水燿通信とは
目次

195号

コンナ手紙 スマヌナ

尾崎放哉未発表資料 書簡(2)

 印刷されたものからは決して伝わってこないこと、直筆のものならではのことといえば、書かれた文字の筆遣いがどんなものかがわかることだろう。文字はその時々の書き手の体調や精神状態を如実に表す。
 今夏(2001年8月)直接見る機会のあった南郷庵時代の放哉書簡の中で、文字がひどく乱れているだけでなく、欄外の書き込み、文字の脇に付された傍線、・・・、◎◎◎などの多さの目立つ、汚いと形容したくなるようなものがあった。10月21日付と10月27日付書簡で彌生版『全集』未収録のものである(南郷庵で書かれた放哉書簡は、8月〜12月までは大正14年、1月〜4月までは大正15年のものを意味する)。21日付の書簡は別稿で改めて取り上げることにして、ここでは27日付のものを紹介しよう。ローマ数字は、筆者が論考の際の便宜のために付した便箋の番号である。なお、194号と同様、書簡欄外などの書きこみの扱いは筑摩版『放哉全集』に倣い、文字の脇に付された・・・、◎◎◎、棒線などは省略した。
T
啓、ドウモアノ松茸サン、ドウカシテヤシナイカナ!……今迄待ツテモ、ウントモスントモ申シテ来ヌノデ其ノ舟ノ人ノ家ニ(オン大将自身出馬)出カケテ見タラ曰ク……「モウ一枚ノ受取がナイトクレマセナンダ」……ソレナラ何故、其事ヲ早ク申シテ下サレバ、(コワレ物ヂヤアルマイシ)……昨日京都ニ、アノ(受取)ヲ送リ返サヌモノヲ、……ト思ツタガ致シ方ナシ、……(アゝ、ソヲデスカ、御世話様デシタ)ト大ニ、オヂギシテ帰ツタワケ也……但シ、コウナツタラ男ノ意地也、ドウシテモ受取ツテ見セル(タトヱクサツテ居テモ、居ナクテモ、ソンナ事今更、問題ヂヤナイ 只、アンタノ送ツテクレタ松茸ヲ、私ノ目ノ前ニ、ナラベテ見タイ丈也……ソコデ昨日、手紙ニ入レテ送ツタ、『小サイ記念ノ受取リ書』ヲ又、送リ返シテ下サイ、……少シモ早ク、お願 電報デハ、イケナイシ呵々
U
而シ、今回ノ(松茸騒ギ)デ小生、大ニ考エサセラレルノデス 有リ難いト思ツテ居マス、……之ヲ、風水学ニトヱバ如何、……呵々、一二、大得意デ又、ワケノワカラヌ事ヲ云フデセフヨ、……但、一二氏ニハ少シモ、オ目ニカゝラズ。
全体、……「庵ニ安住」ガ、キマツテカラ……私ハ一ツノ帳面ヲ、コシラヱテ居マス、……其上ニハ、(念彼観音力)ト書イテ居リマス、……其ノ中ニハ、井上氏カラ、(イタゞク物)ト(西光寺サン)カラ(イタゞク物)トヲ書クワケデス、……処ガ、其ノ帳面ガ、少シモ、キタナクナラナイ、「井上氏」ノ処ニハ、……例ノハネテ、畳ノコゲル炭一俵(向フノ村ノ人ニ見セタラ、一俵、八十銭ダト云フ呵々、二円四五十銭迄、ヨイノハアル由申シ候……之ハ、最下等ノ炭ダト云ハレテ……サスガノ放哉、一寸赤イ顔ヲシマセンデシタヨ呵々
V
ソノ(炭)ガ…八十銭ノ炭正ニ一俵、モラツタキリ。
「井上家ヨリ……十月五日…炭(大俵)一ツ、」 之丈シカ、カイテアリマセンアトハ ナンニモ、モラワヌ故ニ、訪問モシナイ、先方モ来ナイ 呵々 アンタカラ、モラツタオ金デ 近所カラ、皆、買ツテ居マスヨ此ノ「帳面」ガ、今少シ、「汚ナク」ナルトヨイノダガ……扨風水学ハ如何?呵々
○全体、「人ヲ助ケル」ト云フ事ハ、……セメテ(250銭 80銭)ノ開キノアル炭ノ中デ、パン ハネヌ炭ヲヤツタ方ガヨイデセフカ 如何?
