笠田新田刻限日影石(2)
The Time-mark Stone in Kasada-Shinden(2)


1)はじめに
 三重県員弁町の「刻限日影石」について、東亜天文学会会誌「天界」2000年2月号に山口県の松村巧氏の記事が掲載されました。私は隣県に在住しており比較的近いことから、早速現地を訪れ報告を同誌に送り、2000年6月号に掲載していただきました。松村氏からは私の報告についてお手紙を頂戴し、貴重な示唆をいただいています。その後二度現地へ赴き、その内一度は本会会長の後藤晶男氏に同道をお願いしました。ここではそれらの調査で判明したことに加えて、さらに詳細な紹介を試みたいと思います。

2)日影石の風景
 員弁町の笠田大溜に通じる旧道の路傍に、小高い山を背に苔むした石柱が白く低い塀に囲まれひっそりと立っています。何気なく通り過ぎる人にとって、由緒ある古いお墓か道標のように見えるかも知れません。如何にも堅固な保存工事が施されており、遺跡としての存在を誇示しています。石柱の後ろには円弧状の彫り込みが入った石が、石柱と向かい合って横たわっており、その彫り込みは真円の一部であることを見て取ることができます。石柱の正面は「刻限日影石」と刻印されていますが説明板はありません。すぐ近くに鋼鉄製の水門があり、そこから用水が三流に分かれ、さらにその向こうには、笠田大溜の堰堤が小高くそびえています(写真1)。西向かいには鈴鹿の山々の連なりがよく見え、広々とした景色を楽しむことができます。

         
                 写真 1                               写真  2

 日影石は石柱と通称三日月石と言われる請石から成っており、図1の示す通りの位置にあります。日影石の正面は「刻限日影石」(写真3)、その裏面は「弘化四丁未年五月」(1847年6月)。日影石の左右の側面はそれぞれ、「従七つ半時 日之出迄 笠田新田」(写真2)、「従日之出 七つ半時迄 大泉新田」(写真1) と印され、水の配分時刻を示しているとされています。

       
      写真 3 保存工事前                 図 1 石柱と請石の位置関係(長さの単位p) 

3)日影石の歴史
 員弁町史(註1)によると、笠田大溜は前身を野間池と称し、第五代桑名藩主松平定綱候の時代に築造に取りかかり、寛永15年(1638)に完成しました。その後の開田により寛永18年(1641)に大泉新田が新村として発足し、さらに慶安3年(1650)には笠田新田が新村として発足しました。以後新規開田の田畑が増えるにつれて、大泉新田と笠田新田の水論(水争い)がしばしば起こるようになりました。それまでは明六つ、暮六つの時刻を基準として昼間取水と夜間取水をしていましたが、分水時刻の判定をめぐる争いが絶えることはありませんでした。弘化3年(1846)に起きた水論も分水時刻をめぐる争いで双方譲らず、ようやく翌弘化4年(1847)分水時刻を大泉新田は日の出から七つ半まで、笠田新田は七つ半から日の出までとして和解が成立し、七つ半を示すために大泉新田庄屋懸野松右衛門の発案になる刻限日影石が藩庁の裁可を得て建立されました。これによって以後水論に終止符を打ったと伝えられています。

4)計算表について
 この報告は、現地における日の出時刻と、七つ半とされる日影石の示す時刻を明らかにすることが目的です。なお、江戸時代の不定時法では、昼夜を分かつ基準である明六つ・暮六つは日の出・日の入の時刻のことではありません。明六つは日の出前の薄明が始まった時(およそ日の出の36分前)、暮六つは日の入後の薄明が終わった時(およそ日の入の36分後)を指しています(註2)。ここでは基準となる明六つ・暮六つは寛政暦(1798年)以降の定義に従って太陽中心の俯角が7度21分40秒に達した時刻として計算しました。計算表には、日の出・日影石・七つ半の時刻と、日の出から日影石の示す時刻までの時間・明六つから暮六つまでの時間を示しました。

@)石柱と請石の位置関係
 石柱と請石の建立時の原位置が、現在に至るまで正しく保持されて来たかどうかは不明です。しかし請石の彫り込みがA点を中心にしてほぼ円弧を描いていることや、図のような微妙な位置関係にあることが、かえって建立時の位置関係から大きく変化していない証左のように思われます。石柱の先端A'は風化で角が崩れており、計算は角があることを想定した現在の位置関係に基づいて(AA'=38p、AC=187pとして)すすめました。
 図1に石柱と請石の方位の位置関係を示しました。方位測定によると、図のように請石の中点C’からAの方向は方位117度(南を0度、西回りを正の向きとしたとき)、当時の夏至の日没方位119.13度にほぼ近い方向です。

