地裁八王子支部(提供:亜細亜大学法学部町村ゼミ生による写真)


追悼・辻内鏡人 1954-2000

 辻内さん傷害致死事件 裁判の記録

東京地裁八王子支部

初公判(2001.2.26)
第2回(2001.3.14)  
第3回(2001.5.16)  
第4回(2001.5.23)  
第5回(2001.6.7)  
第6回(2001.6.27)  
第7回(2001.8.22)  
第8回(2001.9.12)  
第9回(2001.10.17)  
第10回(2001.11.14)  
第11回(2001.12.5)  
第12回(2001.12.12) 論告求刑・最終弁論  
第13回公判(2002.1.21)  判決 懲役7年

控訴審(日程未定)

関連報道

2001.12.12

辻内さん傷害致死事件第12回公判のご報告

(荒木和華子さんが中心となって作成した詳細な報告をもとに概略を作成しました)

地裁八王子支部305号法廷 15時3分開廷

 

 今回の公判では、辻内衣子さんの意見陳述、検察による論告求刑、弁護人による最終弁論、そして水野憲一被告の意見陳述が行われました。その概要を、以下、順を追ってご報告します。

 

■ 辻内衣子さん意見陳述(抄録)

 昨年12月に夫が亡くなってからすでに1年が過ぎました。この間毎回の裁判を欠かさず傍聴しながらずっと考えてきたことを、述べさせていただきたいと思います。

 事件の夜、府中病院でたった一人で、夫の遺体と対面しました。最後の言葉ひとつ交わすこともかないませんでした。本当に強い衝撃を受けたときは涙も流せないものだと、初めて知りました。それから小金井警察で「交通上のトラブルがあったらしく、加害者がわざと轢いたと言っています」と聞かされたときから、「なぜ夫が命を奪われなければならなかったのか」ずっと問い続けてきました。最後の瞬間、薄れていく意識の中で夫は何を訴えようとしたのでしょう。あれから何度も事件と同じ時間に、事件現場に足を運びましたが、真実は依然として闇の中です。

そんな夫の無念を晴らせるよう、この裁判の中で少しでも真実が明らかになってくれればと、期待していました。ところが、普通に考えたらどうしても納得できないような、やりとりが目の前で繰り返され、聞いていて一体この事件で誰が被害者なのか分からなくなります。傍聴席にいるのが居たたまれないことが何度もありました。

 今まで私なりに人の命の重みを分かっているつもりではいましたが、今回夫を亡くして初めて、家族を突然に亡くすことの辛さを痛いほどに感じました。楽しかった家族の語らいは、もう二度とかえってこないのです。親子4人で囲んでいた食卓の席も、二度と埋まることはないのです。今年80歳になる夫の母は「人生で一番嬉しかったのは鏡人が生まれたとき」といっていました。明治生だった、今は亡き夫の父が待ち望んでいた男の子だったからでしょう。そんな母は、辛すぎると、この裁判に足を運ぶことができません。そして、夫のことを話すたびに涙に暮れています。

また、夫はアメリカ研究者として、研究を愛し、論文や本を書くことに、意欲を燃やしている時期でした。名声や地位を望まず、自分の研究が歴史の中で意味のあるものであってほしいと願って、仕事に全力で取り組んでいました。大学の教員としても、学生さん達と過ごすことが大好きで、学生さん達の成長を楽しみにしていました。そんな仕事を志半ばにして断念せざるを得なかったとは、どんなに無念だったことでしょう。

被告人には自分のしたことの意味が本当にわかっているのでしょうか。先日被告人からの手紙を受け取りました。謝罪の言葉はいただきましたが、裁判の中での自分の主張を繰り返さしたものでしかありませんでした。それを何とか信じようと思っても、あまりにも矛盾だらけでとても信じることはできません。納得しがたい主張を繰り返すだけでは、謝罪のことばも空しく響くだけです。何百回の謝罪の言葉より納得できる真実がほしいのです。また手紙の中では自分が喧嘩ひとつしたことがなく、暴力と無縁だと、強調されていますが、法廷の中でさえ興奮して抑制がきかなくなる場面を、何度も目にしている私に、どうしてそれが信じられるのでしょう。死んだ者に対するせめてもの責任として、真実を包み隠さず話し、自分の罪を認め、きちんと償ってほしいと思ってやみません。

 

