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小ネタTOPにもどる ■アザ 「どうしたんですか?」 それ、と弟に指摘されて、自分の腕のアザに気づいた。巻くった袖と長手袋の隙間に変色した肌が見える。 「……どこかにぶつけたんだろうね」 「利き手じゃないですか」 「見た目ほどは痛くないよ」 ほら、と動かして見せるが、弟は納得しない。訓練所の隅のベンチに座るように促される。 「今日の訓練はお休みです。身体を万全の状態に戻すのが一番大事ですから。 その代わりに、ぼくの指導をしてください。未熟な者を見ることで、却って学ぶこともあるかもしれませんよ」 口調が母さんに似ている……そう告げると、兄さんの受け売りですよ、と返された。 そうか。ぼくも、こんなふうに見えるのか。 背伸びして大人ぶって世話を焼く、幼さを残した子ども。子ども扱いするなと言わんばかりの拗ねた様子にすら、思わず笑みが零れてしまう。 アザは、あの人に掴まれた痕だった。 ぼくが彼を怒らせた。 今でも間違ったことを言ったとは思っていないし、たまたま彼と異なる見解だった……それだけの話だ。 驚くほど強い力で腕を掴まれて初めて、今までずっと手加減されていたのだと知った。 それなりの評価を受け信頼を寄せてもらっていると思っていたけど、彼にとっては万事が子どもをあやすような気持ちだったのかもしれない。 可愛がられているという自負はあった。他の人とは接し方が違うと。 でもそれが、口さがない人たちが噂するようなことだとは──彼にとっては珍しい、雑種の仔犬を気まぐれに愛でているだけだとは──思いたくなかった。 言葉を交わさなくなって、もう数日になる。朝の身支度から就寝前まで一日のほとんどを共に過ごしているが、それでも特に不便は感じない。 倦怠期の夫婦のようだ、とからかわれ苦笑するしかなかった。仲を取り持とうと掛けられた言葉に却って気まずくなり、そそくさと訓練場に逃げてきてしまった。 弓を引く弟の後ろ姿を見る。 既に第一線で戦い、技術の面では特に教えることもない。あとは実戦の中で感覚を磨き、経験を重ねていくしかない。 ただ、若さからくる気負いや、余計な力みを感じる。 必要なのは視野を広げること。定石や自己の想定に拘泥せず、事実を柔軟に捉えること。 ぼくも自分の導き出した結論に固執しているだけなのだろうか。 彼とは年齢や経験の差だけではなく、置かれていた状況や立場が違う。同じものを見ているつもりが、全く違う景色の中にいることを折に触れて知る。 それでも自分なりに最善の答えにたどり着いたと思っていた。彼に詰問されるまでは。 心さえ縛り合わなければ──愛や恋さえ持ち出さなければ、ぼくらはいつまでも傍にいられる。 あれは、いつものような会話の駆け引きや挑発ではなかった。ぼくに対する純然たる怒り。 アザが残るほど強く掴まれた腕。荒々しい口づけは、その感情の発露。冷静で計算高い彼には滅多にない、衝動的な振る舞い。 思いがけず涙してしまったのは、対等に見なされていなかったことに気づかされたから。 甘やかされ、ただ可愛がられるだけの自分。 悔しくて。 一人の人間として彼に認めてもらいたくて。 彼の友人たちのように、信頼で結ばれた対等な存在になりたくて。 そして、その上で、自分を一番に選んでもらいたくて……。 はたと気づく。 傍においてもらえるだけで、満足なのではなかったのか。 “見返りを求めない”──聞いてあきれる。 認めてもらいたい、愛してもらいたいと、望んでいる自分。 「自分が望んだだけ、相手にも思われたいなんて、わがままかもしれませんけど……」 弟の言葉にどきりとする。 「今だけは、ぼくを見ていて下さいね」 振り返った表情は、いつもの笑顔だった。素直な言葉が胸に刺さる。 「……ちゃんと見ているよ。やっぱりあと頭ひとつ分は身長が欲しいなって考えてた」 「きっと兄さんより大きくなりますよ。だいたい長子よりも下の子の方が大きくなりますから」 「ぼくより背の高いお前かあ……まだ想像もできないなあ」 くすくすと笑い合いながら、柔らかな空気が満ちるのを感じる。 「この戦争が終わったら、兄さんは騎士団を辞めてしまうんですか?」 「うん……たぶん」 自然に言葉が出てきた。 「そうですか……遠い国に行ってしまうんですね」 「反対しないの?」 「こんなふうに会えなくなるのは淋しいですけど、遠く離れた場所でも、兄さんが幸せに暮らしているのなら、それが一番でしょう? 戦いが、気づかせてくれたこともあります。自分にとって大切なものや、守りたいもののこと。 兄さんも、見つけたんでしょう?」 「うん……出会ってしまった」 例え困難な道でも、あの人と歩いていきたい。少しでも、彼の力になりたい。 「『アリティア弓隊にこの人あり』と遠い国まで伝わるような名手になりますよ。それが今のぼくの夢です」 「その頃にはぼくの方が『あの人の兄』と呼ばれるようになるんだね」 互いの気性を知っていて、距離も弁えている、家族ならではの心休まるひととき。望めばずっと近くにいることもできるのに、これを捨ててぼくは旅立とうとしている。 そのとき招集の喇叭が響いた。 弓の訓練用にと割り当てられた原は陣から少し離れているので、人声や喧騒は届かない。 「行こう」 「はい!」 手早く道具をまとめ、軍議用の大天幕へと急ぐ。 別れ際、いつもの習慣で弟の頭に伸ばしかけた手を、肩に置きなおして呟いた。 「今日、お前と話せて良かった」 「この戦いが終わったら、ゆっくりお茶でもしましょう。とっておきの栗の甘露煮をお出ししますよ」 「そんなもの、どこで手に入れたの?」 「秘密です」 にっこりと笑う弟に、父の面影を見る。小さい頃は二人とも母に似ていると思っていたけど、弟は父の容姿をより濃く受け継いでいるかもしれない。 きっと、ぼくより大きくなっていくんだろうな。 くすぐったいような淋しいような気持ちを払い、別れの言葉を交わした。 大隊長とその補佐が集いつつある天幕の入口には弓隊の隊長である彼がいたが、駆け寄るぼくの姿を認めたようで、先に中に入って行った。 心は決まっている。 それを彼に受け入れてもらえなかったとしても、彼なしで生きていくことは考えていない。 このさき、傍にいることが、別れより辛く、離れているより胸痛むことになるかもしれない。それでも、ぼくには彼という人が必要なんだ。 伝わるだろうか。受け入れてもらえるだろうか。 彼の熱情に晒されたアザの残る腕を、服の上からそっとなでる。 ひとつの想いだけを胸に抱いて、彼の元へとゆっくり歩んで行った。
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