水燿通信とは
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165号

『憎悪の樹 アングロvsイスパノ・アメリカ』

(フィリップ・ウェイン・パウエル著 西澤龍生・竹田篤司訳)

 スペインにはかつて、新大陸に広大な植民地を有し、世界最強の海上帝国として栄えた時期があった。15〜6世紀の大航海時代のことである。
 このスペインを評するものとして、主にヨーロッパの国々によって形作られた歴史的現象がある。「黒の伝説(レジェンダ・ネグラ)」と呼ばれるに至った、つぎのようなものだ。
スペインが、軍事・王朝・宗教・経済の領域においてヨーロッパの頂点の座に長く君臨したところから生じた、反スペイン偏見、プロパガンダ、憎悪、黒塗りの半真理、等々の集積……。すべてが、広大な海外領土のもたらす富と威信へのやっかみによって、誇張されたもの(『憎悪の樹』序論)
 スペイン人司教バルトロメ・デ・ラス・カサス(1474〜1566)は、新世界を統治する自国スペインの行為に反対して『インディアスの破壊に関する簡潔な報告』などの論考をまとめた。これらの論考は、インディオの生活と権利保護という大義に賭けた極めて真摯なものであった。しかしカサスの視点には、歴史のパースペクティヴと人間の行動に対する理解が欠けていたために、彼の論考はしばしば誇張した表現をとり、事実はねじ曲げられ、結果として同胞であるスペイン人に貪欲、残酷の二語を刻印することとなった。
 さらにこれらは、スペインを敵とする外国人たちにとって強力この上ない武器と化した。反スペインのプロパガンダの原史料として利用され、スペイン人、その歴史、国民性に関する評価に広汎にして有害な影響を与えたのである。
 イタリア、ドイツ、フランス、オランダ、イギリス、それぞれの国がそれぞれの国民性、文化、宗教、野望、経済的事情等々からスペインに対して嫉妬と羨望を抱き、「黒の伝説」を作り「憎悪の樹」を太らせていった。〈残酷、信仰の凝り固まり、暴虐非道、怠惰、狂信、貪欲、好色、狡猾、狂犬〉といった言葉をスペイン人に投げつけ、「異端審問のスペイン」「無知なるスペイン」「いつでも凶暴きわまる弾圧をやりかねないスペイン」「全トルコ人を寄せ集めたるよりさらに不義邪悪に傾きやすき堕地獄の民族」「野蛮人のそのまた滓」と罵った。そしてこのようなプロパガンダのいずれの活動にも、その中枢の程ちかくにエネルギッシュなユダヤ人――主としてスファラド系(イスラム・スペインのユダヤ教徒)の――が見出だされた。
 フィリップ・ウェイン・パウエルは、ここでとりあげた『憎悪の樹 アングロvsイスパノ・アメリカ』の中で、そういった誹謗中傷、史実のねじまげ、でっち上げなどに対して、時代的背景、それぞれの国の宗教的・経済的・政治的特性、様々な文献、また人間に対する洞察などを駆使し、それらの不当性を明らかにしている。例えば「第二章 新世界におけるスペイン」には、次のような内容の記述がある(引用には多少の省略、順序変更がある)。
 スペインは、新世界征服の間、一連の論争を生み出した。「白人の責務(ホワイトマンズ・バーデン)」をいかに背負うのが最良かというものであり、新大陸のインディオにとって開明的で好意的な保護立法措置をもたらす助けとなった。この論争の特徴は、王権自身への批判をも含む偉大な言論の自由にあった。……概してインディオには、インディオであるというコンセプトへの根源的な忠誠心が存在していなかったため、彼等はそれぞれに積年の敵を殺戮しようと、進んでスペイン人と手を組んで戦闘に参加した。……ラス・カサスは疾病、疫病、交戦によるインディオの数の減少を考慮の裡にいれなかった。
 このような文に接すると、外国人によって流されたプロパガンダの多くが不当なものであったことが了解される。
 日本では1868年の明治維新以来、西洋の新しい息吹が入ってきたが、それらはイギリス、ドイツ、フランスからもたらされたものであった。したがってことスペインに関する限り、わが国においても「黒の伝説」の影響は免れない。今、偶々手元にある高校生を対象とした世界史の教科書を見てみよう。
 これら征服地(アステカ帝国、インカ帝国)にはエンコミエンダ制が導入され、インディオは大農園や鉱山で酷使された。そのため、インディオの人口はヨーロッパからもたらされた伝染病も重なって激減した。その後、インディオの救済を求めるスペインの聖職者ラス=カサスらの努力によって、インディオの奴隷化は禁止された……アメリカ大陸に進出したスペインは、インディオの社会を破壊して、植民地を建設していった。……インディオの強制労働で採掘した金銀はスペインに大きな富をもたらし…… (東京書籍『世界史』、平成3年2月発行)
