その3  村瀬 寛高

8月17日 ぼくの夏は終わった。

ツアー二日目 ― 運命の朝 ―

  「寒いっ!」。2日目の朝、南国とは思えないような寒さで目が覚めた。寝ボケた頭にこの寒さ。一瞬、自分が何処にいるのか分からなくなるが、目の前に広がる青い海が「西表にいる事」を実感させてくれた。コットの上でゆっくり身体を起こし、ぼんやり海を眺めていると、頭の中で昨日の出来事が再生され始めた。
 緊張の面持ちで星の砂を出発し、海ヘビと挨拶を交わしたあと、沖の海で 2Mのウネリに遊んだ事や、自生するパパイヤや貝を採って、味噌汁の具とおかずにした事、そしてぼくの釣上げた魚(ダツ)を「それおいしくないから」の一言で逃されてしまった映像が頭の中を流れていく。
 しかし、昨日出発した時は正直言ってうまくバドリングが出来るのか不安であった。と言うのも、三浦キャンプの練習会にはギックリ腰で参加する事が出来ず、今回のツアーがカヤック初体験にして、ぶっつけ本番となってしまったのである。(村セ家は、腰が弱い家系なのだ)
 他の挺について行けなかったらヤダなぁとか、一日中漕ぎ続ける事が出来るのか? とか、沈をしたらどうしよう....などアレコレ心配していたけれど、一旦海に出てしまえば何とかなるもので、カヤックは安定しているし、周りから遅れる事もなく漕ぎ続ける事が出来た。まァこれは、カヤック自身の性能の良さと、仲村さん池上さんのペース配分の良さ、そしてパートナーの畔上さんのフォローが大きかったのだと思う。多謝。
 また、しばらく海を眺めていたら「上々颱風」の「愛より青い海」という曲が頭に浮かんだ。この歌の歌詞に「ひとはみな青い海の向こうからやって来た」という下りがあるのだけれど、まさかこの数時間後に海の向うの病院に行く事になろうとは思ってもいなかったのである。

運命のとき ― その時ぼくはその場所で ―

 朝食をすませ伊藤さんのいれたコーヒーを飲み、キャンプサイトを片付けたらさあ出発。陸に上げたカヤックを海に戻し、ゆっくりと漕ぎだす。身体は幾分疲れているものの、パドルを漕ぐ事にも慣れて来たので、昨日よりも調子良くカヤックは進んで行く。
 今日はなからがわ仲良川をさかのぼり、上流にある滝を見に行く予定である。この川は、まだ観光船が入っていない川で、カヤックを漕いだ者しか見る事の出来ない滝があるらしい。
 海から河口に入りしばらく遡ると、空にはカンムリワシが舞い、両脇にはマングローブやアダンの葉が繁る。そして水の中には見慣れない魚が泳いでいる。全くもって南の国のお手本のようなロケーションだ。とても日本とは思えない。
 更に川をさかのぼると川幅もぐっと狭くなり、川の水が淡水に変わる。すると周りの植物の様子も変わってきて、いつの間にやら山の雰囲気の中を漕ぐようになる。
 ほどなくして行き止まりとなった。カヤックでやって来れるのはここまでで、ここから滝までは山道を歩いて行くのだそうだ。道はところどころを木や岩に遮られており、手足を使わないと前に進めない。このような道を30分に歩くと、目の前がパッと開け滝が現われる。いわゆる瀑布と言われる滝で、10Mくらい上のてっぺんから落ちる水は、一旦張り出した岩に当たり、そこから 2Mほど下の滝つぼに落ちて行く。
 仲村さんが言うには、その岩の上を歩いて行けるらしい。早速仲村さんが岩の上を歩いて行く。それに伊藤さんが続く。それを見ていた畔上さん、池上さん、そして村セの 3人も滝に向かうが、途中で畔上さんがすっ転んでヒザをすりむいてしまった。とっても痛そうである。結局畔上さんはこれ以上行く事を断念したが、池上さんとぼくはひるまず滝に近付いて行った。
 そして二人が順番に岩の上を歩き始めたとき「おちる!!」と叫ぶ声が聞こえてきた。どうやら先行していた伊藤さんが足を滑べらせ滝ツボに落ちたらしい。
 確かに、下で見るより水量が多く、足もとも滑べりやすい。
 これはチト危険だと判断して、池上さんとぼくはその場から滝つぼに降りる事にした。岩の張出しの先端まで行き、そっと滝ツボに飛び込んだ。
 その時である。左のヒザに強い衝撃が走った。隣でも池上さんが「イテー」と叫んでいる。どうやら水中に隠れていた岩にヒザをぶつけたらしい。
急いで陸に上がりヒザを見てみたら、傷口からお皿が見えているではないか!!
 マズイ、やってしまった。旅行で一番やっては行けない事をやってしまった。
(ちなみに、伊藤さんはアゴを、池上さんはお尻を打ったけど、大事には至らなかった)
 取り敢えず傷口の消毒をして包帯を巻いたら血も止まったので(さすが本職の巻きは違います)、このまま山を下る事になった。
 おやっ! 歩けるぞ。多少痛みがあるものの普通に歩けるよ。なんだ、なんだ大した事ないではないか。はっはっは。普通にスタスタと歩くぼくの姿を見て他の人も安心したらしく、カヤックの止めてある所まで戻ったらお昼を食べて、それからから川を下る事になった。
 この時はまだツアーを続けるつもりでいたのだが...

