラインがいささか違うものだし、なるべく早く本来の自分の場所に戻りたいという気持ちが強かったということがある。それから四十歳を迎える前にまとまった仕事をしておきたかったという気持ちもあった。
『ダンス・ダンス・ダンス』は『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』という三部作の延長線上にあるものである。というよりも、もう少しはっきり限定して言えば、『羊をめぐる冒険』の続編と言ったほうがいいかもしれない。
僕は三部作のあと『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書き『ノルウェイの森』を書いた。でもその二つを書いた時点で、僕はもう一度あの三部作の世界に戻ってみたくなったのだ。僕が『ダンス・ダンス・ダンス』という小説で本当に書きたかったのは、あの羊男のことだった。ある意味では、羊男はずっと僕の心の中に住んでいた。
僕は羊男を描くことによって、羊男というものの存在をなんとかもっと明確に規定したかったのだ。それはある意味では、僕が僕自身を発見することでもあったのだ。
想像すべきものをピンポイントで探し当て、それを正しいタイミングで結像させる能力、それこそが物語を作る力である。しち面倒くさい文章理論やら、うつろいやすい世間的評価やら、そんなこととは無関係に、作家にはーもちろんうまくいけばということだがーそういう種類のマジックを取り扱うことが可能なのだ。そしてそれをどの程度自在に扱えるかという力量の差こそあれ、そのマジックこそは、太鼓の時代の洞窟の奥に初めて仄かな輝きを発し、そしてそれ以降何千年にもわたって、無数の作家たちの手によって脈々と受け継がれてきた、物語という名の想像力の炎が作りだす影なのだ。
これは僕がワードプロセッサーを使って書いた最初の長編である。
村上春樹全作品1979-1989G
自作を語る「新たなる胎動」
『パン屋再襲撃』の六編は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の出版のあと、一九八五年の春から同年末にかけて書かれた。僕の短編はだいたい比較的短い期間にごそっとまとめて書かれている。長編で力を使い切って、そのあとしばらく休憩してほっと一息ついた頃に集中的に短編が書きたくなってくる。それを書き終えたあとにまたしばらく何もやりたくないという時期があって(そんな時期には主に翻訳の仕事をやっている。そういう意味では、翻訳というのは僕にとっては一種の文学的リハビリテーションの役割を果たしてもいる)、それからまたもう一度長編を書きたいという気持ちがふつふつと起こってくる。もちろんそのサイクルの回転に要する時間はその時その時によって違うけど、そのパターンのあり様はおおむね一定している。
僕の短編小説の師は三人いる。フィッツジェラルドから学んだものは(学ぼうとしたものは)読者の心を震わせる情感であり、カポーティから学んだものは(学ぼうとしたものは)唖然とするほどの文章の緻密さと気品であり、カーヴァーから学んだものは(学ぼうとしたものは)ストイックなまでの真摯さと、その独特のユーモアである。短編小説という形式は、もし非常にうまく書かれたならば、それだけのものを読者にきちんと伝えることができるのだ。
村上春樹全作品1990-2000@
解題
僕が1986年に日本を出て、ギリシャとイタリアに住むようになったのは、「とにかく面倒なことは抜きで、黙々と好きなだけ仕事をしたい」という強い気持ちが大きな動機になっている。
『ノルウェイの森』のすぐあとに、ほとんど時を置かず『ダンス・ダンス・ダンス』を書き始めたのには、なるべく早くもとの自分の世界に戻りたいというわりに切実な意味合いがあったからだ。僕としては『ノルウェイの森』の小説世界の余韻にいつまでものんびりと留まっていたくなかった。それは僕にとってむしろすみやかに通過され、乗り越えられるべきものだったのだ。
『ノルウェイの森』を百何十万部も売ったことで、僕は自分がひどく孤独になったような気がした。そのような落ち込みがおおよそ一年ばかり続いたあとで、最初に書きあげた短編小説が『TVピープル』だったと記憶している。そのあとまもなく『眠り』を書いた。『TVピープル』と『眠り』は僕の中では、対の作品のような印象がある。