W
オ米、一ツモ、ナンニモ、モライマセンヨ、威張ツタモンデス
西光寺サンノ方ニハ
西光寺サンヨリ……十月三日 白砂糖、タキツケ、ラツキヨ、葱、 ヂャガ芋、 ト書イテアリマス コレモ、コレ以外ナンニモ無シ奇レイナモンデス 但、コレニハワケアリ 西光寺サン此間モ又十円モツテ来テ、「妻」ハ知リマセンカラ之デ、卵デモ買ツテ……
私ハ泣イテ、又、御カヱシ致シマシタ処ガ、……外カラ、「卵子」ヲウントモラウト云フ有様(之ハ西光寺サンノ由)……今「私」(病気シテルモンデスカラ)……コンナ事ハ又々、委シク、書キマスヨ
X
私モ人ニ、マケル事ガ、キライデ(ダメデスナ)……アンタカラモラウオ金デ、皆、ヤツテマス……決シテ、放哉、井上氏ヤ、ナンカニ、頭ヲサゲテ、イロ  、「物」ヲ、モラツテルト思ツテ下サイマスナ呵々 ホントデスヨ。
○皆、人ハ、ウソツキ……自己本位バカリ……世ハ末デスナ、……私ネ、コンドノ「松茸騒動」カラ……大ニ考ヱテ 又、昔ノ放哉ニ帰ツテ、アナタ以外、ダレニモ文通セヌ様ニシヨウ、……ソヲシテ自分ヲ、考ヱテ見ヨウトツク 思ツテ居マス、……イヤ実ハソロ 其ノ準備行動ヲ、ハヂメテ居ルノデスヨ
Y
アナタ丈ニ、手紙ヲカキ、「ゴタク」ヲ書イテ、ソシテ、アトハ(念彼かんのん力)を、よんでる方が、ドノ位、安易ナ生活カ、……一体、「生活」ナンテ……「生活」モイヤニナリマシタヨ、……扨、大問題ノ、「受取書」、スグ又送リ返シテ下サイマセ、御願 、』ハヂメ、私ガ、コレハ入用ヂヤナイカ?「判」モイラヌカ?ト云フノヲ イヤ此ノ「ハガキ」サイアレバ……之が、仲ノ一人ヲ介シタノガ私ノアヤマリ……私ガ、今日ノ如ク、最初カラ其ノ「舟ノ人ノ家」ニ行ケバヨカツタノダガ……ソレヲ知ラナンダ故、前ノ万事便利ナ男ニタノンダノガアヤマリ、ツマリ、私ガアヤマリ」、マツテマス、 サヨナラ
Z
処ニ此ノ、「鳥取」ノ消印ノアル「ハガキ」……ムシヤクシヤスル
○第一、此頃ノ若イ人間ハ「禮義」ヲ知ラヌ 此ノハガキヲ見ルト、「緑石」「百堂」「光石路」トアルラシイ、私ハ此ノ人間共カラ今迄一度モ、ハガキモ手紙モもらつた事無し……ソレニ突然、コンナ物ヲ出して、第一、先輩ニ対する「禮」ヲ知ラズ人ヲ、尊敬スル事ヲ知ラヌ奴ハ……盗人見タ様ナモノダ俳句ヲ三ツ書イテ、トニカク他人ニ対スル最初ノ通信トスルノハ、ズイ分、人ヲ喰ツタ若イ奴等デス、コンナ禮儀ノナイ奴ハ小生大キライ也
[
オソラク、御入洛ノ日ニ、コンナ手紙ガ、ツクダロ、スマヌナ 万事、アヤマリマス』
ソレカラ、又、同封スル物ダガ、此ハガキ消印ヲ見ルト「鳥取」トアル……鳥取ハ私ノ郷里ニシテ、而モ、鳥取縣人ハ私ノ世界中デイヤナ人種也 ドウ云フモノカ知ラン昔カラ、私ハ、反感アリ、ソレデ私ハ学生時代、夏ヤスミモ冬休ミモ、例ノ「伊東」カラ(一番ヤスカツタカラ)「伊豆山」「湯河原」「熱海」等々、……アノ頃ハ「雉子」一羽三十銭猪子ノ、肉ナド、フンダンニ「冬」ハタベマシタヨ……ノ辺ニ行ツテ居テ、殆ンド国」ニハ帰ラナイデシタ ソレデ、自ラ、称エテ曰ク……(俺ハ、東京生レダヨ)……
私ハ、「東京」ノ「デリケート」ノ処ガスキナノデス イヤニ「ドコンヂヨウ丈、太イ」関西人ヨリモ
\
此頃ネ、ソロ、通信ノ手ヲチゞメテ、居リマス
