25,000-30,000 AGO この頃、現在のフィリピン諸島にネグリト族が移住。 ZAIDE1,P.21.

200.B.C. この頃、現在のフィリピン諸島に東南アジアからイフガオ、ボントク族などが移住。 ZAIDE1,P.24

0100-1300 現在のフィリピン諸島に東南アジアからヴィサヤ、タガログ、イロカノ、パンパンガ族などが移住。 IBID.

1300-1500 現在のフィリピン諸島南部にムスリム系マレー人(モロ族)が進出。 IBID.

0982.??.?? 現在のフィリピン諸島から中国(カントン)に商人が来訪との記録。 ZAIDE1,P.38.

1250.??.?? この頃、パナイ島のダトゥ・スマクウェル、現存するフィリピン最古の成文法を制定(マラグタス法)。 ZAIDE1,P.60.

1372.??.?? 「明史」によれば、このころ現在のフィリピン諸島から朝貢使節の記録(1421) ZAIDE1,P.39.

1347.??.?? この頃、イヴン・バツータがアモイからスマトラへの途上、ルソン島に漂着との記録。 ZAIDE1,P.101.

1380.??.?? スル諸島にムスリム勢力の拠点が築かれる。 ZAIDE1,P.41.

1390.??.?? スマトラのラジャ・バギンダ、スル諸島を征服。 ZAIDE1,P.42.

1416.??.?? スル族の使節が明朝の皇帝により手厚く埋葬されたとの記録。 ZAIDE1,P.39.

1433.??.?? パナイ島のラジャ・カランチアウ、現存するフィリピン最古の刑法を制定。 ZAIDE1,P.61.

1475.??.?? ジョホールのムスリム指導者シャリフ・カブングスワン、ミンダナオ島のコタバト地方を征服。 ZAIDE1,P.42.

1521.03.17 世界周航中のマゼラン船隊、サマール島に上陸。 ZAIDE1,P.114.

1521.04.14 マゼラン、セブ島の原住民500人にはじめて洗礼を行う。布教事業のはじまり。 ZAIDE1,P.117.

1521.04.27 マゼラン、ラプラプの率いるマクタン島原住民との戦闘中に殺される。 ZAIDE1,P.119.

1525.07.24 スペインのロアイーサ探検隊、現在のフィリピン諸島に向かう。 ZAIDE1,P.130.

1527.10.31 スペインのサヴェドラ探検隊、メキシコから現在のフィリピン諸島に向かう。 ZAIDE1,P.133.

1529.04.22 サラゴーサ条約でポルトガル領モルッカ諸島とスペイン領フィリピンとの境界が定められる。 ZAIDE1,P.134.

1542.05.18 スペインのヴィラロボス探検隊、フェリペ皇太子にちなんでフィリピン諸島と命名。 ZAIDE1,P.137.

1559.09.24 フェリペ2世、メキシコ副王ヴェラスコにフィリピンの征服と植民地化を命令。メキシコ副王領としてのフィリピンの征服事業が始まる。 ZAIDE1,P.137.

1564.11.21 フェリペ2世の命により、レガスピを司令官とする遠征隊がメキシコよりフィリピンに向けて出発。 ZAIDE1,P.140.

1565.04.27 レガスピ遠征隊がセブ島を征服。スペインによるフィリピン支配が始まる(-1898) ZAIDE1,P.143.

1569.??.?? レガスピ遠征隊、パナイ島を征服。 ZAIDE1,P.149.

1570.05.24 レガスピ遠征隊、ムスリム王ラジャ・ソリマンの支配するマニラを攻撃。 ZAIDE1,P.151.

1571.05.19 スペイン軍マニラ占領。初代総督レガスピ、マニラを首都に定める。 ZAIDE1,P.152.

1572.00.00 マニラ・アカプルコ間のガレオン貿易開始。 ZAIDE1,P.323.

1574.??.?? 中国の海賊リ・マ・ホンの大船隊、フィリピンを攻撃、パンガシナン地方を一時支配。 ZAIDE1,P.272.

1578.03.?? イギリスのフランシス・ドレイク船隊、ガレオン船を襲う。このあと、私掠船による攻撃が相次ぐ。 ZAIDE1,P.336.

1578.06.?? スペイン、ホロ島攻撃。モロ族(ムスリム系マレー人)征服戦争はじまる。 ZAIDE1,P.308.

1581.??.?? マニラに最初の中国人居住区(パリアン)。 ZAIDE1,P.278.

1582.??.?? フェリペ2世の命により、フィリピンからモルッカ諸島征服隊が送られる。オランダとのモルッカ諸島争奪が始まる。 ZAIDE1,P.229.

1584.06.15 王立アウディエンシア(最高司法院)開設。 ZAIDE1,P.166.

1585.??.?? パンパンガ地方でエンコメンデーロに対する反乱。 ZAIDE1,P.345.

1589.08.09 「奴隷制」廃止の勅令。 ZAIDE1,P.174.

1589.??.?? カガヤン、イロコス地方で貢税制度に対する反乱。 ZAIDE1,P.346.

1592.??.?? フィリピンから秀吉に対する総督使節としてフアン・デ・コボ神父がおくられる。    ZAIDE1,P.225.

1593.??.?? 木版印刷による祈祷書「ドクトリナ・クリスチアーナ」が出版される。 ZAIDE1,P.194.

1596.??.?? スペインによる最初のミンダナオ征服事業。 ZAIDE1,P.308;phelan, p.137.

1597.02.05 秀吉のキリシタン弾圧により、ペドロ・バウチスタ神父が殉教。 ZAIDE1,P.227.

1599.07.?? モロ族、ヴィサヤ諸島を攻撃。モロ族の反撃が始まる(このあと、1600、1602年)。 ZAIDE1,P.309.

1600.12.04 マリベレスの海戦。オランダのフィリピン攻撃始まる。 ZAIDE1,P.257.

1601.11.?? イゴロト族の反乱。 ZAIDE1,P.347.

1603.??.?? マニラで最初の中国人(華僑)反乱。 ZAIDE1,P.278.

1610.??.?? オランダ、2度目のフィリピン攻撃。 ZAIDE1,P.259.

1611.??.?? サント・トマス大学開校。 ZAIDE2,P.91.

1606.??.?? マニラで日本人が追放命令に抗議して反乱。 ZAIDE1,P.297.

1610.??.?? 最初のタガログ語文法書。 zaide, p.156.

1614.11.21. 日本を追放されたキリシタン大名、高山右近の一行がマニラに到着。 ZAIDE1,P.300.

1616.??.?? オランダ、3度目のフィリピン攻撃。 ZAIDE1,P.260.

1617.??.?? オランダ、4度目のフィリピン攻撃。 ZAIDE1,P.261.

1621.01.?? イギリス・オランダ連合船隊、マニラ湾を封鎖(-1622.5.) ZAIDE1,P.262.

1623.??.?? マニラの日本人人口、3000人に達する(鎖国後、減少)。 ZAIDE1,P.291.

1620.??.?? スペイン宮廷、財政負担を理由とするフィリピン放棄の提案を却下。 ZAIDE1,P.161.

1621.11.?? カガヤン地方で反乱。 ZAIDE1,P.347.

1622.01.?? ボホール島のタンブロット、レイテ島のバンカウによる反キリスト教反乱。 ZAIDE1,P.348; Phelan, pp.147-148.

1624.08.?? 再び、オランダ・スペイン海戦。 ZAIDE1,P.263.