短編『TVピープル』を書こうと思い立ったのは、テレビのMTVをぼんやり見ているときだった。ルー・リードの『オリジナル・ラップ』という歌のビデオ・クリップが流れていた。僕はソファに座って一人でぼんやりとそのビデオ・クリップを見ていたのだけれど、そのうちにとつぜん短編小説が書きたくなってきた。まるで頭の中で何かのスイッチが入ったみたいに、僕は立ち上がって机にむかった。そしてワードプロセッサーのキーをぱたぱたと叩き、ほとんど自動的にこの話を書いた。とくに何も考えずにすらすらと頭から書いていって、気がついたときには書き終えていた。
『TVピープル』と『眠り』は僕がこれまでに書いた短編小説の中でも、いちばん気に入っているもののふたつだ。もし僕が自分にとってのベスト・ストーリーズを集めた一冊を編むとしたら、この二作品はまず間違いなくその中に収録されるはずだ。
『我らの時代のフォークロア』は、部分的にしっくり馴染まない部分があり、よい機会なので少し手を入れて見ることにした。たぶんそのときは気持ちが前に突っ込みすぎていて、うまく筆がついてこなかったというところがあったのだろう。
『加納クレタ』は次の長編小説『ねじまき鳥クロニクル』に引き継がれていくことになる。これを書いたすぐあとで僕はヨーロッパ生活に終止符を打ち、帰国した。しかし結局うまく気持ちが落ちつかず、一年近くを日本で過ごしただけで、1991年1月にアメリカに移り住み、そこですぐに『ねじまき鳥クロニクル』の執筆にとりかかることになる。
『TVピープル』は位置的に見て、僕にとっては重要な意味を持つ短編集である。ここに収められた作品を書きながら僕は回復し、自分の本来のペースを取り戻し、次のステップに進む準備を整えていた。
『ホルン』から『ドーナツ、再び』までと『夜のくもざる』から『夜中の汽笛について、あるいは物語の効用について』までは、雑誌広告のために書かれた作品である。「メンズクラブ」のほか、いくつかの雑誌に同時掲載されたこともある。1985年4月号から1987年2月にかけて毎月続いた。そして本にまとめるにはあまりに分量が少なかったので「もう一度やろうじゃないか」ということになった。今度は雑誌『太陽』で、万年筆メーカー「パーカー」の広告として再開された。これが1993年4月から1995年3月まで続いた。そして『夜のくもざる』という一冊の本にまとめられた。
『使いみちのない風景』は、アントニオ・カルロス・ジョビンの”Useless Landscape”という題の曲にインスパイアされて、この文章を書いた。この曲自体も好きだが、タイトルの不思議なざわっとした感触に強く心惹かれるところがあった。収録にあたって、少し手を入れた。
『青が消える(Losing Blue)』は、1992年にスペインのセビリアで開催された万国博「EXPO’92」を特集する雑誌のために書かれたものである。
村上春樹全作品1990-2000A
解題「『国境の南、太陽の西』『スプートニクの恋人』中編小説の持つ意味」
僕がアメリカに渡ったのは1991年の2月のことで、それから1995年8月に至るまで四年半のあいだそこで暮らしていたわけだが、そのうちの最初の二年半はニュージャージー州プリンストンに居を構えていた。プリンストン大学から”visiting lecturer”という資格で招かれ、教職員用の「社宅」に住み、大学でたまに講義のようなものを受け持っていたわけだ。
プリンストンの住まいに落ち着くと、ほとんどすぐに長編小説の執筆にとりかかった(ちなみにこの作品から執筆にマッキントッシュ・コンピュータを使い始める。その前はいわゆる「ワープロ」を使っていた)。この小説のタイトルは最初から『ねじまき鳥クロニクル』と決まっていた。
『ねじまき鳥クロニクル』の原型(現行の小説の第一部と第二部)はおおよそ一年あまりで集中的に書き上げられたわけだが、その出来上がりについて僕としてはなにかしらしっくりとこないというか、いくぶん納得のいかないところがあった。妻に読ませて感想を聞いてみると「ひとつの本にするには多くの要素が盛り込まれすぎているのではないか」という趣旨の感想が返ってきた。それで二人で何度も作品を読み返し、具体的方策について長い時間をかけてディスカスした結果、三つばかりの章は除去したほうがいいだろうという結論に達した。その中には冒頭の一章(もちろん作品にとってとても大事な部分だ)も含まれていた。そうなると、そのあとの調整はかなりむずかしいものになる。多くの部分を取り替え、すべてのネジを締め直さなければならない。僕は頭を抱え込んでしまった。大がかりな暗礁に乗り上げ、本格的に落ち込んでしまったわけだ。僕のそんな様子を見て(あるいは見かねて)、妻は「じゃあ、とりあえず『ねじまき鳥クロニクル』の方はしばらくわきに置いておいて、その切り取った部分を使って、今あるものとはまったくべつの小説を書いてみればいいじゃない」とアドバイスしてくれた。たしかに問題を抱えた『ねじまき鳥クロニクル』の執筆をいったん仕切り直すためにも、集中してこの新しい物語を書いてみる価値はあるんじゃないかと思った。そういう経緯を考えれば、この『国境の南、太陽の西』の誕生は妻のサジェスチョンに負うところが多いということになるだろう。
