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■花吹雪

 フロントガラス越しに見える街は、春の嵐。
 雨こそ上がったが、通り沿いに並ぶ木々は激しい風に煽られている。見えない風の塊が押し寄せては、雨を含んで重たげに俯く枝を揺らし、雫と花とを散らしていく。

 明日は夜桜を見に行く予定だったが、この風では今夜のうちに散ってしまうのではないか。昼間は暖かくなると天気予報で言っていたし、夜まではもたないかも知れない。
 あいつは、楽しみにしているようだったが。

 マンションの駐車場に車を止め、エントランスを抜け、エレベーターで自宅に向かう。
 ロックを解除して玄関のドアを開けると、エプロン姿の恋人に笑顔の出迎えを受けた。その可愛らしさに口許が緩みそうになるのを必死に抑える。

「おかえりなさい。今日は遅かったんですね。すぐにゴハンを温めなおしますから、着替えてきてください」

 たまに気が向いたときに自分たちで料理をしたりもするが、家事はもっぱらハウスキーパーに任せている。こちらが留守にしている平日の日中に来るので、ほとんど顔を合わせることはない。
 せいぜい食事を温めなおす程度の家事にエプロンなど不要なのだが、同居を始めた頃に半ば冗談で提案した新妻のような出迎えを、こいつは律儀に実行している。

 軽く抱き寄せ額にひとつキスを落としてから、桜の花が気になるか、と尋ねる。
 なぜ分かったのかと驚いている少年に、並木道と公園に面したリビングの窓を指差す。そこには少年の顔ぐらいの高さにわずかな曇りがあり、型紙でも置いたように手の跡までしっかりとついていた。ずっと窓辺で溜め息をついていたのだろう。
 あからさまな証拠を提示され、さすがに観念したのだろう。明日の夜まで残っているか心配で……と、はにかみながら胸のうちを明かす。
 こちらが気づかない限りは、努めて普段通りに振る舞うつもりだったのだろう。健気な様子に胸が疼く。

「──今から散歩に出るか」

 俺の提案は予想外のことだったようで。

「だって……明日は大事な会議でしょう?」
「業績は目標値をクリアしているし、文句はないはずだ。それに盛大にあくびでもしてやれば、こちらの円満ぶりをアピールできるだろうしな」

 冗談めかして言ったセリフに、そりゃあそうですけど……と、歯切れ悪く言葉を濁したまま目を泳がす。

『……可憐な野花や無邪気な仔犬を愛でたくなる気持ちは分からんでもない。
 責務を果たしている限りは、どんな愛人を何人侍らそうが、子どもとままごと遊びをしようが、お前の自由だ。
 だが婚姻となると話は別だ……』

 俺の親族が聞こえよがしに放った言葉を、こいつはずっと気にしている。
 まるで気まぐれに囲っている卑小な存在、という口ぶりだった。感受性が強く、自己評価の低いこいつが、傷つかないはずがない。
 その男と一度だけ偶然に会ったあのレストランには、それ以来行っていない。
 こいつが望む場所や店にばかり連れて行ってやるのは、単に喜ぶ顔をみたいという理由からだけではない。やつらに出くわすことがなさそうだからだ。

 大学は欧米の名のあるところに進み、MBAを取得する。俺の親族に認められるためのスタートラインとして、こいつが選んだ進路。
 物を右から左に動かすだけで利益を得る世界。他を出し抜くための駆け引きや汚い競争。まるで綱渡りを楽しむような感覚でそれらをこなしていく。本当にそんな仕事にやりがいを見いだせるのか。
 こいつの性格ならば、姿の見えない不確かなものを扱うのではなく、地に足の着いた、相手の顔が見える仕事に就きたいと思うだろう。ささやかでも、世の中の役に立つような。
 このまま俺の傍にいて、本当に望む将来を手に入れることができるのだろうか。

「俺も桜を楽しみにしていたんだ。少しでいい。いっしょに見に行かないか?」

 普通に話したつもりだった。それでも声に混じった何かを感じとったらしい。

「……きっと傘は役に立ちませんね。濡れてもいい服に着替えてから行きましょう」

 俺のネクタイを緩めながら、にっこりと笑顔を見せた。



 マンションから歩いて数分の公園に着くと、満開の桜だった。雲は吹き払われて星も見えているが、樹上に残った雫がぱらぱらと降り注ぐ。
 先ほどまでの荒天のせいか、他に人影はなかった。明日の日中には、花見客で賑わうはずだが、今はふたりきりだ。桜を見上げながら肩を抱くと、戸惑いがちにそっと寄り添ってきた。

「知らなかった……こんなふうに花は散るんだな」

 公園の木々の数など、たかが知れている。それでも一体どこからと疑問に思うほどに、風が吹くたびにいつまでも花は舞い続ける。

「誰も見ていなくても、花は咲いて、散っていきます……それでもぼくは、この夜桜を忘れませんよ。初めてあなたといっしょに見た桜ですから」

 こちらを見上げる顔はどこか切なげで、散る花と雫が髪に降り、いつもと違う大人びた雰囲気があった。

「そうだな……毎年、花は咲く。5年、10年経ったとき、俺たちはどこで桜を見ることになるかな?」

 潤んだ瞳に映る自分の顔は、どこか不安そうで。嫌な予感を振り払うように、未来の話をする。

「日本じゃないかもしれませんね。じゃあ……ワシントン?」
「ハンブルグにも桜まつりがあるらしいぞ」
「日本庭園のある植物園なら、あちこちにありますよ」

 強く吹きつける南風は妙にぬるくて現実感がなく、まるで夢の中にいるようだった。
 そのとき交わしたまだ見ぬ桜の話は、不思議と鮮やかなイメージをもって心に残っている。




20140421up

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