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小ネタTOPにもどる ■彼の知らない彼 軍議の開始が少々遅れるとの伝言を受けたが、予定外の空き時間は、改めて何かをするには半端な時間だった。 武具の手入れでもしようかと思い立つが、道具袋をさらうと、油を切らしている。このごろは弟子に任せきりだったので、うっかりしていた。 軍から無償で支給される油は角灯などにも使われるが、獣脂や魚脂が混ざっていることもあり、質は今一つだ。精製された上質の油は食料にもなるため貴重で、個人に配給されることはない。ましてや革製品の手入れ専用に加工された油脂などは、容易に入手できるものではない。 それでも、武具の手入れに使う油の質は妥協できない。もちも使い勝手も変わる。 とは言え、街から離れたこの場所では入手困難だ。 こうしている時間がもったいない。誰かから買い取らせてもらうか。 外の光を採るために引き上げられたままの出口から天幕を出たところで、少し離れた場所にいる弟子を見つけた。内容までは聞き取れないが、同国の騎士と楽しげに話をしている。 俺の補佐につくようになり生活の場は離れ、軍の規模が大きくなり共同作戦でも顔を合わせる機会は減っているが、数年の亡命生活で苦楽を共にした仲間だ。親しみや信頼は別格だろう。 そんな相手に見せる表情は、俺に見せるものとは微妙に異なっており、そこに違和感を覚えた。 誰もが知るところの、あいつ本来の姿──明るく善良で、子どものように屈託なく、穏和な性質が感じられる。 それとは全く違う、俺にしか見せることのない顔を知っている。 特別な想いを抱いているからこその、どこか影のある笑顔。 憧憬と尊崇と、胸の奥の熱情。 間近で俺を見上げる、期待と不安を含んだ瞳の色。 口づけの後の、陶然とした表情。 ──初めから、違っていたんだ。 俺は、あいつの友にはなり得ない。 ほんの小さなヒビすら二度と直すことのできない、玻璃のような関係。 それなのに、迂闊にも戻ることのできない道を少しずつ進んできてしまったんだ。 ぎしりと胸が軋む。 戯れに野の小鳥を手懐けて、どうするつもりだった? いいや、戯れではないのは自分でも分かっている。 手に入れたいという己の欲求を、今さら否定するつもりはない。 師弟だとか男だとか、関係ない。 あいつが、欲しい。 手に入れて、それから……? 誰かと共にある未来など考えたこともなかった。この俺が、何かを失う可能性に怯えるなんて。 視線に気づいたのか、弟子がこちらを見る。俺の姿を認め、用があると察したらしい。昔馴染みの騎士に別れを告げて、こちらに駆け寄ってきた。 「……いいのか?」 「他愛ない雑談ですよ」 「こちらとて、雑用だ。軍議の開始が遅れるらしい」 「ぼくも今しがた伺いました。それで、これを……」 手にしていたのは、革を手入れするための乳脂。容器には王都でも名の通った老舗の工房の印が捺されている。最高級品だ。 「切らしておいででしたよね? 彼は重装歩兵なのであまり使わないだろうから、もしかしたら余りがあるかも……って思ったんですよ。尋ねてみたら、快く譲ってもらえました」 「なぜ、俺が武具の手入れをすると分かった?」 「え?」 きょとんとこちらを見上げる表情。俺よりも俺の行動を把握しているのは、ずっと傍にいて見ているからか。 弟子の腕を引き、二人で天幕に入る。下ろした入り口の幕がふわりと外の光を遮るやいなや、軽く抱き寄せ額に口づける。 天幕の布越しの淡い光のなか、時が止まったような心地がした。 「礼を言う」 ぽかんとしていた弟子が、一瞬の後に真っ赤な顔であわただしく腕の中から逃げ出していく。そのまま天幕の隅に置いた道具袋を取りにいき、振り返った。 「じゃあ、始めますか。時間がもったいないです」 「そうだな、もったいない」 この表情を独占していられるんだ。 何の不満があるだろう。 失わないように、せいぜい努力をしていけばいい。 含み笑いをしながら、折りたたみの椅子を二脚持つ。そして、道具袋を手に外の明るい光のなかへ出て行く弟子の後に続いた。 また、彼にからかわれた。 その唇に軽く触れられただけの額が、まだ熱い。 武具の手入れをしながら様子を伺うと、彼はぼくの視線に気づき、口の片端を微かに上げるだけの笑みを浮かべた。いつも見慣れた相手の反応を面白がるような表情。 そんな人を食ったような雰囲気に目くじらを立てる人もいるけれど、彼がその顔を見せる相手は限られている。 悪い印象を与えても問題ない相手か、あるいは、そんなことで怒ったりしないと確信している相手。 ぼくは……両方に当てはまるのかな。 彼の信頼を得ているという自覚はある。少なくとも不快に思われてはいないだろう。 ぼくが抱いている想いを、拒絶も否定もせず、傍にいることを許されているのはその証。 そして、ご褒美のように、時おり与えられる抱擁や口づけ。 ほんの小さな報奨で従順に動くぼくは、きっと彼にとっては、気易く便利な存在なんだろう。 出会って間もない頃、そうなれたらいいと願った以上の場所に、ぼくは立っている。 それだけで、充分。 これより上を望んだら、罰が当たる。 彼がぼくのことを好きじゃなくても、ぼくは彼が好き。 でも彼は、ぼくが好意を示さなくなれば興味を失うだろう。淋しいとか、悲しいとか、わずかの感情すら抱かずに。 口ではどうとでも言えるけど、彼の心が本当はぼくには向いていないことを、ぼくは知っている。 そんな当たり前のことが、切ない。 ぼくたちが傍にいられる、その要は、ぼくの心ひとつに委ねられていることを、彼は気づいているのだろうか? ──気づいていないはずがない。 家に囚われ、身分に囚われ、誰よりも自由を欲してきた彼が、誰かを束縛することなどあり得ない。 額が熱い。 胸が疼く。 そんな彼に囚われたいと願う自分。 扉は開け放たれているのに、自ら籠に入る鳥のように。 ここ以外に居たい場所などないのに、彼が真にぼくを欲してくれることはない。 革の胴着、籠手、矢筒や短剣を繋ぐ帯の手入れを終えたころ、伝令が召集を告げにきた。 道具を片付け、天幕に戻って身なりを整える。 振り返ると、一分の隙もなく整った師の姿。ぼくが巻套を差し出すのを、当然のことのように待っている。 支配する側に生まれ、人にかしずかれて育ってきた者の威風。 近寄り難くすらある、美しさ。 ああ、ぼくは、この人でなければ、だめなんだ。 甘い感傷を胸の奥に仕舞いこみ、彼の肩に巻套を掛けた。
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