『スプートニクの恋人』の出発点になったのは、原稿用紙にしてせいぜい一枚くらいの短い散文のスケッチだ。何に使うという目的もなくこの文章を書いた。たまにそういうことがある。ある日頭にふと、ひとつの個別的なイメージなり風景なりの言葉が浮かぶ。どこにも結びついていない。でもそれは僕に書き留められることを望んでいる(ように見える)。そういうとき僕はすぐに机に向かい、比較的短い時間ですらすらとそれを文章にしてしまう。この『スプートニクの恋人』という小説は、その短いアイデアなりイメージから始まったわけだ。すみれという若い女性が年上の女性に恋をする−僕はその断片をもとにして、物語をどんどん書き進めていった。つまり僕はそのスケッチを引き出しの中で一年間ゆっくりと眠らせ、ちょうどいい具合のいい頃合に取り出し、とても自然なかたちで物語を書き始めたのだということになると思う。
僕はこの小説のかなり多くの部分をハワイのカウアイ島で書いた。毎朝四時に起きて午前九時頃まで集中して仕事をした。
『スプートニクの恋人』を書くにあたってひとつはっきりと決意していたのは、自分がこれまで採用してきた―言い換えれば武器として使用してきた―ある種の文体に別れを告げようということだった。つまりそれは「比喩の氾濫」のようなものであったかもしれない。僕は『スプートニクの恋人』においては、とにかくそういう僕の文章の持ついくつかのレトリカルな特徴を、出せるだけ出し尽くしてしまおうと決意した。
村上春樹全作品1990-2000B短編集U
解題
短編集『レキシントンの幽霊』には、1990年に短編集『TVピープル』を発表してから、1991年の初めに長編小説『ねじまき鳥クロニクル』の執筆にかかるまでの一年ばかりのあいだに書かれた四編の短編小説と、1995年8月に『ねじまき鳥クロニクル・第3部』が刊行されたあとの時期に書かれた二編の短編小説が収められている。最後の『めくらやなぎと、眠る女』だけは例外で、これはどちらのグループにも属さない。若いころに書いた作品に大幅に手を入れたものだ。具体的には『七番目の男』と『レキシントンの幽霊』は『ねじまき鳥クロニクル』後に書かれたものであり、それ以外のものは『ねじまき鳥クロニクル』前に書かれている。
『ねじまき鳥クロニクル』にうまく盛り込めなかったり、あるいは馴染まなかったいくつかのマテリアルを、短編というかたちに仕上げていった。これらの作品には、大きな惑星のまわりを静かに、しかしそれぞれに興味深い軌道を描いてまわる衛星のような趣があると僕は感じる。
外国での生活から戻ってくると、日本経済はバブルでにぎわっていて、人々は憑かれたように金を使いまくっていた。そういう生活に違和感を感じないわけにはいかなかった。それでもう一度外国に出ることにした。ちょうどプリンストン大学から、客員のようなかたちで来ないかという誘いがあり、それに応じた。最初は二年くらいと思っていたが、結局マサチューセッツにも移り、四年半アメリカで暮らすことになった。
『レキシントンの幽霊』は「群像」のために書かれたものだが、雑誌の依頼には枚数制限があり、そこの掲載されたバージョンはここ(全作品)に収められたものよりいくらか短くなっている。
『めくらやなぎと、眠る女』は以前発表した『めくらやなぎと眠る女』を短く書き直したものでる。
1995年に神戸と芦屋で朗読会を行った。『めくらやなぎと眠る女』は一度に通読するのにはいささか長すぎたし、「今ならこうは書かないな」という部分もいくつかあったので、この機会に書き直すことにした。そしてその短くなったバージョンを、短編集『レキシントンの幽霊』に収めることにした。これは僕のいちばん好きな自作短編小説のひとつになっている。
『神の子どもたちはみな踊る』は、七月頃から書き始め、出版社の離れ家に何度かまとめて泊まり込んで、二ヵ月ほどかけて『UFOが釧路に降りる』『アイロンのある風景』『神の子どもたちはみな踊る』『タイランド』『かえるくん、東京を救う』の五編を書きあげた。比較的短期間だが、かなり集中して書いたと思う。書き上げたときにはへとへとになっていた。書くに当たって、フィクションの形式を使おうと決めていた。それも、短編小説の連作がいい。そして地震という題材を直接には取り扱わないことにしよう。物語の場所も神戸から遠く離れたところに設定しよう。その地震がもたらしたものを、できるだけ象徴的なかたちで描くことにしよう。つまりその出来事の本質を、様々な「べつのもの」に託して語るのだ。僕はそう決心した。
