2003-01-12
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―PEKE―
「いらん」
カナンはそう云って差し出された上衣を叩き落とした。途端、彼の職務に忠実で有能なボディガード兼、従者の顔が一瞬呆気にとられ、次いで哀し気なものに変わる。何がお気に召さなかったのかと悩むのがありありと判るその表情。だが、彼の主君たる人は彼のそんな様子を見ても冷たい視線を寄越すだけ。それどころか、くうるりと困り顔の彼に背を向けて腕を組んでしまう始末。
困った。一体ぜんたいどうした事だと彼―――セレストは主君であるカナンの様子を気にしながら上衣を拾い上げ、パタパタと付いてしまった埃を叩き落とす。
先程までは上々と云って良い感じだったのに、一瞬で転じてしまったカナンの機嫌。横を向いてしまったからにはカナンの口から説明を聞ける期待も持てず、仕方なく、カナンの部屋を出た辺りから思い返す事にした。
そう、今日も今日とて、セレストがカナンの部屋に伺えば彼の人は有ろう事か窓辺に手を掛け既に脱出準備中だった。セレストが慌てて止めに入ろうとすれば「遅いじゃ無いか」の一言。はて、今日は何所かに出かける予定でもあっただろうかと考えては見るが、カナンは通販で取り寄せたと云う市井の若者が着るような衣装で、しかも窓から出ようとしているのだ。冒険者ギルドに登録していた時とは事情が違う。
「カナン樣、どちらに行かれるおつもりですか?! 本日カナン様が外出するなどと云うお話、私はうかがっておりませんよ」
「相変わらず頭の堅い奴だな」
セレストは部屋を大股で横切りカナンの居る窓辺まで歩み寄ってはみたものの、当のカナンは慌てるでも無く泰然と構えており、その口元には余裕の笑みが浮かんでいる。
「近頃城下では神仏に今年一年、恙無く過ごせるようにお願いをしてから『おみくじ』なる占いをするのが流行っているそうじゃないか。僕達もそれをしに行くぞ」
「行くぞ、って決定事項ですか?」
セレストが眉間に皺を寄せて情けない声をあげれば、カナンはむっとした表情の後に口を尖らせながらぶつぶつと何事かを云っているが、声が小さ過ぎて何を云っているのか分らない。
「あの、カナン樣?」
大切な主君の言葉をちゃんと受け取ろうと屈み込んでカナンの口元に己の耳を近付ければ、セレストの行動が予測出来ていなかったのか反射的にカナンが顔を仰け反らせる。その頬が紅く染まっているのは気のせいではあるまい。
「だ、だからっ、そうゆうのが城下の恋人達の間で流行っていると聞いたから………僕はっ………!」
カナンの口から出た『恋人達』の台詞についつられてセレスト迄赤くなる。カナンの行動は読み難い。何所でどう云った知識を何時の間に拾ってこられるのか、異国の行事とか、城下の若者達の流行りとかそんな事に興味を覚えられる。少し前迄は如何にも子どもじみた好奇心が優先していたのに、このところ凝っておられるのは所謂『デートスポット探訪』なのだ。
そう、デートスポット。基本的に1人では行き難い所。右を見てもカップル、左を見てもバカップル。いくら人目など気にしない質のカナン(いや、この場合人目を気にしていないのはまわりの他のカップル達か?)と云えどもそのような場所には出掛け難いだろう。いや、1人で行っても楽しい場所でもあるまい。この場合、『2人で』行く事が大前提なのだ。
―――2人。
1人はカナン。ではもう1人は?
「僕だって、一応は控えていたんだぞっ! 年末のお清め行事で騎士達が借り出されるのは分かっていたし、父上の年始の挨拶が無事終了する迄は近衛の騎士達全員がバルコニー付近の警護にあたるのも毎年恒例の事だし、僕だって王族の務めとして各方面への挨拶が済むまではちゃんと大人しくしていたじゃ無いか。
その上で、お前の時間がとれるのを待っていたんだぞ。それとも何か、お前は僕が他の誰かと行けば良かったとでも云うのじゃないだろうな? 僕は、お前と、セレストと行きたかったからこうして………!」
なんだかんだ云ってもカナンが自分以外の人間と城下にお忍びで出かける事が無いのをセレストは知っている。以前は、一応王族としての体裁を繕う為に出来るだけ多くの人物に知られないようにと云う気遣いと、気が付けば何時も側にいて遊んでいたと云う乳兄弟のような気安さも手伝ってセレストが巻き込まれていた。だが、最近は違う。「セレストと行きたかったから」なんて云われてどうして断れようか?