■検察による論告求刑

 現場は南への一方通行路、幅員3.5m、東側に0.9mの路側帯、街灯もあり、障害物のない見通し良好の道路である。被告人は、幅147pの赤帽車を運転。平成12年12月4日午後8時22分頃、携帯電話から「へんなのがおいかけてくる」と110番通報し、その直後、丁字路を右折して一方通行路を逆走した。通行人MH証人および現場手前のアパートに居住するTS証人の証言から、被告人の赤帽車は、対向車をやり過ごすためみふじ幼稚園前で一時停止した後、急発進したと認められる。さらに衝突時に現場の先を北方に向かって自転車で走っていたME証人は、ガシャンという音がしたので振り返ると、自動車と自転車の事故が起こっており、自動車は、被害者が倒れている場所から十数メートル先で停車したが、クラクションや急ブレーキの音は聞こえなかったと証言している。

事件現場の道路北側ブロック塀には、高さ約1メートルのところに擦過痕、えぐり痕がある。被告人車輌には、いずれも衝突によるものと考えられる汚損(フロントパネル)、払拭痕(右バンパーと左低部)がある。被害者の身体にはタイヤ痕がある。被害者は、救急車で病院へ搬送後、9時51分、死亡が確認された。死因は多重肋骨骨折による人工気胸であった。以上により、被告人の車輌が右側で衝突し、轢過したと認められる。

 みふじ幼稚園前から現場衝突地点までの距離は、35.7m。視界を妨げるものなく、前方の見通しは良好であり、また道路の両側は民家のブロック塀であり被害者が突然視界に飛び出して来ることは不可能で、被害者の左側を回避して通れば衝突しないだけの余裕がある。また、車輌の右斜め前方には被害者の血痕と衣服の繊維による擦過痕がついている。回避するために左ハンドルを切れば逆の擦過痕となるはずであり、被告人車輌は、被害者を、衝突後6mはね飛ばしたか、6mブロック塀との間を引きずったのち轢過したと考えられる。この際、相当の衝撃があったはずであるのに、被告は急ブレーキをかけていない。衝突後、轢過したのにその後平然と走行してから停車したことから、傷害の故意は明らかである。

現場に急行した警察官・大沼証人は、被告人に「事故を起こしたのはあなたですか」と尋ねたところ、被告人は「私がぶつけました」と答えた。次に到着した警察官・小林証人は、故意による衝突であるとして、8時45分、被告人を傷害罪で逮捕した。その際、被告人は素直に従った。その後の実況検分においても、被告人は故意を認めていた。

捜査段階における被告人の供述は以下の通りである。「7時30分頃、被告は神奈川県相模原市での仕事を終え、立川市内の自宅に帰る途中、国分寺市内みふじ幼稚園横の坂道をのぼり、シャンポール島田の前で停車中の宅配便トラックの後ろに停車した。宅配便トラックが移動し、被告も発進しようとすると、30代くらいの男性が何か言いながら運転席側の窓ガラスをたたかれた。恐くなって、車内の携帯電話で110番通報をしながら逃げた。その先の交差点で安全確認のため一時停車すると、自転車の男に追つかれ、また窓ガラスをたたかれた。帰宅するには直進すべきところを、右折すれば人通りのある大通りに出られると思い、その交差点を右折した。このときに自転車がスポーツスタイルのものであることを認識している。次の交差点でも、またも自転車の男に追いつかれ、再び大通りに出られると思い、右折した。そのまま住宅街を直進した後、丁字路に差しかかり、一方通行路でありながら、右折すれば大通りに出られるとの一念で、右折し、一方通行路を逆走してしまった。その後、前方右側にスポーツタイプの自転車に乗る、先ほどと同じ服装の男を発見して、気づかれたらやられるという思いから、相手がどうなっても仕方ないと思い、車を急発進させた。バンという衝突音がして、相手の男性がどうなったか、車を降りて確認すると、自転車と折り重なるようにして倒れていて、意識がないので、110番とつながったままであった携帯電話で通報した。はじめは恐くて黙っていたが、現場に駆け付けた警察官に尋ねられて事実を話した。傷害罪で逮捕され、いまにいたっている」。

 被告人の供述は、衝突前の一時停止を覚えていなかったり、被害者が追い回した動機が不明であったりして全面的に信頼するのは問題があるけれども、核心部分は一貫性している。一時停止など途中経過を覚えていないのは、被告人が興奮しやすい性格で、精神的興奮から記憶が一部欠落しているか、一部の記憶がクローズアップされているものと思われ、捜査段階での供述は任意の自白と考えられる。