村上春樹全作品1990-2000C
解題『ねじまき鳥クロニクル』1
1991年、僕と妻は一年間ニュージャージー州にあるプリンストン大学に滞在する予定だった(結局途中で場所を変えて、全部で4年半もアメリカに住むことになったのだが)。
2月の初めにそこに到着し、生活に必要な最低限の家具や器具を揃え、役所をまわってソーシャル・セキュリティー・ナンバーと運転免許証を取り、銀行の口座を開いて小切手帳を作り、中古のホンダ・アコードを購入し、そのあとすぐに、たぶん3月の初めくらいに、机に向かって小説を書き始めたと記憶している。
小説の出だしに、以前に書いた短編小説『ねじまき鳥と火曜日の女たち』をもってくることは最初から予定していた。僕はときどきそういうことをやる。たとえば『ノルウェイの森』の最初の部分に、短編小説『螢』が使われているように。ある種の短編は、書き上げられて発表されたあとに、僕の心の中に不思議な残り方をする。それは種子のように僕という土壌に落ちつき、地中に根をのばし、やがて小さな芽を出していく。それは長編小説になることを求め、待っているのだ。僕はそういう気配を感じ取ることができる。
プリンストンにおける僕の日常生活はシンプルというか、代わり映えしないというか、きわめて規則正しいものだった。だいたい朝の四時から五時のあいだに起きて、暗いうちから集中して仕事をする。コーヒーを作って飲み、机に向かって何ページかを書く。僕はそのころはまだパソコンではなく、富士通のワードプロセッサーを使っていた。そして九時頃までずっと休みなく仕事をし、それからあとは近所を散歩したり、運動をしたりした。当時はずいぶん熱心にランニングをしていた。一日に10キロから15キロ走り、それから大学のプールに行って泳いだ。とにかくその頃は、身体を鍛え、集中して小説を書く、ただそれだけを考えて日々を送っていたような気がする。
東洋学科の図書館で何か面白そうなものはないかと、歴史書の棚をあれこれ探しているうちに、1939年のいわゆる「ノモンハン事件」について書かれた書物がけっこうたくさん揃っていることを発見した。実を言うと、僕は子どもの頃から、モンゴルと満州との国境線をめぐって、関東軍とソ連軍とのあいだに繰り広げられたこの短く血なまぐさい局地戦に、不思議なほど強い関心を抱いていた。そして僕はそれらの本を手にとり、熱心に読みふけることになった。そしてそれらの本を読んでいるうちに、これこそが自分の求めていた題材なのだということに思い当たった。それは奇妙で残酷な戦いだった。どちらも勝たなかったし、どちらも負けなかった。大量の軍隊と兵器が投入され、多くの兵士が命を落とし、結局は政治決断によって、すべてが曖昧なままに戦いは終わってしまった。本を書き上げたあとで僕は実際にノモンハンを訪れ、その光景を目の前にすることになる。
『ねじまき鳥クロニクル』の主人公には強い意志がある。積極性、あるいは闘争性は、この作品の全編を通して流れていると思う。というか、そのようなはっきりした前向きの意志をなくしては、これだけの長丁場の物語を乗り切ることは不可能だった。
究極的なことを言えば、僕は世界の混沌をそのまますっぽりと呑みこんで、しかもそこにはひとつの明確な方向性を示唆するような、巨大な「総合小説」を書いてみたいのだ。それが作家としての僕の大きな目標である。そのためには僕は、自分という殻を少しずつでも破っていかなくてはならない。僕の抱える(人間としての、作家としての)限界を、少しずつでも向こう側に押し広げていかなくてはならない。
村上春樹全作品1990-2000D
解題『ねじまき鳥クロニクル』2
『国境の南、太陽の西』はそれほど長い小説ではなかったので、集中して約三ヵ月ほどで書き上げることができた。
一息入れたあと、『ねじまき鳥クロニクル』の改修作業は順調に進んだ。僕はわき目もふらずにその小説を書き続け、その年の初夏に新しい稿をいちおう完成させた。現在ある『ねじまき鳥クロニクル』第1部「泥棒かささぎ編」、第2部「予言する鳥編」の原型に相当するものである。最初のあいだは決まった朝の時間にだけ書いていたのだが、それだけでは収まりきらなくなり、そのうちに一日の大半を執筆に費やすことになった。