A)暦日と二十四節気
 江戸時代の暦法は太陰太陽暦であって毎月の経過は太陰(月)の満ち欠けに基づいていましたが、暦面上には太陽暦の指標である二十四節気が記載されており農業を営む基準となっていました。ここでは、農業と季節との関わりを示す必要があることから、二十四節気に対応する現行のグレゴリオ暦日を示しました。計算表は建立時の弘化四年(1847)の黄道傾斜角として、23.46度を採用しました。二十四節気の太陽黄経の値は、天保暦(1844年)より採用された定気法、すなわち春分点を基準にして黄道を15度毎に24等分した値を用い、二十四節気のうち用水が必要と考えられる時期の芒種から秋分までの間と冬至について時刻を試算しました。

B)日影石が示す七つ半
 七つ半については石柱の影が請石に印されたときと伝えられています。太田氏は石柱の一角のA点を中心として請石に円弧が描かれていることから、石柱の先端A点の影が請石の円弧に達する時刻をもって七つ半としたと結論づけられました。計算表Eの日影石の示す時刻はこれによっています。
 太陽は面光源ですから、光が全く届かない本影との境界に光が部分的に届く半影を生じます。石柱から請石に達するときの太陽光の入射高度は低く、半影の先端から本影の先端までの長さはこの場合およそ8pになります。実際に太陽光の影をいろいろ角度を変えて確かめてみましたが、このように長い半影は、影として認めることは難しく、計算表の時刻は先端A点の本影が請石の円弧に達する時刻としました。さらに大気差を考慮した結果(地心視差は微小)、日没前の太陽中心の仰角が11.15度に達した時刻として計算しました。
 日影石の示す時刻は七つ半を指しているわけではありませんが、七つ半に近い時刻を指しています。

C)日の出時刻
 日影石の東側には小高い山があり日の出を視認することはできません。言い伝えによれば、広く開けている西向かいの1000メートル級の鈴鹿山脈の稜線が赤く染まるときを日の出の時刻としたということです。用水が必要とされる時期は、ちょうど2000メートル級の南アルプスの高低のある山々の稜線から太陽が昇ってくる頃です。そのため日の出によって赤く染まる時刻を正確に求めるのは難しく、この場合その必要もないと思われます。計算表では太陽中心が地平に至る時刻を大気差補正なしで日の出時刻として掲げることとしました。


  笠田新田刻限日影石計算表   所在地:三重県員弁郡員弁町笠田新田字猿が堂
           基準経緯度:北緯35度8分 東経136度31分

 @
二十四
節気
   A
 現行暦
  日付
 B
太陽
黄経
 C
 太陽
 赤緯
 D
日の出
 時刻
  E
日影石
時刻
  F
七つ半
時刻
    G
日の出〜日影石 
     H
 明六つ〜暮六つ
   I
伊勢暦記載
明六つ〜
暮六つ刻数
 時間  百分比  時間  百分比
 芒種 6/5, 6  75 +22.62  4:52 18:09 18:32 13:17 55.35 15:41 65.35  65刻余
 夏至 6/20, 21  90 +23.46  4:49 18:11 18:35 13:22 55.70 15:47 65.76  65刻半余
 小暑 7/7, 8 105 +22.62  4:52 18:09 18:32 13:17 55.35 15:41 65.35  65刻余
 大暑 7/22, 23 120 +20.17  5:00 18:02 18:24 13:02 54.31 15:21 63.96  64
 立秋 8/7, 8 135 +16.35  5:12 17:51 18:12 12:39 52.71 14:54 62.08  62
 処暑 8/23, 24 150 +11.48  5:27 17:38 17:59 12:11 50.76 14:21 59.79  59刻半
 白露 9/7, 8 165  +5.91  5:43 17:22 17:44 11:39 48.54 13:47 57.43  57刻半
 秋分 9/22, 23 180  +0.00  6:00 17:06 17:30 11:06 46.24 13:12 55.00  55
 冬至 12/21, 22 270 -23.46  7:11 15:44 16:34  8:33 35.63 10:58 45.69  45刻半余

(注) DEFの時刻表示は日影石所在地の地方視太陽時の値を載せました。現在の日本標準時の時刻とは対応 していませんのでご留意ください。計算の基準は本文中に示した通りです。