近イウチニ、アナタ一人ダケヲ「通信対手」ニ残ス事ニナルト思ツテ居マス、……マア又書キマス今日ハイロンナ事ヲ書キマシタ、……夜カラ、朝ニカケテ、アノ層雲ノ「選句」ヲスマシテ、ガツカリシテ、  局カラ出シテ、「ヤレ  」(書留デ)…処ニ、松茸サンノ此有様、変ナ、禮ヲ知ラヌハガキガ来テクシヤ  シテ此ノ心持ヲアンタニ書イテオクリマス サヨナラ
モ少シ書キマセフカ、……此間弥十郎氏ガ
]
「一本ノ柱ニ、トナリと、コチラと、モタレアツテル」(之ハ「意味」デスヨ)ノヲ送ツタ処ガ……武二氏ヨリ(裸木氏??)内報アリ 小生、十一月号、何句出ル由、……シカモ、 此ノ一本ノ柱ノ句、……先生ニ、トツテモラツテ、先生ニ、トツテモラツテ、先生、アゝ先生ナラコソ、先生ナラコソ、此ノ気持ヲ知ツテクレル……ト申シテ来マシタ、……アンタヲ「神様」ト思ツテル選者又カタイ哉、……柱ヂヤナイケレ共…シカシ 私ガ、ナンカ平生、気ニナツテ居タ句ダツタガ、今迄マトマラナンダ弥十郎氏ヲ多とす  アノ男利口ですよ 井兒とはチガウ呵々
余史郎ハウマイガ隠居……此君楼ハ脳が少しグラ スル男ラシイ、弥十郎、井兒ヲモリタテ、大阪ヲ更生スル事デスナ、イロンナ事カケバナンボデモアルガ之レデヤメマス サヨナラ
井師侍史 二十七日 尾崎生 敬具
 前文では敢えて触れなかったが、乱暴な言葉遣いも多く文章もかなり乱れていることに気がつくだろう。手紙を一旦終えた後で書き足し、さらに又書き続け、ダラダラと不快な出来事の報告が続く。放哉のどうにも収まり切らない心の鬱屈が、内容だけでなく文体、文字など色々な面から感じられる。
 『入庵食記』や井泉水以外の人に宛てた書簡なども参考にしてみてみると、この2週間ほど体調が殊の外悪かったことがわかる。何日も痰、咳に悩まされ、とうとう我慢できなくなって20日に木下医師に診てもらい、左肋膜癒着と診断されている。この病名自体相当ショックだったのだろう、『入庵食記』に“俺ハ(ルンゲ)?…死ンダ方ガヨイ”などと書いている。21日付の手紙では井上一二のことで立腹、22日には『裸』に放哉の私信を公表したことで星城子に抗議、さらに25日には同じ星城子が『層雲』に放哉の経歴を出したことに対して“大至急、層雲社に…取り消しの事申し込んで下さい。…今後スツパヌキだの、ナンダノ、一切一切御免……トテモ、かなわん至急御手配を乞フ”と強い調子で中止を要請している。そんな折りも折り、井泉水が送ってくれた松茸がなぜか一度目は逆送、二度目も色々支障があって手に入らずに苛々し、加えて鳥取の消印のある不快な葉書まで舞い込んで、自分でも気持ちの収拾がつかないままに、一気に筆を走らせたものと思われる。
 さて、引用した書簡の中から、いくつかの事柄についてみてみよう。
V 「(井上家ヨリ)八十銭ノ炭正ニ一俵、モラツタキリ」
 これは事実に反している。入庵に際し、西光寺と井上家から生活するのにさしあたって必要なものを受け取っている。その後も井上家からもらったものには、放哉が一二(や一二夫人)に宛てた書簡でわかる分だけでも米、炭、豆、味噌、れんこん、かんぴょう、若芽、ごま塩、ラッキヨ、醤油、さつまいもがある。祭りのときには重箱に詰めた御馳走をもらい、そのおいしさに感激してお礼の手紙を書いている(10月14、16日付一二宛書簡)。また、醤油の実、固く煮た豆、古新聞(焚き付け用)、麦を炒ったもの、針と黒い糸、言海か和英辞典、堅い炭などを手紙で所望し、大抵の場合取りにいかず、届けてほしいといっている。