まとまったかたちになった原稿を頭から書き直し、また頭から書き直しという作業が何度か続けてある。書き直すごとに書き直しの幅はだんだん小さくなってくる。そしてそのあとに作品を一定期間寝かせるという時期(いわゆる養生期間)が必要になってくる。ぼくは思うのだけれど、長編作家にとって大事な資質のひとつは、どれだけじっと我慢して作品を寝かせられるかということではあるまいか。
できあがった原稿をそのまま本のかたちにするのではなく、文芸誌『新潮』で雑誌連載してもらうことにした。1200枚ばかりの小説の前半部(第1部)を連載で発表し、後半部(第2部)を書き下ろしのかたちで出すというのが僕の希望であった。理由のひとつは、最終的な発表までに時間をかけるためだった。全部でおおよそ一年間の連載になるし、そのあいだ急がず慌てず、心ゆくまで作品に手を入れることができる。
連載を続けているあいだに、大学でクラスをひとつ受けもった。二年続けてプリンストンに滞在するためには、「客員教授」という肩書きを持たなくてはならなかったし、そうなると少なくとも一学期はクラスを担当しなくてはならなかった。ちょうど長編の仕事が一段落した時期だったし、そのあいだに責務を果たしておくことにした。
アメリカの大学で講義をするのは生半可なことではなく、一週間に90分のクラスがふたこまなのだが、その準備のために一週間のほとんどを費やすことになった。おかげでくたくたにはなったが、「第三の新人」の六人の作家たちの主要作品のほとんどを図書館にかよって読破してしまったし、それは僕自身の勉強にもなった。
ちょうど『ねじまき鳥クロニクル』第1部の雑誌連載が終了するころに、僕はプリンストン大学での2年半にわたる滞在を終え(それがプリンストン大学に「客」として滞在できる限度だった)、今度はマサチューセッツ州のタフツ大学に移ることになった。ボストン近郊のケンブリッジの街に感じのいい貸間をみつけ、そこに新しい生活の拠点をつくった。
『ねじまき鳥クロニクル』は第1部・第2部という構成で、単行本として1994年の春に刊行された。最初の一行を書き始めてから、本が出るまでに結局三年を要したことになる。
第1部・第2部を刊行したあとほどなく、僕の中にひとつの疑問が生まれ、それがだんだん大きく膨らんでいった。僕は自分の書きたいものを『ねじまき鳥クロニクル』という小説の中で本当にすべてを書ききったのだろうか? それが僕の疑問だった。いや、書ききってはいない、と僕は感じた。小説は完成されたのではなく、ただ単にひとつの段階を終了しただけなのだ。
アメリカ滞在中は、招待を受けて各地の大学を訪れた。あるときにはカリフォルニアのバークレーに行って、カリフォルニア大学で一ヵ月ばかりの短期のクラスに参加した。僕の作品をとりあげるセミナーだった。オースティンのテキサス州立大学や、ダートマス大学や、実にいろんなところに行った。ハーヴァード大学(ケンブリッジにある)には僕の翻訳をしているジェイ・ルービンがたまたま教授として赴任してきたので、ご近所どうしとして親しくつきあうことになった。
アメリカに長く住んだ収穫のもうひとつは、早い時期に文芸エージェントと出版社をみつけられたことだった。知人の紹介もあって文芸エージェントであるアマンダ・アーバンと会って契約を結び、またクノップフ(ランダムハウス)の編集者ゲイリー・フィスケット・ジョンとともに仕事をすることになった。二人はニューヨークの出版界ではトップクラスの人材であり、彼らと個人的な親交を結べたことは、僕にとって大きな財産になった。
僕が『ねじまき鳥クロニクル』第3部を書き始めたのは、たぶん93年の末ごろだったのではないかと思われる。夏にケンブリッジの家に落ち着いて、一服して態勢を整え、それから執筆にかかったような気がする。おおよそ一年かけて第3部を書き、完成稿を出版社に送ったのは翌年4月のことだ。
第1部と第2部を書き終えた時点では、第3部を書く予定は僕の頭の中にはまったくなかったので、結果的に第2部の終わりと第3部の始めとのあいだに、いくぶんそぐわない部分、つながりの悪い部分が生まれることになった。文庫本ではその周辺にいくらかの調整がほどこされているが、単行本ではオリジナルのままになっている。
第3部の執筆は、もうワードプロセッサーではなく、マッキントッシュ・コンピュータを使って原稿を書いていた。朝はやはり四時か五時に起きて、小さな音でバロック音楽を聴きながら仕事をした。
考えてみれば、僕は『ねじまき鳥クロニクル』という長大な小説を書きあげるために、アメリカに4年半住んだようなものだった。アメリカでの生活を思い出すと、そこには多かれ少なかれ『ねじまき鳥クロニクル』の影がある。『ねじまき鳥クロニクル』第3部「鳥刺し男編」は1995年の夏に出版された。
