あづさの世迷言   *ER 緊急救命室*

  わたしは何代も続いた生粋の埼玉っ子で、親譲りのせっかちで、何事も手早いのが性分である。
 プールでの着替えも男並に早い。沼影では、ルームメイトのHと同時に更衣室に入って、プールに出てくるのもほとんど同時。べつに競っているわけでもなく、フツーの手順でフツーに着替えているだけなのに。
 高校の水泳部時代も、泳ぐのは遅かったが、着替えだけは関東大会クラスの選手よりも早かった。

 ある日の沼影の練習会で、いつものようにすばやく着替えて出てきたわたしを見て、大澤君が言った。「家から水着を着て来るんスか?」
 失礼な、小学生じゃあるまいし、この齢になってそんなことはいたしません。実際、わたしが家から水着を着てプールに通っていたのは小学校四年生まで、それも夏休み中のプール公開のときだけで、五、六年生のときは上級生用に女子更衣室があったので、ちゃんと学校で着替えていた。

 沼影でも、家から水着を着てきていらっしゃるご婦人方をしばしばお見かけする。ばばっと服を脱いで、へいっ一丁あがりっ、てな具合でたいへん便利そうである。しかし、わたしにはとても真似をする気にはなれない。想像力豊かなわたしの脳裏に、決まってある光景が浮かんでくるのである。
 …ある日、たまたま家から水着を着てプールへ行く気になったわたし。沼影までのいつもの道を自転車でゆく。とある交差点にさしかかったところで、一旦停止をしない車が猛スピードで突っ込んでくる。急ブレーキの音。激しい衝突音。飛び散るガラス。ぺしゃんこの自転車。スローモーションで倒れて意識を失うわたし。救急車のサイレンの音。血まみれのわたしを乗せた担架が夜の病院の廊下を走り抜ける。緊急救命室で待っていた、細身で憂いを含んだ瞳の、白い額に落ちかかるさらさらの髪がせつなげな若きインターンが、その華奢な指に握ったメスでわたしの衣類を切り裂く。「うわっ、な、なんだ、この患者、服の下に競泳用水着を着ているぞっ!」
 こんなまぬけな事態だけは避けたい。激しく、絶対に、断固として、避けたい。
 以上が、わたしが決して水着を着て街なかをうろうろしない理由である。夜の救急病院でこんなことが実際に起こっていないかどうか、「ナースコール…」欄担当のかきくけこ嬢にぜひうかがってみたいものである。
 ところで、日頃から疑問に思っているのだが、男のひとにも家から水着を着てくるひとはいるのだろうか?

 酔水会会員のNさん(匿名希望)のことを思い出した。
 ある日、彼女は沼影プールで一時間たっぷり泳ごうと、着替えの時間も惜しんで水着を着て車に乗り込んだ。大宮の自宅から車で来るのは初めてではない。道順は知っているはずだった。ところがどうしたことか、その日は国道17号をどこで曲がるのかわからなくなり、気がついたら東京外環道も通り過ぎてしまった。完全に迷子になって、結局プールにはたどり着けず、水着を着たまま空しく家に帰った。
 沼影には、こんな哀しいおはなしもあるのです。


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