 しかしながら、被告人は、公判がはじまってから、捜査段階の自白を覆し、津田警部補に「じゃあ、おまえがやったんじゃないか」と言われて逮捕されたのち、反政府主義者・共産党員という立場から、警察官にも検察官にも媚びたり、喜ばせようとしてご機嫌をとり、虚偽自白をしたと主張しているが、津田警部補は交通事故として現場に到着しており、虚偽自白させる必要はなかった。藤倉・大沼証人の供述に不自然・不合理な点はない。さらに次の点で、この発言は矛盾している。@すべて迎合したわけではなく、警察の言うことを訂正していること、A警察に110番通報をしていること、B母親も被告人が普段から警察を恐れていたなどということは知らなかったと述べていること、C最後の取り調べではじめて故意を否定したが無視されたと主張するが、警察官に対して故意を否定した時以降も、依然として母親や弁護人にその主張を伝えていないのはおかしい、D弁護人との接見では盗聴を恐れて真実を言えなかったと主張するが、それを避ける方法はいくらでもあったはずある。

 よって虚偽自白した根拠はない。宅配便の後ろに停車した、みふじ幼稚園前での一時停止が記憶にない、轢過したことに気づかなかった、一方的に自転車の男が攻撃してきたという妄想のような主張は他の証拠と矛盾しており、記憶の欠落もあるものの被告人の供述は、核心部分で一貫している。

一方、被告人は公判廷で、「突然、先ほどまで自分を追いかけていたドロップハンドルの自転車の男が飛び込んできたので、ハンドルを左に切った。バーンと音がして側面に衝突したが、衝突したところは見ていない。それから安全にブレーキをかけて停車した」と主張したが、実際に目の前で衝突しており、左にハンドルを切ったとか、被害者が視界から突然消えた、見えていなかったというのは信用できない。しかも、被告は急ブレーキをかけておらず、被害者の身体と自転車を轢過していながらその衝撃を感じていないといのは到底考えられない。このように公判廷における被告の供述は信用できない。

被告人の犯行は極めて悪質である。すなわち、一時停止をした後、ねらいを定めて後方から被害者にぶつかって路上に転倒させ、轢過し、死亡させた。被害者には避ける場所もなく、殺人行為にも比すべき、無惨悪質な犯行であり情状酌量の余地はない。被告人を追い回した男と被害者は同一人物という被告の思い込みに基づいて犯行におよんだものであり、たとえ自転車に乗った男に追い回されたことが事実であったとしても、被告人の生命や身体に危害が加えられたわけでもなく、そもそも自動車を運転する被告人は容易に逃れることができたはずである。捜査段階の供述では、やれる前にやってやれといっているが、自動車がぶつかればどうなるかは明らかで危険きわまりない。また、公判廷では、追い回されたとか、警察官に脅されたとか言って、自分は全然悪いことをしていないと主張して、まるで被告人が被害者であるかのように振る舞ってきた。前途を断たれた被害者と遺族の無念さはあまりある。遺族に宛てた手紙の内容も極めて自己中心的で遺族の感情を逆撫でしている。金銭などでの謝罪を申し入れても、自分の非を認めなければ意味がなく、被害者の遺族が厳重な処罰を望んでいるのも当然である。公判中の被告人の態度からも、被告人の自己中心的な性格、激昴しやすい性格は明らかで、再犯の可能性は大いにあると考えられ、長期間の矯正が必要である。よって懲役8年を求刑する。

■弁護側の最終弁論

無罪を主張する。暴行の行為が発生する余地はない。

重要な点は、被告が携帯で110番通報している最中に発生したということである。被告は被害者とのトラブルに巻き込まれ、被告は被害者であったのに、加害者になるという事態に気が動転してしまった。また左翼政党員であったことから、警察官に迎合する供述を行った。

被告は、赤帽の仕事に責任感をもち、マナーを守って仕事していた。生活や仕事を失ってまで、このような行為に及ぶ動機がない。被告は3度、車の窓ガラスやドアをたたかれても何もしておらず、110番通報して逃げていることから、相手を攻撃したり、反撃しようとしたりはしていない。逃げることで被告人の頭はいっぱいだったのであり、「やられるならやってしまえ」という捜査段階の供述は、警察官によって誘導されたものである。

110番通報について。12月16日に無線司令本部勤務の警察官・松岡証人が通報に関する報告書を記入している。本件における110番通報の重要性を警察が認識しているにも拘らず、テープを3、4日で消去したというのは問題ではないか。

さらに、故意発生のためには一定の時間が必要で、故意犯としての責任を問うには、検察官は故意の発生地点の特定をすべきだが、明らかにしていない。一般的に人が運転中に情報を処理、判断、観察、行動する際には、処理判断に要する時間は少なくとも一秒必要である。現場は暗く、着衣や人物を判断することは困難であった。