村上春樹全作品1990-2000E
解題『アンダーグラウンド』
1995年夏にアメリカ暮らしを切り上げて帰国し、新しい場所に落ち着き、新しい生活を始め、それから「自分が今、何をやるべきか」ということについて腰を据えて考えてみた。そして秋頃に講談社の文芸局の、懇意にしている何人かの人々と会って、「地下鉄サリンガス事件についてのノンフィクションのようなものを書きたい」という希望を伝え、こころよく受け入れられた。さっそくチームが形成され、チームとしての集まりが何度かもたれ、基本的なフォーマットが作られ、すぐに作業が開始された。最初のインタビューが行われたのが1995年の12月で、すべての原稿を書き終えたのが1997年の1月、3月20日の地下鉄サリンガス事件二周年の前に、なんとか本のかたちにすることができた。
この本に関して何よりもいちばん鮮やかに記憶しているのは、9月のある日の午後の出来事だ。その日は暑くて、よく晴れていた。僕はそのとき、生まれてこのかたこんなにたくさんの涙を流したことはないというくらい泣いた。このまま涙が出つづけたら身体中の水分がなくなってしまうんじゃないか、という気がふとしたくらいだった。
それは和田嘉子さんのインタビューをした帰りだった。彼女はインタビューの申し込みに応じてくれた、ただ一人のサリンガス事件犠牲者の遺族だった。
彼女は、語っているその二時間近くのあいだ、一度も涙をこぼさなかった。しかし話が終わりかけた頃に、緊張が切れたのか、「もう、泣いてもいいですよね」と言って、ひとしきり涙を流された。切ない一瞬だったが、それでも僕は泣かなかった。
涙は、一人になって電車に乗り込んで、座席に座ったあとで急にやってきた。どうしても、何をしても、その涙を止めることはできなかった。そして長い時間をかけて泣き終え、電車を降りて駅のホームに立ったとき、自分の中で何かが変わってしまったという気がした。いったん自分が空っぽになってしまったような感じだった。まわりにある日常が、もう前の日常ではなくなってしまったような気がした。この本を手に取るたびにまずよみがえってくるのは、そのときの気持ちだ。
『アンダーグラウンド』という本を書くことは結果的に、自分自身の精神的アジャストメント(調整)のための重要な作業にもなった。僕は長期間にわたる海外での生活から日本に帰ってきて、精神的な仕切直しのようなものを必要としていた。今にして思えばと言うことだが、僕はこの取材を通じて日本の社会に生きている「普通の人々」に会いたかったのだと思う。そして彼らの話を心ゆくまで聞きたかったのだと思う。その物語にしっかりと身を浸してみたかったのだと思う。結果として、「日本という国の中で生きる作家」としての視座をより広げ、より深めていくことができたと思う。
村上春樹全作品1990-2000F
解題『約束された場所で』『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』
僕はカルト教団というのは、それが設定した独自の物語性の中に不特定多数の人々を引きずり込み、出口をふさいでそこに留め、その上でじわじわと自我を撤収していく、閉鎖的なシステムであると、一般的に捉えている。きわめて危険な、あるいはきわめて危険化する可能性に満ちたシステムである。
そのような物語のインスタント完結性に対抗できるものは、論理ではなく、知識でも道徳でもなく、「べつの物語性」でしかないと考えている。べつの「開放された」物語性だ。
そんなことを深く考えていくうちに、今度はカルト内部にいる人々に、あるいはまたかつてカルト内部にいた人々に、『アンダーグラウンド』で被害者におこなったのと同じような手法でインタビューをしてみたらどうだろう、という気持が僕の中で次第に強くなっていった。
本来この本は『アンダーグラウンド』の続編として、同じ講談社で仕事を進めるはずだったのだが、同社内で大幅な人事異動があり、『アンダーグラウンド』のときと同じチームを組むことが不可能になったので、やむを得ず媒体を文藝春秋に移すことになった。
僕が河合氏と初めて本格的に長時間語り合ったのは1995年11月のことであり、それは雑誌「世界」に掲載され、のちに少しかたちを変えて1996年『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』という単行本になったわけだが、1997年には発売されたばかりの『アンダーグラウンド』を巡ってのまとまった会話があり、1998年には雑誌連載を終えたばかりの『約束された場所で』を巡る会話があった。この二度の会話は、単行本『約束された場所で』の巻末に併せて収録されている。また同98年の末には、広島市でおこなわれた心理療法士の全国会議において、河合氏と公開対談をおこなった。