1635.06.?? ミンダナオ島サンボアンガにモロ族に対する要塞が築かれる。 ZAIDE1,P.310;phelan, p.138.

1637.??.?? コンクエラ総督のミンダナオ・スル地方遠征。スルタン・クダラットと激しく戦う。 ZAIDE1,P.311.

1639.??.?? マニラで2度目の中国人(華僑)反乱。 ZAIDE1,P.280.

1639.??.?? カガヤン地方で再び反乱。 ZAIDE1,P.350.

1647.07.27 ホロ島でオランダ・ムスリム連合軍とスペイン軍が戦う。 ZAIDE1,P.314.

1647.06.10 オランダ船隊、最後の大規模なフィリピン攻撃。 ZAIDE1,P.266.

1649.??.?? サマール島でスペイン当局の労働徴用に対してスムロイの反乱。 ZAIDE1, P.351; Phelan, p.148.

1660.??.?? パンパンガ、パンガシナン、イロコスでスペイン当局の労働徴用・貢税政策に対する反乱(-61) Phelan, p.146; ZAIDE1, P.352.

1662.??.?? マニラで3度目の中国人(華僑)反乱。 ZAIDE1,P.281.

1662.??.?? スペイン、モルッカ諸島を放棄。 ZAIDE1,P.233.

1683.??.?? サンバレス地方で反乱。 ZAIDE1, P.354.

1686.??.?? マニラで4度目の中国人(華僑)反乱。スペイン、非キリスト教徒中国人を追放。 ZAIDE1,P.282.

1703.??.?? ガスパル・アキノ・デ・ベレン、タガログ語のパション(キリスト受難詩)を出版。タガログ地方で聖週間に好んで朗詠される。 池2、p.45、a。

1744.??.?? ボホール島でダゴホイの一党が山岳にたてこもり、1829年まで抵抗。 Phelan, p.149; ZAIDE1, P.354.

1745.??.?? ダガログ5州で、修道会アシエンダの土地強奪に抗議する農民反乱。 池2、p.33; ZAIDE1, P.356.

1762.10.05 イギリス軍マニラ占領(ー64年)。これに呼応して最後の中国人(華僑)反乱。 ZAIDE1,P.283.

1762.??.?? イロコス、パンガシナン、カガヤン地方で反乱。 ZAIDE1, P.357.

1764.05.31 イギリス軍マニラ占領終結。 ZAIDE2,P.15.

1766.??.?? インド洋を経由したスペインとの直接貿易開始(-1783). ZAIDE2,P.31.

1765.??.?? 中国人追放(イギリスのマニラ占領に協力を理由)。中国系メスティーソ層の経済力向上の契機。 PSH143,a

1768.??.?? イエズス会追放(1859)。 池2、p.27 ZAIDE2,P.20.

1772.??.?? 原住民在俗司祭養成のための最初の司教区神学校。 池2、p.57.b

1774.11.09 教区司祭の在俗僧化を推進する勅令。 ZAIDE2,P.44.

1778.??.?? バスコ総督着任。経済振興政策を推進(-1787) ZAIDE2,P.26.

1781.??.?? 国民経済同友会創立(-1894) ZAIDE2,P.27.

1782.03.01 植民地政庁によるタバコの強制栽培・専売制度始まる(-1882), Jesus,p.32 a

1785.??.?? 王立フィリピン会社創立(1830) Jesus, p.23

1786.??.?? 酒類の専売制度始まる。 ZAIDE2,P.30.

1807.07.01 イロコス地方で酒類専売制度(地酒の禁止)に抗議する反乱。 ZAIDE1,P.361.

1809.??.?? マニラにイギリス人商館設立。 ZAIDE2,P.65.

1811.??.?? スペイン議会にフィリピン代表が参加(-13,20-23,34-37) ZAIDE2, P.50.

1814.??.?? フィリピン的価値観やマリア崇敬を反映したピラピル版パション(キリスト受難詩)が出版され、各地で朗詠されるようになる。 池2、p.47.a

1815.04.23 ガレオン貿易廃止。 ZAIDE1,P.340.

1815.??.?? イロコス地方でサラットの乱。 ZAIDE1,P.362.

1818.??.?? ラス・ピニャス教会にバンブー・オルガン設置 ZAIDE2,P.101.

1821.??.?? メキシコの独立に伴い、フィリピンはスペイン直轄植民地になる。ZAIDE, p.143.

1826.??.?? 教区司祭を再び教団僧侶化する勅令。 池2、P.62.

1830.??.?? 初めてのフィリピン系銀行(ロドリゲス銀行)。 ZAIDE2,P.69.

1834.09.06 マニラ開港(外国貿易に開放)。 ZAIDE2,P.65.

1835.??.?? スペイン議会に再びフィリピン代表が参加(-37)    ZAIDE2,P.50.

1830s このころより中国人移民が奨励される。 池1、年表。

1840.??.?? タヤバス地方でアポリナリオ・デ・ラ・クルスの反乱 (-41) ZAIDE1,P.364.

1846.??.?? 最初の日刊紙「ラ・エスペランサ」創刊。 ZAIDE2,P.99.

1848.??.?? スペイン政庁3隻の蒸気船を購入、モロ族征服戦争再開。 ZAIDE1,P.318.

1849.??.?? ペドロ・ペラエス神父ら原住民在俗司祭、修道会の教区強奪に対する抗議運動を開始。 池2、p.65 

1849.11.11 原住民の姓をスペイン化する総督令。 ZAIDE2,P.80.

1852.??.?? この年、スペイン・フィリピン銀行創立。 ZAIDE2,P.69.

1855.??.?? この年、イロイロ、サンボアンガ、スル開港。 ZAIDE2,P.67.

1856.??.?? この年、検閲委員会設立。 池2、p.39.

1859.??.?? この年、イエズス会のフィリピン復帰が許される。 池2、P.66.

1860.??.?? この年、セブ開港。 ZAIDE2,P.67.

1861.??.?? この年までに、カビテ州の全ての聖堂区が修道会(レコレート会)に移管される。 池2、P.66.

1862.??.?? ペラエス神父、聖堂区の修道会への移管を撤回するよう国王に請願。 池2、P.67.

1863.06.03 マニラで大地震。大聖堂が崩壊、ペラエス神父が死亡(1812) 池2、P.67.

1863.12.20 初等教育制度の整備をはかる教育令。 ZAIDE2,P.93;池2、p.61.

1869.06.23 前年の自由主義革命で成立したスペイン共和政府、デ・ラ・トレ総督を派遣。 池2、p.72.a

1869.07.12 「自由のセレナーデ」催される。 ZAIDE2,P.109.

1869.??.?? この年、治安警察隊創設。 池2。p.39.

1871.04.04 デ・ラ・トレ更迭、保守派のイスクエルド総督が着任。 ZAIDE2,P.111.

1872.01.20 カヴィテ州の兵器廠で兵士・労働者の暴動。 ZAIDE,P.112.

1872.02.17 カヴィテ暴動の責任を問われホセ・ブルゴス神父ら3人のフィリピン人高僧が処刑される(ゴンブルサ事件) 池2、p.74

1873.??.?? この年、マニラ・スペイン航路開設。 池1、年表。初校で確認。

1873.??.?? この年、イギリス系のインド・オーストラリア・中国銀行が進出。 ZAIDE2,P.70.

1876.??.?? この年、イギリス系の香港上海銀行が進出。 ZAIDE2,P.70.

