笠田新田刻限日影石(1)
The Time-Mark Stone in Kasada Shinden(1)


 天界2000年2月号の「笠田新田の刻限日影石」の記事を拝読しました。この日影石のある員弁町(いなべちょう)は三重県のほぼ北端に位置し、岐阜県大垣市に近い私の居所から車で約2時間の距離にあります。2月中頃現地を訪れ実見しました。場所は、近鉄北勢線楚原駅より北約6度西の方向にあり、直線距離にして約1.8q。名古屋方面からは国道421号線、員弁警察署東交差点の一つ手前の信号を右折して約1q。いずれも笠田大溜に通じる旧道を北上すると、大溜の手前の右側にあります。

 この日影石は写真のとおり日影を示す四角の石柱と、その影を受ける円弧状の彫り込みがある請石から成っています。保存工事がなされており、床面にコンクリートが打たれ、周りは低い塀で囲まれています。由来を知らせる説明板はなく、帰宅後町の教育委員会よりご紹介いただいた郷土史家の太田賢治氏から電話にてお話を伺うことができました。残念ながら文献資料はなく、県指定の有形民俗文化財ではありますが、この日影石について本格的な調査は行われていないとのことです。
         
             刻限日影石全景                           正面左側 
                                             「御七つ半時 日之出迄 笠田新田」


 石柱の正面は「刻限日影石」、その裏面は「弘化四丁未年(1847年)五月」と記されています。左右の側面はそれぞれ「御七つ半時 日之出迄 笠田新田」、「御日之出 七つ半時迄 大泉新田」と記され、笠田大溜の水の配分の時刻を示しています。稲作のための取水期間を6月から9月までとして時刻を試算すると、上記の基準で一日をほぼ等しく二分するのは9月初旬頃であり、昼間取水の大泉新田の方が、夜間取水の笠田新田より有利な配分になっています。これについて太田氏は、この日影石の発案者である懸野(かけの)松右衛門が、新田相互の力関係からそのことを承知の上で設置に及んだのではないかと考えておられるようです。ただ、七つ半時を決めるのは請石の影の位置であり、それが七つ半を示して正確であったかどうかは検討の必要があろうかと思います。 

 東側の日の出方向は小高い山があり、日影石のある場所からは日の出を確認することはできません。古老の話として、広く開けている西向かいの鈴鹿山脈の稜線が赤く染まる頃を日の出としたと言い伝えられているようです。

 西日を受けて夕刻の七つ半時を決めるために、石柱は西側に、請石は約1.5b離れて東側に設置されています。請石の中央に「刻限日影石 七つ半時」とだけ記されており、日々異なる七つ半時を窺わせる刻印は確認できませんでした。取水期間における夕刻の七つ半時と、請石に投影される影の位置との関係を検証するには、正確な方位測量を必要とします。精密磁気コンパスを持参しましたが、地磁気偏角を修正してもなお、25000分の1の地図と比較して狂いが認められました。推測ですが保存工事に鉄筋が用いられたとしたら、おそらくその影響であろうと思います。いずれ太陽観測による方位測量を試みたいと考えています。ただ保存工事のときに、原位置を正しく保持する気遣いが成されたかどうかは不明ということであり、その点が気懸かりです。

 視正午あるいは平均時正午を示す正午計(Noon Mark)は日時計の一種として、外国の例としては必ずしも珍しいものではありません。しかし、このような正午以外の特定の時刻の表示を目的とする計時石はたいへん珍しいと思います。かって日本では、農業用水の配分を巡って争いが頻発したことはよく知られています。水の配分は結局は時間の配分の問題であり、とくに日照りの続く水不足の折りには、この日影石に双方の新田の村人たちの厳しい目が注がれていたであろうことは想像に難くないところです。生長期間中に多量の水を必要とする稲作ならではの興味深い史跡だと思います。

 なお、日影石を検分中野猿の群に遭遇しました。同行した妻共々野猿たちから遠巻きに観察されていたようです。それほど山奥ではなく意外な出会いでした。


 本文は東亜天文学会会報誌「天界」に「笠田新田刻限日影石続報」として投稿し、2000年6月号に掲載されたものです。
農業用水の配分に日時計が用いられた例として、同じく三重県名張市の新田地区に寛永年間に作られたとされる、正午を示す「日時計石」が残っています。スペインでは、現在でも用水の配分に日時計が用いられている所があると聞いたことがあります。お近くにそのような遺跡があればお教え下さい。


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