僕自身は、自分がどうしてオウムがらみの非フィクションの仕事をするのか、本能的に、直感的にはつかんでいたと思う。僕はもともと、自慢ではないけれど、論理や解析に基づいて整合的に仕事を進めていくタイプではない。本能的に「これが正しい」と感じたことを、まわりの思惑とは無関係に、一人で夢中になってどんどん突っ込んで推し進めて行ってしまう。いちいち細かく他人に説明するよりは、自分の勘に従って、黙って前に進んでいく。
河合隼雄さんには、最初に会ったときから、何かとくべつなものを感じた。普通の相手なら10まで説明しなくてはならないところを、だいたい3くらいですっと受け入れてもらえるという実感があった。
僕はこれまでにカール・ユングの著書を読んだことは一度もないし、ユングに関する本もほとんど読んだことはない。
これまでいろんな人と小説について語り合ってきて、どうしてもうまく繋がらなかった「もやもやとした」部分が、文学プロパーではない河合さんと語り合うことによって、だんだん浮き彫りになり、明確化してきたということもある。
河合さんと出会うことによって、より立体的で、よりクリアな展望を持って、より穏やかな顔つきで、前に進んでいけるようになった。そしてまた、時間はずいぶんかかるかもしれないけれど、自分の世界観や方法を他人に伝えることは決して不可能ではないのだ、という気持を持つことができるようになった。
代表質問 16のインタビュー
柴田元幸「村上さんの場合、短篇と長篇が有機的につながっていることが多いですよね。たとえば「街と、その不確かな壁」が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に結びついていたり、「蛍」が『ノルウェイの森』に発展してつながっていたり、それからそれとは逆に『1973のピンボール』という長篇が「双子と沈んだ太陽」という短篇を生みおとしていたり。」
村上「そうですね。両方ありますね。」(P87)
僕の書いた短篇で別のヴァージョンがあるのは「中国行きのスロウ・ボート」くらいじゃないかな。雑誌にに載ったヴァージョンと単行本のヴァージョンとではちょっとだけだけど、違うんです。(P99)
Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち
村上は、これまでルービンの訳書に、芥川龍之介の短編小説選集と夏目漱石の『三四郎』と『坑夫』の新装版、と三度にわたりまえがきを寄せている。(P282)
(スタンフォード大学出版会から出版された『坑夫』は)二〇一五年には村上による序文付きに改訳までが刊行されることになる。(P293)
(『ねじまき鳥クロニクル』がクノップフから出版される際)ルービンが行った削除と変更の大部分は、第二部の終盤と第三部の冒頭に当たる。(P315)
読売新聞 1989年10月24日夕刊「米紙ニューヨーク・タイムズ、村上春樹氏を絶賛」
読売新聞 1990年10月25日「読書の秋、いま英語本が売れてます 日本の文学訳したものも人気」
日本経済新聞 1990年1月14日 「村上作品の英訳(ぶっくエンド)」
朝日新聞 1989年11月13日夕刊 「村上春樹『羊をめぐる冒険』米国で出版、国際性に高い評価」
「チップ・キッドの仕事」『COYOTE』特別編集号 2013年
MONKEY vol.7 2015
P252 『新潮』1992年10月号〜1993年8月号にかけて『ねじまき鳥クロニクル』三部作の第一部と二部が連載→間違い。連載は一部のみ。
朝日新聞 2001年7月16日「作家・村上春樹の人気、英でじわり特装本刊行も」
読売新聞2000年3月18日 オウム事件被害者の日記
読売新聞2009年6月17日 『1Q84』は、10歳で出会って離れ離れになった30歳の男女が、互いを探し求める話にしよう、そんな単純な話をできるだけ長く複雑にしてやろうとした。2006年秋、ハワイに滞在中に書き始めた時点で頭にあったのはそれだけ。
村上龍との対談「一九八〇年の透明感覚」(小説現代1980年12月号)
・(『風の歌を聴け』を書いた頃の話)松岡が中日を完封して、優勝が決まったころに書き終わって、神宮前郵便局へ持ってって応募したんですよね。
・(店を出すときの話)銀行へ行って借りて、借金返す。借りるとき、「事業計画書」って部厚いの書かないと、貸してくれないのね。それでもダメだから、熱烈に口説くわけ。
