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小ネタTOPにもどる ■思い出に変わるまで 「あまり、俺の名を呼ばなくなったな」 夜、宿舎の自室で書類仕事をしながらぽつりと呟くと、机の向かい側にいる弟子は不思議そうな顔をして、こちらを見る。 「ぼくが、あなたの名前を?」 言いながら改めて気づき、そうですね、と納得したように頷く。 「でも、それを言ったらあなただって、ぼくの名前を呼ぶことが減りましたよ」 「……そうか、そうだな」 名を呼ばずとも、用が足りているのだ。 いつも傍にいて、こちらが必要なときに欲しているものを差し出す。まるで心を読んだかのように。 「では、なるべくきちんとお名前をお呼びするよう、心掛けましょう。 ──何とお呼びしましょうか? ジョルジュ隊長? ジョルジュ師?」 「いや、普通にしていてくれ。ちらりと思っただけだ……お前、あなた、と呼びあうなんて、夫婦みたいだなと」 こちらの発した“夫婦”の言葉に、みるみる頬が赤くなる。 いつもの軽口なのに、こいつはこういう言葉にいちいち初々しい反応を見せる。 その可愛らしさに、口許が緩む。 当たり前のように感じ始めていた、こいつのいる心地好い空気。 別離の日が近づいている。心の準備をしておかなくては。 席を立ち、机の反対側、相手の元へと歩み寄る。 俺の動きを追う深い色の瞳は、蝋燭の炎を映し、静かな煌めきを宿す。 頬に手を添えると、目が閉じられた。 「ゴードン」 身を屈め、耳許でその名を呼ぶと、ぶるりと体を震わせる。 「……ジョルジュさん」 囁かれた自分の名は、ねだるような甘い響きを含んでいて、胸の奥が熱くなる。 その唇を指先でなぞる。 「ん……ジョルジュさん……っ」 吐息まじりに呼ばれる己の名に、切なげな望みを感じとり、そっと唇を重ねた。 幾度か軽く触れ合わせてから身を離す。 椅子が無ければ、その場に崩れていたのだろう。背もたれにあずけた体は少し傾き、力無く垂れた手から、ペンが床に落ちていた。 うっとりと夢の中をさ迷うような表情は、あどけなさを残しながらもどこか煽情的で。 こんなにも無防備なのは幼さゆえか、それとも相手が俺だからか。 「……今まで通りで構わない。こんなふうに呼ばれたら、衆目の中でも、お前に触れたくなってしまうからな」 ペンを拾い上げて机に置きながら、胸の奥が灼けるのを感じた。 こいつは俺のものではないという、明白な事実に。 故郷に帰れば、王家直下の騎士団に属し戦での勲功もある若き騎士として、縁談は引きも切らないだろう。 容貌も人柄も上々。国主とは歳が近く、その信頼も厚い。 婚姻を結ぶにせよ、戯れの恋に遊ぶにせよ、相手に困ることはないだろう。愛らしい少女と恋に落ちるのも、名家の令嬢と家庭をもつのも、こいつの自由。 ──いずれにせよ、その相手は、俺ではない。 やがて時は流れ、互いに遠い存在になっていくのだろう。今この時の想いなど、消えてしまう。 あるいは淡い思い出になるか。それならば、せめて美しいものでありたい。 「ジョルジュさん?」 そんなふうに、呼ぶな。 胸の奥の炎に気づかぬふりをして、こちらを見上げる鼻先に軽く口づけた。 「すまんな。これを今晩中に終わらせないと……」 なるべく軽い口調で、机の上の書類を指し示して告げると、弟子は居住まいを正し、ペンを手にした。 自分の椅子に戻り腰を下ろすと、少し怒った声がした。 「だったら、悪戯は止めてくださいね。あなたに名前を呼ばれると、どきどきしちゃうんですから」 顔を見ると、頬が赤い。 怒るというより拗ねた様子が可愛らしくて思わず笑ってしまうと、相手の頬がぷうとふくれた。 ほんの少しの間だ。目を瞑ってさえいれば、この灼けるような痛みも、すぐに思い出に変わるだろう。
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