1897.??.?? この年、市街地家屋税、商工業税が新設される。 池2。p.38。

1880.??.?? この年、ルソン・スペイン海底電線敷設。 ZAIDE2,P.77.

1883.01.01 タバコ強制栽培・専売制度廃止。 Jesus, p.189

1881.??.?? この年、G・サンシアンコ『フィリピンの進歩:経済的研究』出版。 池2、P.76.

1882.??.?? この年、日刊紙『タガログ毎日』創刊。 ZAIDE2,P.140.

1884.??.?? この年、税制改正。強制労働が年40日から15日に減じられる一方、人頭税が大幅に引き上げられる。 池2、p.37。

1885.??.?? この年、P・A・パテルノ『ニナイ:フィリピンの習慣』 ZAIDE2,P.142.

1887.08.05 ホセ・リサール、フィリピン一時帰国。年末、修道会アシエンダの地代値上げに抗議するカランバ事件。 池2。p.33a

1887.??.?? リサール『ノリ・メ・タンヘレ』、パテルノ『タガログ族の古代文明』など出版。 ZAIDE2,P.142.

1888.12.31 団結社(バルセロナ)結成。 池1、P.62.

1889.01.12 マドリードにスペイン・フィリピン協会結成。 ZAIDE2,P.143.

1889.02.15 『団結』創刊。池2、P.85.

1889.12.10 フィリピン人のみのフリーメイソン『団結』がマドリードに結成。 池1、P.62.

1889.??.?? デル・ピラール『フィリピンにおける僧侶支配体制』、リサール『フィリピン諸島誌注釈』など出版。 池1、年表。初校で確認

1890.??.?? 政経外社科文 AB この年、マニラに電話線開通。  ZAIDE2,P.77.

1891.04.01 スペインの輸入品を保護する新関税制度発足。 池1年表、初校で確認。

1891.09.18 リサール『エル・フィリブステリスモ』出版。 ZAIDE2,P.142.

1891.03.24 マニラ=ダグパン鉄道開通。 ZAIDE2,P.77.

1892.06.26 ホセ・リサール帰国。 ZAIDE2,P.147.

1892.07.03 フィリピン民族同盟結成。 ZAIDE2,P.148.

1892.07.07 リサール、ダピタン島へ流刑される。この夜、独立革命をめざす秘密結社カティプーナン結成。 ZAIDE2,P.151.

1892.??.?? この年、パテルノ「タガログ古代文明におけるキリスト教」・「バランガイ」出版。 池1、年表。初校で確認。

1895.11.15 「団結」廃刊。 池2、P.96.

1896.03.01 カティプーナン機関誌「カラヤーン(自由)」創刊号発行。地方組織拡大の契機に。  池2、p.107.

1896.05.?? 日本海軍練習艦金剛マニラに入港、カティプーナン代表が支援要請。 ZAIDE2,P.159.

1896.08.19 カティプーナンの存在が発覚。 池2、p.130.

1896.08.30. ボニファシオの率いるカティプーナン部隊、サン・ファン・デル・モンテ弾薬庫を襲撃。フィリピン革命が勃発。ルソン8州に戒厳令が公布される。 池2、p.132.a

1896.08.31 アギナルドをはじめとするカビテ州のカティプーナン派の地主勢力が蜂起、

9月上旬までに州内の植民地権力を打倒。 池2、p.138.

1896.12.30 リサール処刑。 ZAIDE2,P.166.

1896.12.31 カビテ州イムース町でカティプーナン指導者会議。ボニファシオとアギナルドの指導権争いが顕在化。 池2、p.152.

1897.02.13 スペイン軍のカビテ反攻作戦が始まる。 池2、p.154。b

1897.03.22 テヘロス会議。カティプーナンにかわり革命政府を樹立、大統領にはアギナルドを選出。 池2、p.155.

1897.04.28 ボニファシオ一行、アギナルド派革命軍に逮捕される。 池2、p.157.

1897.05.10 ボニファシオ兄弟、銃殺刑に処される。 池2、p.158.

同日、アギナルド政府はカビテ州を放棄、ブラカン州へ逃避。 p.167.

1897.08.04 パテルノの和平工作はじまる。 池2、p.175。a

1897.08.?? 8月から10月にかけてルソン島全域でゲリラ戦が激化。 池2、p.177.a

1897.11.01 革命政府、ビヤックナバトー憲法を採択。 池2。p.174.a

1897.12.15 ビヤックナバトー和平条約調印。170万ペソの和平金と引換にアギナルドらは香港に亡命(12.15.)

しかし、戦闘は各地で継続。 池2、p.180−181.a

1898.05.01 デューイ提督率いる米アジア艦隊、マニラ湾でスペイン艦隊を撃破。アギナルドら、米軍艦で帰国(5.19.) ik2, pp.188-189.

1898.06.12 アギナルド、独立宣言式を挙行。 池2、p.190.a

1898.08.13 スペイン軍降伏。米軍、単独でマニラを占領。 池2、p.189。a

1898.09.15 ブラカン州マロロスに革命議会開催。 ZAIDE2,P.200.

1898.10.20 グレゴリオ・アグリパイ神父、フィリピン独立革命軍従軍司教総代理に任命。 池2、p.211.

1898.12.10 パリ講和条約でフィリピンの領有権が米国に移る。 池1、P.76。

1898.12.21 米マッキンレー大統領、「友愛的同化」宣言。 池1、P.80.

1898.12.25 砂糖プランテーション地帯の西ネグロスが独自の州政府樹立。 永野2、P.80.

1899.01.02 マビニ革命政府首相、外務大臣に任命される。 gleeck1,p.37.

1899.01.23 フィリピン共和国(マロロス共和国)樹立。この頃までに、ルソン島、ヴィサヤ諸島の大半は革命政府が掌握。 池2、P.200。

1899.02.04 米軍と独立革命軍の戦闘が始まる(米戦争)。 gleeck1,p.27.

1899.03.04 第1次フィリピン(シャーマン)委員会が到着。 2, p.202.

1899.04.04 シャーマン委員会、自治政府構想を発表。 gleeck1, p.33

1899.05.09 革命政府マビニ内閣更迭、パテルノ内閣による和平交渉にはいるが失敗(6.2.) 2, p.202

1899.07.19 フィリピン革命支援のための日本陸軍払い下げ武器・弾薬を積んだ布引丸が上海沖で台風にあって沈没。 1,p.86-87.

1899.10.23 マビニの呼びかけにより民族教会設立会議が開催される。 2, p.214.

1899.11.12 アギナルド、ルソン島北部山岳地帯に逃避。正規軍の解体とゲリラ戦の開始を指示。 2, p.202.

1900.05.02 ゲリラ鎮圧に苦戦する中、オーティス米軍政長官更迭。後任にアーサー・マッカーサー将軍が就任。 Miller, pp.99-100.

1900.06.03 第2次フィリピン(タフト)委員会到着。 MAJUL,P.183.

1900.06.21 マッカーサー軍政長官、投降者の無条件特赦を宣言。 gleeck1, p.45.

1900.07.28 パテルノらにより「特赦祭」。 gleeck1, p.46.

1900.09.01 立法の全権が軍政長官からタフト委員会に移管。 gleeck2,p.19.

1900.12.23 米統治との協調をうたう連邦党結成。 gleeck1, p.52.

1901.01.16 マビニら降伏拒否者、グアムに流刑される。 MABINI,P.191.