5)懸野松右衛門の発案
 日影石の発案者・大泉新田庄屋懸野松右衛門は、酒造業を営む富裕な豪農であり、たいへんな知恵者であったと伝えられています。残念なことに、その人物像、生い立ち、交遊などについての記録はなにも残っていないようです。日影石の発案に至った経過については推察するより他ありません。

@)伊勢暦
 水の配分の問題は、結局は時間の配分の問題であり、当時の不定時法制度の下にあっても、説得力のある水論の解決には、定時法的な時間の配分を知る必要がやはりあります。計算表Iには当時広く行き渡っていた伊勢暦(図2)記載の二十四節気毎の明六つから暮六つまでの刻数を載せました。この場合一刻は一日の百分の1(現在の時間表示で14.4分)、つまり一日百刻制による定時法の表示です。Hの百分比の数字と比べて、極めて精緻な値であることが分かります(註3)。伊勢暦には日の出から日の入までの刻数も記載されており、暦面上の記載について十分な知識と理解があったに違いない懸野松右衛門は、その刻数を眺めながら、あれこれと考えを巡らしていた、とするのが私の想像です。

  
                      図 2 日影石建立時、弘化四年の伊勢暦

A)暦学と測量術
 和解案は、日の出から日の入を基準にし、さらに日の入前四刻余(現行時の一時間)を夜間給水の側に譲っています。その時刻が七つ半に近いため七つ半とし、その時刻を示す方法として日影石の工夫に至ったのでしょう。日の入前の4刻余(夏至60分〜秋分54分)に相当する石柱と日影石の位置関係をどのように定めたのか。測量機器のようなものを用いて実測に及んだのか。
 懸野松右衛門に測量術の心得があったことは十分考えられます。その場合、石の据付け作業はそれほど困難ではなかったと思われます。三角関数表(割円表・八線表)は天保時代頃からすでに広く普及しており(註4)、桑名藩における当時の農村支配層にとって、新田開発、溜め池・用水の造成のために当時のおける最新の測量術の知識が不可欠であったことは十分に想像がつくからです。
 丁度この頃は、近くの津の藤堂藩士で麻田派の流れをくむ天文暦学者、村田恒光がもっとも活躍していたときです。測量術を家学とした人ですから、天文暦学とともに、懸野松右衛門とは案外接点があったのかも知れません(註5)。
 なお、雨や曇りの日に水門の開閉時刻をどのように決めていたのかという疑問がわいてきます。空の明るさを基準にした申し合わせがあったのか。遠くから響いてくるお寺の時鐘に拠っていたのか、それではお寺の時鐘は何に拠っていたのか。これらもなかなか興味深い問題です。

6)おわりに
 この遺跡は三重県の有形民俗文化財に指定されており、調査には郷土史家の太田賢治氏ならびに員弁町教育委員会の城野彰治氏の協力を得ることができました。太田氏は長年に亘って刻限日影石に印された七ツ半時の時刻を明らかにすべく夕方の太陽の日影を実測をしてこられました。その成果である貴重な資料をいただくことができ、この報告の中で利用させていただいています。心からお礼申し上げます。
 水論に終止符を打ったとされる様々な経緯については、時間配分の問題だけでなく、当時の農業事情、夜間・昼間取水の有利不利、大溜からの水路の遠近及び漏水、それぞれの水田の取水面積の広狭などを考慮する必要があることを、太田氏からご指摘いただいています。現在でも日本の各地において、古くからの用水配分の慣行が守られているところが多いと聞いています。計算表の時間配分から、何を読み解いていただくかは、郷土史家の方々にお願いしたいと思います。
 最後になりましたが、計算表の時刻・時間は計算によって得られた数字です。正確な時計がなかった時代ですから、日常の生活が分単位で営まれていたわけではありません。一つの目安としてご覧下さるようお願いします。

(註1)員弁町史 p.263〜268。
(註2)橋本万平「日本の時刻制度」塙書房 1966年 p.27。
(註3)暦面上の基準になる京都三条台改暦所の緯 度とされる北緯35度0.8分(渡邊敏夫「近世日本天文学史(下)」恒星社 1987年 p.469 参照)は、当地の北緯35度8分に近い。
(註4)松崎利雄「江戸時代の測量術」総合科学出版 1979年 p.230。
(註5)渡邊敏夫「近世日本天文学史(上)」恒星社 1987年 p.375。


本文は日本日時計の会会報誌 「ひどけい」 2002年8月第3号に掲載されたものです。笠田新田刻限日影石(1)の続報であり、詳細な報告です。

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