if〜夜明け前〜
いつもの城内着を冒険服に着替えて、堂々と正面から出て行こうとするカナン。
その姿を見送るものは誰も居ない。
あたりはやっと射し始めた朝の光が藍色と朱の入り交じった幻想的な風景をそこに浮かび上がらせる。鳥の声が聞こえ、風がわたる。
夜の帳を振払い、新しい朝を告げる光がカナンの顔を照らした。
面をあげる。
その目にはなんの迷いもない。未来を見続けている。
一歩だけ、踏み出す。
何事もこの一歩からなのだと思うと、感慨深いものがあるなぁなどと、のんびり考えてしまうあたり、やはりカナンもルーキウスのお国柄に馴染んでいた証拠だろう。兎に角、歩き出さねば何も始まらないのだ。
吉と出るか凶とでるか、乗るか反るか……
一か八かだ!
もっとも、カナンは負けるつもりの賭けなどするつもりは無い。
口許に浮かぶのは不敵な笑い。
ふいに、朝の気配が乱れるのを感じた。
カナンはゆっくりと振り返る。
満面の笑みを浮かべて。
振り返ったそこには、困ったような泣きそうな顔をした彼の従者。
もしかしたら、この段になっても迷っていたのだろうか。
手を差し出しす。
「行こう」
余計な事は云わない。云わなくても彼なら分かっているはずだから。
差し出されたその手に惹き付けられるかのように彼の足が動き出す。
ふらり、ふらりと壊れたゼンマイ仕掛けのようにどこかぎこちない動きではあったが、その足は確実にカナンの元へ身体を運ぶ。
やがて二人はお互いの手が届く位置にまで近付いた。
カナンが腕を伸ばして頬に触れると、彼は崩れるかのようにカナンを抱きしめた。
暫くの間、二人はそのまま抱き合っていたが、ようやっと落ち着いたらしい彼はカナンの身体を名残惜し気に引き剥がした。
だが、顔にはカナンの好きな穏やかな微笑みが戻ってきている。
カナンは何にも云わずに再び歩き始めた。振り向きもしない。
その後ろにはもう一つの足音。
「お待ち下さい、カナン様」
「お前が引き止めるから、ぐずぐずしていると早起きの衛兵に見つかってしまうだろう。急げ、セレスト」
彼―――セレストは迷いを吹っ切るようにそれまで身に付けていた装身具を一つ一つ外していった。
ルーキウス王国騎士団の一員である事を示すその青緑色の隊服。その中でもひとにぎりの者だけが身につける事のできる精鋭部隊の証、近衛隊である事を示す記章をデザインした簡易鎧。
そんなものを一つ一つ、脱ぎ捨てて行く。
もはや彼を王国の騎士団に属するものである事を示すものは何一つ残ってはいない。
カナンに付いて行く。
置いて行かなければいけないものは思ったよりも多かったけれど、それでも尚、カナンを選んでしまった自分に呆れつつ、セレストは自分を頼もしいと思った。
今は後悔よりも、彼と共に歩む冒険の日々を夢見ている。
それはどんな日々だろうか。
カナンが中々追い付いてこないセレストに業を煮やし、立ち止まって振り返った。
「セ〜レ〜ス〜ト〜!」
「今、参ります」
いつものように一歩手前をカナンが歩く。その歩く早さに合わせてセレストが付いて歩く。だが、カナンはそれが気に入らなかったのか、自分からセレストの隣に並んで歩き出した。
「カナン様?」
「僕達はパートナーだったよな? それに僕はもう王子では無いし、お前も従者では無いのだからこの位
置の方がいいだろう」
まだこだわっていたのかと苦笑を隠して(カナンに見られたらちょっぷを頂いてしまうだろうから)セレストは「そうですね」と応えるにとどめた。だが、カナンの言葉はまだ終わっていなかったらしい。
「そうですね、じゃない。いいか、急に云ってもお前の事だから直らないだろうが、その内、『様』付けじゃ無いようにしてやるからな!」
「は?」
一瞬、何の事だか分らずにセレストの口からは間抜けな声が漏れてしまった。
「精々胆に銘じておけよ」
そう言ってふふふと笑い出す。この先もずっと、もしかしたら一生、この元王子の御無体に胃痛を抱える日が続くのかと、ほんの一瞬だけ世を儚んだセレストだったが、カナンの笑顔にそんなものは粉微塵に吹き飛んでしまう。
貴方をお守り致します。絶対です。
そんな風に誓ったのは何時だったか……忘れ得ぬ日々。
ルーキウス王城から第2王子とその従者の姿が揃って消えた事が発覚するのはもう少し、後の出来事である……