1901.01.31 町自治法制定。 COMPADRE COLONIALISM,P.13

1901.02.06 州自治法制定。 COMPADRE COLONIALISM,P.13

1901.??.?? この年、タフト委員会、平定地域の地方政府樹立のため全土を巡回。革命軍を率いた地方実力者の多くが知事に任命される。 GLEECK,P.49.

1901.03.10 タフト委員会、ヴィサヤ諸島に地方政府樹立のため、出発。 gleeck2, p.21.

1901.03.23 アギナルド逮捕、米国に忠誠を誓う(4.1.) BANANAL,P.11.

1901.05.15 フィリピン委員会、非キリスト教諸部族対策局設置。 ZAIDE2,P.245.

1901.07.04 民政移行。初代総督にウィリアム・ハワード・タフトが就任。 GLEECK2,P.22.

1901.07.18 警察軍(コンスタブラリー)創設。      gleeck1, p.55.

1901.08.23 アメリカ人教師600人がマニラに到着、公教育普及政策に従事。 ZAIDE2,P.286.

1902.03.08 米議会、フィリピン農産物関税を25%引き下げ。 ALFONSO,P.125.

1902.07.01 1902年フィリピン組織法。    ALFONSO,P.86.

1902.07.04 米ローズヴェルト大統領、フィリピン平定完了宣言。しかし、各地でゲリラ的抵抗は継続。 GLEECK1,P.56.

1902.08.03 フィリピン独立教会の創立が宣言される。    池2, p.219.

1902.10.26 フィリピン独立教会の正式発足式。最高司教にグレゴリオ・アグリパイが就任。    池2, p.220.

1903.03.02 米統治下で第1回国勢調査。 ZAIDE2,P.242.

1903.06.01 植民地政府、ゲリラ対策として住民集団強制移住法を制定。 池1年表、初校で確認。

1903.06.01 植民地政府、イスラム地域をひとまとめにしたモロ州を設立。 ZAIDE2,P.245.

1903.08.26 官費米国留学制度成立。1912年までに200名以上が留学、各界の指導者に。 ZAIDE2,P.29O.

1903.10.07 公有地法制定。 池1年表、初校で確認。

1903.12.22 タフト委員会、ヴァチカンとの間で修道会所領購入協定を締結。修道会所領法制定。(1904.04.26) gleeck1, p.62.

1903.??.?? ホロ島で米統治に反乱があいつぐ(ハッサンの乱、ウサップの乱、パラの乱、ブド・ダホの乱、-1905)。 池1、P.90.

1904.02.01 タフト、陸軍長官就任のため総督を辞任。後任にライト。 gleeck1, p.73. forbes, p.xiv.

1904.03.02 通貨法制定。 gleeck1, p.75.

1904.07.02 国内歳入法制定。 REAPPRAISING AN EMPIRE, P.241.

1905.01.24 カビテ州でゲリラ残党が警察軍を襲撃。人身保護令が一時、停止される。 gleeck1.p.80.b

1905.03.27 ベンゲット道路開通。避暑地・保養地として高原都市バギオが開発される。 早瀬、103。

1905.09.04 特別州法制定。 池1年表、初校で確認。

1905.12.?? 町長・役員選挙。 gleeck1, p.92

1906.02.?? 州知事・役員選挙。 gleeck1, p.92.

1906.09.20 スミス総督就任。 forbes, p.xiv.

1906.??.?? この年、ブラカン州でフェリペ・サルバドールの反乱。 gleeck1,p.91.b

1906.??.?? この年、民族独立を綱領とする政党禁止令廃止。 ZAIDE2,P.239.

1907.03.12 独立を主張する諸政党が合同、国民党(ナショナリスタ)結成。 gleeck1, p.100.

1907.07.30 第1回フィリピン議会選挙。国民党(ナショナリスタ)が圧勝。 gleeck1, p.99.

1907.08.23 国旗法制定。フィリピン共和国旗の使用を禁止。 ZAIDE2,P.239.

1908.05.08 政経外社科文 AB スミス総督退任。 gleeck2, p.111.

1908.06.18 官立フィリピン大学設置法案成立。 ZAIDE2,P.287.

1908.08.18 北部ルソン山岳小数民族地区に山岳州設立。 ZAIDE2,P.245.

1909.05.14 ケソン、フィリピン議会駐米代表として米国議会で初演説。 ZAIDE2,P.301.

1909.08.05 米、ペイン・オルドリッチ関税法。対米農産物輸出に免税割当。 alfonso, p.140.

1909.11.?? フォーブス総督就任。国民党指導者オスメーニャ、ケソンと協力、道路・公共事業を推進。 gleeck2, p.116.

1911.01.30 タール火山が噴火、約1300名が死亡。 gleeck1, p.132.

1911.07.14 猛烈な台風がルソン島を襲う。24時間降雨量1168ミリの世界記録。 早瀬、111。

1913.10.03 アンダーウッド・シモンズ関税法。米免税貿易が始まる。 初校で確認。

1913.10.06 米統治下はじめての民主党政権総督としてハリソンが就任(-1921)。自治化・民族資本育成政策を推進。 gleeck1, p.151.

1915.03.22 ホロ島のスルタンと植民地政府の和約が成立。 ZAIDE2,P.245.

1915.10.?? マニラ鉄道が国有化される。 gleeck1, p.174.

1916.05.?? フィリピン国立銀行設立される。フィリピン糖業の基盤整備に大規模な融資。    永野1、88。

1916.08.29 ジョーンズ法。「安定した統治の確立」を条件に将来の独立付与方針を示し、大幅な自治化を定める。 ZAIDE2,P.249.

1916.10.16 ジョーンズ法に基づき、上下両院議会発足。上院議長にケソンが就任。 ZAIDE2,P.250.

1918.10.16 総督の諮問機関として国家評議会設立。 ZAIDE2,P.251.

1919.01.24 独立を求める第1次フィリピン議会使節団(団長ケソン)がワシントンに到着。このあと数次にわたり派遣される。 churchill, p.13.

1920.11.?? フィリピン国立銀行総裁コンセプシオン、放漫経営の責任を問われて辞任。 永野1、110。

1921.05.04 ウッド=フォーブス使節団来訪。ハリソン時代の自治化推進政策を厳しく批判する報告書。 ZAIDE2,P.305.

1921.10.15 ウッド総督就任。自治化政策の修正路線でフィリピン議会と激しく対立。 gleeck, p.218.

1923.07.17 ウッド総督の統治政策に抗議して、ケソン以下、内閣及び国家評議会フィリピン人メンバーが総辞職。 gleeck1 p.240.

1924.01.?? この年、ミンダナオ、サマール、レイテ島地方で千年王国運動的反乱(コロルムの反乱)。 池1、P.114.

1925.03.04 中部ルソン地方の秘密結社カピサーナン・マカボーラ、蜂起予定前日に警察軍に弾圧され、壊滅。 1, p.115.

1926.08.03 クーリッジ大統領使節としてスティムソン来訪。フィリピン政治家との協力関係回復の必要性を報告。 gleeck1, p.278.

1927.08.07 ウッド総督死去。 ZAIDE2,P.255.

1927.08.12 インドネシア共産党の最高幹部タン・マラカ、マニラで逮捕される。 saulo,p.14.

1928.03.01. スティムソン総督着任。フィリピン政治家との協力関係を回復。翌年、フーバー政権国務長官に転出。 GLEECK2,P.227.

