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■神酒の海

 領地の巡察に出た師匠に同行し、海辺の街に数日間滞在した。
 “領主様”に対する余所行きの顔を見ても意味がないから、と随行員も最低限に絞られた内密の旅で、今回の随伴はぼく一人だ。

「あの吟遊詩人はだめだ」

 宿屋の酒場で夕食をとっていると、師匠が抑えた声で呟いた。

「声は良いが、詞を創るには学が足りん。どの歌も似たりよったりの言い回しで単調だ」
「手厳しいですね」
「評価はしている。小賢しく戯れ歌の創作などしないで、古謡でも唄っていれば良いと」
「それでも、酒場に集まる人たちは喜んでいますよ」
「この真冬に迷惑なことだ」

 そうは言っても酒場はほぼ満席の状態。料理の熱や人いきれで、冬の旅のための出で立ちでは暑いぐらいだ。
 開け放たれた扉の向こう、海を臨む露台で酔客たちにせがまれて吟遊詩人が唄っているのは、先の戦争のこと。
 今にも滅びを迎えようとしていた国の美しい姫君を救ったのは、伝説の英雄の再来と呼び声高き王子と、その下に集いし強者たち……。

 確かに歌の素材には事欠かないだろうけど、戦争は物語のように単純なものじゃなかった。明日の見えない状況で、もがき苦しみながら戦う日々。
 もしも詩人が唄うような定められた運命だったのならば、ぼくらは血や泥の味を知ることもなく、もっと容易く勝利を得ただろう。

「あの詩人は奇跡を安売りしすぎる。ほら、また言った」

 きっと彼も同じような憤懣と葛藤を心に抱えているのだろう。常なら、その目に適うもの以外はまるで存在しないかのように振る舞うのに。

 王子の下に人が集ったのも、囚われていた人々が解放されたことも、闘いで勝利したことも、奇跡ではなかった。
 そのための修練を積み、策を巡らせ、犠牲を払いながらも、なんとか掴みとったのだ。

「確かに、あの戦争で“奇跡”のようだと思ったことはありませんね。すべての結果には、そこに到るまでの過程がありました」
「そんな荒唐無稽な事象はなかなか無いさ。
 そうだな……例えば、この海の水がすべて神酒に変わるような、そんな人智を超えることがあれば、それは奇跡と呼べるかも知れないが……」

 ふふ、と笑い声を漏らしてしまった。
 何だ、と彼に続きを促される。

「……ぼくにしてみれば、今ここにあなたと二人でいることは、まるで奇跡みたいだと思ったんです」
「こんなことが奇跡だと? 俺がお前を気に入って、手元に置いているだけだろう」
「あなたの“お気に入り”になれるなんて、ぼくからすれば奇跡ですよ」
「神酒の海のように?」
「それ以上に、ですよ」

 ぼくはどんな顔で彼を見つめていたのだろう。
 彼は苦笑して、視線を逸らし、酒杯をあおった。

 ふと気づくと、露台の吟遊詩人は古くから伝わる恋歌を唄っていた。

「ほら、良い声だ。戯れ歌より、余程ましだろう」

 彼の横顔と神酒の海を眺めながら、美しい調べを聴く。
 恋を知って初めて本当の淋しさを知るのだというその古謡が、静かに胸に沁みていった。



  • 月面地名シリーズ三題目。むしろタイトルに振り回されるし、天文学者や地球の地名などの固有名詞以外はほぼ海だの入江だのしかないため、そろそろ打ち止めです。

20160531up


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