西部診療所

 西表島に病院はない。 2つの診療所があるだけだ。このうちぼくは西部診療所に向かった。診療所では足を折った小学生の男の子が診察を受けていて、すぐに石垣島へ行くように言われていた。診療所には入院施設がないので、入院が必要な患者さんは石垣島の県立病院に行かなくてはならないのだ。ちょっと不謹慎だけど、島の暮らしの大変さを目の当たりにした事で、自分が南の果てにいる事を実感した。
 そうこうしているうちに、ぼくの順番が回って来た。さっさと傷口を縫ってもらいツアーに戻りたかったけれど、先生は処置を施すどころか、レントゲン写真を見て、しかめっ面をしているではないか。結局、2度目に撮った写真から皿が割れている事が判明した。またこの怪我は開放骨折になるので、ここでは処置が出来ないとも。
「ンっ! と言う事は、ぼくも石垣なの?」
 まずいなぁ。話が悪い方に大きくなってしまった。しようがない。ジタバタしても始まらないので、石垣できっちり処置をしてもらい、明日西表に戻って来るつもりで石垣島に渡る決心をした。

県立八重山病院と言うところ

 話が前後するが、石垣島がこれほど町であるとは思っていなかった。「島にないものは高速道路と電車だけだよ」とは、病院に向かうタクシーの運転手の台詞だけど、まんざら嘘でもないなと思う。ただ、町の雰囲気は内地と明らかに異なる。例えばそれは街路樹や家の造りに現われいたり、道を行く人々の顔などから感じる事が出来る。
 さて、港から内陸部に向かい車で 10分も走れば県立病院に到着する。すでに外来の診察時間は過ぎているので、救急治療室に連れて行かれた。部屋に入ると西表の診療所にいた男の子がベッドに寝かされ、手術を待っていた。付き添いのお母さんに軽く会釈をしてぼくもベッドに横たわると、すぐに先生がヒザの様子を見てくれた。
「あ?、これはすぐに手術が必要だねぇ」と、先生。
「えっ? 手術ですか?」と、ぼく。
「そう。お皿の洗浄とキズ口を縫合するんだ。」
「もしかしたらお皿をワイヤーで固定するかもしれないよ。」
「それと 4週間は入院が必要だからね。」
 がぁぁぁぁん。終わった。ぼくの熱い夏が終わってしまった。
「よっ、4週間の入院が必要....」
意味もなく先生の言葉を繰り返すぼく。相当動揺している。
「そう。早い人で 4週間だからね。」
 これでもか、これでもかとトドメを指してくる先生。先生、もうぼくは虫の息さ。
 この日、大勢の患者さんが西表から石垣に渡ったらしい。おかげで随分と手術を待つ事になったのだが、その間ついつい居眠りをしてしまった。やっと手術室に運ばれた時は、既に 2時間近く経っていたと思う。さて手術台の上に寝かされマナ板の上の鯉のような姿で麻酔を待っていたら、いきなり頭の上に点滴の容器が落ちて来た。痛いよ看護婦さん。アニメじゃないんだからトンカチ麻酔は止めてよ。なんだよー。なんでケラケラ笑いながらぼくの頭を撫でてるんだよー。
