あづさの世迷言   *めざせ、知的な女*

  前回、簡単にら玉のことを書いた。さっそく作ってみた読者もいたようで、改めてジャーナリズムというかマスメディアというか酔水新聞というか、ま、とにかくそういったものの社会的影響の重大さをひしひしと感じ、筆者として身の引き締まる思いをした次第である。えへん。

 さて、今回も性懲りもなく料理のはなしである。
 「簡単でおいしい」は家庭料理の基本だが、わたしが書くと「簡単」よりも「手抜き」の印象が前面に出てしまうのはなぜだろう。「簡単」からは知性が感じられるが、「手抜き」からは当然のごとく怠け心しか感じられない。

 女にとって、いまをときめく花形職業は、栗原はるみに代表されるスーパー主婦であろう。ただの主婦なのに料理の本を出している。ただの主婦なのに海外旅行のレポートをしている。ただの主婦なのにお皿やエプロンのデザインをしている。ただの主婦なのにハルラーと呼ばれる熱狂的信者がいる。

 ただの主婦なのにちょっとおしゃれで、ちょっと料理が得意で、ちょっと賢そうで、ちょっとお仕事をしてみたら人気が出ちゃった、でもやっぱり本業は主婦なのよアタクシ、というスタイルが人気をあおるところらしい。「ちょっと」がポイントだ。ひとさまの反感を買うような美貌や財産があっては、この人気はけっして得られない。結婚して、あくせく働いて、子供はうるさくって、部屋は散らかっていて、夫婦喧嘩が絶えなくて、住宅ローンはしんどくって、というのが多くの家庭の場合真実だと思う。その点、栗原さんちは子育ても済んでいるらしいし、サラリーマンの夫は停年まで無事勤め上げてくれそうだし、家は一戸建てだし、はるみさんは優雅に快適に主婦業をこなし、その片手間にお仕事を楽しんでいらっしゃるようにみうけられる。ああ、10年後にはわたしもああなりたい、と多くの女は首までつかった泥水のなかで思うのだ。

 そっかー、ただの専業主婦をウリに金もうけができるんだー、というのが、正直なわたしの感想である。お金のため生活のため十何年あくせく会社勤めをしてきて、今になって足元をすくわれたような気分だが、わたしの考えでは職業に貴賎はなく、手段がなんであれ女ひとり食べていくだけの経済的基盤が夫とは別に確保されればいいので、専業主婦が会社員と同じくらい金になるならわたしも転業してみようかな、なんて考えてしまう。幸いなことに、わたしもはるみさんと同様ひとも羨むほどの美貌も財産も持ち合わせていない。ポスト栗原はるみの資格は十分ある。
 ベストセラー本、「栗原はるみのすてきレシピ」を読んだ。ビックリするほど簡単なメニューが載っていた。たとえばブロッコリーの炒めもの。茹でたブロッコリーをニンニクのみじん切りといっしょに胡麻油で炒めて塩胡椒するだけ。ごらんのとおり、わずか40文字で足りるようなメニューである。そっかー、こんなので本出していいんだー。こんな本で印税がっぽりもらっていいんだー。

 むかし読んだ向田邦子の料理の本を思い出した。才媛の誉たかく、美人で、育ちもよく、キャリアウーマンが目指す最高峰チョモランマのようなひとだが、料理は拍子抜けするほど簡単だった。 
 トマトのサラダ。トマトをスライスして青紫蘇のみじん切りを飾って和風ドレッシングをかける。それだけ。
 ねぎ焼。長ねぎを5センチに切って網で焼いて醤油をたらして香りをつける。それだけ。

 えーっ、ほんとにそれだけ?天下の向田邦子がこんな本を出していいの?と本気で心配したが、妹と経営していた赤坂の料理屋でも実際に出していたメニューだというから、本人が悪びれず堂々としていれば世間は受け入れてくれるものらしい。美貌の直木賞作家の作る食べ物という付加価値がつけば、簡単な料理も手抜きとは呼ばれず「シンプルでおしゃれ」という形容詞を与えられる。向田の場合、それに加えて夭逝という悲劇のエッセンスがふりかけられる。

 つまりは作る人のひととなりがポイントなのだ。あの向田邦子がねぎを焼くから「ねぎの風味をみごとに引き出した風格ある一品」になるのであって、わたしが焼いたら、ルームメイトから「もっと工夫しろ」とケリが飛んでくるだけだ。

 世の中は矛盾に満ちている。


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