ナクシタキオク



[2]

 次にルルーシュの意識がはっきりしたのは、ありきたりではあるが病院だった。白い天井、嗅覚を刺激する消毒薬の臭い、素っ気無い部屋の風景で、すぐさまここが病室だというのがわかった。ベッドから身体を起こし周囲を見回せば誰も居らず、どうもここが個室であり、さらに言えばVIPルームのようだった。
(皇帝か……)
 ルルーシュはそう思った。こんなことをするのは皇帝しかいない。あの母親だったら大部屋で大丈夫よと笑い飛ばすだろう。だからこんな部屋を手配したのは皇帝に違いない。放っておいて欲しいのに、どうしてこう余計なことをするのだろうか。
 ベッドの横にある窓から外を眺めた。遠くにある高層ビルが見えるだけで、あとは空だけだった。
 空。吸い込まれるような空の色。落ちる前にそんな景色を見たような気がする。
 ルルーシュは頭を押さえた。急にこめかみのあたりに頭痛が走ったからだ。階段から足を踏み外して転げ落ちたというのは記憶にあるが、どうもそれ以外のことが怪しい。事故前後のことがあいまいだ。
 そんなことをぼんやりと考えていれば扉が開く音が聞こえ、顔を向けるとすぐに声がした。
「あら、ルルーシュ。起きたの?」
 母親であるマリアンヌだった。手には仰々しい花束とこれまた豪勢なフルーツ盛り合わせを持っていた。誰の仕業か一目瞭然だった。自然と眉間に皺が寄り、気分も急降下した。そんなルルーシュの雰囲気を逸早く察したマリアンヌは苦笑いを零した。
「たまにはこういうことをしたいみたい。滅多にないんだから許してあげて」
「自分はまだ何も言っていませんよ」
「あら、そうなの? 目で十分語ってたみたいだけれどね」
「そんなことより、今は一体いつなんですか。何日ぐらい入院を?」
 ルルーシュの問いかけに、マリアンヌは首を竦め。
「まだ、一日も経ってないわよ。当日の夕方。階段から盛大に落ちたのに、掠り傷ぐらいなんだから。でも明日大事をとって精密検査はするけれどね」
「掠り傷………」
 そういえば身体で動かせない箇所はなく、多少の痣や打ち身、擦り傷はあるようだが、これといって大きな怪我はないようだ。ルルーシュは自分が転げ落ちた階段を思い浮かべた。確かカフェテリアに向かう階段だった気がする。あの段数でこれだけの怪我ですむんだろうか。そんなことはありえないはずだ。そんな疑問が頭の中に渦巻いていると、それに気づいたマリアンヌがルルーシュに向かって言った。
 サイドボードに花束とフルーツを置き、ルルーシュに向き合い、彼女は言った。
「そう、掠り傷ですんだんだから、ちゃんとお礼を言わなきゃ駄目よ」
「お礼?」
「あなたを助けてくれた子に決まっているでしょう」
「助けてくれた………」
「そうじゃなきゃ、こ〜んな軽い怪我ですむわけないでしょう。ルルーシュはとろいんだから」
 マリアンヌは再びサイドボードに向かい、近くにあったガラス製の花瓶を手にとった。豪勢な花束のリボンを解き、花瓶に入れた。そして乱れた形を整えるために全体を見ながら一つ一つの花の向きを丁寧に変えている。
「………その、助けてくれた人は……?」
 ルルーシュがマリアンヌの背中に問えば、彼女は振り返りもせずに答えた。
「ルルーシュと一緒に病院まで来たみたいなんだけど、向こうは向こうで手当てをしているみたいよ。意識もはっきりしているし、ちゃんと自分で歩いて検査に向かったという話」
「話? 母さんはその人を……」
「見てないわ。今の話、全部シャーリーに聞いたのよ」
「シャーリーに……」
「あの子にもちゃんとお礼を言いなさいよ。かなり取り乱していたしね。いいわね。わかった?」
 そう言い切るとマリアンヌは、あらナイフがないわ、借りてくるわね、と部屋を出て行ってしまった。
「はぁ」
 とルルーシュは深い溜め息をついた。どうも色んな人に迷惑をかけたらしい。己のことをドンくさいとは思ってはなかったが、今回の件はかなりかっこ悪い部類に入る。シャーリーには念入りに謝らないとまずいだろう。隣を歩いていた人間がいきなり階段を転げ落ちれば、さぞ驚いたに違いない。そして彼女は優しい子だ。きっとそんな現場を目撃してしまって傷ついているだろう。それから………自分を助けれてくれた人物。この人にも深くお礼を言わなきゃならないだろう。
「それにしても、あの階段を……。よく助けようと身体が動いたものだ」
 半分とはいえ、あの段数から落ちる人間を咄嗟に助けようするのは、よほど自分の身体能力に自信があるのか、それとも身を挺して庇いたいほど大事な人だったのか。後者はまずありえないはずなので、きっと前者なんだろう。
「運動部のやつらか……? まあいい。学園へ行けばいずれわかることだ」
 ルルーシュはベッドの脇にあるサイドテーブルに手を伸ばし、数本あるペットボトルの中のひとつを取った。キャップを開け、水を一口含んで飲み干した。それから再び横になり、じっと天井を見つめながら眠気が訪れるのを待っていた。