また、みふじ幼稚園で対向車の前照灯によって生じた幻惑現象が回復する前に発進してしまい、車の前照灯は右側が暗く見えにくいことも考慮すべきであるにもかかわらず、平成13年6月13日の実況検分調書には視野について何の記載もない。被告が被害者を識別できたか否かは、実験や夜間検証をすれば明らかになるにもかかわらず、裁判所は、弁護人立会いのもとでの夜間検証もせず、9月26日に弁護側が行った現場の明るさについての実験結果も採用しなかった。このように裁判官の訴訟指揮は一方的で、公平な裁判所とはいえない。

■ 被告・水野憲一の意見陳述

はじめに「私が述べることは私中心になるけれども、こうしたことは初めての経験であるため、ご理解頂きたい」と述べたうえで、便箋に書いた原稿を読み上げた。概要、以下のとおり。

トラブルの始まりは、辻内先生が窓ガラスをたたいたことによる。一方的にたたかれたので110番しながら必死で逃げたが、辻内先生が前にいたので、たまたまぶつかって轢かれてしまい、亡くなられた。現場に駆けつけた津田警部補に説明したが「じゃあ、わざとやったのではないか」と大声で言われた。事件直後、精神的に混乱していて正常な判断ができなかった。強引な捜査に驚いた。

自分は左翼系政党に属している。1980年代に山谷労働争議団のビデオを見て、三鷹事件、松川事件のドキュメンタリーも二つみたが、日本の警察は戦後も戦前とかわっていない。右翼の車は警察に注意されないというのは、同業者の間では周知の事実である。警察と右翼団体は癒着している。日本の警察官は正義を守らない反共集団である。

自分は興奮して言葉を発することはあるが、かっとなって暴力をふるうことはない。また自分はお酒が好きで深酒をすることがあるが、他人に迷惑をかけたことはない。

このITの時代に110番通報の記録が残っていないのはおかしい。テープが証拠として出ないのは、そこに、私が故意にやったのではないという証拠があるからである。悪質、無責任で大事な証拠を隠滅された。これらは将来、私が党活動をできないようにするための思想弾圧である。ご遺族の方々、どうぞ検察を信じないでください。この不幸に自分の運命を呪いたいくらいです。警察が冷静な態度なら、私は真実を話せたのです。

世界でも悪名高い代用監獄法が日本にあることが問題です。殺人も可能であるような密室の取調室で調書を作っていることがおかしい。警察がこわくて無理やりに、真実でない調書に印をおさせられました。

検察官の主張に信憑性があると裁判官が思っているというのは、異様、異常である。もう裁判所はいらないと思った。警察官は警察官の、検察官は検察官の、裁判官は裁判官の良心に従うべきです。検察は都合が悪くなると以前の主張をひっくりかえしました。弁護士が求めた夜間検証をしなかったことは、裁判所の職務怠慢です。被告の利益が無視され、この裁判では検察官が二人になってしまった。

辻内さまへの手紙(謝罪文)の要旨は以下のとおり。私は検察の言っていることに抗議しているが、自分が無実だとは言っていません。大変なことをしてしまったと思っています。自分にとって初めて警察で留置されたり拘置場に入れられたり、裁判はじめてのことなので、多少興奮したこともあるけれども、立ち上がったり、ものをたたいたりしたことはないので、そういう性格ではないことを理解して頂きたいと思います。辻内先生が亡くなったことは辛く思っており、自分には過失があり、謝罪を考えてきました。

ご遺族は検察のいったことを信じてショックを受けていると思い、逆撫でしないように、手紙を控えてまいりました。法廷の中で事実を理解してもらえると思いました。自分はどうして注意して運転できなかったのかと思います。辻内先生は私などと比べものにならないくらい優れた人柄で立派な方であると思っている。地球より重たい人命を奪ってしまいました。私は人とトラブルや暴力になったことはなく、21年前に補導歴があるけれども、それは若気の至りのようなものでした。以前に精神科で看護助手の仕事をしていました。病院の職員のなかには患者に対して暴力を振るう者もいたけれども、自分はそのようなことをしたことはありませんでした。私は病人に対して優しく接しました。私は脳の病気があり、母に苦労をかけてきました。30歳半ばでようやく今の状況まで脳の病気から回復し、看護助手の仕事では技術も身に付けられず生活していけないので、夢であった赤帽の仕事を得て、ようやく母親に親孝行しようと思っていたところでした。ご遺族の方にわかっていただきたいのは、自分は最近よくいわれている切れる犯罪者ではないということです。責任逃れや罪を軽くするために言っているのではなく、私は傷害致死罪を認めることは絶対にできません。私が辻内さんの代わりに亡くなっても、辻内さんは帰ってきません。暴力否定の精神を持っています。いまさらですが辻内先生のご冥福をお祈りし、かけがえのない方を亡くしたことに心からの謝罪をします。

本日で審議終了。次回は1月21日(月)1時10分から判決の言い渡しがあります。