日時計の銘について
      Sundial Mottoes


 欧米の日時計には、日時計面や台座に時の流れと人との関わりを伺わせる銘を入れることは珍しくない。多くは古くから伝わる出典不明の詩や寓言の類である。聖書や詩集など古典からの引用、ときには日時計作者や依頼者の創作であったりするかも知れない。

(聖書の言葉) 古典は時を超えて
 以前、本誌に「ドイツの日時計」という記事を三回に分けて掲載していただいたとき、第3回目に左下の写真を掲げて、日時計の銘をご紹介したことがあった。 "Tausend yahre sind vor dir wie der tag der gestern vergangen ist." 「主の御目のもと、千載も昨日過ぎし日のごとし。」 (旧約聖書詩篇90-4)。同じ箇所は、欽定英訳聖書(King James Version)では次の如くである。"For a thousand years in thy sight are but as yesterday when it is past." 17世紀以降の文章の規範となった聖書英語だが、読み辛くはない。
 同じような趣旨だが、次の銘は余りによく知られた一文である。 "There is no new thing under the sun." 「太陽のもと、新しきものなし。」 (旧約聖書伝道の書1-9)。 欽定英訳の伝導の書は、かって全文を暗記しようなどという無謀を試みただけに私には懐かしい。要らざる講釈と承知の上だが、自然の悠々たる営みに比し己が身の愚かさを悟れといったところか。

          
              ミュンヘンの日時計                    ニヨンの日時計
              筆者撮影              Les Cadrans Solaires Vaudois の写真 から引用

(ニヨンの日時計) 己の時を生きよと
 私がもっとも衝撃を覚えたのは次の銘である。"Qui trop me regarde perd son temps." 「私を見つめすぎる人は、己の時を失う」 ユンガーの「砂時計の書」(註1)紹介されているものだが、スイス、ニヨン(Nyon)の市庁舎の壁にある日時計(右上)に刻まれている。機会があればぜひ見たいのだがまだ実現できないでいる。これは日々、時の経過に追われた生活を余儀なくされている我々への強い警告であろう。当たり前に生き大過なく我が子たちをこの世に送り出すのも、人の営みとしてそれはそれで立派であり困難なことだが、それでもやはり、さらに生きた証しをこの世に残したいと思うのが、多くの人の偽らざる本心であろう。この銘から、己の時を生きよとの励ましの声が聞こえるような気がするが、如何であろうか。
 この書では、日本の遊郭の花代を線香代と称したことを紹介している。ご存じの方が多いと思うが、接客の時間を計る単位に一本の線香が燃え尽きる時間を用いたことに由来する。油、蝋燭、薫香などは、残量を計ることで計時用具となる。これらは火時計として古くから洋の東西を問わず用いられてきた。 ここでは「この(線香代)ような優美な表現はわたしたち西欧の野蛮人にはとうてい真似のできないことである。」(p.50)とあり、親日家ユンガーのナチスドイツへの苦い思いを見ることができる。地球に守られて生きながらえているにも拘わらず「地球に優しい」などとは僭越の限りである。もはや我々も野蛮人にすぎない。

(英語の詩) 悠久の時の流れに
 イギリスで発行された日時計の銘のみを集めた本が2冊ある。次の詩は、何れにも掲載されているところを見ると、日時計の銘として英語圏ではかなり知られているのであろう。拙訳で申し訳ないが。
  "Hours fly. Flowers die. New days. New ways. Pass by. Love stays"  
   「ときはさりゆき。はなはかれゆく。あたらしきひび。あたらしきみち。すぎさりゆきて。あいはとまりぬ。」(註2)
 この詩には時の流れをゆったりと見つめた静けさを感じることができる。ありふれた言葉の連なりの向こうに、様々な景色が見える。

(バーゼル歴史博物館) 神の怒りを思え
 次の銘は己が身に強く迫って来る。 "Die Zeit get hin - har kombt der Tod. O Mensch betrachte und fercht Gott"(註3)「時は去りゆき死は忍び寄る。人よそのことを思えそして神を恐れよ。」 スイス、バーゼルの歴史博物館(Basel, Historisches Museum)、小さなステンドグラス製の日時計(15p径, 1731年)に描かれた言葉、古ドイツ語である。この秋(2001年)予定の北イタリア行きを腰痛のため断念した。北イタリアからスイスはまさに指呼の間にあるといってよく、いずれ行かねばなるまい。この日時計は室内からみて時計回りに、時刻の読みとりができるようになっている。この銘から「神の怒り」を思う。人の営みはもはや神の怒りに触れるところに来ているのではないか。やがて人は滅びる、しかし他の生命の営みは続く。数十億年という地球の営みの終焉などは、さらに悠久の彼方である。

(果てなき宇宙) 人間この不可思議なる存在
 日時計の銘に思いを寄せるとき、天文家の方々が天文を志す内なる衝動とは一体何だろうかと考えることがある。我々は、何処より来て何処へ行こうとしているのか。この謎は、決して明きらかになることはない。宇宙の神秘の扉を開いたと思った途端、新たな神秘の扉が行く手を阻むからである。それでもなお我々は扉を叩いて止まない。それにしても、我々は宇宙に比して何と微少な無にも等しい存在であろう。しかし無にも等しい我々は宇宙全体を己の想念の中に閉じこめることができる。我々の存在は無であり、我々の想念は無限である。この不思議さは例えようがない。 
 心を打つ銘に出会うと深く沈むような思いに囚われることがある。太陽は天空を果てもなく巡るが、己の生には限りがあることを思い知らされるからである。日時計の銘ではないが、終わりに。 「また一日がをはるとしてすこし夕焼けて」 (山頭火句集、孤寒)


(註1)Ernst Junger 今村孝訳「砂時計の書」p.245 人文書院 1979
(註2)Alhred H. Hyatt, A Book of Sundial Mottoes, p.92, Philip Wellby London, 1903
   Warrington Hogg, The Book of old Sundials & their Mottoes, p, 89, Foulis London, 1922
(註3)Deutsche Gesellschaft fur Chronometrie発行の日時計カタログ"Sonnenuhren Deutschland und Schweiz" 1994, DGC7485, に所載


本文は東亜天文学会会報誌「天界」2002年1月号に掲載されたものです。図版を一部省略しました。

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