|
小ネタTOPにもどる ■草青む 鐘楼から見下ろす石造りの街並み。ぐるりと街を囲む高い石壁の外には、緑豊かな畑や牧草の丘が続く。 「ここからの眺め、好きですよ」 緑の匂いを含む風を受けながらそう呟くと、そうか、とだけ返された。 言葉は素っ気ないが、表情は柔らかい。 彼自身、幼い頃をこの街の館で過ごしている。この古い鐘楼からの眺望は、目に馴染んだ風景なのだろう。 旗揚げの時に王都の一角にあった騎士団の本部は、今は馬で丸一日かかる距離の街にある。 本格的に活動を開始するにあたり兵舎や鍛練場や馬場などの拡張が必要になったが、王都の城壁内では充分な敷地を得られないことが主な移転の理由だけど、旧体制派からの干渉を避けるためでもある。 古き軛を棄てるための第一歩という訳だ。 海へと続く街道沿いに位置しているこの街は、王都の表玄関として、古来より交易や防衛の要衝であったらしい。 古い時代の遺跡を土台に建てられた堅固な領主館は街を囲む壁の一部になっていて、防御の観点から窓も少なく居住性はあまり良くない。 現在騎士団の本館として使用されている建物は古来の領主館と回廊で繋がれ、大きな窓や設備の整った厨、多くの部屋に広間、中庭には小さな礼拝堂まで備えており、まるで城のようだ。 近年に増築されたものだというが、それすら何世代も前の時代の話で、我らが騎士団長の御先祖様にあたるそうだ。 「この街は個人的には好ましいのですが……あなたは、王都にこだわっていらっしゃるのだと思っていました」 「今となっては、元・王都だ。王を戴かない都に何の意味がある?」 「それでも、長くお過ごしになった場所でしょう。麗しいお友だちもたくさんいらっしゃいますし」 「確かに、洗練された美しい女は他のどの街よりも多かっただろうな」 自分で話に出しておきながら、予想通りの悪びれない様子の返答にもやもやとした気持ちになる。 そんなぼくの反応まで、彼には計算通りだったのだろう。くすりと笑うと、話題を変えた。 「あの場所には致命的な脆弱性がある──治水だ」 意外な言葉に、水理の整った街の風景を思い浮かべる。街角にはいたるところに噴水や水場があり、目抜通りに沿って物資運搬用の運河があった。 「とても見事な街だと思いますが……」 「あの街は坂が少ないことに気づいたか? 排水の設備が破壊されれば、城壁も仇となって水が引かなくなる。上流の堰が切られて水攻めにでも遭ったら、数ヵ月は水浸しのままだ。道は石畳。地下室も多い」 「陥落させるために台無しにしてしまっては、意味がありません」 「そこだ。今までは王都であったからこそ、征服者たちは無傷で手に入れようとしてきた。だが、もはや遠慮する理由はない」 理由? あの街には魔道学院があり、各国の王族ゆかりの方々がいる。市井で暮らす多くの人々も。 「俺なら、そうする」 風薫る新緑の季節。のどかな昼下り。それらに似つかわしくない不穏な言葉は、実に淡々と発せられた。 こういうとき、不意に気づかされる。 彼にとっての、ただ一人の女性。かの姫君の存在が、どれほど彼を制していたのかを。欲を抱かず、ただ見守るだけの使命が、彼に与えていた制限と重圧。 望むものすべてを得る手腕や力を、彼は備えている。 自由になった今、彼を縛るものは何もない。 「──ただの例え話だ。そんな悲しそうな顔をするな」 彼の手が、ぼくの手に添えられる。 「いつか言っただろう? お前が傍にいるうちは、自分は誤ったことをしていないのだと安心できると……」 「ええ、覚えています」 常に冷徹で、ときに非情ですらある彼の考えに、幾度か意見したことがある。 彼とぼくの立場の違いを考えれば、身の程を知らない愚挙に過ぎないが、彼はその都度ぼくが納得するまで議論の相手をしてくれた。時には、ぼくの意見を採り入れてくれたこともある。 「事を成すには人心を掌握することが肝心だ。だが、力ばかりでは人は従わない。 俺に欠けているもの、俺に無い知恵を、お前は持っている。かの英雄王率いる騎士団の気風か……お前自身の性質か」 彼の口許に手を引かれ、その唇がぼくの指先に触れる。 「お前がいるから、見えてくる景色がある。たどり着ける明日がある。 ──感謝している。こうして、傍にいてくれることに」 ぼくを見る温かな眼差し、柔らかな低い声に囚われる。 頬が熱い。胸の動悸が治まらない。 どうして、こんな話になったんだっけ。 ……ああ、そうか。 “街で一番高い鐘楼から、明日が見えるっていう噂があったな……” 以前聞いた、子どもの頃の思い出話。ここが、その場所なんだ。 幼い彼が、明日を見ようと目を凝らした、特別な場所。そこに今、ぼくたちは一緒に立っている。 「──あなたと共にある明日なら、それがどんな形でも、ぼくは一番幸せですよ。 ぼくは、自分が幸せであるために、あなたを追っているんです」 背伸びをして、彼の頬に口づけた。 「大好きですよ、ジョルジュさん」 そのとき強い風が吹いたので、最後に付け足した囁きは、彼の耳には届かなかっただろう。 それでも彼は微笑んで、ぼくの額に口づけを返してくれた。
|