あづさの世迷言   *病めるときも*

  母が糖尿病で入院している。

 病院勤務が長かった母はみごとなまでに病院ズレしていて、病院素人なら入院でもすれば弱気になって医者たちに対しておどおどへこへこと低姿勢になるものなのに、彼女の場合じつに堂々としている。母にとっては引退したあとも病院はまだ「職場」なのだ。病院の廊下を歩く彼女の足さばき目配りはただ者ではない。見る人が見れば、そのスジのひと、とわかるはずだ。

 寝たきりの病気ではなく、むしろ日頃の運動不足を補い生活リズムの乱れを矯正するための強化合宿であるから、万歩計をつけて街に出てひたすら歩く。食事療法の授業もある。昼間は滅多にベッドに横になっていることはない。院内でもトレーナーにジーンズ、ウォーキングシューズで歩き回り(寝巻はまるで病人みたいでいやだというのが彼女の弁である)、見舞客が道に迷っていれば案内役を買ってでるわ、よその患者が困っていれば手を貸してあげるわ、喫煙コーナーでは立膝で煙草をふかすわで、母を付添婦さんだと思いこんでいるひとはかなり多い。しかしここの病院は完全看護だからじつは付添婦さんはいないのだ。

 今回の入院では、担当医がいつもの経験豊富な女医さんに代わってまだ20代とおぼしき青年になった。自分の診立てに自信がないのかシャイな性格なのか、はっきりモノを言わないので、彼の説明ではどこが悪いのか、薬で治るのか手術が必要なのか、良性か悪性か、死ぬのか死なないのか、まるで要領を得ない。飛び蹴りを入れたくなるようなグズ男である。妹は、彼が症状を説明するときに手のひらに書き込んだアンチョコをカンニングしていることを発見してしまい、ひょっとしてこれがデビュー戦かも…と怯えていた。

 母のほうは以前から悪かった左の耳が最近さらに悪くなり、大きな声で正しくはっきり言ってもらわないと聞き取れない。もともとひとの話に耳を貸さない性格なのでいまさら耳が悪くなっても困っているふうでもない。
 こんなふたりがうまくいくわけがない。

 ある日部長先生回診のときに、その「お坊ちゃまくん」の目の前で母は日頃の不満をとうとうと述べて改善を求めたそうで、「病院のためにもなることだからこういうことははっきり言わなくちゃ」と本人は正しいことをした気になっていたが、お坊ちゃまくんにしてみれば上司の前で完璧にメンツを潰されたわけで、それを聞いた妹とわたしは、主治医の恨みをかって治る病気も治してもらえなくなるのでは…と蒼くなった。ふたりでバレンダインデイにお坊ちゃまくんに義理チョコを贈り、なにとぞよしなに…と頭を下げたことを母は知らない。

 母の隣の病室に竹脇無我が入った。30年も前、東芝日曜劇場などで数々の向田邦子作品の主役を張った二枚目役者で、「だいこんの花」の森繁久弥の息子役、「大岡越前」の小石川養生所の医師藤原伊織役でもある。彼もやはり糖尿病だそうだ(極秘入院かもしれないので、ここだけのハナシにしてください)。

 母の闘病生活にいっきに花が開いた。
 毎日、検査室で竹脇無我と並んで血糖値や血圧を測り、竹脇無我と並んでパジャマの前をはだけてお腹に注射を打つ。食堂でご飯を食べるのも一緒。喫煙所で煙草を吸うのも一緒。すっかり追っかけと化している。お風呂を使う時間までチェックしているようなので、さすがにそこまでしたらストーカーだと注意した。

 かくいうわたしも根はミーハーなもので、お見舞いにどんな芸能人が来るのかチェックするように頼んだのは言うまでもない。ひょっとしてなにかの縁で、反町隆史や竹野内豊や織田祐二や西城秀樹や杉良太郎やグッチ裕三が来ないともかぎらないではないか。芸能界は意外なひとがお友だちだったりするものだ。そしてなにかのご縁で話をするようになって意気投合、酔水会へ勧誘…というのがわたしの野望である。

 竹脇無我ひとりでじゅうぶん盛り上がっていたところに、水谷八重子だか良重だかも入院してきた。「シンデレラは眠らない」のロケで安達祐実や上川隆也らが出入りしていたと思ったら、今度は「ビューティフルライフ」のロケが始ってあのキムタクが! 母はもう興奮のるつぼ。治療もそこそこに、こんなことしてる場合じゃない、と10秒チャージ2時間キープで院内を走り回っている。ますます病人には見えなくなってきた。


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