1928.02.23 米議会ティンバーレーク決議、フィリピン砂糖輸入制限求める。このあと、米議会でフィリピンに対する農業保護

主義が高まる。 CHURCHILL, P.188.

1928.12.?? KPMP(全国農民組合)結成。中部ルソン農民運動の組織化が本格化する。 池1、p.120.

1929.??.?? この年、パンパンガ州で社会党結成。 池1、P.120.

1930.01.22 カリフォルニア州ワトソンヴィルで大規模な反フィリピン人暴動、青年1名が死亡。 中野2、P.368.

1930.01.15 政経外社科文 AB 米議会で独立法公聴会。農業保護主義を背景にした法案審議が本格化。 中野1、P.6

1930.04.10 米議会でフィリピン人移民排斥法公聴会。 中野2、P.353.

1930.10.13 ベニグノ・ラモスによるタガログ語新聞「サクダル」創刊。このあと政党として組織化され、激しい政府・地主批判を展開。 池1、年表。初校で確認。

1930.11.07 フィリピン共産党創立。 saulo, p.3.

1931.01.10 パンガシナン州で反米・反地主を主張するコロルムの反乱、即日警察軍に鎮圧される(タユグ蜂起)。 池1、p.115.

1931.10.27 ハーレー陸軍長官の訪報告に基づき、フーバー大統領、フィリピンの独立に反対する方針を表明。 中野1、P.12.

1932.01.02 フィリピン議会使節団(オスメーニャ・ロハス使節団)、ワシントン到着。 CHURCHILL,P.264.

1932.04.04 米議会下院、フィリピン独立法可決。 中野1、P.13.

1932.10.26 最高裁、フィリピン共産党を非合法化。 saulo, p.28.

1932.12.16 ケソン、独立法に反対の意志表明。 CHURCHILL, P.285.

1932.12.17 米議会上院、フィリピン独立法可決。 中野1、P.15.

1933.01.17 大統領拒否権を乗り越えて、フィリピン独立法(ヘア・ホーズ・カッティング法)が成立。 中野1、P.15.

1933.07.04 フランク・マーフィー、総督に着任。ニューディール政策の立場から統治にあたる。 GLEECK2, P.299.

1933.10.17 フィリピン議会、独立法受諾を拒否。    CHURCHILL, P.290.

1933.10.29 サクダル党結成。 池1、P.117。

1933.12.07 新独立法の採択を求めるケソン使節団、ワシントン到着。 CHURCHILL, P.291.

1934.03.23 米議会で前年とほぼ同一内容の独立法(タイディングス・マクダフィー法)が成立。 CHURCHILL, P.293.

1934.05.01 フィリピン議会、タイディングス・マクダフィー法を受諾。    CHURCHILL, P.293.

1934.06.?? フィリピン議会選挙でサクダル党が反地主勢力として初めて議会に進出。    池1、P.117。

1935.05.02 サクダル蜂起。警察軍に弾圧される。 池1、P.118.

1935.05.14 憲法批准国民投票。 池1、年表。FORBES年表。

1935.09.17 総選挙でケソン、オスメーニャがコモンウェルス政府初代の正副大統領に選出される。 池1、年表、FORBES年表。

1935.11.15 10年後の独立を前提とした自治政府コモンウェルス発足。米初代高等弁務官にマーフィー就任。ケソン大統領は「社会正義」計画を掲げる。 池1、年表。FORBES年表。

1936.06.09 ケソン大統領、日本人のダバオ入植問題について入植制限を行う必要はないと表明。 gleeck1,342.

1936.12.31 ケソン大統領、共産党指導者を釈放。 saulo, p.33.

1937.02.01 ケソン大統領、訪米途上に立ち寄った日本で天皇を表敬訪問。 後藤、p.413.

1937.03.18 ケソン・米国務省共同声明。独立法改正交渉の開始が宣言される。 ushc2, p.12.

1937.04.30 女性参政権を認める国民投票。 ushc2, p.3.

1937.07.01 椰子油税基金の送金が始まる。コモンウェルス政府財政の対米依存体質が深まる。 中野5。

1937.12.30 タガログ語を国語の基礎とする大統領宣言。 ushc4, p.44.

1938.03.14 マクナット高等弁務官、独立見直しの必要性を表明。 ushc3,p.2.

1938.05.20 独立法改正問題に関する米合同準備委員会調査報告書調印。独立後の漸進的特恵廃止プログラムを提示。 中野5。

1938.06.29 ケソン大統領、日本を非公式訪問。亡命中のラモス、宇垣外相らと会談。 後藤、417。

1938.11.07 共産党・社会党が合同、フィリピン共産党を再建される。 saulo, p.34.

1939.08.07 改正独立法が成立(経済調整法)。独立後への特恵延長は実現せず。翌日、セイヤー国務次官が高等弁務官に任命される。 中野5。

1939.11.01 ケソン大統領、国防計画の縮小を指示。 friend,p.193

1940.06.18 大統領任期制限を1期6年から2期8年への延長と上院の復活を認める憲法改正国民投票。 ushc4,p.39.

1940.06.07 1946年7月4日より国語(タガログ語)を公用語のひとつにすることが定められる。 ushc4,p.46.

1941.07.26 ローズヴェルト大統領命令により、フィリピン陸軍がマッカーサー指揮下の米極東陸軍に統合される。 james,1,p.590.

1941.11.11 コモンウェルス総選挙。ケソン、オスメーニャ正副大統領再選、全議席を与党国民党が独占。 gleeck1,p.384.

1941.12.08 日本軍、クラーク空軍基地を爆撃。米空軍を無力化。 james2,p.3.

1941.12.22 日本軍(第14軍、本間雅晴司令官)、リンガエン湾に上陸。 james2, p.23.

1941.12.24 マッカーサー、ケソン一行、マニラよりコレヒドール要塞に脱出。ホルヘ・B・ヴァルガス秘書長ら残留政府閣僚に後事を託す。 中野4、59。

1942.01.02 日本軍マニラ占領。 steinberg, p.34

1942.01.22 東条首相、国会演説で大東亜共栄圏確立への協力を条件にフィリピンに独立を与える方針を表明。 steinberg, p.35.

1942.01.23 ヴァルガスらマニラ残留の国民党指導者、日本軍政の命令に従う旨の返書を本間将軍に提出。

行政委員会を設立。 steinberg, p.36.

1942.02.08 ケソン、ローズヴェルト大統領にフィリピンの即時独立と中立化を認めるよう求める書簡を送る。 james2,p.94.

1942.02.20 ケソン大統領一行、コレヒドール島を脱出。オーストラリアをへて、5月8日、米国到着、亡命政府を設立。steinberg, pp.42-43.

1942.03.29 中部ルソン地方に抗日農民ゲリラ組織、フクバラハップ(抗日人民軍)結成。 saulo, p.40.

1942.05.06 コレヒドール要塞陥落、在米軍降伏。しかし、各地でゲリラ活動が続く。 james2,p.148.

1942.08.?? 隣組制度(DANAS)発足。 steinberg, p.60.

1942.12.30 カリバピ(新生フィリピン奉仕団)発足(総裁、ベニグノ・S・アキノ)。 steinberg,p.62.

1943.05.?? 東条首相、マニラを訪問。 steinberg, p.72.

