あづさの世迷言   *魔性の女*

  べつに不満があるわけではないが、こと男に関する限りわたしの人生はめりはりがない。

 世間さまから男出入りをうしろ指さされるためには、少なくともふたり以上の男が存在して、同時または時をおかずして出たり入ったりしてもらわなければならないのだから、わたしには男出入りはない、と断言していい。日々の仕事が慌ただしく殺伐としたものなので、私生活くらいはゆったりと心やすらいだものであってもいいではないかと思う一方で、花の命の尽きるまえに(まだ尽きていないつもり)一度でいいから「魔性の女」と呼ばれてみたいという気がしないでもない今日このごろ。

 4月、学生時代の友人がインドへ旅立った。インド人の妻となってボンベイで暮らすためである。

 インドにたどりつくまでの彼女の恋愛生活がすごい。

 学生時代からのボーイフレンドと別れて職場の同僚と結婚。結婚してみたらハンサムでエリートなはずの夫がじつは超スーパーウルトラマザコン男だということがわかって即離婚。離婚後再就職した先で10歳年上の恋人ができたが、彼は二股愛男でじつは別の女と婚約中の身、すでに結婚式場まで決まっていた。あしたがその結婚式という日に土下座で告白されてすったもんだのあげくに式はドタキャン、相手の女からのいやがらせを受けて彼女は一時はノイローゼに。そんな不実な男との仲も長く続いたがなかなか結婚に踏み切れないでいたら、同じ職場でインド支社から本社研修で派遣されてきた10歳年下のインド青年に見初められ、モーレツアタック(これって死語?)のすえついに陥落、出会いから一年後には結婚することになったのであった。

 わたしがHとのどかに縁側でお茶をすすっていた歳月、彼女はひとりこんな修羅を生き抜いていたのである。まさに波乱万丈、80年代のトレンディドラマもまっ青のジェットコースターライフではないか。あの野島伸司だって内館牧子だって「インド人」なんてカードまでは出さないはず。わたしの交際範囲のなかでは、男の数だけでなく年齢も国籍もその守備範囲の広さにおいて文句なく魔性度断然トップである。

 出発前に彼女の爪のアカでももらっておけばよかった。遠く離れてもいつまでもたいせつにしたい友人のひとりである。

 思えば彼女は職場でのセクハラについてもよくこぼしていたが、わたしはこれさえも縁がない。

 以前わたしの職場にいたマネージャーのひとりはエグゼクティブを絵に描いたようなひとで、アルマーニのスーツに身を包み世界の空をファーストクラスで駆け巡って商談をまとめながらも常にシェイプアップに余念がなかった。会員制高級ジムで鍛えた肉体がご自慢で、ときどきシャツをはだけてはヒクヒク動く大胸筋を女性社員に見せつけて喜ぶナルでセクハラな奴だったので、大胸筋の目利きにかけては自信もあり紅一点の部下でもあったわたしは、彼の魔の手が迫りくる日「Xデイ」を覚悟してシュミレーション万全心臓ばくばくで待ちわび…もとい待ち受けていたが、彼の退職までとうとう最後まで一顧だにされなかった。わたし=女、という事実に気づかなかったのか、はたまたわたしはすこぶる魅力的だがルームメイトHの大胸筋のうわさを聞くにおよんで怖気づいたか、いまとなっては解明するすべもない。

 時代はもうすぐ21世紀。マリリン・モンローもブリジット・バルドーも前世紀の遺物にならんとしているいま、藤原紀香ももうふるい。いまや世界はわたしのような新種のファム・ファタールの出現を待ち望んでいる。(という気がすごくするのはわたしだけ?)

 自他ともにみとめる魔性の女となるためには数を稼いで実績を積まねばならない。地道な努力と着実な成果、これはサラリーマンだろうがおミズだろうがプロならどこの世界でもたいせつだ。

 しかし思うに、オトコの数にどんな意味があるというのか? 数が多ければいいというものでもあるまい。たいせつなのは量より質ではないのか? どうでもいい不特定多数からちやほやされるより、たったひとりのひとから心底たいせつに思われるほうが人生幸福なのではないか?

 いい歳して青くさいことを言っているからいつまでたっても魔性が身につかないのだとわかってはいるのだけれど。


世迷言インデックストップページ

ご意見ご感想はこちらまで