カナンはセレストの大事で大切な主君であると共に、愛おしくて掛替えの無い―――恋人、なのだから。
尚もまだ何か云い募ろうとしているカナンの頬にそっと掌をあてれば、子にゃんにゃんの様に頬が摺寄せられる。
「もう、何も仰らないで下さい。
私とてこの数日の間、務めを果たされておられるカナン様を頼もしく思いながら、お側にいる者とどれ程代われるものなら代わりたいと願ったことか」
云ってその身体を今度は両の腕で抱き寄せると、少年の域を脱していない華奢な身体はセレストの腕の中にすっぽりと包み込まれてしまう。
「私を待っていて下さってたのですね」
「だから、そう云っているじゃ無いか」
「そうでしたね」
「で、行くのか? 行かないのか?」
拗ねたように声がくぐもるが、どこか甘えるような響きもそこにはあって。
「もちろん、お供させていただきます」
主君にも甘いが、恋人にはとことん甘い男はあっさりと陥落したのだ。
そして、2人してうきうきと城下に抜け出して目的の寺院の側まで来た時、カナンが小さくくしゃみをした。
まわりは大勢の人で賑わっていたが、セレストがカナンの声を聞き間違えるわけが無い。
そこで慌てて自分の上衣を脱いで、カナンの肩に掛けようとして、上衣は叩き落とされたのだ。
一体何が悪かったんだ?
愛しい人がくしゃみなどして、それはきっと寒いからだ。だから寒く無いようにと自分の上衣を差し出したのだ。幸いと云うかなんと云うか、セレストは騎士団に所属している所為で身体は鍛えてあるし、寒さには強い体質だ。少しくらい薄着をしたって風邪を引く程やわには出来ていない。それは氷のダンジョンでも証明されている。比べて、カナンは温室育ちで熱さ寒さには極端に弱い。いくら他国の王子と比べて多少跳ね返っているとは云え、それでも風にもあたらぬようにと大事に育てられている上、魔法使いと云うのは戦士に比べれば驚く程体力が低いのだ。
一時は二桁あった冒険者レベルも謹慎中に一桁にまで下がってしまっている。
カナンが仕えるべき主君であると云う以前に、セレストにとっては保護の対象なのだ。そこに個人的な思い入れも手伝っているから尚更寒い思いをしている人を放ってなどおける筈も無い。
途方に暮れるセレストの前でカナンが今度はハッキリと分る程、派手なくしゃみをした。
「カナン樣………」
小さく震えている肩に上衣を掛けてあげたいのに、当の本人は要らないと云って拒否をする。
「このままでは風邪を召してしまいます。お願いです、どうか上衣を羽織っては下さいませんか?」
どうしたらこの方は御自身の身体の事を考えて下さるのだろうかと、必死で考えてみても良い案は浮かばず、セレストに残されているのはもうひたすら懇願する事だけで………
「お前の上衣を僕が着たら、今度はお前が冷えてしまうじゃ無いか。取り敢えずこのままだと目立って衆目を集めてしまうぞ。早く着ろ」
ひとつ大きく息を吐き出して、カナンはようやっとセレストの方を真直ぐに見遣る。
「まったく、放っておいたら土下座でもしかねん勢いだな」
「土下座して上衣を羽織って頂けるのでしたら、私は」
「するなよ。こんな所でそんな目立つ事をしたら絶交だからな。当分はキスも、僕の側に上がるのさえも禁止してやるからそう思え」
カナンに言葉共先制されてしまって、セレストは何も言えなくなってしまう。どうやらどうあっても上衣を着て下さる意志は無いらしいと諦めきれない思いを堪え、袖に腕を通し、前を止めようとした時、
「ちょっと待て」
と、カナンが胸に飛び込んで来た。
「この方が温かい」
ほんのりと頬を染め、胸に抱きつく格好のまま見上げてくる目元もほんのりと色付いていて。