1943.06.20 独立準備委員会発足(委員長、ホセ・P・ラウレル)。 中野4、59。

1943.10.14 フィリピン共和国(対日協力政府)が発足。ラウレル大統領就任。    中野4、59。

1944.06.29 ローズヴェルト大統領、対日協力者の追放方針を表明。 中野4、61。

1944.08.01 ケソン大統領死去。後任にオスメーニャ副大統領が昇格。 STEINBERG,P.103.

1944.09.22 ラウレル大統領、日本の圧力により「米英との戦争状態」を宣言。 steinberg, p.97.

1944.10.20 米軍レイテ島上陸、オスメーニャ大統領、コモンウェルス政府の復帰を宣言。 STEINBERG, P.102.

1944.12.08 ラモス、リカルテらによりマカピリ(フィリピン愛国連盟)結成。 STEINBERG,P.109.

1945.02.03 米軍マニラ突入。 STEINBERG,P.113.

1945.02.06 マロロスでフク団員多数が軍MPに殺される(マロロス事件)。 KERKVLIET, P.113.

1945.02.22 米軍、フクバラハップ幹部を逮捕・投獄(3.15釈放、4.8再逮捕、9.12釈放)。 KERKVLIET,PP.112-113.

1945.03.22 ラウレル大統領一行、フィリピンを脱出。 STEINBERG, P.114.

1945.04.18 米軍、投降した協力政府閣僚を逮捕。マッカーサー、ロハスを免責・釈放。 中野4、P.63.

1945.08.17 ラウレル、「フィリピン共和国」の消滅を宣言。 中野4、P.63.

1945.08.24 マッカーサー、対日協力容疑者のフィリピン政府への引き渡しを命令。 中野4、P.64.

1945.09.26 協力者裁判のための特別国民裁判所法が成立。 中野4、64。

1946.01.08 国民党、オスメーニャ、ロハス両派に分裂(1.19.ロハス派、自由党結成)。 STEINBERG, P.131.

1946.02.?? 国民党と左派勢力の民主同盟、選挙連合が成立。 KERKVLIET, P.141.

1946.04.23 総選挙で自由党ロハス、キリノが正副大統領に当選。オスメーニャ、共和国成立を前に大統領職をロハスに

譲ることを表明。 STEINBERG, P.145.

1946.04.30 フィリピン復興法・通商法(ベル貿易法)にトルーマン大統領が署名成立。 SHALOM, P.51.

1946.05.28 ロハス政権発足。フク団指導者タルクをはじめ民主同盟・国民党の上下両院議員あわせて10名の議席が剥奪される。 KERKVLIET, P.149.

1946.07.04 フィリピン共和国独立、フィリピン通商法(ベル貿易法)協定調印。 池1、P.144.

1946.07.23 ラウレルら巣鴨拘置所に収監されていた対日協力政府閣僚が帰国、モンテンルパ刑務所に(9.14.保釈) 中野4、66。

1946.08.24 フク団幹部フアン・フェレオ、誘拐・殺害される。 KERKVLIET,P.153.

1946.08.29 ルイス・タルク、ロハス大統領に和平断念の書簡。中部ルソン内戦(フク反乱)はじまる。 KERKVLIET,P.154.

1946.09.18 フィリピン議会、米国民に対する「内国民条項」の憲法修正案を承認。 SHALOM,P.57.

1947.03.11 憲法修正国民投票で「内国民条項」承認される。 SHALOM,P.58.

1947.03.14 米基地協定調印(99カ年の基地貸与を認める)。 池1、P145.

1947.03.21 米軍事援助協定調印。 池1、P145.

1947.12.31 最高裁判所、日本軍占領下で公的職務についたことのみでは反逆罪は立証されないとの判断。 中野4、66。

1948.01.28 ロハス大統領、対日協力者特赦宣言。ラウレルら政界復帰へ。 中野4、66。

1948.03.06 フク団、非合法化される。 KERKVLIET,P.191.

1948.04.15 ロハス大統領、クラーク空軍基地訪問中に心臓マヒで急死。後任にエルピディオ・キリノ副大統領が昇格。 KERKVLIET,P.200.

1948.06.21 キリノ大統領、フク団に特赦宣言。和平交渉が始まる。 KERKVLIET,P.200.

1948.08.15 キリノ大統領とフク団の和平交渉決裂。 KERKVLIET,P.202.

1949.11.08 流血と公然たる不正の中で総選挙が行われ、国民党ラウレル候補を押さえてキリノ大統領が再選される。 SHALOM,P.70.

1950.01.?? フィリピン共産党「1950年政治局決議」。政権の打倒と革命路線を確認。 KERKVLIET,P.226.

1950.03.29 フク団の一斉蜂起。 SAULO,P.109.

1950.06.29 トルーマン大統領、フィリピンに経済調査使節団(ベル使節団)派遣を表明。 SHALOM,P.74.

1950.08.26 フク団の一斉蜂起。 SAULO,P.109.

1950.09.01 米国の強い後押しを受けて、ラモン・マグサイサイ下院議員、国防長官に任命される。CIAのランズデールの援助を受けて、フク団壊滅作戦が始まる。 SHALOM,P.76.

1950.10.01 ベル経済調査使節団報告。 SHALOM,P.82.

1950.10.18 フィリピン共産党政治局が政府軍に急襲される。 SAULO,P.110.

1950.11.10 米国家安全保障会議、対政策決定(NSC84/2)。政治経済改革と対反乱戦略を軸とした干渉政策を推進へ。 READER,P.105.

1950.11.14 キリノ・フォスター協定。ベル報告に基づく政治経済改革、米顧問の受け入れなどを条件に援助約束。 REAPPRAISING, P.297.

1951.08.?? 政権交替をめざす米国の援助を受けた選挙浄化運動、自由選挙国民運動(NAMFREL)結成。 SHALOM,P.86.

1951.08.30 米相互防衛条約調印。 REAPPRAISING, P.299.

1951.11.17 軍監視下で行われた中間選挙で野党国民党が圧勝。 SHALOM,P.86.

1951.??.?? この年から、ホロ島でイスラム系指導者カムランの反乱。 TAN,P.114.

1953.04.12 マグサイサイ、国防長官を辞任、野党国民党入党を公表。「マグサイサイを大統領に」運動始まる。 MAGSAYSAY,P.238.

1953.11.10 国民党大統領候補のマグサイサイ前国防長官が自由党キリノに圧勝。 SHALOM, P.92.

1954.05.16 ルイス・タルク投降。フク反乱の制圧、最終局面に。 SAULO,P.11.

1954.09.08. 東南アジア条約機構(SEATO)がマニラで発足。 PHL FRN POLICY,P.5.

1954.09.?? 農業小作法成立。 池1、P.151。

1954.12.15 ラウレル・ラングレー協定調印。ベル貿易協定を改訂。 CALDERON, P.VII.

1955.09.09 1955年土地改革法制定。 池1、P.151.

1955.09.24 ホロ島イスラム反乱勢力指導者カムラン降伏。 TAN,P.116.

1956.05.09 日賠償協定調印。 OHNO,P.118.

1956.06.12 リサール法(民族主義教育をめざす)成立。 池1、P.156.

1956.07.03 米、基地に対するフィリピンの主権を認めると宣言。 BERRY,JR. P.87

1956.08.11 基地協定改訂交渉はじまる(-12.5.決裂)。 BERRY,JR. PP.89-92.

1957.03.17 マグサイサイ大統領、飛行機事故で死亡。後任にカルロス・P・ガルシア副大統領。民族資本優遇政策をうちだす。 BANANAL, P.83.