 こんな調子で下半身麻酔をする事になった。腰に麻酔注射を打った瞬間、両足にドっと血が流れ込むような感覚に襲われる。それから徐々に痛みや冷たさを感じなくなるのだが、なぜか触覚だけは敏感になるような気がした。足が痺れた時のあの感覚がずっと続いているのである。こんな状態で傷口を触られたら、笑いながら暴れるから非常に危険だ、と先生に話したらすぐに鎮静剤を打ってくれた。これが実に良く効いて、とても気持良く寝てしまった。だから手術の記憶はまるでなく、次に気が付いたのは病棟のベッドに移される時であった。
 翌朝、自分の左足の状態を確認してみた。全体がギブスで固められヒザは全く動かない。あらためて怪我を実感する。しばらくすると担当医の先生がやって来て、手術の事をいろいろと説明してくれた。ぼくのお皿は割れ切っておらず、わりとしっかりしていたので、お皿を洗浄して傷口を縫っただけと言う事だ。つまり大きなひびが入っていると言う事らしい。だが、やはり入院は 4週間くらい必要だと言われてしまった。
 はっきり言って 4週間は長い。仕事や家の事で回りに迷惑を掛ける事になる。何かしら手を打たんとまずいなぁ とぼんやり考えていると、看護婦さんがやって来た。とても気さくでかわいい。うーん。このままここでゆっくり治療しても良いかな...。看護婦さんと入れ替わりで、今度は伊藤さんがやって来た。ぼくの今後の事を相談に来てくれたのだが、最初の言葉が「あの看護婦さんかわいいね」である。
 さすが目の付けドコロが伊藤さんだ。あの細い目は必要なものだけを見るために進化した、究極の形なのかも知れない。
 まぁ、それはそれとして、結局ぼくは予定通りに川口に帰る事にした。と言うのも、帰りのチケットが全く取れない事と、一緒に帰る人がいた方が安心出来るからだ。また足を直すにも、自分の家から近い方が何かと便利だ。看護婦さんと分かれるのは辛いけど、ここはぐっと堪えるのが男なのだ。

北へ

 3日後、伊藤さんと畔上さんが病院まで迎えに来てくれた。石垣空港には他のメンバーがいて、あっと言う間にギブスに落書きをされてしまった。ヤメレと言うのに誰も聞きやしない。おまけに那覇空港では、土産物屋のおばちゃんまでもが「私にも書かせて」とマジックを持って出て来る始末。一体どうなっているのさ。
 さてこの後、沖縄本土で一泊し、翌日沖縄観光をしてから本州に帰るのだが、それはもうカヤックツアーとは別の話なので、これでツアー報告は終わりにしようと思います。

 ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。

おまけ

 お世話になった皆さん、ありがとうございました。11・28現在、ぼくはまだリハビリを続けています。普通の生活をする分には問題ありませんが、まだ走ったりする事は出来ません。完治までまだもう少し掛かると思いますが、足が治ったあかつきには、また一緒に遊びましょう。

おわり


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