X 「アナタ以外、……ハヂメテ居ルノデスヨ」
 \でも同様のことを書いているが、放哉の心の在り様を知る上で興味深い内容だ。『全集』でみると、このあと30日までの3日間は確かに一通も書いていない。しかしその後はまた、様々な人に宛てて夥しい数の手紙を書くようになっている。だがそれでは、これは一時の感情だったと済ませていいのだろうか。何かが放哉のなかで変わったということは考えられないだろうか。“準備行動”とは一体どんなことなのだろう。この部分には放哉を考える上での大きなヒントが隠されているような気がしてならない。
Z 「「鳥取」ノ消印ノアル「ハガキ」……ムシヤクシヤスル」
 7枚目のこの便箋は、この一連の乱れた印象の書簡の中でも殊の外その傾向の強い見苦しいものになっている。鳥取という土地に対する放哉の気持ちが端的に表れているといえよう。なお鳥取消印の葉書にあった句は次のようなものである。
林檎の重さ美しく手にある緑石
昼から雑草刈らすある百堂
とんぼもつれてハはなれてハ風光る里光石路
 最初の緑石の姓は河本。放哉を慕っていた人物で、小浜の放哉に本を送ったりしており、それに対して放哉は、大正14年6月6日付小沢武二宛書簡で“河本君は小生と同郷の人でせう、米子ですか、なつかしく思ひます…”などと書いている。また井泉水の記憶によれば、放哉が小豆島に行く直前に井泉水宅で行われた句会で、緑石は放哉に会っているらしい。したがってこの部分は事実に反している。なお、放哉は11月(日付不詳)に姉夫婦に手紙(彼らに宛てた2通の手紙の後の1通)を書いているが、その中に次のような一節がある。
米子の河村(本)緑石(農学校ノ先生ヂヤナイカナ)
第二中学校教師、中原光石路
智頭宿、重村百堂(印刷ヤ? 雑誌モオコシマス)
コンナ人間が(鳥取県デハ)私ヲ先生々々ト云ツテ来マスガ、知ツテマスカ? 見タコトモ無イ男デスガ……
 河本緑石は昭和十年、『大空放哉伝』を著している。
[ 「学生時代、……殆ンド「国」ニハ帰ラナイデシタ」
 この部分は、字義どおりに理解するのではなく、行間から真実を引き出すことが是非とも必要になってくると思う。
 ここに書かれているように、秀雄(放哉)が学生時代の長期休暇を帰郷せずに過ごしたことはあったかもしれない。だが沢芳衛やその兄静夫と一緒に故郷に帰ったことも少なくなかったことは確かだ。『暮れ果つるまで』には、そのころを回想した澤芳衛の手紙(昭和28年9月6日付、伊東俊二宛)が紹介されている。
兄と秀さんと私と三人いつも一緒でした、夏やすみのゆきかへりも、休中も毎ばん私方へ秀さんが来るのです
あの慈姑田の家の池に向った所に大い涼み台がおいてあって、そこに三人は坐って十二頃迄話をするのです、といっても二人がさかんに談笑するのを私はたゞだまってきいてゐる丈けでした、何もよういはないのに、そこにゐ度くて毎ばんそばに坐ってゐました、私は二人に保護されかあいがられて――両親もそれをよろこんで許してゐました――幸福そのものでした