1957.06.20 破壊活動防止法成立。 池1、P.157.

1957.06.22 文化的小数民族問題を検討する国民統合委員会発足。 MUSLIM FILIPINOS, P.263.

1957.??.?? レクトら、民族主義的市民党結成。 池1、P.157.

1957.11.12 国民党ガルシア大統領が再選される。 BANANAL,P.89.

1958.06.11 タルク、終身刑判決を受ける。 KARNOW, P.438(CHRO);初校で確認。

1959.10.12 ボーレン・セラノ協定。基地使用に関する事前協議制度を認める。 BERRY,JR.,P.99.

1960.06.14 アイゼンハワー、現職大統領として初めてフィリピンを訪問。 朝日新聞(1960.6.15.)

1961.07.03 ダクラス・マッカーサー、戦後はじめての、また生涯最後のフィリピン訪問。 JAMES3,P.677.

1961.11.14 自由党ディオスダード・マカパガル候補、ガルシア大統領を破って当選。 BANANAL, P.98.

1962.06.12 マカパガル大統領、輸入規制を撤廃。 MACAPAGAL, P.65.

1962.06.22 サバ領有権を宣言。マラヤとのあいだにサバ問題おこる。 MACAPAGAL, P.254.

1963.08.08 1963年土地改革法成立。 MACAPAGAL,P.165.

1964.02.06 アギナルド(独立革命政府大統領)死去(1869-) BANANAL, P.14.

1964.11.25 クラーク空軍基地で米軍人によるフィリピン人射殺事件。裁判権問題で米への批判高まる。 JERRY,JR.,P.103.

1965.11.08 国民党フェルディナンド・E・マルコス上院議員、自由党マカパガル大統領を破って当選。 BANANAL, P.111.

1966.06.03 マレーシアと国交再開。 朝日新聞(1966.6.3.)

1966.09.16 マルコス訪米。軍事基地の使用期限を1991年までに短縮するラスク=ラモス協定締結。 PHL FRN POLICY, P.22.

1966.10.24 ヴェトナム参戦国首脳会議。大規模な反戦デモ。 PHL FRN POLICY, P.80.

1968.05.?? このころからミンダナオ独立運動が盛んになる。 池1年表、初校で確認。

1968.09.11 マルコス大統領、ルイス・タルクら政治犯に特赦。 KARNOW,P.438(CHRO)

1968.12.26 毛沢東主義共産党結成。 池1、P.160.

1969.03.29 共産党軍事組織、新人民軍(NPA)結成される。 池1、P.160.

1969.11.11 マルコス大統領、再選される。 池1、P.161.

1969.11.30 フィリピン部隊、ヴェトナムから撤兵。 PHL FRN POLICY, P.80.

1970.02.02 マルコス大統領、3期目再選は目指さないと表明。 朝日新聞(1970.2.3.)

1970.02.18 学生デモ、米大使館を襲う。 朝日新聞(1970.2.19)

1970.04.04 マルコス大統領、学生運動に対して戒厳令布告の可能性を警告。 KARNOW, P.438(CHRO)

1970.04.07 反米・反政府ゼネ・ストが行われる。マニラで大地震。 朝日新聞(1971.04.08)

197?.??.?? 憲法制定議会開催 初校で確認。

1971.08.21 反マルコス派政治家集会に爆弾テロ(ミランダ事件)。人身保護令停止(-1972.1.11.) MOJARES, P.147.

1971.11.07 中間選挙が流血の混乱の中で行われる。野党自由党が圧勝。 池1、P.165.

1972.09.21 マルコス大統領、戒厳令布告に署名、23日、公布。 池1、P.165.

1972.10.19 スルー地方でイスラム教徒の反乱がはじまる。つづいて、ラナオ、コタバト地方に拡大。 MUSLIM FILIPINOS, P.52.

1972.10.21 大統領布告21号(小作解放令)。 LAND REFORM IN ASIA, P.169.

1972.11.16 憲法議会、戒厳令体制を強化する新憲法を承認。 池1年表、KARNOW(CHRO).

1973.01.10 新憲法承認の市民集会(-1.15.)。新憲法公布(1.17.) 池1年表、KARNOW(CHRO).

1973.12.27 大統領権限により調印後13年ぶりに日友好通商航海条約を批准。 池1年表、朝日新聞(1973.12.28)

1974.07.04 ラウレル・ラングレー協定満期失効。 池1年表、CALDERON, P.XIII.

1974.09.01 戒厳令抗議ミサ。ハイメ・シン枢機卿、戒厳令停止を求めて国民の祈祷を要請。 池1年表、KARNOW(CHRO)

1975.06.09 中華人民共和国と国交樹立。 PHL FRN POLICY, P.67.

1976.06.02 ソ連と国交樹立。 PHL FRN POLICY, P.70.

1976.07.12 ヴェトナムと国交樹立。 PHL FRN POLICY, P.81.

1976.07.21 日賠償終了。 池1年表、朝日新聞(1976.7.22.)

1976.10.16 戒厳令延長を認める国民投票が実施される。 池1年表、KARNOW(CHRO)

1976.12.23 政府とモロ民族解放戦線の停戦協定がリビア政府の仲介によりトリポリで結ばれる。 PHL FRN POLICY, P.124.

1977.11.25 アキノ元上院議員に死刑判決。大統領特赦によって終身刑に減刑される。 KARNOW(CHRO) 朝日新聞(1977.11.26)

1978.04.07 国民議会選挙が行われる。マルコス与党の「新社会運動」が圧勝。 KARNOW(CHRO);READER(CHRO)

1979.01.07 米基地協定改正。基地の共同使用を定める。 BERRY,JR., P.217.

1980.01.30 地方議会選挙でマルコス与党が勝利するも、サルバドール・ラウレル率いる野党国民党が善戦。 KARNOW(CHRO) 朝日新聞(1980.2.1.)

1980.05.08. アキノ元上院議員、心臓病治療を理由に出国、米国に亡命。 KARNOW,P.399.朝日新聞(1980.5.9.)

1981.01.17 マルコス大統領、大統領布告権限を留保したうえで戒厳令を停止。 KARNOW(CHRO), SHALOM,P.181.

1981.06.16 マルコス大統領、反対派の選挙ボイコットの中で再選される。 KARNOW(CHRO),READER(CHRO)

1982.08.07 マルコス大統領、大統領死亡時の権限を委託する行政評議会にイメルダを指名。 KARNOW(CHRO),MCDOUGALD,P.141.

1982.09.?? マルコス訪米。 KARNOW(CHRO),READER(CHRO)

1983.08.21 アキノ元上院議員、米国亡命から帰国。マニラ国際空港で旅客機より国軍兵士に連行直後に射殺される。 KARNOW(CHRO),朝日新聞(1983.8.22)

1983.08.31 マニラで行われたアキノ葬儀に、雷雨の中、市民200万人が参列。このあと、反政府運動が本格化する。 KARNOW(CHRO),朝日新聞(1983.9.1.)

1983.11.03 アキノ暗殺事件真相究明委員会(アグラバ委員会)活動を始める。 KARNOW(CHRO),朝日新聞(1983.11.4.)

1984.04.14 国民議会選挙で野党が議会に進出、マニラでは圧勝(143議席中41議席)。 KARNOW(CHRO),READER(CHRO)

1984.10.23 アキノ暗殺事件真相究明委員会(アグラバ委員会)、アキノ暗殺に国軍の関与を認める報告書。 KARNOW(CHRO),朝日新聞(1984.10.24.)