・(千駄ヶ谷に店を移すときの話)国分寺の店を売っ払って、また二千万ぐらい借金してね。それを返してるところですよ。やっぱり、借金が人生のエネルギー源みたいな気がするのね。
・学生時代、独り暮しのときは、ぼくは、まったく経済観念なかったんですよ。仕送りなんか、一月分を一週間ぐらいで遣っちゃう。金ないでしょう。今の女房に頼みに行くわけね。それが積もり積もって、四、五万になったのかな。返せっていわれても返せない。じゃ結婚しよう、って(笑)。借金で結婚したようなもんですよ。そのあとも店出して、もう、借金のない人生なんて考えられないですね(笑)。
「フィッツジェラルドについて」雑誌記事
フィッツジェラルドの作品に出会った頃、僕はその中に明確な一つのメッセージを読み取ることができた。「何故私は書くのだろう?」それが彼のメッセージだった。
「翻訳することと、翻訳されること」雑誌記事
すぐれた翻訳にいちばん必要とされるものはおそらく語学力だけれど、それに劣らず必要なものは個人的な偏見に満ちた愛だと思う。極端に言ってしまえば、それさえあれば、あとは何もいらないと、僕は思う。
「嘘の歌、ほんとうの歌」日刊アルバイトニュース1982年8月
大学時代、よくひとり旅をした。親切な土地とそうじゃない土地がはっきりしているのがおもしろかった。自民党の強い地盤はみんな親切。奈良県と石川県と北海道はよかった。京都は不親切だった。
2020年8月29日 読売新聞インタビュー
『ダンス・ダンス・ダンス』は、まず題が決まった。題が決まると小説全体のある種のイメージができてきます。
1年浪人して早稲田大に合格しましたが、地元の関西に残るつもりでした。でも、入学金振り込みの締め切り当日、早稲田に進学を決めました。「当時のガールフレンドが怒るし、大変だったね」(2020年8月29日 読売新聞インタビュー)
「友よ、違う、この『ドゥードゥリン』ではない」 エスクァイア日本版 別冊 1990年7月
7年ぐらいジャズを商売にして生きていたことがある。そのときはジャズ以外の音楽はほとんど聴かなかった。その前の何年かは輸入レコード屋でジャズ・レコードを専門に売るアルバイトをしていた。その前の何年かはジャズ喫茶にアルバイトをしていた。水道橋の駅の近くにあった「スイング」というトラディショナル・ジャズ専門の店だった。ジャズの響きの中にすっぽりと身を浸していたわけだ。18歳から33歳までの長く深い15年間である。しかしそのあと、あるとき気づいた。ジャズは僕の人生のあるひとつの段階として、既に終わってしまったことだったのだ。
14歳のときにジャズを初めて聴いたとき、背骨のとなりにある小さな筋肉が本当にびくびくと震えたのだ。そんな筋肉が自分の体の中にあるなんて、僕はそのときまでまったく気づかなかった。そのようにしてジャズと邂逅した。14歳のときに。
メンズクラブ1982年12月「僕は今禁煙中である」 毎日60本吸っていたのはキャビン
季刊アート1981年SUMMER「往復書簡」(村上春樹⇔佐々木マキ)〜京都に着くと三島亭ですきやきを食べる
宝島、1981年11月号
・好きなマンガ・・・ 「じゃリンコチエ」
・行きつけのバー ・・・新宿のジャズバー「オールドブラインドキャット」、新宿「DUG」、ホテルニューグランドのバー。
・このあいだ吉行淳之介の作品をまとめて読んだ。『夕暮れまで』がとてもおもしろかった。あと『暗室』。
宝島、1983年11月号
・谷崎潤一郎の『細雪』が好き。
・卒業論文は「アメリカ映画における旅の思想」
ハイファッション 1984年12月
万年筆はモンブランの149。インクはペリカンのロイヤル・ブルー。原稿用紙は北斗舎の四〇〇字詰め(昔は紀伊国屋のK1)。机はイタリアから仕入れたくるみの大型テーブルで、厚さは七センチ。が好き。
小説現代 1986年2月号「走る音楽・走らない音楽」
・今月は突然の引越し。
・忙しいがレコードは聴いている。ジョン・クーガー・メレンキャンプ「スケアクロウ」、
・クラシックではジョン・ウィリアムズ「バロック・ギター・コンチェルト集」
・11月6日にピアニスト河合悦子のコンサートに行ってきた。彼女はピーター・キャットでアルバイトをしていた。
&and「僕がいた場所」〜ニュージャージー州プリンストン
「1991年の始めから2年半の間、ニュージャージー州プリンストンの町に住んでいた。そこにはプリンストン大学があって、僕は「東洋学科」に所属し、ときどき日本文学についてのクラスを受け持っていた。僕と奥さんは、大学の近くにある、教職員用の家具付きの小さなタウンハウスに落ち着くことになった」