水燿通信とは
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112号

揺さぶりて雪塊おちくる樹を仰ぐ
無法の友の澄む眼を見たり

春日井建(『未青年』昭和35年刊)

 年が改まると、人々の心は何か新しい気分になる。昨日までと同じ筈の景色や事物がどこか新鮮に目に映る。
 冒頭の歌は、雪深い北国に育った私に、新年を迎えて目に映った雪の感じを他のどんな作品よりも鮮明に思い出させる。この歌が正月に詠まれたという確証はどこにもない。にもかかわらず私がそう感じるのは、つまりここに描かれている雪の清浄な美しさ、新鮮さの故である。揺さぶった樹から落ちてくる雪は、勿論けむるような粉雪である。
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 春日井建の歌壇へのデビューは、いかにも華々しいものであった。当時19歳だった彼の作品を名古屋から出ている結社誌「短歌」で知った、角川書店刊の短歌総合誌「短歌」の当時の編集長中井英夫は、春日井の凡ならぬ才能を鋭い感覚ですばやく察知し、1958年(昭和35)8月、突然に「短歌」の巻頭に春日井の「未青年」50首を掲げたのである。するとたちまち三島由紀夫がそれに注目し、春日井を現代の定家になぞらえて絶讃した。そして翌々年の1960年、三島の序文に飾られて歌集『未青年』が刊行されたのである。冒頭に掲げた歌は同歌集中の1首だが、ここには悪にあこがれ悪を装いながら、その実いかにも傷つきやすい魂が“ぴくぴくと慄へてゐる”(三島由紀夫 序文)。ここに描かれている雪の清浄な美しさ、新鮮さと同時に〈無法の友〉の碧いまでに澄んだ眼も印象深い。
 この歌集には、他に次のような作品がある。
大空の斬首ののちの静もりか没ちし日輪がのこすむらさき
童貞のするどき指に房もげば萄葡のみどりしたたるばかり
われよりも熱き血の子は許しがたく少年院を妬みて見をり
若き手を大地につきて喘ぐとき弑逆の暗き眼は育ちたり
火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐きしか死顔をもてり
いくにんの狂詩人をひきづりし霊界の冥さに雪降りしきる
石を擲つためかするどく静脈の浮く手もつゆゑ愛されたりき
旅にきて魅かれてやまぬ青年もうつくしければ悪霊の弟子
 こういった作品に対して、旧歌壇側からの反撥は大きかった。“歌壇にもついに太陽族が現われた、こんな不潔な歌は見たことがないと体を顫わせる女流歌人もいた”(中井英夫『黒衣の短歌史』)。また上田三四二は、三島の評価に対して“全く三島好みの少年歌人であることの証しにほかならない”と述べ、嗜虐趣味、悪への憧れ、ナルチシズムなどと指摘した。しかし“春日井の歌は、少し気をつけて読めばすぐ判るように、反対に、ある無垢な魂がどうかして自分を汚そうとして汚し得ず、観念的な“悪”への憧れを歌いあけたもので”(同『黒衣の短歌史』)あり、その魅力は今でも全く失われていないと思う。三島由紀夫は序文で述べている。
 言葉が、氏の場合、柔らかな生身を守る固いきらきらした胸甲のやうになつてゐるのは、今日の若者の場合、当然の抒情的要請である。言葉にはふしぎな逆説的機能がある。言葉で固く鎧へば鎧ふほど、柔かな生身はますますいたましく鋭い外気にさらされなければならない。
 確かに、私自身春日井の歌に初めて接した時、若い傷つきやすい肉体や精神が無防備に外気にさらされひりひり痛んでいるような作品の数々に、すっかり魅入られたものだった。あれから20年以上もの時が流れたが、現在でもこれらの作品に接するとかつての感動が甦ってくるのを感じる。
 しかしながら、春日井建の作品は、デビューが華々しかったのと呼応するかのように、その輝きを失うのも急だった。『未青年』1卷でその魅力の全てを出し切ったかのように、その後は全く生彩の無いものになってしまったのである。そして間もなく、氏は歌壇からも姿を消してしまった。
 その春日井建が突然歌壇に復帰したのは1979年(昭和54)、中部短歌会の主宰者だった父親が亡くなりその跡を継いでのことだった。若かった彼も40代になっていた。これに対して歌壇では、大歓迎する側と「甘すぎる」としてそれに反撥する側とがあったらしい。歌壇内部のことはどうでもいい、私にとって『未青年』1卷があればそれで十分だというのが、率直な感想である。
(1996年1月16日発行)

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発行人 根本啓子