1985.01.23 ベール参謀総長以下、アキノ暗殺事件の国軍関係者が訴追される。 KARNOW(CHRO) 朝日新聞(1985.1.24.)

1985.10.16 レーガン大統領特使ラクソールト上院議員、マルコス大統領と会談、政治経済改革を要請。 KARNOW(CHRO),朝日新聞(19851018)

1985.11.03 マルコス大統領、大統領選挙の実施を宣言。 KARNOW(CHRO),READER(CHRO)

1985.12.02 アキノ暗殺事件に関してベール参謀総長以下に無罪判決、内外に批判高まる。 KARNOW(CHRO),READER(CHRO)

1985.12.03 コラソン・アキノ女史(アキノ夫人)、大統領選出馬を宣言、ラウレルに副大統領候補になるよう要請。 KARNOW(CHRO),朝日新聞(1985.12.4.)

1985.12.11 アキノ女史とラウレルの選挙連合が成立。正副大統領候補として出馬。 KARNOW(CHRO),朝日新聞(1985.12.12.)

1986.01.23 ニューヨーク・タイムズ、マルコスの抗日ゲリラ戦歴は虚構とする報道。 KARNOW(CHRO),朝日新聞(1986.1.24.)

1986.02.07 大統領選挙。混乱する開票作業の中で、自由選挙国民運動(NAMFREL)はアキノ女史の圧倒的優勢を伝える。 KARNOW(CHRO),朝日新聞(1986.2.8.)

1986.02.11 レーガン大統領、マルコス大統領再選を容認する演説。 朝日新聞(1986.2.12.)

1986.02.15 マルコス与党、議会で当選宣言。アキノ夫人、平和的闘争を呼びかける。 朝日新聞(1986.2.17.)

1986.02.22 エンリレ国防大臣、ラモス参謀総長がマルコス政権に反旗。キャンプ・クラメ、アギナルド両基地に篭城。 朝日新聞(1986.2.23.)

1986.02.23 政府軍の攻撃から両者を守るため、市民が基地を取り囲む。「EDSA革命」勃発。 朝日新聞(1986.2.24.)

1986.02.25 マルコス大統領、米軍ヘリでマラカニアン宮殿からクラーク空軍基地に脱出。翌日、ハワイにむけて出発。 朝日新聞(1986.2.27)

1986.09.15 アキノ大統領、訪米。 KARNOW(CHRO),朝日新聞(1986.9.16.

1987.02.02 新憲法制定国民投票。上下両院復活、大統領任期1期6年に。 KARNOW(CHRO),朝日新聞(1987.2.4.)

1987.02.08 新人民軍と政府の停戦失効。再び内戦激化へ。 KARNOW(CHRO),朝日新聞(1987.2.9.)

1987.08.28 ホナサン大佐の率いる国軍改革運動(RAM)派国軍のクーデター、鎮圧される。 KARNOW(CHRO),朝日新聞(1987.8.29.

1987.09.09 内閣改造で激しく閣内対立してきた左右両派の閣僚が更迭される。 朝日新聞(1987.9.10.)

1987.09.19 左翼指導者レアン・アレハンドロ、暗殺される。 朝日新聞(1987.9.20.)

1987.10.20 アキノ大統領演説、対共産ゲリラ対策の強化を強調、軍との融和姿勢示す。 rep 1988-1:6.

1987.12.15 アセアン首脳会議開催。竹下首相、来訪。 rep 1988-2:10.朝日新聞(1987.12.1

1988.01.18 地方選挙でアキノ派与党が勝利。 rep 1988-2:7.

1988.01.21 イレト国防長官辞任、後任にラモス参謀総長。 rep 1988-2:8.

1988.02.04 新人民軍幹部、大量逮捕される。 rep1988-3:9.

1988.04.02 ホナサン大佐ら1987年8月クーデター事件の首謀者、脱走。 rep1988-3:8.朝日新聞(1988.4.2.

1988.06.10 農地改革法が成立。 朝日新聞(1988.06.11)

1988.10.21 米連邦大陪審裁判所、マルコス前大統領を公金横領罪等で告発。 rep1989-1

1988.12.21 シェワルナゼ、ソ連外相として初めてフィリピンを訪問。 朝日新聞(1988.12.22.)

1989.03.28 町村長選挙実施。「2月革命」後の政治正常化の手続きが一応終了。 rep1989-3:7.

1989.04.21 米軍事顧問団大佐が新人民軍により暗殺される。 rep1989-3:7.朝日新聞(1989.4.22.)

1989.09.28 マルコス前大統領死去(1917-) 朝日新聞(1989.09.29.)

1989.10.06 入国管理局の汚職一掃で知られるサンチアゴ女史、汚職に揺れる農地改革省長官に指名されるが、議会に就任を拒否され、辞任。 毎日新聞(1989.10.7.)

1989.10.27 故マルコス氏の遺体帰国を最高裁が小差で却下。 毎日新聞(1989.10.28.)

1989.11.19 ミンダナオ13州9都市で住民投票、イスラム系住民多数地区の4州を除き、自治組織法を拒否。 rep1990-1:11.朝日新聞(1989.11.20.)

1989.12.01 アキノ政権成立以来、最大規模の国軍反乱。精鋭部隊がマカティ地区を占拠。米国はアキノ政権支援を表明、

米空軍機、反乱軍牽制に投入される。 1990-1:7.朝日新聞(1989.12.2.)

1990.02.02 米、フィリピン援助を25%あまり減額することを通告。 朝日新聞(1990.02.03)

1990.02.27 検察庁、エンリレ上院議員(元国防長官)を国軍反乱関与の容疑で拘束。1週間後に保釈。 朝日新聞(1990.02.26.)

1990.03.04 国軍反乱を支持したカガヤン州のアギナルド知事派が反乱。 朝日新聞1990.3.5.)

1990.04.04 議会に信任を拒否されていたアバド農地改革長官、辞表提出。 朝日新聞(1990.4.6.)

1990.05.29 ネグロス島でNGOオイスカの日本人指導員が新人民軍に誘拐される。 朝日新聞(1989.6.1.)

1990.05.27 米平和部隊引き揚げの決定。背後に平和部隊員誘拐事件。 朝日新聞(1990.6.28.)

1990.07.02 ニューヨーク連邦地裁、イメルダ夫人の詐取容疑に無罪判決。 朝日新聞(1990.7.3.)

1990.07.16 ルソン島北部で大地震、バギオ市に大きな被害、死者1600人を超える。。 朝日新聞(1990.7.17.)

1990.08.02 ネグロス島新人民軍、誘拐した日本人、米人を解放。 朝日新聞(1990.8.2.)

1990.09.18 1991年夏に期限切れとなる基地協定更新のための米本交渉が始まる。 朝日新聞(1990.9.17.)

1990.09.28 アキノ暗殺事件裁判、軍人16人に無期懲役判決。 朝日新聞(1990.9.28.)

1990.10.04 ミンダナオ島各地で国軍反乱。6日に無条件降伏。 朝日新聞(1990.10.4,10.6)

1990.11.16 米基地交渉で大筋合意。、米軍の1992年以降の基地使用を認め、大幅譲歩。 朝日新聞(1990.11.16.)

1990.12.27 スイス最高裁、マルコス隠し財産のフィリピン政府への返却を命ずる判決。 朝日新聞(1990.12.28.)