「か、カナン樣、いけません。お、男同士で手を繋ぐのだって悪目立ち致しますからと、あれ程御辞退申し上げたじゃありませんか。それなのに、こ、こ、こ、こんな……」
愛おしい人が自分から胸に飛び込んで来てくれるなんて、こんなに嬉しい状況は無いのだが、如何せんここは城下町。しかも往来のど真ん中で。
「大丈夫だ。まわりを良く見ろ、この唐変木。この方が目立たないと思うぞ」
いつもならちょっぷと共に大声で怒鳴られる所だが、一応まわりの目を気にしてか小声で話し掛けられる。しかも照れていらっしゃるのか、顔を胸元に埋めるように一際きつく抱きついてくるのが可愛らしくてセレストは目眩さえ覚えてしまう。その意識が吹っ飛びそうな状況でまわりをそれとなく観察してみれば、べったりベタベタ、何所も彼処も、にゃんにゃんも杓子も、皆2人だけの世界を形成している。この中にあって、確かに引っ付いていない2人連れは却って目立つだろう。
以前、手を繋ぐのを断ったのがそんなに悔しかったのだろうか?
もしかしてこれはその腹いせか? とも思わなくとも無かったが、胸の内側に居る人が本当はすごく照れているのだと云う事が赤く染まった耳と項で解る。いつも無理難題を吹っ掛けてくれる御無体な主君の我侭は、恋人たる自分への気持ちの裏返しなのだと思えば愛しさは倍増。セレストは己の正直な気持ちのままに、愛しい人の唇に触れた。
「ん……ふぅ……あ……」
啄むような口付けを繰返せば、すっかり息の上がったカナンが怒ったように目を潤ませて睨み付けて来る。
「お前、時々信じられないくらい大胆になるな。手を繋ぐのは駄目だとか云っときながら、キスは良いのか? キスは?!」
「大丈夫ですよ。皆さん、御自分のお相手の事しか見えてらっしゃらないようですから」
う〜とカナンが唸る。やっぱり手繋ぎを断ったのを根に持っていたのかと思いつつ、セレストはカナンの機嫌が良くなっているのを見て取った。カナンが欲しかったのは恋人としての温もりだったのだろうと漸く思い至ってセレストは苦笑する。もともとデートに来ているわけだから、従者や面倒見の良い乳兄弟では無く、恋人としての態度を望まれていたのだ。分かってしまえば、簡単な事で。
だけど、セレストには其処が難しい所なのだけれど。従者と恋人の境目。何所で態度を変えれば良いのか見極めがまだちゃんと付いて無くて、いつもカナンに辛い思いをさせてしまっているらしい。だけど、いや、今はだからか。そう、だから今は恋人の時間。
抱きついて来た人を周囲の人達の目から隠すように上衣で包み込んで、そっとそのまま抱き締める。
「温かいですか?」
「うむ。とても温かい」
「ではこのまま歩きましょうか」
どうやって?と目で問うてくるカナンにセレストははんなりと笑いかける。
「ボタンをかけてしまうと窮屈でしょうから、こうして後ろから私が前を持っています」
ボタンを外した前を掴んだまま、カナンの身体を背後から抱きすくめるような形だ。
「これだとゆっくりお前の顔が見れないじゃ無いか」
少々不服そうに顔を思いきり仰け反らせると、セレストの顔がゆっくり降りて来た。
「でもキスはできますよ」
抵抗しようにもセレストに上衣ごと抱きすくめられていて身動きが出来ず、カナンは悔しそうな顔をしてみせるが、そのまま唇を重ねてしまえば腕の中で大人しくされるがままになってしまう。
「不服ですか?」
そう尋ねたら、応えは速攻で返って来た。
「馬鹿モノ、足りないじゃないか」
では、仰せのままに。
そうして愛しい人が満足してくれるまで、何度でも、何度でも………
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