 白い天井に重なりあうように脳裏に映し出される今日の風景。
 何か重大なことを置き去りにしているような気がする。何か、とても衝撃的なことが起こったような感じだ。心にまだその衝撃の余波が残っているというのに、その原因がどうしても見つけることができない。階段から落ちたことではない。そうじゃなくて、もっと別の何かを………自分は見つけ、そして訪れた、心を強く揺り動かした出来事。
 だが結局それが一体何なのかわからないまま、ルルーシュはやがで眠りの中に沈んでいった。




 それから数日が過ぎ、ルルーシュがアッシュフォード学園に登校できるようになったのは一週間後のことだった。入院自体は三日で済んだが、念のためというマリアンヌの力強い説得に何日か自宅で休養することになってしまったのだった。身体は完全に回復しているし、頭も冴えている。この状態でただひたすらベッドで養生しているというのは辛く、毎日のように母の友人であるジェレミア卿を呼び出しては、チェスをする日々が続いた。そうしてやっとマリアンヌから学園へ行く許可が出たのが、事故から一週間後の今日という訳だった。

 一週間ぶりのアッシュフォード学園は一見何も変わっていないようにみえた。いつも通りの登校風景だった。
 休養中も思っていたことだが、生徒会の、あの仕事は一体どうなったんだろう。あれから一週間だ。すでに終わっていると信じたいが、あのミレイ・アッシュフォードのことだ。なんだかんだといいながら、締め切りを延ばしている可能性が高い。そして今日、ミレイに会った瞬間、明日が締め切りなのと泣き付かれるかもしれない。
 この一週間ベッドの住人だった。身体が本調子ならばそれぐらい何とかなるかもしれないが、まだ100%の稼働率ではない。できれば終わっていて欲しいが……。
「まあ、なるようにしかならないか」
 ルルーシュは多少の不安をかかえながら、半分ぐらい諦めの境地になりつつ、自分の教室の扉を開けた。教室にいる人間の目がいっせいにルルーシュへと向き、刹那、無音が教室を支配した後、割れた風船のようにそれぞれの声が響いた。

 周りに集まってくるクラスメイトに適当に相槌をしながら、何とか自分の席まで辿り着く。シャーリーとリヴァルがそれを見計らったように近づき、未だ不安げな表情を見せる二人に大丈夫だと言わんばかりに笑顔を見せた。そんな彼らに挟まれながら、ここ数日の出来事について話ていると、誰かが傍にきたのを感じた。
 座っている自分に微かな影がかかる。誰だと思う前に影の主から話掛けられた。

