兵庫の天女(立花梓)

 世の中、不況の真っ只中である。リストラも厳しいが、運良く(?)会社に残ったひとたちもまたべつの嵐にさらされている。以下は、わたしが出張先で出会った哀しくもたくましい女性のものがたりである。

 庫県にある某超大手鉄鋼メーカーは減産につぐ減産、リストラにつぐリストラで、その広大な工場は社員の姿も車の出入りも少なく、生産ラインの多くは停止している。彼女は業務部の一般事務職であるが、ここ数年の人減らしにより、原料の買いつけやコスト管理などいままで男性社員の聖域であった分野まで仕事を任されている。会議や出張をこなして、かつ女子社員に課せられた呪縛的伝統的仕事までもこなさなければならない。このまえの月、残業は百時間近くにまで達した。だが会社が支払った残業代はわずか三時間ぶん。なぜなら、彼女の立場はあくまでも一般職であり、その会社の基準からすると、一般職は月に三時間以上残業する「はずがない」ことになっており、それ以上の残業は本人の事務処理能力に問題がある、と考えているからだ。すごい論理。

 工場の朝は早い。八時半には席に着く。会社は、制服に着替える時間や机を拭いてまわる時間を労働時間とはみなさない。(ちなみに、生産ラインのひとたちは八時!に持ち場についているという。わたしがまだ家で寝巻きでいる時間だ)工場だから労働時間はチャイムで仕切られていて、お昼休みはぴったり四十五分。でも忙しくてその四十五分すらまるまる休めることはない。ほとんど毎日、夜八時ちかくまで残業だ。

 彼女は中学生ふたりのおかあさんでもある。夫とこどもと彼女の四人ぶんのお弁当、こどものおやつと夕食を毎朝つくる。こどもはサッカー少年だから毎日洗濯物がどっさりでる。夫は彼女とおなじ工場に勤めているが、別の部門でやはり仕事がきつく、朝七時に家を出て夜十時にならないと帰ってこない。だから家事やこどもに関する仕事は百パーセント、彼女が負担している。

 これを不当と言わずしてなんと言おう。わたしは不幸の権化のようなこのひとに心から同情の意を表したが、ご本人は目の前でにこにこと屈託がない。彼女いわく、たしかに体はきついけど、でも仕事は前より楽しくなった。人手が足りなくなったせいでじぶんにチャンスが巡ってきた。いまの仕事には一般職では味わえなかったおもしろさがある。子育てもまた別の楽しさをあたえてくれるから、手抜きはしたくない。夫はじぶんより長時間労働でもっと疲れているから、家事を頼むのは気の毒で…

 まるで天女である。

 彼女が人生を前向きに生きていることは正しいにしても、会社や夫は、彼女の善意と有能さにつけ込んでズルをしている。彼女にかかるプレッシャーは、リストラされたり労働強化されたおとうさんたちの比ではない。地方という特異性が都会よりもさらに大きな圧力で彼女を押さえつけている。さらに悪いことに、いつか景気が戻って男たちが職場に復帰してきたとき、つぎに彼女にどんな試練が降りかかってくるか、答はあきらかだ。

 思わずわが身を振り返って、東京圏に生まれた幸運、ルーズな社風の会社に職のある幸運、家事能力のない幸運、家事能力に恵まれたルームメイトのいる幸運、男に家事を押しつけても後ろめたさを感じない神経を持ち合わせた幸運、などなどわたしを取り巻くあらゆる幸運に感謝を捧げたのであった。そして、わたしはなにがあっても絶対に天女にはなるまい、と決意を新にしたのであった。文句あっか。

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