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暗く、重い色をした街路が、私の目の下と上に拡がっている。この街は旅の途中で寄るにはあまりふさわしくない場所だったようだ。少なくとも、冴子との初めての旅行には。冴子と私は3日前に結婚した。そして世俗のごたごたをすべて振りきって旅に出た。二人とも夢の中で雲を踏むような、不快ではないのだが、妙に頼りない幸福の中に浸っていた。 冴子は幸福でうちから輝いているようであった。結婚するまで、最も目がくらんでいるときでも、これほど美しくは感じなかった。そして、その美しさが私一人のためであると思えば、私自身も足取りが雲を踏むようになるのは当然すぎるほどであった。 せっかくの新婚旅行でもあるし、電車にゆられての旅続きなので、風に吹かれたくもなり、外を歩いてみることにして宿をでた。街は年月の攻めに耐えかね、表面からつやを失っていた。そのためか、光はその表面に吸い込まれ、日の光も弱いような気さえした。 冴子はこの街の駅に降りてから、妙に静かだった。疲れが出たのかと思ってはいたが、気にかける程のこともなさそうだったので、あまり考えてはいなかった。 「私と結婚して、どう思ってる?」 「え?」 「後悔してることってない?」 「何で。」 「もっと素敵な女性と一緒になれたかもしれないわ。」 「何言ってるんだよ。それなら冴子も同じだろ。」 「そう考えていたの。」 冴子は何気なく言った。あまりにも何気なく言ったため、私はその言葉の意味をかみしめるのに時間がかかった。 「そう考えていたのよ。」 冴子は立ち止まり、2ム3歩下がった。振り向く私の目に、くすんだ濃色の服を着た冴子は、暗い街並みに、夕暮れを迎えはじめたその異郷の中に溶け込むかに見えた。慌てて追おうとした私を手つきで制止して、冴子は言った。 「私はやっぱり王子様を待っていたのよ。ううん、優しい王子様じゃなくて、闇の彼方から私だけを目指して翔んできて、私だけを手に入れるためにあらゆる手管を尽くして、私をさらっていってくれる男の人を。ねちっこくて、乱暴で、暴君そのもののようでも、私を思うことは素直な人を。」 「冴子...」 「後悔してないかと尋ねたとき、殴りつけてくるようなひとと一緒になりたかったの。」 冴子はにっと笑い、身を翻した。たちまち暮色の異郷に溶け込んだ冴子を一瞬見送った私は、次の瞬間飛び出していた。風を残して走り去る冴子の、その風を巻いて私は追った。さして広くないように思われたその街は、いつか無限宮に変じたようだった。どんな道を通ったかも全然憶えていない。ただ、なびく髪や、ひるがえる服の裾や、かん高い冴子の一瞬総毛立つようなヒステリカルな笑い声や、高いヒールの靴のかかとの音だけが記憶に残っている。 実際、なぜ冴子に追いつけなかったのか、私にはどうしてもわからない。猪のように息を吐いて走りながら、私は冴子を見失ったことを知った。しかし私はそのままヒールの音を、笑い声を、ひるがえる裾を、一瞬ふりむく白い顔を追い、走り続けた。走り続けたのだ。 宿に戻ると冴子が待っていた。何日も走り続けたような気がした。そのまま壁に背中をぶつけるように倒れ込むと、冴子は心配そうに寄ってきた。 「大丈夫?」 私は何も言わず、息を噴きながら冴子の顔をじっと見つめた。冴子は平常と変わらぬ顔をしていた。女中が夕食の支度をするために部屋に入ってきた。 冴子は私を愛しており、私も冴子を愛している。しかしそれはあの時、あの暗い路地の中で私が冴子を見失った時から微妙に変わっている。もっと深く私を愛することができたかもしれない冴子は、後ろからがっしりとつかまえてくれる私の手がついに来なかったために。私はついに逃したなびく髪のために。 私がつかまえられなかった冴子の少女の夢は、未だにあの街をただよっている。冴子は私を愛しはするが、恋はもう失ってしまったのだ。私は未だにあの時つかまえることのできなかった冴子に、冴子の少女である部分に激しく恋焦がれている。私が最も欲しているその少女の夢はあの街に置き忘れられ、遂に私の手には入らぬであろう。冴子もまた、私の恋情が自分に向けられているとは気付かないままであろう。 そしてその夢が、私たちが愛情の中で、思いの中で失ったものであり、私たちが何故とは知らぬまま、強く惹かれあう部分である。冴子と私は、お互いの中に知らないものを見、そこにあったはずの可能性に胸を焦がしているのだ。 |
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