 三人のいかにも楽しく幸せそうな様子が伝わってくる。鳥取は“昔カラ、私ハ、反感アリ”と放哉は言うが、このような時代があったことを看過することはできない。
 結局、故郷を嫌うようになってからの思いが、過去の記憶を変質させてしまったということなのではないかと思う。
\ 「アノ層雲ノ「選句」ヲスマシテ」
 『層雲』大正14年12月号、雑吟(二)は放哉選になっている。これのことだろう。『層雲』の編集者小沢武二宛書簡で、10月25日に原稿が放哉のもとに届き、翌26日選句の済んだ原稿を書留で返送していることがわかる。
 この他に、12月31日付小沢武二宛書簡にも“只今、本年、最終の「層雲句稿」送りました”とあるが、『層雲』に載った放哉選は先の一回だけになっている。ただし、大正15年3月14日付、星城子宛書簡で“「層雲」位誤植の多い雑誌ハ無いですな、この前ダツテ、…(放哉選)ヲ(木村緑平選)としたり”とあるので、放哉選は実際はもっとあった筈である。
 放哉の心の鬱屈の塊のような書簡をみてきた。腹を立て、悪態をつき、嫌味を言い、強がりを言う放哉。この手紙には、放哉の人間くさいといえばあまりにも人間くさいどうしようもない側面がいっぱい出ている。だが彼にはどんな不愉快なことが起こっても、愚痴を聞いてもらえるような人間は身近かにはひとりもいなかったのだ。だからひどい体調のなかで、こんな手紙を出して申し訳ないと思いつつ、必死で井泉水に訴えたのである。放哉のかなしさ、やりきれなさ、怒り、孤独などが行間からにじみでているようで、読んでいて辛くなってくる。
 さて少し時間が経って冷静になってみると、あのような書簡を書いたことにさすがに放哉自身も気がひけたのだろうか、4日後の31日には、次のような手紙(彌生版『全集』未収録)を認めている。
啓、只今○大急ノ御手紙いたゞき御礼、例のヘラ  の札、早速相渡し、明日ハ松茸手に入る事に候更めて御禮申上候 此手紙ハ御留守中ニ着く事なる可し…マア出して置きます、七日ニ御帰りになりますか、ヨイ時候だから、旅行には、モツテ来いでせう、御無事を念じます」ナンデモ、カンデモ、ムシヤクシヤスルと、あんたの処に書いて送つて相済みませんです、コレカラ大に考えます 御許し下さい 少しは、薬瓶サゲテ医者通ひの病氣のセイもあつたでせうと思います、御許し下さい、…折角安住を得れば病氣、一時、ツク  、自分でアイソが尽きましたが此頃十分、よくなりました、何しろ、粗忽ものが、たくさん書いてあるので吹き出しました、最后の、シンガリの私が一番粗忽者ですネ 身体ハよくなりましたから御案じ下さいますな……イツゾヤ御申越しの、清書ス可キモノ、がありましたなら送つて下さいませんか、ナンデモ出来る事なら致します 御大切ニ、……七日頃又、御きげん御伺申します サヨナラ
敬具
 荻原様 尾崎生
 「病床吟五十句」は、このような状況下で作られたのである。
(2001年11月20日発行)

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発行人 根本啓子