今も健在
高度経済成長期に造られたコンクリート建造物の早期の高齢化、老朽化が深刻化する一方で、100年前に造られた日本最古のコンクリート構造物である鉄筋コンクリート橋は、現在でも多くの人たちに利用されています。風雪に耐えて100年の耐久性を証明したコンクリート橋は、今日も新たな歴史を刻み続けています。
明治時代には、多くの欧米人技術者が招かれ多くの事業を計画・指導しましたが、琵琶湖疎水計画は日本人技術者の手によって計画・指導され第二疎水においては発電所建設をも含み京都市が近代都市に生まれ変わる上で大きな役割を果たした巨大プロジェクトでした。 第一疎水工事全体の計画から設計、指導にあたったのは、工部大学(現東京大学)を卒業したばかりの21歳の青年技師・田邊朔郎でした。セメントと鉄筋は輸入しながらも、他の建設資材は現地に煉瓦工場を造るなど工夫を重ね、国内から調達しました。
橋の長さは7.3m、幅1.5mのアーチ型です。コンクリートの厚さは約30cmありますが、欄干はなかったため現在では左右に転落防止用の柵が設置されています。そのために橋の形状は左の写真では確認しにくいのですが、中央部が盛り上がっているのが分かります。
(所在地 京都市山科区日ノ岡)
写真右 橋の上部は、ほとんど手を加えられないままであるにもかかわらずコンクリート表面の状態は、全く異常は認められません。
西ノ谷橋は、琵琶湖第一疎水に架けられた二番目に古い橋です。鉄製の柵とその支えのコンクリートは後に施工されました。当初の部分は、下の写真では白っぽく見えるアーチ型で、優美なものです。
西ノ谷橋を見ると鉄筋コンクリート構造物を造る工事を指導した技師と技手の名前が、基部に刻まれています。現在とは異なり、公共工事の現場施工は実質的に官庁の監督・指導が厳格に行われていました。田邊朔郎が夜に技術者養成講座を開き、昼間に現場工事にあたりながら人材育成を図るという現在では考えられない体制で工事が進められましたが、青年技術者たちの情熱と意気込みは高く、疎水事業は日本のその後の建設の歴史にも大きな位置を占めるものとなりました。
1950年代まで日本の官庁の建築・土木の技術水準は、常に建設産業界をリードする力がありました。計画・設計から重要視されたコンクリート打設まで官庁の技師・技手が厳しい監督を行いました。 建設会社がゼネコンとして成長するまでは、実力のあった官庁等の建築技術者は、大きな権能を発揮し社会的にも高い評価が与えられていました。