あづさの世迷言   *三号のおんな*

 わたしが税金を納め、選挙に投票に行くのは、わたし一個人の利益と幸福追求のため、我が国が誇る有能なる公僕たちをあごでこき使う権利のダメ押しをするためである。幻想だけど。

 わたしが年金を納めるのは、オトコに捨てられたときの痛手を精神面のみにとどめ、経済的ダメージを最少にするためである。オトコに捨てられない努力より、捨てられたときのセーフティネットを考慮するあたり、すでに「オトコに愛されない女」状態に突入しているとも言えるが…ほっといてよっ。

 じつはわたしは二号さんである。

 なんのハナシって、もちろん年金のハナシである。だったら「さん」はいらないか。

 このごろさかんに取り沙汰されている年金制度崩壊の危機と保険料不平等負担の問題で、第三号被保険者の立場が非常に苦しくなってきている。苦しいというより追い詰められてもはや絶望的である。

 専業主婦にも事情や言い分はあるのだろうが、いまや専業主婦はあまたある女のライフスタイルのバリエーションのひとつにすぎない、というわたしの認識をもってすれば、年金という老後の命綱にただ乗りできる特権はやはり問題ありすぎにみえる。もっと事情も言い分もありそうな母子家庭ですら保険料を支払わされている一方で、サラリーマンの妻でかつ年収が130万円以下というのどかな理由で保険料負担を免除されるのは、働き続ける女や離婚・未婚の母子家庭が珍しくもうしろめたくもないご時世であれば、不公平のそしりはまぬがれないと思う。それにいまどき一馬力で妻子を養える甲斐性のあるサラリーマンというのは希少価値だから、専業主婦できるのはステータス、という理論も成り立つ。

 しかしまた、専業主婦が恵まれた特権階級であると言い切ってしまっていいものかどうかの疑問もある。

 いま離婚裁判は破綻主義である。夫が勝手な理由で一方的に家を出たとしても、原因をつくった夫の側から離婚を請求することだってできちゃう。ある程度の別居期間があれば、どちらが悪いにせよその結婚は破綻して修復不可能なんだから、ねぇ奥さん、ぐずぐず言わずに離婚に応じなさいよ、あんたも新しい人生を始めなさいよ、と裁判所は気楽に言ってくれるのである。ところが日本では慰謝料を裁判所の命令どおりに払う夫は少ないらしいから、かくして妻は家族のためによかれと思って選んだはずの専業主婦があだになって就職もままならず、もと夫からの仕送りもなく、憐れ低所得者層へまっさかさま、離婚女が生活保護を受けなければ生きていけない環境はこうして整えられる。離婚件数が年々新記録を更新している一方で、目の前にちらつく貧困がネックになって離婚したくても踏み切れない女も多いと聞く。壊れた結婚にでもしがみつかなければもらえない三号年金って、いったい誰のためのものなの?

 専業主婦の甘い夢にさらにシロップをかけてべたべたにしてくれているのが、ちかごろ流行りのスーパー主婦である。彼女たちがやっているのは、うんざりするような終わりのない日々の家事をおしゃれに演出し、視点を変えさせることだ。つまりは気の持ちようってこと。

 かつて50〜60年代に巻き起こったいわゆる「主婦論争」では、家事労働の対価や主婦の存在意義をめぐって激しい議論があり、梅棹忠夫の「妻無用論」など識者の意見が世論をわかしたが、いま、女の生き方はあくまでもファッションのレベルで語るべきものであってイデオロギーにしてはいけないらしい。イデオロギーって最初はかっこよさそうでも結局はダサイところに着地するから、おしゃれ度最優先の人種には好かれないしね。

 しっかし。「主婦の片手間仕事」をウリにしていたはずの栗原はるみらが、いつのまにやらいっぱしの実業家として一本立ちしてしまっているこのちゃっかり現象をいつまでも好意的に見ていていいものだろうか。たち悪いなぁ主婦をくいものにしやがって、と思うのはわたしのひがみなのか。女が脚光を浴びるその陰で、いちばんいい思いをしているのはいつの世も男、と思うのはわたしの被害妄想なのか。

 しょせんは料理タレントをスーパー主婦と持ち上げて専業主婦幻想をまきちらす商売が繁盛するかぎり、三号の女が抱える「板子一枚下は地獄」の現実はうやむやにされ、三号のご当人たちにすらその危機感は伝わらないのではないか。わたしが心配する義理もないが、わたしの納めている年金の行方が気になるもんで。



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