 ここに述べられていることは我々が歴史的事実としてほとんど何の疑いもなく受け入れてきたものであるが、「黒の伝説」の影響はあきらかだ。
 さて、反スペインのプロパガンダによってひどい評価をなげつけられたスペインでありスペイン人だったが、実は“この時代、近代初めのスペイン人たちは、知的にも、帝国としても、真に偉大な黄金世紀(シグロ・デ・オロ)を享受しつつあったのである”(第四章 紙の戦争)。ミゲル・デ・セルバンテスの小説、卓越した法学者の輩出、エル・グレコ、スルバラン、リベーラ、ベラスケス、ムリーリョ、といった画家の活躍、地理学の博識と経験、もろもろの航海技術、地球規模でのトップを誇っていた冶金学と植物学、等々。“このスペイン、大輪の文化の華を咲かせた高度の文明の地が、「憎悪の樹」によって、視界から遮られたのである”(第四章 紙の戦争)。
 本著が刊行されたのは1972年。著者フィリップ・ウェイン・パウエルは、アメリカ人の歴史学教授で、祖先を辿ると、メキシコからカリフォルニアへとたどり来たったスペイン・フロンティアの開拓民の血筋につながる。
 彼がこの本を著すに至った動機は、母国合衆国の置かれた状況に対する危機意識だったという。つまり“黒の伝説によりスペインが黄金の世紀以降もいかばかりの代償を支払わされてきたかは、今や戦後の世界制覇にも漸く翳りの見えはじめてきた合衆国の正に学びとるべき喫緊の教材”(訳者あとがき)であるにもかかわらず、イギリスからの独立後も本国仕込みの価値観――北ヨーロッパ人的優越感を永遠化し、常に自らが最も正しく清い――を信奉し、イスパニア文化圏と自分たちアメリカ人との関わりを真面目に観察・考察しようともせず、相変わらず大国の倨傲を繰り返し失態を演じている母国合衆国、そしてその上にヤンキーフォビア(アメリカ嫌い)の新しい「黒の伝説」が暗い影を落としつつある……、という意識である。
 合衆国では、すでに1944年のアメリカ教育協議会(ACE)報告において、「黒の伝説」見直しの必要性が説かれている。しかし歴史教科書などを調べた限りでは、ACE報告以降も基本的誤謬は殆どあらゆる分野にわたり残されたままだという。
 そして今、本著の刊行時からさらに20年以上経った。合衆国は相も変らず自らの正義を振りかざして他国の政治に口を出し、気に入らない時には空爆も辞さない。その倨傲ぶりは国連の意向も無視するようになった分、さらにひどくなったといっていい。ヒスパニック(スペイン語とポルトガル語)世界に対する無関心、無知も相変らずだ。
 だが、世界は大きく変貌した。ソ連邦が崩壊して冷戦は終結したが、だからといって合衆国ひとりが世界を牛耳られるようになったわけではない。まず、ヨーロッパが大きく変った。かつての共産圏の国々は次々とその体制を変え、東西に分かれていたドイツはひとつになった。ヨーロッパ中の国々が国境を越えた欧州連合(EU)に向けて動きだした。今年初めからはその統一通貨ユーロ(euro)が導入され、国際金融市場での取り引きが始まった。ユーロは今のところ堅実な動きをみせており、長期的には機軸通貨の役割を担うようになるとの指摘もある。ドルが支配的だった世界経済は大きく変ろうとしている。12億を突破した(1995年時点)巨大な人口を擁する中国の存在も無視できなくなった。合衆国に残された時間は想像以上に少なくなっているのかもしれない。
 この本を前にしたら、自らの国籍、宗教を忘れ、あらゆるものに対する偏見を捨てて、まっさらの気持ちになりたい。“歴史は、むろんのこと、完璧なる客観性を以て書かれたりするものでは決してない。そしてとりわけ宗教とか政治の歪みに……弱い。……歴史に筆を染めることは、科学であるより遥かに一つの技芸(アート)であるから、不可避的にそこには世を風靡する偏見や流行が影をおとす。……しかも世に受け容れられる歴史とは、概ね戦争での勝者の手によりものされたそれなのである”(第五章 啓蒙の倨傲)という事実を踏まえ、既成の概念に惑わされず、素直な気持ちで著者の言葉に耳を傾けたい。そうすれば、そこからみえてくるものがある筈だ。批判したい人にも共感する人にも、何かしら今までみえなかったものがみえてくる筈だ。それを大切にしたい。
 もっともそう真面目にならなくても、実際のところこの本は十分に刺戟的で挑発的で面白く、知的好奇心を満足させてくれる。しかもこれからの世界の在るべき姿を考える上でも多くの示唆を与えてくれる本だ。
(『憎悪の樹』 1995年論創社刊。本体4000円)
(1999年2月5日発行)

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発行人 根本啓子