「ルルーシュ」
 頭上から話し掛けられた声は、知らないのにどこかで聞き覚えがあるような、優しい声色だった。その声に惹かれ顔を上げれば、見知らぬ青年がルルーシュのすぐ横に立っていた。あちこち跳ねている髪は茶色で、どこから見ても東洋人なのに、その瞳は鮮やかな緑色をしていた。
(こいつは………)
 誰に言われなくても目の前にいる人物が、新学期初日に女子生徒らが噂していた転入生なのだ、ということがわかった。なるほど、確かに噂通りだ。だがルルーシュは気に食わなかった。いきなり名前を呼び捨てにされたのもあるが、その親しみをこめた声色が何よりも癪に障った。まだ自己紹介すらされていなのに、気安くないか。まず名を名乗れ。それが初めの挨拶だろう。
 しかし、目の前の人物はそんなルルーシュの心情など露知らず話続けている。
「今日から登校できるんだね。良かった。具合はどう? もう全然平気なの?」
 どうしてだか、とても意地悪な気持ちになった。
 優しい言葉を踏みにじるカードは手のひらにある。
 それをどうしても目の前の相手に叩きつけたくなった。
「お前、誰だ?」
 傷付けようとして口から出た言葉だ。もっと他に言いようがあったのに、わざと冷たい口調と台詞を音にした。そう、これは悪意だ。
 けれどそう言った瞬間、ルルーシュは早くもその言葉を後悔していた。

 優しく穏やかに見つめる緑色の瞳は微かに目を大きくし、その後まるで感情をなくしたように凍りつき、緩やかな笑みを浮かべていた頬は時が止まったかのように強張った。一瞬で変化したその表情を見て、この台詞は彼に言ってはいけない台詞なのだということを理解した。たぶん他のどんな言葉よりも彼に告げてはならない一言だった。だが音となって解き放たれたものを今更撤回できるはずもなく、どうすることもできなかった。
 目の前の緑色の瞳を持った青年は、瞬きひとつすると、すぐに元に戻ったように見えた。しかし、その瞳には先ほどまで宿っていた愛しむような眼差しはなく、まるでガラス球のように全ての感情はなくなっていた。
(はじきだされた)
 何故だかルルーシュはそう思った。
 理由はわからない。けれど今の今まで、ルルーシュは目の前に佇む青年の一番柔らかい心の奥の奥まで入ることを許された存在だったようだ。しかし先ほど発した自分の台詞により、全てが凍りつき、そして彼の心からはじき出されたのだ。たぶんもう、先ほどのような笑顔を向けてもらえない。どうしてなのか、それが胸が苦しくなるぐらい悲しくなる。自分がしでかしたことだというのに。
 青年は先ほどとは全く異なった表情になり、小さく自嘲したかのような笑みを浮かべた。
「そっか。……そうだよね。覚えてないか」
「うわ、ルルーシュ、そりゃひどいぜ。この転校生が階段から落ちるお前を助けてくれたんだぜ」
 すぐ隣にいたリヴァルは身を乗り出しながら会話に交じり、ルルーシュを咎めたが、それを青年がやんわりと押しとどめた。
「仕方ないよ、リヴァル。僕はみんなから話を聞いていたから知っている感じがしてたけど、実際会うのは初めてに等しいし、事故に遭った日はもうあれは会ったとか会わないじゃなかったからね」
 苦笑いをしながら青年はリヴァルにそう言って、今度はルルーシュに目を向けた。緑色の瞳は静かだが温度はなかった。
「『初めまして』、スザク・枢木です。今の会話からわかるとおり、君が階段から落ちた時、『たまたま』通りがかってね、『偶然』助けたことになるのかな。それはともかく、君が入院している間にこのクラスに転入してきたんだ。これからよろしく」
「ああ、こちらこそ助けてもらったのに失礼なことを言った。すまない。ルルーシュ・ランペルージだ。これからよろしく。仲良くしてくれ」
 スザクの差し出された大きな手にルルーシュも同じようにして手を握った。軽く握った後、ゆっくりとそれは離された。ルルーシュはしばらく自分の手を眺めた。何かとても不思議な感覚がしたからだ。懐かしい? 久しぶり? そうではないが、それに近い感情がこみ上げてくる。これは一体……?
 ルルーシュはスザクを見た。スザクは小さな笑みを向け、それからすいっと視線を逸らし、自分の定められた席へと戻っていた。思わず視線で彼を追う。彼が着席すると同時に予鈴のチャイムが鳴り響いた。
 ルルーシュは再び目線を己に手に戻した。
 沸き上がる不思議な感覚。
 だが、ルルーシュは訝しがりながらも、徐々に薄れてゆくその感覚を気にとめることはなかった。



 それを思い出すのは数カ月後の冬の日。
 そして、この日のことを死ぬほど後悔することになる。




[2010/04/22]

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